第14話 第五章「屋根の道」後編
「言い方」
タマキは少し笑った。
「じゃあ行く」
「理由は」
「断っても作戦が続くって分かったから」
澪は帳面へ、その理由まで書いた。
渡る人の勇気より、断っても代わりに罰がないことを記録する。
タマキには、その方が少しだけ怖くなかった。
轟と洗濯場の人が索を張る。
上索は胸の高さ。下索は足場。タマキは腰へ補助索を結び、鉄箱を背から下ろした。配達箱はここへ置く。
「帽子、外す?」
七瀬が訊く。
「外さない」
「索へ引っかかる」
「紐を締める」
「撮影は」
「遠くから。顔は要らない」
「了承」
タマキは上索を握った。
右足を下索へ置く。
四メートルの空白。
下の路地では、地上路の列が動いている。人は上を見ない。頭上で誰かが落ちかけても、たいてい自分の順番の方が大事だ。
一歩。
索が沈む。
二歩。
風がシーツを膨らませ、背へ当たる。
三歩。
下索の撚りが靴底の溝へ噛む。
「止まれ」
轟が言った。
タマキは止まる。
「何」
「右の固定金具、動いた」
向こう側の金具が、屋根材から二ミリ浮いている。
「戻る」
澪が命じる。
「あと一歩」
「戻る」
「向こうの柱へ移せば――」
「命令変更なし。戻る」
タマキは歯を噛んだ。
正しい。
正しいから、腹が立つ。
後ろへ足を戻そうとした瞬間、下で金属音がした。
滑車台のブレーキ棒が抜けた。
洗濯物用の大きな鉄籠が、傾斜した索を一気に走る。中には濡れたシーツが山積み。重量はタマキより重い。
「右へ!」
澪の声。
タマキは上索へ身体を寄せる。
鉄籠が背後から迫る。
轟が素手で滑車索を掴んだ。鉄線を巻いた拳から煙が上がる。摩擦で皮膚の焦げる匂い。
止まらない。
迅が左足でブレーキ台を蹴り上げる。右腕を使えない身体が回り、固定材が柱へ当たる。顔から血の気が引く。
澪は救助索を投げた。
白い索がタマキの腰帯へ巻きつく。
「手を離せ!」
「落ちる!」
「私が持つ。離せ!」
タマキは上索を離した。
身体が横へ振られる。
鉄籠が通過する。
籠の角がタマキの緑の帽子をかすめ、帽子が空へ飛ぶ。次の瞬間、轟が握っていた滑車索の一本が切れた。
鋼線が鞭のように跳ねる。
澪はタマキを引くため、右側を前へ出していた。
切れた線は彼女の頭には当たらなかった。
屋根の古い通風筒へ激突した。
薄い鉄筒が、鐘のように鳴る。
近すぎる音だった。
空気が白く裂けた。
タマキは音を聞いたというより、歯の裏で受けた。世界の輪郭が一瞬、ぶれる。澪の身体が傾く。
救助索を握ったまま、右膝が屋根へ落ちる。
「澪!」
迅が呼ぶ。
澪は返事をしない。
けれど索は離さない。
轟がタマキをこちらへ引き戻す。七瀬は撮影機を置き、澪の左側へ回った。
「風祭澪。聞こえますか」
澪の目が七瀬の口元を追う。
「左は」
小さな声。
「左は聞こえる?」
「聞こえる。右が……水の中」
七瀬は澪の肩へ触れず、視界の左下へ手を出した。
「吐き気は」
「ない」
「目の揺れ」
「右へ向くと少し」
「耳から出血」
小麦が清潔布を出し、触れずに確認する。
「見えない。液もない」
「耳を塞がない。冷やさない。大きな音を止める」
澪は自分で言った。
救難員は、自分が患者になった時ほど手順を口にする。知識があるから強いのではない。知識があるのに、自分だけ例外へしたくなるからだ。
洗濯場の責任者が、止まっていない滑車台へ走ろうとする。
「籠が下へ行く!」
「人が先」
轟が低く言う。
「シーツも落ちる!」
「落ちる先に人がいる」
タマキは救助索にぶら下がったまま、屋根下の路地を見る。鉄籠は次の固定台へぶつかり、濡れた布を撒き散らして止まった。通行人が一人、庇の下へ逃げている。
「下、負傷なし!」
声を張る。
澪は右側から届いたその声に反応しない。
タマキは一瞬、返事を待った。
返らないことが怖かった。
だからもう一度、澪の左へ回る位置を考えてから叫ぶ。
「下、負傷なし。鉄籠、次の台で停止」
澪の目がタマキを捉える。
「聞いた。復唱。下、負傷なし。籠、停止」
聞こえない人へ大声を出すだけでは、伝達にならない。
位置を変える方が、声を大きくするより速いことがある。
澪は右耳へ手を当てようとし、途中で止めた。耳道へ触らない訓練が身体に残っている。
迅がしゃがむ。
「立てるか」
澪は迅の口元を見なかった。右側から声を掛けられたためだ。
七瀬が迅の肩を押し、位置を変えさせる。
「左から」
迅は澪の左へ移る。
「立てるか」
「平衡、確認」
澪は屋根へ左手をつき、目を閉じずに頭をゆっくり動かした。右へ向いた瞬間、身体が揺れる。
「立たない。座位。人数」
「六人。洗濯場の人二人。全員いる」
タマキが答えた。
「帽子一、不明」
「物は数えない」
「僕には大事」
澪の口元がほんの少し動いた。
「帽子一。後で回収」
轟は切れた索を見た。
「ブレーキ棒が自然に抜けた形じゃない」
棒を留める割りピンが、横へ曲げられず真っ直ぐ抜かれている。
「誰かいた?」
七瀬が訊く。
洗濯場の責任者は首を振る。
「シーツの向こうは見えなかった」
迅は周囲の屋根を見る。
人影はない。
「追わない」
澪が言った。
「まだ誰も追うと言ってない」
迅が返す。
「顔が追ってる」
「聞こえなくても分かるのか」
「足が屋根の端へ向いた」
迅は靴先を戻した。
タマキは腹が立った。
自分が先に渡ると決めた。
危険を説明した。
戻る命令に従うのが一歩遅れた。
澪がその一歩を引いた。
どれが事故の原因か、一つに決めれば楽だ。
楽な原因は、だいたい次の事故を隠す。
「僕が戻るのを遅らせた」
タマキは言った。
「記録する」
七瀬が答える。
「責めないの」
「記録と責めることは別です」
「澪は?」
澪は左耳で聞くため、顔を近づけた。
「命令の復唱を取らずに進ませた。私の不足。ブレーキの監視を割り当てなかった。二つ」
「僕の一つより多い」
「競うな」
「迅に言われたくない」
屋根から下りるまでに、二十六分かかった。
往路の四倍だった。
澪を歩かせない。右を急に向かせない。切れた鋼線を巻き取る。滑車台を使用停止にする。下の路地へ落ちた物を確認する。洗濯場へ、乾かす途中のシーツを濡らしたことを報告する。
事故は一瞬でも、帰路には細かい仕事が増える。
七瀬が澪の左側に立ち、三つの言葉を順に言った。
「水」
「笛」
「帰路」
澪は二つ目だけ聞き返した。
次に右側から同じ言葉を言う。
一つも返らない。
「右、高音だけじゃない」
七瀬が言う。
「小声は全域不明瞭」
「診療所へ」
迅が言った。
「試験撤収後」
「今」
「箱、索、洗濯場の人」
「轟とタマキがいる」
「指揮を――」
澪は言いかけ、止めた。
指揮を自分から外すことを、敗北のように感じていた。
迅はそこを見逃さない。
「聞こえない耳で全部聞こうとする方が危ない」
「分かってる」
「分かってる人は、役を渡す」
「あなたは渡した?」
迅の口が閉じる。
澪は左耳で、その沈黙だけはよく聞いた。
「撤収指揮、轟。人数確認、タマキ。負傷者移動、七瀬と迅。私は患者」
「患者って言えた」
タマキが言う。
「記録して」
「料金は?」
「一回、質問を減らす」
「安い」
轟が切れた索へ赤い布を三か所巻いた。
「滑車台、停止。誰も触るな」
「理由と期限」
タマキが紙を出す。
《鋼索断裂・ブレーキ棒抜け/調査終了まで》
「期限がない」
「終了時刻が分からん」
「じゃあ、次の確認時刻」
轟は考え、《七月十三日午前九時再点検》と足した。
診療所へ向かう途中、タマキは路地の洗濯籠から帽子を回収した。緑の毛糸は濡れ、白い糸屑が絡んでいる。
「捨てる?」
七瀬が訊く。
「洗って返す」
「誰へ」
「自分に」
「返却記録は?」
「帽子一、帰還」
タマキは濡れた帽子を鉄箱の留め具へ結んだ。
澪の三本の笛は、今日は一度も鳴らなかった。
代わりにタマキが角を曲がるたび、指を上げて人数を示した。
先頭が役目を渡しても、列は消えなかった。
遠くで、歓声が上がった。
全員が屋根の南を見た。
二百メートルほど先、映画館跡の低い屋上を、白い腕章の集団が走っている。
六人。
中央に、保冷箱によく似た銀色の箱。
先頭の少年は紺の上着。背丈も髪型も、遠目なら迅に見える。後ろに白い外套の大男。撮影機を持つ女までいる。
地上の人々が、彼らを指差している。
「空白の旗だ」
「薬を運んでる」
「屋根へ上がったぞ」
声が風に乗る。
「僕たちはここ」
タマキが言う。
「向こうも、そう言うだろうな」
迅の声が低くなる。
偽搬送班の一人が、屋根の縁で白布を高く振った。
すると、地上路の検問員たちが南へ走り出した。見物人も追う。位置を隠すために作った屋根道が、別の誰かの舞台になっていく。
七瀬が撮影機へ手を伸ばす。
「撮る?」
タマキが訊く。
「撮れば、こちらの位置も分かる」
「撮らなければ、向こうが本物になる」
七瀬の右手がクランクの上で止まる。
澪は右耳を押さえず、左手を屋根へ当てていた。遠くの歓声は聞こえなくても、走る足の振動が梁を伝う。
「試験中止」
澪が言う。
「帰路を確保して下りる。八人。負傷一。箱一。帽子一。復唱」
「八人、負傷一、箱一、帽子一」
タマキは答えた。
轟が切れた索を回収する。迅が滑車台の割りピンを紙へ包む。七瀬は偽搬送班へレンズを向けず、撮影機を畳んだ。
タマキの緑の帽子は、下の路地の洗濯籠へ落ちていた。
白いシーツの上に、緑色だけが小さく残る。
遠くでは、偽物の白布が風を全部使っていた。