第321話 第三章「元能力者」前編

水科イオは、止まった時計を直さない。

 持ち主が止めた時刻を訊く。

 理由を訊く。

 もう動かしたいかを訊く。

 動かしたいと言われた物だけ、蓋を開ける。

 七月三日、午前九時。

 中央審査局の正面階段に、止まった時計が二十三個並んでいた。

 懐中時計。

 壁時計。

 台所用の砂時計。

 腕へ巻くには大きすぎる工場時計。

 針が一本しかない子ども用。

 時刻はばらばらだった。

 二十歳になった朝。

 最後の発動が終わった夜。

 能力が出ないと医師に言われた昼。

 仲間から危険作業を外された時刻。

 時計の前に、机が三つ。

《仕事》

《住居》

《医療》

 英雄という机はない。

「次」

 イオは言った。

 椅子へ座ったのは、左手の指が三本だけ太い青年だった。

 以前は、指先で金属の熱を逃がす誓痕があったらしい。

 今は溶接工場から外され、検品へ回されている。

「賃金」

「三割減った」

「契約は」

「職種変更って」

「同じ勤務時間?」

「二時間増えた」

「危険手当」

「なくなった」

「指の痛み」

「ある」

「医療」

「能力が消えたなら反証じゃないって」

「誰が」

「工場医」

「名前」

 青年が答える。

 イオは紙へ書いた。

 紙の右上に、時刻を書く。

 九時七分十四秒。

 相談を受けた時刻ではない。

 本人が、賃金が下がったと自分の言葉で言った時刻だ。

「戻りたい?」

「能力を?」

「溶接を」

 青年は考えた。

「分からない」

「分からない、で記録する」

「いつまでに決めれば」

「決める時刻は、あなたが決める」

「それ、相談になってる?」

「締切を作らない相談もある」

 イオは、そう言いながら自分の左前腕を触った。

 真鍮装具には、百を超える時刻が刻まれている。

 決める時刻を要求し続けた人間の腕だった。

 青年は立ち上がる。

「時計、置いてく?」

「直る?」

「直したい?」

「まだ」

「じゃあ持って帰って」

 青年は止まった腕時計を持ち帰った。

 壊れた物を預かると、預かった側が直す時刻を決めてしまう。

 それは便利だ。

 便利なことは、ときどき支配に似る。

「次」

 列は階段の下まで続いている。

 能力喪失〈クロックアウト〉した者だけではない。

 薄くなった者。

 発動条件を満たせなくなった者。

 力は出るが、翌日動けなくなる者。

 家族が先に退職届を出した者。

 興行会社に「最後の映像」を売られた者。

 能力減衰期は、医学上の変化より先に、他人の扱いとして始まる。

 列の横に、派手な幟が立っていた。

《失った力を、もう一度》

《三日間無料診断》

《成人発現再起動》

 白衣の業者が、銀色の小箱を配っている。

 イオは朝から四度、箱の写真を撮った。

 触ってはいない。

「水科さん」

 業者の男が近づく。

「あなたも試されたらどうです。元同期技師でしょう。臨床協力者には謝礼が」

「説明書」

「まず診断を」

「説明書」

「専門用語が多いので」

「読める」

「誤解されると困る」

「説明しない方が誤解が減る?」

 男は笑みを保った。

「不安を煽る団体が多いんです」

「あなたの幟は?」

「希望です」

「料金」

「初回無料」

「二回目」

「個人差が」

「三回目」

「診断後に」

「誰の血を使う」

 男の笑みが止まった。

 イオは箱を見た。

 側面に、研究施設で使われた旧式の同期端子と同じ溝がある。

 同じだから、同じ施設だとは言えない。

 部品は流通する。

 技術は盗まれる。

 被害者も使う。

 原因へ飛びつけば、証拠より先に物語が完成する。

「説明書を持って、十七時までに戻って」

「なぜ十七時」

「私の相談勤務が終わる」

「その後は?」

「帰る」

「話を聞かない?」

「仕事は終わる」

 男は箱を引いた。

「能力を失った人は、もっと切実だと思っていました」

「切実だから、無料箱を受け取らない」

 イオは次の相談者を呼んだ。

 十一時二十二分。

 獅堂凱が階段へ来た。

 白い外套は着ていない。

 胸の割れ鐘も布で包んでいる。

 隠しているのではなく、相談者の列で目印にしないためらしい。

 それでも列が割れた。

 以前、彼の配給所に助けられた者がいる。

 拘束された者もいる。

 今も王と呼ぶ者もいる。

 凱は空いた道の中央で止まった。

「詰めなくていい」

 言う。

 誰も動かない。

 凱は一度、息を吸う。

「俺が通るために空けなくていい。相談の順番を維持してくれ」

 今度は二人が戻った。

 残りも、少しずつ戻る。

 命令ではなく説明だった。

 時間がかかる。

 凱は待った。

 イオは机の前の椅子を指す。

「座る?」

「立てる」

「能力相談は、立てるかの試験じゃない」

 凱は座った。

 膝装具の角度を、自分で少し浅くする。

「何の用」

「昨日の質問へ答えに来た」

「家賃?」

「個人住居は白冠時代の医療団地にある。管理費は共同口座から出ていたが、今月から俺の現場賃金で払える」

「金額」

 凱が答える。

 イオは書く。

「仕事」

「災害指揮、配給計画、在庫、非常放送」

「能力なしで雇われる?」

「雇う側に確認する」

「自分で分からない?」

「俺は、能力と技能を分けて契約したことがない」

「最初の本当の答え」

 凱の眉が動く。

「昨日も嘘は言っていない」

「払える。仕事はある。でも条件を分けてない。嘘じゃない。足りない」

「王の職務は契約ではない」

「だから困る」

「何が」

「首にできない」

 列の後ろで、誰かが小さく笑った。

 凱は振り返らない。

「俺が失うことを、面白がっているのか」

「面白がってる人はいる」

「あなたは」

「忙しい」

 イオは三つの机を示した。

「失った能力の話だけなら、十分で終わる。家賃と仕事と病院を聞くと、一人三十分。王の悲劇へ使う時間はない」

「俺の判定が制度を変える可能性はある」

「あなたは資産がある。支持者がいる。名前もある。能力が消えた翌日に住所まで消える人の代表にはならない」

「代表すると言っていない」

「観客がする」

「俺が拒否する」

「拒否した王、って売られる」

 凱の手が、膝の上で震えた。

 イオは見た。

 見たことを、優しさで隠さない。

「公開判定、止めない」

「止めに来たのではない」

「じゃあ何」

「終了条件を先に決めに来た」

「判定規則にある」

「本人の言葉で」

「医療者が止める」

「あなたは止められた時、従う?」

 凱は答えない。

 イオは真鍮装具の刻みを一つ触る。

「私は従わなかった」

 右腕を机へ置いた。

 左より細い。

 筋量が違う。

「右を強くする誓痕だった。終了時刻まで、決めた動作の開始と停止を正確にする。強化が切れた後も、右が動くつもりで工具を持った」

「怪我をした?」

「部品を落とした。人の足へ」

「その人は」

「骨折。今も謝罪を受け取らない」

「能力喪失のせいか」

「私のせいでもある」

 イオは紙へ線を引いた。

「被害者で、加害者。二つ書く欄が要る」

 凱は列を見る。

 相談者の一人が、止まった時計を抱えている。

「俺には、支持者がいる」

「いる」

「資産もある」

「ある」

「なら、失う者の代表ではない」

「今のところ」

「今のところ?」

「あなたの支持者は、能力が消えたあなたを支持するか。支持しなくなった時、住所と仕事が残るか。まだ起きてない」

「試してみろと言うのか」

「起きたら記録する」

「冷たいな」

「温かくすると、時刻が読めない」

 凱は初めて、少し笑った。

「冗談か」

「今、十二時二分。冗談」

「時刻を付ける必要は」

「終わったと分かる」

 凱は立たなかった。

「次の相談を見てもいいか」

 イオは列へ向けて訊く。

「獅堂凱が同席を希望。拒否しても順番、相談内容、支援に影響なし。顔を見られたくない人は、衝立を置く」

 三人が拒否札を上げた。

 二人が保留。

 一人が同意。

 凱は拒否札の数を見る。

「理由は」

「訊かない」

 イオ。

「俺が改善するために」

「改善の材料になる義務を、相談者へ負わせない」

「匿名で」

「拒否は、十分な答え」

 最初の相談者は、同席に同意した。

 四十代の男。

 背中へ古い搬送帯の跡。

 能力で荷の重さを足裏へ逃がし、橋梁資材を運んでいた。

 減衰後、運搬班から外された。

「住居」

 イオ。

「会社寮」

「退職後」

「七日で出ろって」

「残り」

「二日」

 凱が口を開く。

「王環の空き室を――」

 男が、同席札を裏返した。

《拒否》

 凱は言葉を止める。

「ここから退出して」

 イオ。

「提案がある」

「拒否された」

「住居が二日で」

「だから急ぐ。あなたが話すと、本人の希望を聞く時間が減る」

 凱は男を見る。

「俺の提案を聞いてから決めても」

「聞きたくない」

 男が言った。

 声は震えている。

「白冠の空き室に入ったら、また白冠の仕事を断れなくなる気がする」

「強制しない」

「前も、強制って書いてなかった」

 凱は立つ。

「退出する」

 男へ頭を下げない。

 謝罪を受け取る準備があるか、訊いていないからだ。

「必要なら、空き室の条件を文書で出す。俺を通さず、イオへ渡す」

「今は要らない」

「分かった」

 凱は階段の端へ移る。

 相談の声が聞こえない距離まで離れる。

 迅が、壁にもたれている。

「代表、失敗」

「黙れ」

「具体性がない」

「今、話しかけるな」

「合格」

 迅は黙る。

 凱は階段下の列を見る。

 自分が道を通るだけで列が割れた。

 自分が部屋を出すと言うだけで、助けと再支配が同じ形になる。

 資産がある。

 支持者がいる。

 名がある。

 それは困窮者を代表する資格ではない。

 同時に、何もしない理由にもならない。

 何を出し、どこから手を引くかを、本人に決めてもらう手順が要る。

 三十分後、イオが階段へ来た。

「男は」

「今夜だけ、有料宿。二日分は相談基金。三日目以降は、二つの住居候補を本人が見る」

「俺の空き室は」

「候補に入れてない」

「なぜ」

「本人が今は要らないと言った」

「条件だけ出す」

「出して。本人へ直接じゃなく、公開条件として」

「家賃、期間、仕事との分離、退去条件」

「鍵。訪問権。支援者が入る時の同意。白冠の旗を掲げないこと」

「そこまで疑うか」

「疑う人が住む」

 凱は紙を受け取る。

「俺が書く」

「真琴に頼まない?」

「最初は俺が書く。読めない部分を直してもらう」

「今のところ、二番目にいい答え」

「一番は」

「退出したこと」

 凱は不満そうに紙を見る。

「何もしないことが評価されるのは、好かん」

「何もしないんじゃない。相手が話せる場所を空けた」

 空白は、怠慢だけではない。

 誰かが自分の言葉を置くために、先に退ける場所でもある。

 階段の脇に、使われていない掲示台が一つあった。

 凱はそこへ紙を置いた。

 白紙。

「何を書けばいい」

 訊かれた真琴は、すぐには筆を取らなかった。

「誰へ出す文書ですか」

「住居を必要とする者へ」

「広すぎます」

「能力を失って寮を出る者」

「失っていなくても、減衰を理由に退去を求められる者がいます」

「では、その者も」

「家族名義の寮から追われる者は」

「入れる」

「元白冠の住居を避けたい者は」

「拒否できる」

「拒否しても他の支援へ影響しない?」

 イオが、相談机から言った。

「影響させない」

「誰が保証する」

「俺が」

「あなたが貸主で、紹介者で、保証人で、異議の受付先?」

 凱は筆を止める。

 四つの仕事を一人で持てば、話は早い。

 早い代わりに、どこへ異議を出しても同じ顔が出る。

「分ける」

「誰へ」

「住居の管理は、現在の管理班。申込みは――」

「白冠の管理班ですよね」

 列の中から声がした。

 若い女だった。

 止まった台所時計を抱えている。

「管理班の腕章、外しても同じ人なら、何が変わるんですか」

 凱は答えようとして、口を閉じた。

 腕章を外せば中立になる、とは言えない。

 人間は布より長く残る。

「人を替える」

「誰に」

「今、決めない」

 自分の口から出た言葉に、凱は少し驚いた。

 王だった頃、空欄は弱さだった。

 誰を置くか即答できないことは、統治の不足に見えた。

 今は、空欄へ先に自分の名を書かないための時間だった。

 真琴が紙の上を五つに分ける。

《貸主》

《鍵管理》

《申込受付》

《異議受付》

《契約終了確認》

「すべて別人である必要はありません」

「同じでもいいのか」

「同じ場合は、その理由と、利益相反時の代行者を書きます」

「利益相反」

 タマキが鉄箱の蓋へ字を写す。

「送り主と受取人が同じ?」

「近いですが、違います」

「目的を決める人と、困った時に聞く人が同じ?」

「それです」

「じゃあ、困ったって言ったら、目的が悪かったって怒られる」

「起こり得ます」

 凱は白紙の上へ最初の一文を書いた。

《入居は仕事、旗、支持、撮影、投票と結びつけない》

 字の最初が、少し震える。

 次。

《入居しない選択を、他の支援を断る理由にしない》

「期間」

 イオ。

「三十日」

「長い」

「住居だぞ」

「仮住居。元の寮を二日で出される人へ、三十日の次を一緒に考えるなら分かる。三十日で追い出す札にするなら短い」

「自動更新は」

「なし」

「延長は」

「本人から申請」

「本人が病気で申請できなければ」

「医療者が」

「医療者が住居を決める?」

 凱はまた止まる。

 真琴が書く。

《意思確認不能時は七日間の現状保全。退去処分を行わない。回復後に本人確認》

「七日は、どこから」

 凱。

「医療側へ確認が必要です。暫定値」

「暫定と書け」

「書きます」

 紙は一枚で終わらなかった。

 家賃。

 敷金。

 鍵の複製。

 訪問。

 夜間点検。

 宗教物や旗の掲示。

 隣室の騒音。

 共同厨房。

 退去後の住所記録。

 凱は、住居を一つ出すと言っただけだった。

 一つの部屋には、人間が部屋として使うための条件が何十もあった。

「長い」

 凱が言う。

「短くする?」

 イオ。

「読める形にはする」

「平文?」

「一文字巴へ頼むか」

「今は、本人たちへ」

 イオは列へ向けて紙を持ち上げる。

「住居条件の作成に参加する人。相談内容とは別。参加しなくても支援へ影響なし。賃金あり。二時間。顔と名前の公開なしを選べる」

 五人が手を上げた。

 三人は上げなかった。

 凱は、上げなかった手を数えないようにした。

 参加しないことまで、判断材料として所有したくなったからだ。

 迅が掲示台の裏へ回り、ぐらつく脚へ木片を噛ませる。

「おまえは何をしている」

 凱。

「紙、長くなるだろ」

「支えるのは台か」

「紙より簡単」

「人間は」

「台より面倒」

「分かっている」

「今日、三回言った」

 迅は木片を足で押し込む。

 掲示台の揺れが止まった。

 紙の内容は、まだ止まらない。

 凱は自分の名を、貸主欄にだけ書いた。

 申込受付と異議受付には、線を引かず空けた。

 名前を書かないことが、初めて仕事になった。

 中央審査局の裏通りでは、土門小麦が三十六人分の昼食を作っていた。

 無料炊き出しではない。

《有給食事班》

 調理三名。

 洗浄二名。

 運搬二名。

 休憩交代一名。

 材料費、燃料費、賃金、食券補助。

 全部、黒板へ書いてある。

「一食、こんなにするの」

 相談者の女が訊いた。

「本当は、もう少し」

 小麦。

「補助が入ってこれ。無料じゃないの」

「払えない人は相談券。食べない理由にはしない。でも、作る人の賃金も消さない」

「前は無料だった」

「前は、私が倒れるまで働いてた」

「それで助かった人もいる」

「いる」

「じゃあ、悪かった?」

「助かったことと、続けたら壊れることは、同じ鍋に入れない」

 小麦は三十六枚の皿へ、豆と鶏の煮込みを同じ量ずつよそった。

 最後の一枚だけ少ない。

 自分の分だ。

 気づいて、隣の調理者が木べらを取る。

「同じ量」

「味見した」

「味見は賃金。食事は別」

 小麦は不満そうに皿を差し出した。

 足底が痛む。

 外環洪水の救助後、二十四時間厨房から外されて以来、交代表は守っている。

 守っているから、痛みがなくなるわけではない。

 休むことは治癒ではない。

 悪化させない選択だ。

「十五分、外へ行って」

 交代係が言う。

「どこへ」

「休憩」

「休憩に住所はない」

「食堂の外。座る。何もしない」

「何もしないは仕事じゃない」

「休憩表へ署名した」

 小麦は自分の署名を睨んだ。

 自分で作った規則に、自分が捕まる。

「十五分」

「十四分で戻る」

「十五」

「時計を見ない」

「水科さんを呼ぶよ」

「脅しに能力喪失者を使うな」

 小麦は前掛けを外し、裏通りへ出た。

 競技場の外周には、出店が並び始めている。

 能力者最後市〈ラスト・マーケット〉

 減衰前の装具。

 最後に光った旗芯。

 引退試合の拳帯。

 能力が出た声の録音。

 人間が失う前に、周囲が値札を貼る市場だ。

 小麦は嫌いだった。

 嫌いだが、屋台へ食材を卸す者も、そこで日銭を得ている。

 壊すなら代わりを先に出せ。

 凱の言葉を思い出し、腹が立つ。

 正しい言葉は、嫌いな人の口から出ると味が濃い。

 裏通りの角に、小さな店があった。

 看板はない。

 戸口の黒板にだけ、値段が書いてある。

《豆粥 一杯六十》

《卵追加 二十》

《代金不足は皿洗い十五分》

《店主休憩 十四時から十五時》

 小麦は足を止めた。

 店の奥で、年配の料理人が葱を刻んでいる。

 右手首に、古い油火傷。

 包丁を置く時、刃を左へ向ける。

 味見の前に、木べらの柄を二度台へ当てる。

 小麦が幼い頃、同じ鍋を食べた回数を家族の数え方として教えた人だった。

 三日、食堂が止まった時に消えた。

 遺体は見つからなかった。

 死んだと聞かされた。

 料理人が顔を上げる。

 小麦は、店の柱の陰へ半歩入った。

 隠れた。

 自分でも驚いた。

 会いたかった。

 生きていてほしかった。

 生きているなら、なぜ帰らなかったと訊きたかった。

 その全部より先に、黒板の値段が目へ入った。

 無料ではない。

 休憩時刻がある。

 小麦が作ろうとしているものを、その人は別の場所でもう作っている。

 善意で帰ってきてほしいと思った自分が、急に幼く見えた。

 料理人は小麦に気づかなかった。

 客へ粥を出す。

「六十。卵ありなら八十」

 声は昔と同じだった。

 小麦は十五分の休憩が終わるまで、柱の陰にいた。

 声を掛けなかった。

 逃げたのか。

 相手の仕事を邪魔しなかったのか。

 まだ決めない。

 戻る前に、豆粥を一杯買った。

 顔を見られないよう、別の店員から受け取る。

 六十を払う。

 無料にしてくれとは言わなかった。

 十六時三十分、相談列の最後尾へ札が置かれた。

《本日の新規受付、終了》

 列にいた五人が不満を言った。

「まだ十七時じゃない」

「一人三十分。今から受けると終わらない」

 イオ。

「残業すれば」

「しない」

「困ってるんです」

「困ってるから、急いで薄く聞かない」

 イオは五人へ、明日の整理券を出さない。

「明日の時刻を、私が決めない。希望時間を三つ書いて。別の相談員と割る」

「水科さんじゃない?」

「私だけだと、私が倒れた日に全部止まる」

「事情を最初から話すの?」

「今日、公開していい範囲だけ聞く。次の人へ渡すか、自分で持つか選べる」

 一人は紙を持ち帰った。

 一人は、相談内容の要点だけ書いた。

 二人は別の相談員を選ぶ。

 一人は明日を決めなかった。

 受付終了は、支援終了ではない。

 イオは三つの机を片づける。

 仕事。

 住居。

 医療。

 止まった時計は、二十三個のうち十八個が持ち主へ戻った。

 五個だけ残る。

「預かるの?」

 タマキ。

「本人が、今日だけ置いていきたいって」

「直す?」

「直さない」

「守る?」

「鍵箱へ。明日まで」

「明日来なかったら」

「連絡希望の人へ一回。希望なしは七日保管。その後、指定した返却先」

「捨てない?」

「本人が廃棄を選んだ時計だけ」

 タマキは五個の時計へ、五枚の札を付ける。

 呼称。

 返却先。

 連絡の可否。

 保管期限。

 目的。

「止まったまま返す、って目的になる?」

「なる」

「直るのに?」

「動かしたくないって」

「時計なのに」

「時計だから」

 イオは真鍮装具の時刻を確認する。

 十六時四十五分。

 再起動業者の幟は、いつの間にか撤去されていた。

 追えば、角を曲がった車を見つけられるかもしれない。

 凱が階段上から言う。

「今なら追える」

「追わない」

「証拠が」

「幟の記録、箱の写真、端子の寸法、配布を受けた二人の証言がある」

「本人は逃げる」

「逃げた時刻と車の方向を、警備へ渡した」

「おまえは行かない?」

「相談勤務中」

「あと十五分」

「十五分で捕まえる競技じゃない」

 イオは二人の相談者を呼ぶ。

 一人は部品工場へ照会する。

 一人は審査局の機器登録を調べる。

 報酬額。

 公開範囲。

 終了時刻。

 すべて紙へ書く。

「指揮している」

 凱。

「仕事を分けてる」

「同じでは」

「私がいなくても結果を返せる」

「報告先は、おまえだ」

「共有箱。私も読む」

 イオは共有箱の鍵を三本にする。

 自分。

 相談員。

 調査参加者。

 一人では開けない。

「面倒だ」

 凱。

「一人で持って、英雄になりたい?」

「違う」

「私も」

 十六時五十分。

 イオは机の上を空にした。

 空にしてから、二十三番の整理券を持つ男が現れた。

 十六時五十分。

 再起動業者は説明書を持って戻らなかった。

 代わりに、鐘巻十夜が相談机へ座った。

 整理券を取っている。