第580話 第十二章「判決ではない答え」後編
首席審理官は、どちらにも向かない。
「病院補助、上水、暖房、そのほか現在稼働中の生活設備を、この措置だけで停止しません。冬城征士郎の技術的意見提出と反論書面の提出も妨げません。ただし、意見を決裁として扱うことはできません」
真琴が確認する。
「停止した権限を、誰へ移しますか」
「本審理は後継者を指名しません。既に各現場へ存在する期限付き担当へ、担当範囲内だけを戻します。範囲外の判断は、保留理由と必要期限を公開して別手続きへ」
「自動更新は」
「認めません」
「保全措置そのものの終了条件は」
「各個別手続きによる受領、変更、または取消し。終わらない限り永久に続く、とは書きません。受領状況は七日ごとに公開します」
巴が平文へ直す。
「冬城さんの力を、全部奪うわけではありません。人へ反証を移す、歩幅をそろえる、関係者を閉じ込める、記録をまとめて公開する。その四つを、新しく認めたり、期限切れのまま続けたりする権限だけを、いったん止めます。病院や水道を止める紙ではありません。代わりの王を、この場で選ぶ紙でもありません」
迅が小声で言った。
「長い」
巴は振り向かない。
「短くして削れた人を、何人見ましたか」
「数えてない」
「今日から数えてください」
灰色紙には、冬城の支持者からの異議も、その場で付けられた。
《生活設備の遅延責任が不明》
《中央技術者の助言が事実上排除される懸念》
《停止範囲が広すぎる》
申立側からも付く。
《停止が暫定に留まる》
《過去の被害者救済を含まない》
《実務系統が残りすぎる》
保全措置は、勝者の紙にも敗者の紙にもならなかった。
冬城の決裁権の一部は止まる。
冬城を支えてきた技師、記録係、病院職員、支持者の仕事と意見は消えない。
切り分けたことで、簡単になった問題は一つもなかった。
午前十時三十五分。
認定文へ署名する。
首席審理官三名。
正式文担当、真琴。
平文担当、巴。
原記録保管、綺理。
公開記録照合、七瀬。
署名者は、認定内容へ同じ責任を持つわけではない。
自分が確認した範囲だけを、署名欄の横へ書く。
綺理の欄。
《公開九十二点、限定三十一点、不提出十七点、真正性不足七点の分類数と、保管鎖を確認》
七瀬の欄。
《公開記録の時刻対応、撮影停止・交代履歴、黒画面区間、訂正時刻を確認》
巴の欄。
《平文は正式文の代替ではなく対応文。言い換えによる削除箇所を別紙へ》
真琴の欄。
《認定範囲と未認定範囲を確認。刑罰・国家形態・最終責任を含めない》
朝は署名しない。
被審理者だからだ。
「署名したい?」
七瀬が聞く。
「したくありません」
「本当?」
「したいです」
「どっち」
「自分が関わった事実を認める文へ、逃げずに名を置きたい。でも、認定する側へ入れば、自分の加担を自分で裁いたことになる。だから、したいまま署名しません」
「面倒」
「責任は」
「その言い回し、もう料金発生してる」
「誰に払えば」
「全員」
朝は、杖の取っ手へ一度触れる。
立たない。
「支払い不能です」
「保留札」
七瀬が波形の小札を渡す。
朝は受け取り、机へ置いた。
認定文が公開板へ貼られる。
拍手は起きない。
起きかけた場所もある。
冬城の責任が認定されたと感じた人。
中央の維持実績が削られなかったことに安堵した人。
刑罰が出ないことへ怒る人。
自分の名前が公開されなかったことへ、誰にも見えず息を吐く人。
違う反応を、一つの支持率へまとめない。
午前十一時十二分。
証拠返却が始まった。
法廷より、こちらの方が時間がかかる。
公開九十二点。
原本は、所有者または取得主体へ。
公開写しは、受領条件を満たした保管先へ。
返却不能二点は、理由と次回確認日を記録して一時保管。
限定三十一点。
鍵と媒体を別々に返す。
受領者の本人確認は限定。
顔を公開しない。
代理受領は、代理範囲を一件ずつ確認。
真正性不足七点。
不足理由を添付。
偽物とも本物とも押印しない。
薄墨の追加証言は、四番へ別紙。
不提出十七点。
内容を一度も法廷へ入れないまま返す。
綺理は、一番から順に受領票を読む。
「不提出一。封印、未開封。中央認証波受信あり、開放なし。本人代理受領。公開範囲、存在と返却時刻」
受領印。
鈍い音。
二番。
三番。
受領印の音は、判決槌より小さい。
四番の所有者は、返却場所を変更していた。
綺理は、元の場所へ送らない。
新しい受領先の本人確認を待つ。
七番は、所有者が破棄を選んだ。
「破棄は、この場で?」
保管係が問う。
「本人が、自分の道具で」
所有者は限定室へ入り、容器を受け取る。
公開画面には、破棄時刻だけ。
中身は再生されない。
容器が割れる音も、公開しない。
九番は、返却を保留。
「期限」
「七日。自動更新なし」
「七日後に決められなければ」
「再確認。保留を失敗扱いしない」
十一番。
灰色箱。
綺理にも、何の箱か分からない。
所有者本人は、顔を隠し、限定室へ入った。
声も公開しない。
綺理は、机の反対側に座る。
「返却条件が成立しました」
所有者が、灰色箱へ手を置く。
封を切る。
白い石英の光が、箱の縁から消える。
預かり物の解除。
綺理の記憶へ、取得時刻と番号が戻る。
中身は戻らない。
元から見ていない。
「提出命令がありました」
綺理が言う。
所有者が、短い返事をする。
公開不可。
「私は能力を使い、命令を不能にしました。法廷侮辱の手続きが続きます」
返事。
公開不可。
「私の処分について、あなたへ責任はありません」
所有者が、今度は公開を許可する札を押した。
綺理は待つ。
声を出すか、書くか、撤回するか。
所有者は紙へ一行だけ書いた。
《責任がない、と私の代わりに決めないでください》
綺理は、その文を読む。
「訂正します」
少し時間がかかる。
「私の処分について、あなたがどう責任を感じるかは、私が決めません。ただし、法的責任を自動的に負わせることには同意しません」
所有者は、丸い札を押す。
はい。
綺理は返却票を差し出す。
所有者が受領印を押す。
内容は、最後まで分からない。
冬城を救う記録だったかもしれない。
冬城を決定的に追い詰める記録だったかもしれない。
朝を免責するか、七瀬の母をさらに傷つけるか、何の関係もないかもしれない。
審理は、その可能性を失った。
所有者は、自分の記憶を取り戻した。
失ったものと守ったものを、同じ秤へ載せない。
十二番。
十三番。
十七番まで。
十七点、返却または本人指定保管へ移行。
審理場に残る不提出資料、零。
内容を知った審理関係者、零。
存在と拒否時刻は、記録へ残る。
午後二時三十九分。
朝の黒い杖が、証人路の石継ぎ目へ引っかかった。
迅が手を出す。
「持つ?」
「杖を?」
「鞄」
「自分で持てます」
「じゃあ、床の段差だけ」
「それは床の担当者へ」
「今日で警備終わる」
「午後五時、証拠返却終了後です」
「細かい」
「終了時刻を守る話を、何日したと思っていますか」
「数えてない」
「数えてください」
迅は、段差へ黄色い仮札を置いた。
朝は、自分の杖で越える。
「審理、続く?」
迅が聞く。
「私の?」
「うん」
「続きます」
「冬城のも」
「続きます」
「終わった感じがしないな」
「事実が終わったわけではありません。認定範囲が一度閉じただけです」
「名言?」
「日程説明です」
「法務担当は」
「その話は有料です」
「料金制度が増えた」
「無断使用が多いので」
朝は、わずかに笑った。
笑ったことを、回復の証拠へ使わない。
午後三時五十二分。
凱は警備担当名簿から、自分の名を消さず、終了時刻の横へ線を引いた。
《証拠返却未了。継続》
左膝の炎症は、地下防衛後に増えている。
装具の内側へ冷却帯。
階段は使わず、仮段を通る。
「終わったら、王の椅子へ座る?」
迅が聞く。
「どれだ」
「証人席」
「あれは王の椅子ではない」
「元は玉座の場所」
「場所が、椅子の役を決めるのか」
「じゃあ、座る?」
「座らない」
「理由」
「警備担当の休憩椅子は、別にある」
「真面目」
「膝が痛い」
「そっちが本当?」
「両方だ」
凱は、壁際の低い椅子へ座る。
昔の王は、座る場所を選んだ。
いまの凱も選ぶ。
ただし、選んだ椅子から他人へ命令しない。
返却は、受領印を押せば終わる仕事ではなかった。
第十四号の共同厨房修理帳が戻ると、会計担当はその場で頁を開いた。
「三日前の夜勤賃金が書き足されてる」
証拠係の顔が固くなる。
「改ざんですか」
「生活だよ」
会計担当は、証拠部分より後の頁を見せた。
六月二十六日。
夜食仕込み四時間。
配膳二時間。
鍋底修理一件。
審理場への昼食百二十食。
原本を毎夜返したため、その日の仕事がその日の帳面へ増えている。
「証拠保全中に追記された原本は、真正性へ影響します」
若い証拠係が言う。
「三月の頁へ書いた?」
「いいえ」
「連続印は」
「切れていません」
「じゃあ、《帳面を使い続けた》って書きな」
綺理が、連続印の傷、頁番号、墨の乾き、返却と再受領の時刻を照合した。
「証拠対象三頁に変更なし。後続頁へ通常記入あり」
「通常かどうか、法廷が決めるの?」
会計担当が聞く。
綺理は言い直した。
「所有者が業務記入と申告。証拠対象外。改変評価へ使用しない」
「それなら受け取る」
帳面は厨房へ戻る。
審理が終わった日にも、夕食を作る人の賃金は締めなければならない。
真正性不足の四番は、用途不明の刻印板だった。
本物と同じ金属。
存在しない登録番号。
誰が作ったか、最後まで確定しない。
返却先とされた旧技術局は、受領を拒んだ。
「当局の資産と確認できません」
「では廃棄しますか」
「廃棄権限もありません」
物は、持ち主が分からない時だけ急に公共物になる。
真琴は、三つの選択を出した。
所有者不明物として期限保管。
原材料として処分。
技術史資料として保管。
どれも、その場では選ばない。
「真正性不足のまま、市民物品預かりへ」
保管期限は三十日。
期限後の処分は、改めて公開する。
技術史という名前で、誰かの所有権を先に奪わない。
刻印板は、灰色の布へ包まれた。
冬城支持者の銀鋲が付いた証拠袋を受け取った男は、袋そのものを持ち帰りたくないと言った。
「家へこれを持って帰れば、近所は中身より色を見る」
「内容だけ別容器へ移しますか」
「内容もいらない。供述の写しは受け取る。靴鋲は、俺のじゃない」
「所有権を放棄しますか」
「最初から俺のじゃない」
「押収時は、あなたの所持品です」
「持ってたことと、持ち主は同じか」
真琴は、所持、所有、返却希望を三欄へ分けた。
所持していた。
所有は争う。
現物返却を拒否。
鋲は処分せず、押収主体へ戻す。
男には、拒否時刻と供述写しだけを渡す。
「紙が増えた」
男が言う。
「物を押しつけないためです」
「紙は押しつけるのか」
「受け取りを拒否できます」
男は写しを一枚だけ取り、受領印は押さなかった。
《写し一枚持帰り。受領同意なし》
「そんな受け取り方、あるのか」
「今、ありました」
限定二十一号の鍵は、代理受領者が持ってきた委任状の時刻が一日古かった。
所有者は、昨夜、代理範囲を変更している。
旧委任――鍵と媒体の受領。
新委任――鍵だけ。
媒体は別の保管先へ。
「鍵だけでは、中身を見られません」
代理人が言う。
「見ないために分けました」
「私を信用していない?」
受領係は答えない。
「所有者が範囲を変えた事実だけです」
「家族なのに」
「家族であることと、鍵の範囲は別です」
代理人は腹を立てたまま、鍵だけ受け取った。
怒って受け取ったから、同意が無効になるわけではない。
家族を疑ったから、所有者が正しい人になるわけでもない。
返却台の横では、朝の出廷費用がまだ確定していなかった。
杖の修理。
装具調整。
付き添いの賃金。
休止中の医療費。
「証人費用ですか、被審理者費用ですか」
会計係が尋ねる。
朝は答えた。
「両方の時間があります」
「按分します」
「誰が決めますか」
「出廷時刻表で」
「同じ一時間に、証言者であり被審理者でした」
会計係は、二つの欄を見比べた。
「半分ずつ」
「根拠は」
「分かりやすい」
「分かりやすさは、割合の根拠になりません」
朝は波形札を出した。
《費用区分、保留》
「支払いが遅れます」
「付き添い賃金と医療費は先に払ってください。私の出廷補償だけ保留」
「一括処理の方が」
「一括すると、私の争いで他人の賃金が止まります」
会計係は三枚の伝票へ分けた。
杖修理。
付き添い。
朝本人。
最後の一枚だけ、保留札が付く。
公開審理の大きな事実認定より、こうした返却と支払いの方が、同じ人へ何度も説明を求めた。
勝者の列はできない。
鍵だけ受け取る人。
紙だけ持ち帰る人。
帳面を仕事へ戻す人。
受け取りを拒む人。
費用の一部だけ先に払わせる人。
城から出ていく物は、入ってきた時より分類が増えていた。
分類が増えたことを、進歩とは呼ばない。
ただ、同じ箱へ戻さなかった結果として、台の上から物が一つずつ減っていった。
返却用の台車も、一台だけそのまま戻せなかった。
東輪の軸が、記録庫襲撃の日に曲がっている。
「警備戦で壊れた」
倉庫係が言う。
迅は右頬を動かさず答えた。
「俺が蹴った箱が当たった」
「あなたへ請求?」
「警備作業中」
「では審理費」
真琴が修理票を見る。
「箱を蹴る必要はありましたか」
「原本路から外すため」
「他の方法は」
「あとなら三つ思いつく」
「当時は」
「一つ」
倉庫係は台車を横倒しにし、曲がりを測った。
「軸交換。輪は再使用。工賃二人、三時間」
「新品へ替えた方が早い」
「この輪、床の継ぎ目に合わせて削ってある。新品は音が違う」
証拠搬送の拍を守ってきた、古い輪だった。
「修理中の代車は」
「厨房の荷車を借りる」
「賃料」
「夕食の運搬が終わってからなら、豆一袋」
「現物払い?」
「厨房が選んだ」
台車の修理費、代車の借用、豆一袋、迅の判断記録が別欄へ入った。
証拠を守った拳にも、交換部品と借り賃が付く。
英雄の一撃は無料でも、曲がった車輪は無料で直らない。
修理票の最後には、《負傷者の治療費と相殺しない》と書かれた。
倉庫係は首を傾げる。
「相殺する人がいるの?」
「壊れた台車を直したから、頬の治療は自分持ちだと言う人がいます」
真琴が迅を見る。
「言ってない」
「言いそうなので先に書きました」
「未来の発言まで記録するな」
「発言ではなく、会計条件です」
迅は不満そうに修理票へ署名した。
右手ではなく、左手で。
文字が少し傾いたが、台車の軸ほどではなかった。
午後四時四十一分。
公開九十二点、返却・保管移行完了。
限定三十一点、完了。
不提出十七点、完了。
真正性不足七点、完了。
合計百四十七。
保管係が、逆順で数える。
七。
十七。
三十一。
九十二。
合計百四十七。
「逆順が、独特」
七瀬が言う。
「分類ごとです」
綺理が答える。
「百四十七から引けば早い」
「引き算は、何が残ったか分かりません」
「数えれば分かる?」
「何を数えたか書けば」
最後の返却票は、最初に欠席した証人の限定脅迫文だった。
本人は来ない。
代理人も顔を出さない。
返却先は、証人本人が指定した市外の薬局預かり。
受領確認は、紙の印だけで戻る。
真琴は、印の形と時刻を確認した。
「本人が受け取ったと断定しますか」
書記が聞く。
「薬局が受領したことまで」
「本人へ渡る?」
「未確認」
「返却完了では」
「指定受領先への返却完了。本人受領は未確認」
名簿の空欄を、無理に埋めない。
午後五時零分。
空白の旗の警備担当が終了する。
凱。
迅。
交代警備員六人。
八人が、担当札を返す。
白布は、四つ折りのまま机上にある。
「掲げない?」
七瀬が聞く。
「何のために」
迅が答える。
「審理が終わった」
「警備が終わった」
「事実認定も出た」
「布の仕事じゃない」
「記念写真」
「撮る?」
七瀬は左肩を見ない。
「撮らない」
「じゃあ掲げない」
「私が撮らないと、掲げないの?」
「記念写真のためって言っただろ」
「理由を一つにするな」
「面倒だな」
「責任は」
「料金」
二人は、そこでやめた。
白布は、警備担当者名簿の下へ戻される。
次の仕事名は書かない。
午後五時十二分。
証人席から、最後の時刻札が外された。
第一証人の欠席札。
朝の休止札。
忍の通訳交代札。
シキの公開拒否札。
凱の訂正札。
迅の《分からない》板。
冬城の医療中断札。
一枚ずつ、本人または記録保管へ返す。
椅子だけが残る。
背もたれは、最初から少し右へ曲がっている。
直さない。
曲がりを、証言者の苦労の象徴にもしない。
単に、古い椅子だ。
真琴は、最後の受領票を机へ置いた。
《証拠返却 指定受領先への移行完了》
《本人受領未確認一件》
《返却不能零》
《審理場残置資料零》
下に、未認定事項。
刑罰。
個人の最終責任。
国家形態。
損害賠償。
制度の恒久改編。
空欄ではない。
《本審理の範囲外》と書かれている。
真琴は、受領印を持ち上げた。
重い木の柄。
朱肉。
判決槌ではない。
押す。
とん、と小さな音がした。
音は正面壁へ届かない。
傍聴席の最後列にも、たぶん届かない。
けれど、玉座跡に置かれた空の証人席の脚が、石床を通して、ほんのわずかに震えた。