第320話 第二章「消える旗圧」後編
「能力検証に必要な範囲へ戻すため」
「こちらを現在の意思にします」
七瀬は二つの言葉を両方記録する。
最初の言葉を消さない。
後から選び直した方を、公開版へ使う。
公開とは、一度開けた扉を外すことではない。
中から閉め直せる扉を残すことだった。
三分後、模擬演説は再開された。
凱は座ったまま話した。
声の圧は出なかった。
人々は二度、聞き返した。
凱は二度、説明した。
終了後、七瀬は撮影を止めた。
「十二時零二分三十一秒。模擬判定、終了」
クランクを半回転戻す。
凱が立とうとする。
左膝が伸び切らない。
迅が手を出さない。
椅子の背を、凱自身がつかむ。
立つ。
「撮ったか」
「撮りました」
「全部」
「決めた範囲を」
「手の震えは」
「全景に入っています」
「寄れ」
「嫌です」
「隠すな」
「あなたは、自分を証拠品にしすぎている」
「判定だ」
「処刑ではない」
凱の目が細くなる。
「処刑だと思っているのか」
「あなたが、失敗と一語で呼ばれた方が楽だと思っているなら」
「思っていない」
「今の間、四秒」
「感情まで秒で決めるな」
「では、言葉で」
七瀬は撮影機から手を離した。
「怖いですか」
凱はすぐに答えた。
「怖くない」
早すぎる返事だった。
迅が靴底を擦る。
イオは真鍮装具の時刻を一つ触る。
真琴は規則の頁を閉じる。
誰も訂正しなかった。
凱が自分で言い直すまで、待った。
「能力がなくなることは、怖くない」
凱は言った。
声が少し長くなった。
「何が怖い」
七瀬。
「俺の声が届かない時に、人が死ぬことだ」
「昨日、聞き返した人は生きていました」
「毎回ではない」
「毎回従えば、生きる?」
「保証はできない」
「その言葉を、本番でも言えますか」
凱は答えなかった。
空の観客席は、沈黙をよく響かせる。
その時、最上段のスピーカーから拍手が流れた。
誰も拍手していない。
録音だった。
華やかで、均一で、終わる時刻まで決められた拍手。
凱が顔を上げる。
競技場の中央へ、暗赤色の長羽織を着た男が入ってきた。
顔半分に金箔。
右側頭は剃られ、古い火傷が見える。
紅城乱馬。
片手に拍子木、もう片方に巻いた広告布。
「御覧じろ、諸君」
空席へ向けて、艶のある声を投げる。
「二十歳の王が、力の夕暮れに立つ。拍手はまだ早い。だが宣伝は早い方がいい」
「止めろ」
七瀬。
「何を」
「録音拍手」
「機材確認だ」
「本人が答えなかった直後に流した」
「偶然だよ」
「再生時刻、十二時四分九秒。操作卓は誰」
乱馬は拍子木を一度鳴らした。
「俺だ」
主語は逃げなかった。
だから責任が軽くなるわけではない。
広告布を広げる。
《二十歳の王 最後の公開判定》
最後の二文字だけ、金で刷られていた。
「最後ではない」
凱。
「能力判定としては、一度きりだろう?」
「俺の人生は続く」
「続く人生は売れにくい」
乱馬は笑った。
「だが、終わる夜は席が埋まる」
客席の通路から、別の男が降りてくる。
黒髪に銀の筋。
秒針模様の黒い拳帯。
胸の札には、赤い字で《終了 七月九日 零時》と書いてある。
懐中時計を逆さに持ち、針を指で戻している。
「ここで実況席より訂正です」
軽い、少しかすれた声。
「王様の人生は続くそうです。興行としては困りますねえ。終わらないものに、人は前売り券を買わない」
犬飼豪が、客席の陰から唸った。
「十夜」
「久しぶり、野犬。今日は噛まないで。衣装代が高い」
鐘巻十夜は左頬だけにえくぼを作った。
「獅堂凱。竜胆迅。公開判定に、試合を足さないか」
迅が立つ。
「足すな」
「試合は足すものじゃない。客が引くものだ」
「何を引く」
「結末」
十夜は、三分進んだ懐中時計を鳴らした。
「力が消える前に、王を殴る。王が勝てば、まだ使える。負ければ、きれいに終われる。分かりやすい」
「分かりやすい話は、だいたい誰かを省いてる」
迅。
「省かれた人は、席を買わない」
「買えない」
「それも興行の問題だな」
十夜は広告布を見た。
「四千二百席。二百十人だけが証者。残りは客。いい会場だ。信じなくても見られる」
七瀬は撮影を再開しなかった。
「今の会話は記録しません」
乱馬が眉を上げる。
「なぜ」
「撮影終了後です。再開同意を取っていない」
「こんな名場面を」
「名場面にしたのは、あなたです」
凱は十夜を見た。
「試合の条件は」
「凱」
迅が名だけを呼ぶ。
凱は視線を逸らさない。
「条件を聞く」
「受けるって顔だ」
「顔で決めるな」
十夜が笑う。
「いいね。公開判定、三部構成。第一部は指揮試験。第二部は俺の閉店興行。第三部は――」
懐中時計の蓋を閉じる。
「七歩退く男と、退かない王の再戦」
録音拍手が、もう一度流れた。
七瀬は操作卓へ歩き、電源栓を抜いた。
拍手は途中で切れた。
空席が、元の静けさへ戻る。
凱の手の震えだけが、鐘の鎖を小さく鳴らしていた。