第13話 第五章「屋根の道」前編
七月十二日 午後一時九分
環玉樹は、近道を三種類に分けている。
速い道。
安い道。
あとで怒られる道。
たいてい、一番速い道は三番目だった。
「地上は無理」
タマキは、旧理髪店の屋上から下を見た。
北荷路へ続く路地に、検問札を持った人間が百人近く並んでいる。列の途中へ新しい貼り紙が五枚。
《零番街方面の医療搬送は新旗団の徴収行為》
《冷蔵薬を装った武器搬入に注意》
《受取人不明の荷を通すな》
三枚目だけ字がきれいだった。残りは、きれいな字を写そうとして途中で飽きている。
「武器って、冷やすの」
タマキが訊く。
「火薬なら温度管理する」
轟が答えた。
「余計な知識を足すな」
迅が言う。
「事実だ」
「噂は事実を食う。餌をやるな」
「それ、記録していいですか」
七瀬が訊く。
「今のは轟に言った」
「出典を付けます」
七瀬の撮影機は三脚へ固定されていた。左肩の炎症は少し引いたが、医師から肩上撮影を禁じられている。三脚の脚を一つだけ短くし、屋根の勾配に合わせている。
タマキはレンズの前へ手を出した。
「屋根の入口は撮らない」
「了承済みです。空と靴だけ」
「僕の靴は?」
「撮ってよいと昨日聞きました」
「今日は右の紐を替えた」
「許可は靴紐ごとに更新される?」
「道が変わると色を替える。場所が分かる」
右は緑、左は黄色。屋根道は緑だ。地上路なら赤、地下なら青。タマキは片方ずつ紐を替える。両方同じ色にすると、戻るとき自分がどちら向きに歩いたか分からなくなるからだ。
「では、今日は足首から下を撮らない」
「そこまでしなくていい」
「条件を具体化してください」
「靴紐の色が分からない距離」
「四・二メートル以上」
「測ったの」
「今」
七瀬はレンズを一段引いた。
大人は、説明しないと子ども扱いする。
説明すると、急に面倒な取引相手として扱う。
後者の方がましだ。
地上路の歩測が噂で止まったため、今日の試験は屋根へ上げられた。
旧理髪店から共同洗濯場、給水塔、映画館跡の屋上をつなぐ道。建物の間には、洗濯物を運ぶ滑車索が何本も張られている。人が渡るための道ではない。けれど零番街では、「人が渡らない」と書かれた場所ほど、誰かが毎日渡っている。
毎日渡るからといって、誰でも渡ってよいわけではない。
タマキは屋根へ上がる前に、四軒の戸を叩いた。
旧理髪店には、昼寝中の老人が一人。共同洗濯場には当番六人。給水塔の下には、鳩を飼う姉妹。映画館跡の屋上は、夜だけ露天寝床になる。
「七月十五日の朝、屋根を使うかもしれない。箱一、人は六から八。往復」
老人は「瓦を二枚割ったら三枚返せ」と言った。
洗濯場は「黄糸のシーツへ触るな」と言った。
姉妹は「鳩を飛ばす時刻を八時十分から八時半へ変える」と言った。
映画館跡の寝床を使う男は、朝七時までに毛布を畳む代わり、滑車の油を一缶求めた。
迅が最後の条件を聞き、眉を上げる。
「通行料?」
「交換」
タマキが答える。
「道は地面だけじゃない。屋根は誰かの天井」
「おまえ、たまにまともだな」
「料金を払うともっとまとも」
七瀬は許可を取った相手の顔を撮らず、屋根の端へ結ばれた糸だけを記録した。
赤――通行可。
黄――触れるな。
青――水濡れ注意。
黒――帰路確認前に外すな。
タマキは右の靴紐と同じ緑の糸を、出入口へ一本足した。
「それは何」
澪が訊く。
「僕が戻って外す」
「戻れなければ」
「残る」
「残ったら、次の人はどう読む」
タマキは考え、緑糸の端へ小さな紙を結んだ。
《試験中/七月十二日十五時まで》
「期限が過ぎたら、許可じゃない」
「了承」
白布が旗へ変わるのと同じで、印は放っておくと権限のふりをする。
だから期限を付ける。
屋根道は、空に浮いた近道ではなかった。
四軒分の生活を、踏まないようにつないだ借り物だった。
問題は保冷箱だった。
轟の外枠を付けた箱は、空でも二十六・四キロある。本番は冷却材と薬で三十三キロを超える。滑車索の安全荷重は三十キロ。しかも屋根を渡る風は、数字を読まない。
「外す」
タマキは鉄枠の留めピンへ手を掛けた。
「待て」
轟の大きな左手が箱を押さえる。
「屋根で落とすなら、なおさら枠がいる」
「枠があると索が落ちる」
「索を補強する」
「十五日まで三日。建物の持ち主が四人。洗濯場は今日も使う。補強工事は何時間?」
「設計二、材料集め四、施工六」
「休憩」
「二」
「十四時間。天気が変わる」
「では二本吊り」
「索の間隔が箱より狭い」
「間隔を変える」
「洗濯物が干せない」
「一日だ」
「洗濯する人に言った?」
轟が黙る。
共同洗濯場の屋上では、六人が濡れたシーツを張っていた。病室、食堂、宿舎。白い布が列になって風を受ける。これを止めれば、明日の患者のシーツが足りない。
タマキはピンを半分抜いた。
「重いものを強くするの、轟は得意。軽くするの、苦手」
「軽い構造は壊れ方が速い」
「重い構造は、壊れる前に運べない」
「落としたら終わる」
「通らなかったら、始まらない」
二人は箱を挟んで睨み合った。
迅が口を挟む。
「じゃんけん」
「構造を運で決めるな」
轟が言う。
「早いぞ」
「速い間違いだ」
「それを言うと、凱が喜ぶ」
凱は少し離れた日陰で左膝を伸ばしていた。今日は医師と澪の双方から、屋根へ上がるなと言われた。地上の連絡と退路確認を引き受けている。
代わりに澪が箱を見て言った。
「外枠を外す。条件。落下防止索を二点。持ち手四点。渡る間、下の路地を封鎖しない。通行人へ上を知らせ、選んで通ってもらう」
轟が澪を見る。
「安全率は下がる」
「下がる。記録する」
「俺の設計が悪いように残る」
「屋根道へ向かない。地上では戻す。それだけ」
「悪くない、向かない」
「復唱」
轟は欠けた前歯へ舌を当てた。
「枠を外す。索二、持ち手四。地上で戻す」
「了承」
タマキは残りのピンを抜いた。
鉄枠が屋根へ置かれ、鈍い音を立てる。
箱が急に小さく見えた。
守られていたものから、落とせるものへ変わる。
タマキは空になった外枠へ、自分の鉄配達箱を載せた。
「何をする」
「帰りの荷重」
「本番の箱とは形が違う」
「帰りは外箱が空でも、濡れた布、使った冷却材、壊れた部品が増える。空って、何もない意味じゃない」
洗濯場の責任者が、濡れたシーツの籠を引いてきた。
「それなら、こっちも通るよ」
屋根道は搬送班のために空いているわけではない。午後二時には病室用のシーツが診療所へ出る。戻りには汚れた寝具が来る。
「試験中、止めてもらえる?」
タマキが訊く。
「五分なら。でも本番は止めない。寝具が遅れたら、患者を裸の台へ寝かせることになる」
轟は滑車索を見上げた。
「二つの籠を同時に動かすと、中央で荷重が重なる」
「じゃあ時間を分ける」
「誰が時計を持つ」
「洗濯場」
「搬送班の遅れで、洗濯側が待つ」
「待った時間を記録。十分快適を超えたら屋根路は使わない」
「十分快適?」
「十分快」
「言葉が混ざった」
「早くて楽な道があったら、たぶん嘘」
タマキは外枠に配達箱と濡れ布の袋を載せ、索へ三メートルだけ送った。向こうからは空の洗濯籠を戻す。
中央で二つの荷が近づくと、索が思った以上に沈んだ。屋根の縁へ擦れる。
「同時不可」
轟が言う。
「往路の薬を優先すれば」
迅が言いかける。
「帰りの寝具が止まる」
タマキが返す。
「薬とシーツ、どっちが大事?」
「患者による」
「だから、僕たちだけで決めない」
洗濯場の責任者は、午前八時から八時八分までなら滑車を空けると言った。それを越えたら、薬の箱が屋根にあっても寝具を動かす。
条件は厳しい。
厳しい条件は、敵意とは限らない。
生活が自分の順番を守ろうとするとき、急いでいる者にはいつも障害物に見える。
轟は鉄枠を二度叩いた。それは壁や柱を診断するときの癖だが、今は自分へ言い聞かせる音に聞こえた。
「外した部品、番号を振る」
「もう振った」
タマキがピンを見せる。緑、黄色、白、黒の糸が巻いてある。
「勝手に」
「なくしたら轟が怒る」
「怒らない」
「声が低くなる」
「元から低い」
「じゃあ、地面が怒る」
屋根道の最初は、幅一メートルの板橋だった。
下は三階分の吹き抜け。落ちれば市場の庇へ当たり、運がよければ骨折で済む。悪ければ、運の話をする人がいなくなる。
澪が先に渡る。
白い救助索を腰へ結び、靴底を板へ置くたび、重心を低くする。次にタマキ。箱はまだ轟が持つ。七瀬は三脚を畳み、右手で本体、腰帯へ補助索。迅は最後だ。
「迅、動かないの」
タマキは橋の中央から振り返った。
「点検してる」
迅は橋の入口に立っている。
「何を」
「下」
「下は通らない」
「分かってる」
「怖い?」
「下が見える場所が嫌いなだけだ」
「それを怖いって言う」
「違う。下が見えると、落ちるまでの経路が全部分かる」
「分からない方が怖くない?」
「分かると、途中の庇が何枚折れるか数える」
タマキは下を見た。
青い庇。赤い庇。洗濯竿。看板。果物箱。
「五枚」
「六。二枚目の下に古いのがある」
「見えてるじゃん」
「だから嫌いなんだ」
迅の声は平らだった。
平らな声で言う恐怖は、冗談にしにくい。だからタマキは冗談にした。
「落ちたら六枚分、店に謝るんだね」
「おまえが請求書を持ってくる」
「配達料も」
「高所割増」
「分かってる」
迅は橋へ足を置いた。
右腕は固定材で胸へ吊られている。左手だけで索を持つ。視線は遠くではなく、板の釘と、自分の靴先と、タマキの左右違いの紐を順に追う。
橋が風で揺れる。
迅は前へ一歩。
次に横へ半歩。
「どうして斜め」
「板の割れを避けた」
「僕は踏んだ」
「おまえの方が軽い」
「子ども扱い」
「荷重扱い」
「轟みたいになってきた」
「最悪だ」
「聞こえてる」
後ろで轟が言った。
共同洗濯場の屋上へ着くと、濡れたシーツが迷路を作っていた。
白い布の間を進む。
視界は一メートル。風が吹くたび、布が頬へ貼りつき、離れる。誰かの寝汗と石鹸の匂いがする。
七瀬は撮影を止めた。
「ここは患者用です。許可範囲外」
「真っ白だから何も映らない」
迅が言う。
「何も映らない映像から、洗濯物の数と風向きと施設規模を推定できます」
「見る奴は暇だな」
「暇な人ほど長く見ます」
タマキは、シーツの端へ付いた小さな色糸を見る。黄が診療所。青が宿舎。赤が食堂。糸の数で返却先を分けている。
洗濯場の責任者が、滑車台の前で待っていた。
「箱だけなら送れる。人は無理だよ」
「箱と並走する」
タマキが言う。
「向こうの屋根へ?」
「こっちの縁を歩いて、二つ目で受ける」
「途中に隙間がある」
「昨日、板があった」
「今朝なくなった」
責任者が顎で示す。
シーツをめくると、二つ先の屋根へ続く通路の中央が、四メートルほど空いていた。板橋を支えていた金具だけが残り、板は下の路地へ降ろされている。
金具には新しい擦り傷。
「誰が外した」
澪が訊く。
「分からない。危険だからって札があった」
「代替路は」
「滑車索」
「人は渡れない」
「札には《箱のみ》」
タマキは金具の下に挟まった紙片を抜いた。
三本線の印。
鷺沼の正式札ではない。線の間隔が違う。見た人がそう思うように作った偽物だ。
「誰かが鷺沼の真似をした」
「本物かもしれん」
轟が言う。
「本物なら、代替路が人を帰せないことを分かってる」
澪の声が硬くなる。
「確認は後。今は歩測を続行できる?」
タマキは距離を測った。
滑車索は箱を送れる。箱を受け取る人間は、向こう側に必要。人が渡る別路はない。いったん箱だけ送れば、こちら側の全員が戻るしかない。
「帰れないじゃなく、着けない」
タマキが言う。
「違う」
澪が答えた。
「箱を向こうへ送れば、箱だけ着く。受け手がいない。救助対象へ触れない荷は、到達ではない」
「箱にも受取人がいる」
「だから誰を先に渡す」
迅が隙間を見た。
「索を二本張る。上に手、下に足」
「右腕が使えない人が言う?」
タマキが訊く。
「俺以外」
「すぐ他人を渡す」
「軽い奴」
「もっと子ども扱い」
「荷重」
「言い換えが下手」
澪が隙間の両側を調べる。
「人用の索を張るには固定点が足りない。給水塔の脚へ回せば持つが、角度が悪い。渡る途中で壁へ叩かれる」
轟は屋根へ膝をつき、固定金具を二度叩いた。
「この梁は使える。だが一人ずつ。箱と同時は無理」
「先にタマキ」
迅が言う。
「誰が決めた」
「一番軽い」
「僕が行く理由は」
「向こうで箱を受ける」
「何のため」
「薬を落とさない」
「帰りは」
迅が止まる。
タマキは同じ質問を待った。
「帰りは、箱を空にしてから?」
「それだと箱の帰路しかない」
澪が言う。
誰もすぐに答えない。
タマキは、外した鉄枠のピンを手の中で転がした。
大人は、子どもを危険な場所へ行かせるとき、「軽いから」と言う。
行かせないときは「子どもだから」と言う。
重さと年齢は、都合よく同じ秤へ乗る。
「僕が先に渡る」
タマキは言った。
迅の眉が動く。
「理由を全部言う。軽い。索を直せる。向こうの留め具を知ってる。僕はこの道を配達で三回使った。帰りは、箱を渡したあと、索を残す。誰かが外そうとしたら、僕が向こうで止める」
「一人で?」
「一人にしない方法を考えるのが、今の仕事」
迅は口を閉じた。
澪が訊く。
「拒否できる?」
「できる」
「誰に」
「澪、迅、轟、七瀬、洗濯場の人、自分」
「自分が最後?」
「料金を払う人は先」
「今回は誰が払う」
「まだ決まってない」
澪はうなずいた。
「試験。タマキ一人。箱は空。渡った時点で戻す。戻れない条件が一つでも出たら屋根路は不採用」
渡る前に、タマキは鉄箱から十円硬貨を七枚出した。
「何だ」
迅が訊く。
「落下試験」
「金を落とすな」
「取りに行けない場所へ落ちたら、その道は高い」
硬貨を一枚ずつ空箱の四隅へ貼り、残り三枚を持ち手の内側へ置く。箱が傾けば、硬貨が滑る音で分かる。
「医療箱に現金」
七瀬が言う。
「本番は外す」
「分かっています。映像として妙です」
「妙な方が覚える」
小麦の濃い砂糖水と同じ理屈だった。
タマキは索の結び目を三度確認した。手が震えているかを見るため、親指と小指を合わせる。震えていない。
怖くないわけではない。
配達は、怖さを料金へ変えられる仕事だった。高い場所、夜の道、知らない家。値段を付ければ、自分で選んだ気になれる。
今日は料金がない。
患者のため、という言葉だけがある。大人はその言葉を出すと、子どもの拒否が急に小さくなる。
「僕、断ったら?」
タマキは訊いた。
「屋根を不採用にする」
澪が答える。
「別の軽い人を探さない?」
「この場で条件を理解している軽い人はいない」
「迅は?」
「重い。片腕。高所嫌悪」
「下所嫌悪だ」
迅が訂正する。
「どっちでも使えない」