第581話 第一章「七月一日、期限」前編

七月一日 午前六時四十七分

 二十一歳の誕生日に、獅堂凱は十一枚の失効通知を受け取った。

 祝電は二通だった。

 一通は母から。

 もう一通は、誕生日を入力必須項目と勘違いした北工区の在庫管理機から届いた。

 機械の方が、文章は長かった。

「おめでとうございます。なお、暖房用燃料の仮配分は本日午後八時をもって失効します」

 竜胆迅が、紙を横から読んだ。

「誕生日と燃料を同じ文に入れるなよ」

「入力欄が同じだったらしい」

「じゃあ誕生日を延長しろ」

「できるなら、膝を十九歳へ戻したい」

 凱は左脚を伸ばしたまま、低い椅子へ座っていた。

 薄い灰色の装具が膝を包んでいる。六月の公開審理で長く立ち続けたため、腫れはまだ完全には引いていない。熱はない。膝蓋骨の内側に、押すと鈍い痛みがある。医師から許可された連続立位は二十五分。階段は一度に十八段まで。王だった頃なら、誰かが椅子を運んできた。

 今は、自分で先に椅子を選ぶ。

 それが自由かどうかは、座ってから考えることにしていた。

 空白の旗が作業室として借りている旧配給所の一角には、誕生日らしい飾りが一つもなかった。

 壁には期限札。

 机には委任票。

 床には水漏れを受ける金盥。

 窓辺には、前夜から冷やしてある膝用の布袋。

 それでも、中央の卓には小さな土鍋が置かれていた。

「豆粥」

 凱が言った。

「見れば分かる」

 土門小麦は、鍋の蓋を持ち上げなかった。

「誕生日だから砂糖を入れたか」

「入れてない。二十一になって味覚が急に幼児へ戻るという記録がないから」

「記録があれば入れるのか」

「本人確認する」

 小麦の丸い頬には、眠気ではなく計算の皺が寄っていた。右手の親指で、鍋帳の端を何度も弾いている。踵の内側には薄い支持板。足底の痛みが強い日は、歩幅がわずかに狭くなる。

 彼女は鍋を祝賀用に作ったのではない。

 午前七時から始まる期限確認に参加する七人が、空腹で数字を間違えないように作った。

 その中に凱がいた。

 だから、凱の茶碗の底だけ、小さな干し杏が一つ沈んでいた。

「それは誕生日分?」

 迅が聞いた。

「在庫整理分」

「便利な言葉だな」

「祝いは、受け取らないと相手の負担が残る。でも祝われる側へ返事を強制したら、ただの請求書になる。だから食べ物にした」

「名言みたい」

「原価は十二銭」

「急に安くなった」

「名言は腹に溜まらない」

 小麦は七つの茶碗へ同じ量をよそい、自分の分だけ半分にした。

 凱は見た。

「小麦」

「何」

「半分だ」

「試食した」

「いつ」

「作ってる時」

「何口」

「誕生日に尋問される人って、普通は本人じゃないの?」

 言いながらも、小麦はもう半杯を足した。

 凱は食べ始めた。

 干し杏は最後まで残した。

 去年の七月一日、二十歳の誕生日には、自分の誓痕が衰え始めていることを隠していた。誰かに祝われれば、その声が《証者》になり、まだ王である自分を固めてしまう気がしたからだ。

 今年は隠さなかった。

 名前も、年齢も、左膝の装具も、二十五分しか立てないことも。

 隠さないことは、告白とは違う。

 告白には聞き手がいる。

 事実は、聞き手が帰っても残る。

 午前七時ちょうど、朽葉真琴が十一枚の紙を卓へ並べた。

「期限確認を始めます」

 左手に鉛筆。

 右手に署名用の黒筆。

 丸眼鏡の奥の目は、昨夜ほとんど眠っていない色だった。

 十一枚の内訳は、医療連絡二件、配給三件、北部移動路一件、病院補助電力一件、剛嶺との通行二件、水上区との水量確認一件、中央記録照会一件。

「全部、今日切れる?」

 環玉樹が、低い踏み台へ片足を置いて聞いた。

 左耳の奥にまだ圧迫感が残る。床が傾いて見える時、彼女は視線を窓枠の水平線へ置く。その朝も、目だけが先に壁の継ぎ目を確認していた。

「同時ではありません」

 真琴は十一枚へ時刻札を置いた。

「午前九時、正午、午後六時、午後八時、午後十一時五十九分。自動更新はありません」

「じゃあ一枚ずつ更新する?」

「更新とは限りません。終了、返却、再契約、保留があります」

「何時に飯を食べる?」

 伏見轟が聞いた。

 真琴が眼鏡を上げる。

「議題にありません」

「議題にしないと、午後六時の人間が一番弱くなる」

「人間の荷重計算ですか」

「腹が減ったやつは、自分を軽く見積もる」

 轟は左肩を上げない。

 大きな身体を机へ近づける時も、腰から折れず、右手を卓の縁へ置いて体重を逃がした。左肩の手術痕は古くなったが、頭上で荷を受ける動作は今も避ける。

 火群七瀬は撮影機を肩へ載せず、腰高の固定台へ取り付けた。

「開始、七時二分。参加七人。撮影範囲、卓上と発言者の顔。私的な食事量は撮らない」

「もう撮った」

 小麦が言う。

「映ってない」

「私の半分の茶碗、映ってたら消して」

「消さない。撮ってない」

「撮らない方が強い言い方になってきたね」

「肩が痛い人間は、余計な映像を持つと運搬費が増えるの」

 七瀬は左肩へ巻いた薄い支持帯の位置を直した。

 凱は十一枚の期限札を見た。

 ここ二年、彼らは問題が起きるたび、永久に続く答えを避けてきた。

 撤退路には終了日。

 厨房には交代表。

 医療路には患者ごとの閉鎖条件。

 監視には閲覧期限。

 水の約束には再測定時刻。

 正しい答えを永久にするより、間違えた答えを止められる方がましだと考えた。

 その結果、七月一日は期限だらけになった。

「誕生日って、期限に似てるな」

 迅が言った。

「何がだ」

「去年の年齢が使えなくなる」

「使おうと思ったことはない」

「じゃあ膝を十九歳に戻す話は」

「希望と申請は別だ」

「真琴みたいなこと言うなよ」

「私はそんな雑な区別をしません」

 真琴が即座に言った。

 七時十九分。

 旧配給所の外で、金属板が三度鳴った。

 来訪を知らせる音ではない。

 中央行政の文書配達音だった。

 玉樹が先に立ち上がった。左へ一度よろめき、机の角へ指を触れて姿勢を戻す。

「私が行く」

「案内いる?」

 轟が聞いた。

「十二歩先の扉ならいらない」

「十一だ」

「昨日、敷居を外した」

「なら十二」

 玉樹は数えずに歩いた。

 配達人は扉の外へ白い箱を置き、受領せずに去っていた。

 白い箱。

 中央印。

 受取人欄には、個人名ではなく九つの地域名が並んでいる。

 玉樹は箱を持ち上げず、しゃがんだ。

「送り主は中央継続局」

「そんな局、昨日まであった?」

 迅が聞く。

「昨日の午後、暫定設置」

 真琴は箱の側面へ貼られた設置告示を読んだ。

「期限は?」

「七月七日午前零時まで」

「一週間だけの局?」

「一週間で永続命令を作る局です」

「短期の悪い仕事だな」

「短期だから悪いのではありません。短期を理由に質問を省くのが悪い」

 玉樹は受領札を見た。

「目的が書いてない」

「開封して確認しろ、という形式でしょう」

「目的が分からない物を受け取ったら、受け取った後で目的を変えられる」

「では受領せず、内容確認だけを記録します」

 真琴が別紙を出した。

 中央の書式にはなかった欄を、左手で作る。

《箱の存在を確認。受領には同意していない。開封は内容確認のため。権限委任を意味しない》

 凱が右手で署名した。

 元王の署名は、以前なら文書を成立させた。

 今は、元王一人の署名では七人の受領にならない。

 七瀬が時刻を読み上げた。

「七時二十六分十二秒。開封」

 箱の中には、九つの封筒と一枚の黒い板が入っていた。

 黒い板の上で、白い文字が点いた。

《中央継続決裁への再署名を求める》

《期限 七月六日 二十三時五十九分五十三秒》

《未署名地域について、七月七日午前零時より、中央互換連絡・配給照合・境界照会・医療補助認証を停止する》

 七秒。

 期限は午前零時より七秒早い。

 冬城征士郎の時計が、いつも七秒進んでいたことを、誰も口にしなかった。

 言わなくても、全員が同じ場所を見ていた。

 黒い板の下には、説明文があった。

《地域別制度の並立による衝突を防止するため、各地域は共通決裁席へ代表一名を送付し、最終決裁を一つに統合する》

《未参加地域へのサービス停止は制裁ではなく、互換性を保証できないことによる安全措置である》

「配給を止めるのに、制裁じゃないんだ」

 小麦が言った。

「食べられない側の胃は、文書の分類を読まない」

「医療補助認証まで止める?」

 七瀬が真琴を見る。

「停止対象の範囲が書かれていません」

「中央が止まれば全部止まる?」

「全部ではありません。二月の中央回収炉停止以後、病院、上水、暖房は地域手動系へ移行しています。ただし、地域間の患者照合、部品規格、境界通過確認には中央互換番号が残っています」

 轟が黒板を指で叩いた。

「梁は別々に立てた。継ぎ手だけ中央に残ってる」

「切ったら?」

 迅が言う。

「切れば、別々の梁が別々に倒れることもある」

「じゃあ、新しい継ぎ手」

「七日で?」

「六日と十六時間」

 玉樹が訂正した。

「細かいな」

「配達は、残り時間を丸めない」

 午前八時を過ぎる頃には、旧配給所の外に人が集まり始めていた。

 中央の通知は、同時に全地域へ流されている。

 最初に来たのは、病院補助認証を失うことを恐れる家族だった。

 次に、配給札の互換停止を聞いた商人。

 その次に、北部帰路の通行確認を中央へ頼っていた人々。

 そして、十時十二分。

 誰かが旧配給所の前で叫んだ。

「王を戻せ!」

 一人ではなかった。

 十七人。

 その後ろに、聞いているだけの人が四十人ほど。

 白い王冠旗はない。

 旧白冠の制服もない。

 手製の板へ、《一週間だけでいい》《凱なら決められる》《王は期限を越えられる》と書かれている。

 凱は椅子から立った。

 左脚へ体重を載せすぎない。

 膝を伸ばしきらない。

 窓から入口まで十九歩。

 迅が横へ来る。

「二十五分」

「分かっている」

「二十五分で王になる?」

「ならない」

「早いな」

「答えは早い。説明は長い」

「真琴みたいなこと言うなって」

 凱は外へ出た。

 集まった人々の視線が一斉に向く。

 昔なら、その瞬間に背中の誓痕が熱を持った。

 王と呼ぶ者の前で退かない。

 進んだ距離を力へ変える。

 王路不退〈キングス・ロード〉

 今は、古い傷跡があるだけだった。

 力は来ない。

 だから、凱は普通の声量を選んだ。

「誰が、何を止められるのが困る」

 王を求めた男が、言葉を失った。

「全部だ」

「全部を分けろ」

「水と、飯と、病院と、道だ」

「水はどの地区。飯は何人。病院はどの処置。道は誰の移動」

「そんなの、今から調べてたら遅い!」

「調べずに一つへ決めれば、誰が切られたかも分からない」

「だから、あんたが決めろ!」

 別の女性が叫んだ。

「前は決めてたでしょう!」

「決めた」

 凱は答えた。

「決めて、間違えた。止められなかった。だから今は、何を決める権限を誰へ渡すかを先に聞く」

「責任から逃げるの?」

「逃げない。だが、責任を取ると言って、他人の選択まで取るつもりはない」

 ざわめきが広がった。

「王なら、街を一つにできる!」

「一つにした街の端で、誰が息を止める」

「言葉遊びだ!」

「なら数字を出せ」

 凱の声は上がらない。

「何人。何時間。どの設備。誰の拒否を消す。俺を王に戻せと言うなら、俺へ渡したい権限を一つずつ言え」

 誰もすぐには答えなかった。

 沈黙は同意ではない。

 二年前なら、凱はその沈黙を服従と読んだ。

 今は、回答待ちの時間として数えた。

 一分十四秒後。

 最前列の老人が言った。

「孫の透析だけは、止めないでくれ」

 凱はうなずいた。

「病院へ確認する。俺が透析の優先順位を決めるのではない」

 別の男が言った。

「北の道を閉じないでくれ」

「帰路班へ確認する。俺が現場の耳と足を持っているわけではない」

「配給札を使えるようにしてくれ」

「厨房と市場へ確認する。中央の札を残すことと、食料を届かせることは同じではない」

 求められた王位は、質問へほどけていった。

 王を求めていた人々が、納得したわけではない。

 むしろ、何人かは怒って帰った。

 何人かは板を持ったまま残った。

 何人かは、具体的な困りごとを書くために真琴の用紙を受け取った。

 凱は二十三分で室内へ戻った。

 椅子へ座る直前、左膝が一度抜けかけた。

 迅が右肘を差し出した。

 凱は掴まなかった。

「支えるのが嫌か」

「掴む場所が悪い。右肩へ体重が行く」

「俺の身体の説明をするなよ」

「なら左」

 迅は左腕を出した。

 凱は今度は掴んだ。

 座る。

 小麦が冷えた布袋を膝へ載せた。

「誕生日に王位と炎症が届いたね」

「炎症は昨日からだ」

「じゃあ王位だけ返品する?」

「開封前に目的が書いていない」

 玉樹が言った。

「返品理由として十分」

 七瀬が撮影機を止めた。

「十一時三分。ここまで公開。次は医療情報が入る」

 真琴は中央の黒い板へ、新しい紙を一枚貼った。

《王位復帰要求――受領した。委任範囲未提示。回答不能》

 その下へ、凱の誕生日を書いた。

《獅堂凱 二十一歳》

 肩書は書かなかった。

 正午、最初の期限が来た。

 外環共同病院と南部診療所のあいだで使われていた、薬剤照合番号の仮協定だった。

 中央の互換表へ照会できるのは正午まで。

 十二時一分以後は、双方が別々に持つ紙台帳と、患者本人が指定した薬歴鍵で確認する。

 計画は作ってあった。

 それでも、正午の一分前になると、人は計画より時計を見る。

 真琴は机上へ二つの時計を置いた。中央時刻と地域時刻。中央の方が七秒早い。

「どちらを期限にします」

 七瀬が聞いた。

「双方の文書は正午としか書いていません」

「秒がない」

「秒を書かなかった責任は残ります。今回は早い方で中央照会を止め、遅い方までは紙台帳との二重確認にします」

「七秒だけ二つのやり方?」

「七秒だから一つへ寄せる、という癖をやめる練習です」

 十一時五十九分五十三秒。

 中央互換表の緑灯が消えた。

 同時に、南部診療所から照会が入った。

《患者呼称・ミナ。抗凝固薬の最終投与時刻を確認したい。本人は氏名公開を拒否。薬歴鍵あり》

 以前なら、中央番号を一つ打てば答えが返った。

 今は病院側の当直者が紙台帳を開き、薬歴鍵の刻みを照合し、患者本人の指定した呼称だけを読み上げる。

 十二時〇分四秒。

 照合一致。

 十二時〇分七秒。

 地域時刻の正午。

 互換協定は失効した。

 何も爆発しなかった。

 誰も拍手しなかった。

 照合に、以前より四十三秒余計にかかった。

「成功?」

 迅が聞いた。

「一件は」

 真琴が答えた。

「じゃあ失敗?」

「四十三秒増えました。次の患者が重なれば危険です」

「成功と失敗を一枚に書けないのか」

「書けます。読む人が片方だけ切り取ります」

 七瀬が撮影台の横へ札を立てた。

《照合成立 一件》

《所要時間 従来比+四十三秒》

《次回重複時の安全性 未確認》

 凱はそれを見た。

 中央がなくても一件は動いた。

 中央がない方が良い、とは証明されていない。

 冬城の論理は、いつもその隙間へ入る。

 一件動いたことを自由と呼ぶ者と、四十三秒を死の予告と呼ぶ者の間へ。

 午後二時十六分、中央継続局から音声回線が開いた。

 画面には誰も映らない。

 黒地に白い文字だけ。

《代表者の確認を求める》

 真琴が答えた。

「この部屋に、九地域を代表する者はいません」

《旧中央代表経験者の獅堂凱は在室している》

「在室と代表権は別です」

《継続危機において、役割の空白は損失を拡大する》

 凱が端末の前へ移った。

「誰の発言だ」

《中央継続局》

「人の名前を聞いた」

《局としての通知である》

「局は息をしない。通知文を作った者、承認した者、送信した者を分けろ」

 三秒の間。

《回答には権限確認を要する》

「では、権限確認の責任者名を出せ」

《本回線は交渉窓口ではない》

「何の窓口だ」

《代表確認》

「確認した。いない」

 凱は回線を切らなかった。

 相手側が切った。

 画面へ、《未回答》と表示された。

「答えたのに」

 玉樹が言う。

「用意された答えじゃないから」

 七瀬が返す。

「配達で未回答ってある?」

「ある。受取人が『受け取らない』と言ったのに、送り主が受領扱いしか持ってない時」

「どうする」

「返す。『拒否を受け取れない』って理由を付けて」

 玉樹は黒い板の《未回答》の下へ、黄色い紙を貼った。

《回答済み――代表者はいない》

 午後四時、凱の母から短い音声が届いた。

《二十一歳、おめでとう。返事は要らない。膝を冷やして。鍋は返して》

 迅が横で聞いていた。

「返事いらないって、便利だな」

「返事をしないとは言っていない」

「するのか」

「鍋を返す」

「言葉じゃなくて?」

「言葉は返事として受け取られる。鍋は鍋だ」

「息子として難しいな」

「王よりは簡単だ」

 凱は母へ、《受領。鍋は七月二日に返却》とだけ送った。

 そのあと、誕生日の祝電二通を別々の箱へ入れた。

 母の便りは私物箱。

 燃料管理機の便りは期限箱。

 同じ日に届いたからといって、同じ意味にはしない。

 午後五時十二分、玉樹が木箱を一つ抱えて戻った。

 箱の側面に、墨で大きく書かれている。

《空白の旗代表 親展》

「親展って、誰が開ける」

 迅が聞いた。

「受取人」

「だから誰」

「それを今から返す」

 箱の中には二十九通あった。

 寄付の申出が八通。

 《緊急維持費》の納付通知が六通。

 苦情が五通。

 就労申込が四通。

 返済請求が三通。

 保護依頼が二通。

 誕生日の贈答が一通。

 送り主は違う。

 筆跡も、紙質も、切手代わりの受領札も違う。

 宛名だけが同じだった。

「空白の旗は、受取人名じゃない」

 玉樹は箱を机へ置いた。

「組織名ではあるでしょう」

 真琴が言う。

「仕事をまとめる呼び方。郵便物を全部受け取る法人じゃない」

「法人という制度は、今の天環にはない」

「だから余計に誰か決めないと。受け取った人が、勝手に代表になる」

 凱が二十九通を見た。

「中身を確認しないと、振り分けもできない」

「外札に目的を書く欄がある」

 玉樹は一通ずつ裏返した。

 厨房支援。

 病院設備。

 北部路補修。

 記録公開への苦情。

 失効した王政債務の返済請求。

 旧警備隊への就労希望。

 目的のないものは、二通だけだった。

 一通は、《王へ》

 もう一通は、《困っている人へ》

「どっちも広いな」

 迅が言う。

「広い宛名は、だいたい狭い誰かへ負担が落ちる」

 玉樹は《王へ》を凱の前へ置かなかった。

「開けないのか」

「自分宛てだと思う?」

「思わない」

「なら返す」

「贈り物かもしれないぞ」

「贈り物だから、受け取る人を決めていいわけじゃない」

 凱は少し笑った。

「二十一歳は、贈り物を返す年らしい」

「去年は?」

「王冠を返した」

「重いやつから返してるね」

 玉樹は寄付八通を、用途ごとに別の受領窓口へ送る準備をした。

 厨房三。

 病院二。

 北部路一。

 平文室一。

 用途未定一。

 用途未定の寄付は、受領せず問い合わせへ戻す。

「善意を返すの?」

 七瀬が聞いた。

「使い道をこっちで作ると、寄付した人の意思を勝手に完成させる」

「何に使ってもいい、って意味かもしれない」

「かもしれないを受領印にしない」

 次は、《緊急維持費》の六通だった。

 旧中央徴収所の用紙を使い、空白の旗へ支払うよう住民へ通知している。金額は一世帯あたり同じ。拒否欄はない。

 真琴の目が細くなった。

「誰が発行したのです」

「西二区の臨時会計班。燃料と水の共同購入に使うって」

「必要経費ではあります」

「必要でも、徴収権はない」

 玉樹は六通へ同じ返送理由を書いた。

《空白の旗には強制徴収権なし。任意拠出へ変更し、用途、返還条件、拒否による不利益なしを明記してください》

 迅が紙を覗く。

「長い」

「短くすると、《払うな》になる」

「それでも困る人が出る」

「払わせても困る人が出る」

「じゃあ、どうする」

「困る人を消さずに、誰が決めたか残す」

 苦情五通は、五つの仕事へ分けた。

 北部路の夜間笛がうるさい。

 厨房の公開献立で病歴を推測された。

 平文室の説明が長すぎる。

 放送所の沈黙が不安を煽る。

 中央塔へ入る四人を、誰が選んだのか分からない。

 最後の一通だけ、凱が自分で受領した。

「これは俺たちの選出手順への苦情だ」

「四人全員で受け取る?」

 真琴が聞く。

「別々に受け取る。四人でまとめると、四人が一つの代表になる」

 七瀬が、同じ苦情を四枚に複写した。

 原本は苦情を出した本人へ返せる箱へ残す。

 就労申込四通には、希望する仕事名がなかった。

《空白の旗で働きたい》

 玉樹は、それも受領しなかった。

「仕事がないから?」

 迅が聞く。

「仕事は山ほどある。雇う主体がない」

「作れば」

「誰が賃金を払い、事故の責任を取り、辞める窓口になる」

「それを決めるのが組織じゃないのか」

「決めた仕事だけ、期限付きで組む。名前を先に作ると、名前が仕事を探し始める」

 玉樹は四通を、《希望職種確認》として返送した。

 返済請求三通は、過去の作戦で借りた車両、布、燃料に関するものだった。

 凱は一通へ、以前の自分の署名を見つけた。

「これは俺が受け取る」

「王として?」

「借りた人間として」

「個人で払える額?」

「払えない」

「じゃあどうする」

「払えないと書いて、分割の相談日を出す」

「格好悪いね」

「借金は、だいたい格好より長生きする」

 二十九通は、二十九のまま机から消えた。

 一つの《空白の旗代表受領》にはならなかった。

 玉樹は空になった木箱の宛名へ、太い線を一本引いた。

《受取人不特定》

 その下へ、細い字で追記する。

《内容別に、本人確認できた窓口へ再送。受領していないものを、受領したことにしない》

 箱は中央塔の入口へ戻された。

 空の箱を返すのは、少し意地が悪い。

 けれど、空白を勝手に誰かの名前で埋めるよりは、ずっと親切だった。

 午後六時の期限では、配給札三件のうち二件が失効し、一件だけが地域商店の要請で二十四時間延長された。

 延長理由は、《乳児用粉乳の価格札更新が間に合わないため》

 平等ではなかった。

 だが、三件を同時に止めるより、誰のために一件だけ残したかが見えた。

 午後八時、在庫管理機が祝電で予告した暖房用燃料の仮配分が失効した。

 旧配給所の裏庭には、灰色の燃料缶が六本残っていた。

 北工区の夜間修理班が三本を求めた。

 臨時託児所が四本を求めた。

 合計は七本。

「一本足りない」

 迅が言った。

「計算は合ってる」

 小麦が答えた。

「褒められた?」

「幼児でもできる」

「急に下がった」

 北工区の班長は、凱へ向かって言った。

「王――」

 途中で止まる。

「凱。決めてくれ。修理班が止まれば、北の暖房管そのものが直らない」

 託児所の責任者も言った。

「こっちは今夜、乳児が十九人。予備暖房は二時間しか持ちません」

 どちらも正しい。

 正しい要求は、足し算で資源を増やさない。

 凱は六本を見た。

「残量を量ったか」

「満缶です」

 班長が言う。

 轟が一本を傾けた。

 液体の音が、上の方で返る。

「満缶じゃない。五本半」

「封印は切れてない」