第447話 第六章「檻を審理室にする」前編
一月一日 午前七時十二分
元日だからといって、法律は休まない。
法律を運用する人間は休む。
窓口は閉まり、電話は当直へ回り、押印できる者が餅を焼いている。
その結果、休まない法律ほど、休日には動かなくなる。
朽葉真琴は、中央行政資料庫の裏口で十五分待った。
雪は降っていない。
空気だけが白い。
丸眼鏡の縁へ息が曇る。
右手袋は外していない。
左手には、昨日の面会申請書。
右脇には、廃止規則を綴じた三冊。
裏口の内側で、当直職員が欠伸をした。
「正月ですよ」
「暦は確認しています」
「急ぎですか」
「期限のない収容へ、急がない質問があるなら教えてください」
「嫌味を言われても、鍵は増えません」
「鍵を増やす話ではありません。資料庫へ入る権限の話です」
「権限者は三日まで休みです」
「当直代行規程、第六条」
「知りません」
「当直者は、人身拘束の期限・医療・審理に関する照会を拒否できない」
「私は資料係です」
「資料係が資料を見せないことで審理が遅れたら、資料係は審理へ関係します」
「脅してます?」
「主語を戻しています」
職員は裏口を開けなかった。
代わりに、小窓から手を出した。
「条文番号」
「予防収容暫定令の附則。運用細則。収容場所指定規則。旧少年保護移送令。面会記録規程」
「多い」
「私もそう思います」
「必要なものだけ言ってください」
「必要なものを探しに来ました」
職員が顔をしかめる。
真琴は、紙片を三枚並べた。
一枚目。
《審理はどこで行うか》
二枚目。
《移送できない時はどうするか》
三枚目。
《審理場所を誰が指定できるか》
「この三つへ答える資料です」
「最初からそう言ってください」
「最初に条文番号を求めたのはあなたです」
「正月に議論したくない」
「私もです」
「嘘でしょう」
「議論ではなく、結論を取りに来ました」
鍵が回った。
資料庫の鍵は、逆へ回さなかった。
午前八時三十一分。
廃止規則は、地下二階にあった。
現行法より下。
古い紙ほど、地面に近い。
真琴はその配置が嫌いではない。
現在の制度は、廃止された制度の上へ立っている。
たいてい、床下の方が重い。
資料棚の間は狭い。
眼鏡がなくても、左右の文字が近い。
彼は指で背表紙を追った。
《少年保護施設構造規則》
《臨時審理所設置要領》
《災害時司法継続手引》
《収容移送不能時取扱》
四冊目を抜く。
埃が上がった。
喉の奥が狭くなる。
真琴は本を閉じ、吸入器を出した。
息を吐く。
吸う。
一度。
資料係が見ている。
「大丈夫ですか」
「質問の範囲を限定してください」
「倒れますか」
「今は倒れません」
「後で?」
「喘息の将来予測まで、あなたの当直範囲ですか」
「心配しただけです」
「ありがとうございます」
真琴は短く答えた。
心配へ嫌味を返すと、次に心配されなくなる。
それは効率がいい。
効率がいいことと、正しいことは別だ。
彼は吸入器をしまった。
「埃の少ない机を借ります」
「命令ですか」
「お願いです」
「言えるんですね」
「記録してください」
地上の閲覧机へ移る。
規則は、百八十六頁あった。
目次へ《審理》はない。
索引へ《収容場所》はある。
《移送不能》はない。
《非常時》は、火災と感染症だけ。
真琴は二頁目から読む。
新品のノートなら一頁目を避ける。
古い規則は、一頁目から疑う。
十二頁。
四十七頁。
八十九頁。
午前九時四十二分。
見つけた。
《外部庁舎への移送が、災害、医療、治安または施設構造上の理由により著しく困難であるとき、独立審理官は、収容場所またはその一部を、当該案件に限り審理場所として指定できる》
真琴は文を三度読んだ。
嬉しくない。
条文が見つかった時に嬉しい人間は、条文の外へいる。
中にいる人間に必要なのは、発見ではない。
作動だ。
次の項。
《指定にあたり、質問権、記録、当事者分離、必要な公開、緊急退避および意思疎通が確保されなければならない》
机。
法服。
傍聴席。
高い裁判官席。
どれも書かれていない。
必要なのは、機能だった。
真琴は条文を写す。
右手ではなく、左手で。
公的署名ではない。
自分の理解を、自分の利き手で残す。
資料係が覗く。
「それ、今も有効ですか」
「現行規則が廃止を明記していません」
「古いでしょう」
「古いと無効は違う」
「新しい規則に、外部庁舎って」
「原則です」
「原則なら、そっち」
「移送できない」
「拘置所から庁舎まで、車で十八分です」
「施設側が危険を理由に移送を拒否しています」
「じゃあ施設側が悪い」
「悪いと言えば、審理場所が現れますか」
「現れません」
「だから、拒否理由を条件へ使う」
危険だから運べない。
運べないから審理できない。
審理できないから危険認定を見直せない。
見直せないから、危険なまま収容する。
円だった。
円は、どこからでも切れる。
ただし、切った者の名前が要る。
真琴は条文の下へ書く。
《指定申請者 朽葉真琴》
右手袋を外す。
署名は右手。
責任の分裂を嫌いながら、今日も分裂した手を使う。
午前十一時十六分。
外門前の仮設机へ戻ると、伏見轟が拘置所の平面図を地面へ広げていた。
図面の四隅へ石。
中央へ温かい牛乳の瓶。
「飲むのは誰です」
真琴が聞く。
「イオ」
「中へ入らない」
「冷める」
「なぜ置いた」
「重し」
「人の薬前飲料を文鎮にしないでください」
「廃止規則より役に立つ」
「さっき、廃止規則が役に立ちました」
轟が顔を上げる。
剃った頭へ冬の日が反射する。
「見つけたか」
「建物を法廷へ変えられます」
「壁、動かす?」
「法的用途を変える」
「壁は」
「動かさない」
「床」
「原則、動かさない」
「天井」
「落とさないでください」
轟は牛乳瓶を別の石へ替えた。
「法は、建物の名前を変えりゃ荷重も変わると思ってる」
「思っていません」
「審理官、何人」
「一人」
「収容者、七十二」
「一人ずつ」
「声、どこ通す」
「面会放送」
「同時に開ける?」
「開けない」
「待つ人、どこ」
「独房」
「審理する人」
「独房」
「証人」
「旧配膳室と面会廊下」
「逃げ道」
「必要です」
「法廷の?」
「全員の」
轟は図面へ太い指を置いた。
B棟独房列。
中央に看守廊下。
北端に面会放送室。
南端に旧配膳室。
「ここ、死んでる」
「何が」
「排煙」
「昨日、巴が排水管を」
「排水はある。煙の出口、足りない」
「審理に火を使いません」
「人が増える。機械回す。暖房。古い配線。事故は議事録を読まない」
「必要な改修は」
「北窓、固定解除。南の配膳扉、外開きへ戻す。廊下中央の棚、半分撤去。床の荷重線、引く」
「扉を開ける必要がありますか」
「収容者の扉は開けない。建物の出口は開ける」
「施設側は拒みます」
「安全で」
「安全を理由に?」
「安全は、便利な反対だ」
「あなたが言うと重い」
「何キロ」
「比喩です」
「法務は重量書かない」
「建築は主語を書かない」
「書く。柱一本、誰が持つか」
「柱は署名しません」
「壊れた時、人が署名する」
轟は赤鉛筆で三本の線を引いた。
北窓。
南扉。
中央棚。
「これなら、崩さず使える」
「審理場所として?」
「人が長く居ても死ににくい場所として」
「法廷に必要なのは、それです」
真琴は、自分で言ってから止まった。
法廷に必要なのは、裁く権威だと思っていた。
正しい文。
正しい席。
正しい順番。
轟は、死ににくい場所と言った。
それだけでは法廷にならない。
だが、それがなければ法廷にしてはいけない。
「轟」
「何だ」
「平面図へ、改修責任者名を書いてください」
「俺」
「作業を分ける」
「左肩、上がらん」
「知っています」
「なら、三人」
「氏名と担当を」
「法務、仕事増やす」
「建築が先に三本増やした」
轟は欠けた前歯へ舌を当てた。
笑う前の癖。
「チョークも呼べ」
「巴です」
「壁へ聞く文、俺には長い」
「私が書いたのではありません」
「おまえが書くと長い」
「否定できません」
午後零時四十八分。
独立審理官は、外門へ来た。
濃い緑の外套。
革鞄。
右目の下へ睡眠不足の影。
氏名は、公開記録へ載せないと本人が選んだ。
職務番号と任命書だけを二鍵箱へ入れる。
「元日に呼ばれる仕事ではありません」
審理官は言った。
「無期限収容も、年末年始を選びません」
真琴が答える。
「あなたは申請者ですか」
「法務協力者です」
「収容者ではない」
「過去の収容規則作成へ関与しました」
「利益相反があります」
「あります」
「では、退いてください」
「退けば、利益相反は消えますか」
「少なくとも審理の外へ」
「私の署名が収容根拠へ影響している可能性があります」
審理官の目が、真琴の右手へ落ちる。
「可能性?」
「資料の照合前です。断定しません」
「あなたは弁護人になれない」
「なりません。申請者と証言予定者を分けます」
「自分で?」
「一文字巴が質問手順を作ります。私は規則資料を提出する」
「あなたの説明が必要でしょう」
「必要と、独占は違います」
審理官は革鞄を机へ置いた。
真琴の申請書を読む。
十二頁。
別紙、構造図三枚。
質問権の平文案二枚。
面会不成立の時刻表一枚。
「長い」
巴が黒板へ書いた。
《私も言った》
審理官は巴を見る。
「通訳者?」
巴は首を横へ振る。
《独立契約。質問手順。あなたの通訳は、あなたが雇う》
「聴覚障害のある当事者が」
《私を障害通訳の代表にしない》
「失礼しました」
《謝罪、受領。条件は別》
審理官は小さく頷く。
真琴は、それを少し羨ましいと思った。
巴は、謝罪を受け取っても、相手の提案へ同意しない。
真琴は、謝罪を規則の免責欄へ入れたくなる。
冬実が外門の内側へ来た。
白い所長服。
左手に鍵束。
右手に折り畳み定規。
「施設内指定は認められません」
挨拶より先に言う。
審理官が任命書を見せる。
「理由を」
「第一に、被収容者七十二人のうち、具体的な暴力歴または逃走企図を持つ者が複数います。第二に、能力抑制区画の安定運用中、外部配線と記録機器を増やすことは危険です。第三に、施設職員が審理警備へ回れば通常業務が不足します。第四に、外部公開は名簿流出を招きます」
「移送は」
「より危険です」
「つまり、外部庁舎へ移送できない」
「現在は」
「収容場所指定規則、第十二条第三項の条件です」
真琴が条文を出す。
冬実は読まない。
「旧規則です」
「廃止されていません」
「現行運用と整合しない」
「どの条文が排除しますか」
「施設安全責任は私にあります」
「責任があることと、例外を消せることは違います」
「事故が起きれば、あなたは責任を負えますか」
「法的責任は、負う範囲を書けます」
「建物が崩れた時、文は梁を支えません」
轟が口を開いた。
「梁は俺が見る」
冬実は、轟の左肩を見た。
「術後の身体で?」
「一人で持たん」
「外部作業員を入れる」
「三人。北窓一、南扉一、中央棚一。俺は床と荷重」
「抑制区画へ工具を」
「工具表、出す。持込時刻、返却時刻。刃物なし。固定具は置く」
「非常時に武器になります」
「椅子もなる」
「だから、家具は固定しています」
「面会室の四脚目、一本短い」
七瀬が言った。
「固定されていません」
冬実の視線が動く。
「確認します」
「確認時刻を記録します」
「あなたの映像は現在停止中です」
「紙へ書けます」
冬実は定規で申請書の端を揃えた。
「皆さんは、制度の穴を見つけたと考えている」
真琴が答える。
「穴ではありません。書かれた入口です」
「入口を増やせば、逃走も増える」
「質問の入口です」
「質問で暴力は止まりません」
「拘禁でも、昨日止まらなかった」
「止めました」
「扉を開けた側の記録は」
「調査中です」
「収容者が逃げようとした記録は即日。開けた運用の記録は調査中」
「鍵の誤作動です」
「久我檻は、違うと言っています」
冬実の左手が、鍵束をわずかに持ち上げた。
「久我さんは外部監査員です。施設運用の最終責任者ではない」
「だから証言できます」
「責任がないから?」
「責任範囲が違うから」
冬実は審理官へ向き直る。
「施設指定を認めれば、被収容者は自室から証言します。職員は表情、姿勢、手元を確認できない。脅迫や合図を見抜けない。質問を拒んだ沈黙が、どちらの意思か判定できない」
巴が黒板へ書く。
《見えないから、分からないと記録する》
「分からないまま判断できません」
《分からないを、危険にしない》
「危険かもしれない」
《安全かもしれない》
「その対称性は、人命を守りません」
巴は少し考える。
すぐには返さない。
冬実の懸念は正しい。
見えない暴力はある。
同室者の脅迫。
職員の圧力。
家族からの支配。
巴は黒板を消した。
新しく書く。
《一人ずつ。答えない権利。職員のいない質問時間。職員のいる安全確認。分ける》
冬実が読む。
「人員が倍要ります」
凱が言った。
「倍にする」
「あなたに配置権限はありません」
「ない。だから、外から出せる人員を名簿にして、本人へ頼む」
「命令しないと?」
「今は」
「今だけ?」
凱の顎が少し上がった。
王だった時の癖。
「命令できる方が早い」
「そうでしょう」
「だが、早さを理由に、誰が責任を負うかを一人へ戻さない」
「人が死んでも?」
「死なせないために分ける」
「結果が悪ければ」
「担当ごとに、自分の名で答える」
「王の名でなく」
「王は終わった」
冬実は、凱の左膝装具を見る。
「制度を終えれば、危険まで終わりますか」
「終わらない」
「では、守る施設が要る」
「守る施設と、期限のない施設は同じじゃない」
審理官が右手を上げた。
「ここは本審理ではありません」
全員が止まる。
「場所指定の判断です。賀茂所長。移送は現時点で困難と認めますか」
「認めます」
「面会放送設備は稼働していますか」
「はい」
「記録設備は」
「内部記録のみ」
「二鍵管理で外部保全へ複製可能ですか」
「技術上は」
「独房ごとの質問権を、放送切替で確保できますか」
「人員があれば」
「被収容者分離は」
「既に独房です」
「緊急退避は」
「現状の排煙と南扉では不足があります」
轟が図面を出す。
「三か所、直す」
「所要時間」
「試験まで六時間。完全は二日」
「完全とは」
「審理中の人数で、排煙と退出が規定内」
審理官は真琴を見る。
「公開は」
「顔と氏名を原則非公開。本人が選ぶ範囲。時刻、質問、判断理由、運用者名は公開。医療と家族情報は別箱」
「あなたが決めた?」
「案です」
「本人は」
「壁へ、公開範囲を一行で書いてもらう」
巴が黒板を上げる。
《顔/声/名前/理由/何も出さない》
「五択?」
審理官が聞く。
巴は首を横へ振る。
《組み合わせ。途中変更。分からない》
審理官は、申請書の最後をめくった。
「試験をします」
冬実の眉が初めて動く。
「指定ではなく?」
「一室、一件。質問権、記録、分離、公開範囲、退避を確認します。成立すれば、当該案件に限り施設内指定を行う」
「誰を選ぶ」
「施設側で選ばない」
「では収容者側が有利な人を」
「無作為」
タマキが鉄箱から札を出した。
「七十二枚、ある」
施設へ持ち込めず、外に残していた技能札の裏紙。
番号だけを書いた。
「私が引く?」
審理官が聞く。
「受取人じゃない」
「では誰が」
「中から、一枚選ぶ」
「どうやって」
「管」
巴が、排水管を指した。
午後二時十一分。
審理場所の試験より先に、声の試験が行われた。
旧配膳室からB棟へ。
B棟から旧配膳室へ。
職員のいる回線。
職員を外した回線。
文字板を映す小窓。
五つを一度に動かすと、放送器が甲高く鳴いた。
金属を擦るような音が、B棟の廊下へ跳ね返る。
B-12が扉を三度蹴った。
B-37は両耳を押さえたまま、反応できない。
巴の人工内耳が警告音を出す。
「切れ!」
轟が叫ぶ。
操作卓の職員は、どの回線を切るか迷う。
賀茂冬実は、壁際の赤い遮断器を下げた。
音が消える。
照明も半分消えた。
排煙機は別系統で動いている。
「遮断時刻、二時十一分二十秒」
七瀬が紙へ書く。
撮影はしていない。
音響試験の参加者が、公開を選んでいないからだ。
冬実は操作卓へ戻る。
「回線を一つずつ分けます。職員介在線と非介在線を同じ増幅器へ入れない」
「最初から分かっていた?」
真琴が聞く。
「旧設備の図面では別系統です。昨年の補修で統合されています」
「承認者」
「施設保全部。私の施設長承認があります」
「目的」
「部品削減と、緊急放送の一本化」
「結果」
「今回の反響」
冬実は、自分の承認を部下へ預けなかった。
轟が操作卓の裏へ潜る。
「左肩、上げるな」
真琴。
「上げてない。身体ごと入れてる」
「それも負荷です」
「分かっとる」
轟は右手で二本の線を外し、色の違う札を付ける。
「非介在線、青。職員在線、白。緊急遮断、赤。混ぜるな」
「色覚に差がある人は」
七瀬。
「形も付ける。青は丸、白は角、赤は切れ目」
「最初から」
「今、言うな」
「今だから言う」
巴が黒板へ、三つの形を描く。
冬実はB-37の部屋へ、音ではなく文字板を送らせた。
《大きい音が出ました。施設側の配線統合が原因です。けがはありますか》
返事。
《耳は前から。頭が痛い》
《医療を呼びますか》
《今は休む。試験は後》
冬実が言う。
「試験対象を変更します」
巴は首を横へ振る。
《本人が後を選んだ。変更ではない。順番を待つ》
「本日中の指定判断に間に合いません」
《間に合わない理由、施設》
「だから、別の一件で機能確認を」
審理官が介入する。
「設備機能の確認は別の空室で行う。本人の試験は、本人が再開を選んだ後です」
冬実は一拍置く。
「受領します」
正しく退く人間は、正しいままではない。
退く前に押したことも残る。
午後二時四十三分。
空室B-00で、放送試験をやり直した。
タマキが中へ入り、扉を閉める。
本人を試験対象へしないため、機材設置に同意した作業者が声を出す。
「聞こえる?」
旧配膳室の巴。
「右は。左は遠い」
「文字板」
「見える。光、強い」
七瀬が遮光布を一枚足す。
「今」
「見える」
審理官が質問する。
「職員を外してください」
白い角札の回線が切れる。
廊下側の職員には、音が届かない。
非常紐と呼吸確認灯だけが残る。
「今、誰が聞いてる」
タマキ。
巴が答える。
「私、審理官、記録担当。真琴は資料席。七瀬は映像なし。凱は外門。冬実は安全卓」
「安全卓、音聞く?」
「聞かない。非常灯だけ」
「途中で戻す人」
「審理官。本人の依頼。または呼吸灯の異常」
「異常、誰が決める」
「数値と、担当二人」
「二人が違ったら」
「安全側へ戻す。戻した理由を後で審理」
「受領」
タマキは非常紐を一度引く。
赤い切れ目札が灯る。
職員在線が戻る。
冬実が言う。
「呼びましたか」
「試した」
「非常紐は試験用では」
「今、試験」
「事前に告げてください」
「事前に告げたら、非常じゃない」
冬実が黙る。
迅なら笑ったかもしれない。
巴は笑わない。
《同じ理屈》
黒板へ書く。
冬実は文字を読む。
本人へ知らせず扉を開ける試験。
施設へ知らせず非常紐を引く試験。
危険の大きさは同じではない。
同じでないからこそ、同じ言葉だけで片方を正当化できない。
「非常紐の試験は、今後、事前に回線担当へ知らせる」
冬実が言う。
「開扉試験も?」
タマキ。
「審理中です」
「答え、まだ」
「はい」
冬実は、答えられないことを否定しなかった。
午後三時七分。
真琴は、資料庫から持ち出した写しの余白を見ていた。
古い規則の末尾に、後年の参照覚書番号がある。
《能力不安定事案における関連者範囲の運用整理》
番号の下に、短い文。
《対象者の輸送、医療、記録、同居、設備維持へ継続的に関与する者を含み得る》
句読点の置き方を、真琴は知っていた。
《含む》ではなく、《含み得る》。
断定を避け、運用者へ余白を渡す。
自分が若い頃、よく使った逃げ道だった。
「あなたの?」
七瀬が聞く。
「筆跡ではありません。公文書です」
「文の癖」
「似ています」
「どれくらい」
「否定できない程度」
「今、出す?」
真琴は写しを閉じない。
「原本と起案者記録を照合します。私の関与が確定すれば、本審理へ提出します」
「確定するまで黙る?」
「関与の可能性は、今出します」
審理官へ申告する。
《申請者朽葉真琴は、関連者範囲の拡張覚書作成へ関与した可能性がある。原本照合中。弁護・判断役を担わず、資料提出者および将来の証言対象として扱う》