第579話 第十二章「判決ではない答え」前編
六月二十九日 午前八時五十八分
判決は、人を立たせる。
有罪の側。
無罪の側。
勝った側。
負けた側。
事実は、そこまで親切に並んでくれない。
旧中央城の公開審理場には、昨日より椅子が十七脚少なかった。
撤去したのではない。
証人本人が、今日は来ないと選んだ。
十七という数は、不提出資料の数と同じだったが、同じ人々ではない。
偶然を意味に変えないため、真琴は開廷前の記録へ書いた。
《欠席証人十七名と、不提出資料十七点に対応関係なし》
「そこまで必要ですか」
若い書記が聞く。
「同じ数字は、物語を作りやすいので」
「違う数字でも作る人は作ります」
「では、全部書きます」
「仕事が増えます」
「物語は無料ですが、訂正には賃金が要ります」
「名言みたい」
迅が、証人席前の床を確認しながら言った。
右頬の縫合は、外側の一本だけ抜糸が延期されている。
前日の衝突で皮膚が少し腫れたが、再縫合はない。
視力障害もない。
「警備担当は、仮段の三段目を見てください」
「直ってる」
「誰が」
「昨日の夜、仮設担当が楔を一本交換。工事札に署名」
「確認しましたか」
「踏んだ」
「署名を」
「見た」
「順番は」
「見てから踏んだ」
「よろしい」
「褒められた」
「事実確認です」
「真琴が褒める時は、だいたい事実確認の顔をする」
「褒めていません」
「安心した」
玉座跡の四つの固定穴は、今日も黄色い縁だけで囲まれている。
正面壁の《最終決裁》表示は外されていた。
代わりに、五枚の途中表示が横一列へ並ぶ。
第一表示。
《中央方針は適法であり、確認された被害は局地運用者の逸脱である》
第二表示。
《中央は技術的運用を承認したが、個別被害は局地選定に起因》
第三表示。
《中央承認あり。局地選定あり。責任は分担》
第四表示。
《中央承認・中央継続判断あり。局地運用にも責任》
第五表示。
《責任》の字が二つへ割れたまま、能力中断時に凍結したもの。
どれも最終要旨としては採用しない。
しかし、発動した能力が何を削り、何を後から足したかを示す証拠として残す。
異議板は、その下に置かれている。
大きさは同じ。
冬城は法廷へ来なかった。
病院の限定回線へ、着席した姿が映る。
顔の浮腫。
右腕の静脈路。
銀具は絶縁固定され、能力使用はできない。
心電図の音は公開回線から外されている。
体調を感動にも罰にも使わないためだ。
医療担当が最初に条件を読む。
「参加は二十分。延長なし。本人が中止を求めた場合は即時。胸痛、意識変容、不整脈増悪でも即時。質問は事実認定への異議一回、訂正二回まで」
冬城が言う。
「発言時間を制限するのですか」
「医療条件です」
「反論権の侵害だ」
首席審理官が答える。
「反論書面は期限なく受領します。今日の口頭参加だけを二十分とします」
「期限なく、とは曖昧だ」
「本審理の事実認定への訂正申立ては、認定文受領から十四日。刑事、行政、制度上の手続きは別です」
「なら、期限がある」
「口頭で曖昧に言いました。訂正します」
冬城は、そこで黙る。
相手の訂正を勝利へ使わない。
七瀬は、正面の撮影台へ立っていない。
照合席。
右手に時刻表。
左腕は支持帯。
固定撮影は、零番街の記録係と、外環病院の記録担当が交代で行う。
薄墨は巻取り機の速度だけを担当する。
七瀬の母の記録へは触れない。
画角も決めない。
「不満?」
七瀬が聞く。
薄墨が紙板を上げる。
《仕事が少ない》
「良いことだよ」
《賃金も少ない》
「それは交渉して」
《記録者は、長い説明を》
「その言い回し、使ったら料金取られるよ」
《誰に》
「全員」
薄墨は紙を裏返す。
《払わない》
「受取拒否」
二人は笑わない。
でも、同じ机で仕事を始める。
午前九時十六分。
事実認定文の読み上げが始まった。
真琴が正式文。
巴が平文。
二人は一文ずつ交代する。
正式文の後に平文を置くが、平文が正式文を上書きしない。
対応番号を残す。
「認定第一」
真琴が読む。
「成人決裁機能の反証を登録者へ分配する運用について、中央決裁室は技術的枠組み、認証波、継続条件を承認した」
巴が読む。
「中央は、《現場が勝手にやった》だけではありません。反証を人へ移す仕組みを使ってよいと認め、動かし続けるための認証を出しました」
真琴。
「個別受領者の選定には局地運用者の判断が含まれ、当該局地判断についても独立した責任審査を要する」
巴。
「誰へ移すかを現場が選んだ件もあります。中央が関わったから現場の責任が消えるわけでも、現場が選んだから中央の承認が消えるわけでもありません」
傍聴席から、低い声がする。
「結局、全員悪いってことか」
真琴は読み上げを止めない。
巴も止めない。
問いは記録される。
答えは、認定文にない言葉で足さない。
「認定第二」
「冬城征士郎は、中央決裁室の責任者として、反証分配、同期命令、自動更新、抑制施設分類の監督権限を有していた」
「冬城一人が、すべての文を書き、すべての人を選び、すべての扉を閉めたわけではありません。でも、止める、戻す、条件を付ける権限を持ち、複数の異議と訂正を受け取った後も継続を認めました」
冬城が手を上げる。
口頭異議一回。
「《止める権限》は、非常時の都市維持義務と不可分です。停止すれば生じた被害を、認定文は評価していない」
首席審理官が聞く。
「異議の趣旨は、監督権限の存在を争うものですか。権限行使の評価を争うものですか」
「評価です」
「事実認定文は、最終的な違法性、刑事責任、損害配分を決めません。停止により生じ得た被害と、維持実績は認定第四へ残します」
「なら、第二認定だけ読めば、私が止めなかったことだけが広がる」
「全認定文を分割して宣伝する危険はあります」
「対策は」
七瀬が、照合席から答える。
「一文だけ切り出されたら、切り出した人の名前と時刻を残す」
「止められない?」
「止められない。母もやった。私もやるかもしれない。だから、原文へ戻る道を残す」
「それで被害は防げない」
「防げない」
「不完全だ」
「はい」
冬城の口頭異議は、そのまま付記された。
認定文は変えない。
異議も削らない。
「認定第三」
真琴が読む。
「同期命令について、中央は試験解析の訂正と、異議申立ての存在を受領した後も、同一歩調の自動更新を継続した」
巴。
「《みんなが自分で同じ歩き方を選んだ》という数字が間違っていると知らされた後も、同じ命令を続けました」
「ただし」
真琴。
「群衆事故を避けるため同期が一時的に有効であった事例、設備停止だけでは身体に残る拍が消えなかった事例も確認する」
巴。
「同期で助かった場面もあります。だから、《役に立った》と《拒否しにくくした》を、同じ一行で相殺しません」
御厨朝は、被審理者席で聞いている。
杖は右。
両脚は足台。
彼女の自動更新原案は、冬城の背後へ隠されない。
「認定第四」
「中央設備および中央決裁の運用により、病院補助、上水、暖房、災害時連絡、私刑抑制、物資配分において維持・救命実績があった」
巴。
「中央があったから助かった人もいます。冬城が止めなかったことで動いた病院、届いた水、減った私刑があります」
「冬城征士郎の維持実績を、本審理は否定しない」
「維持したことを、転嫁した責任の免除にはしません。転嫁したことを、維持した事実の抹消にも使いません」
冬城の映像が、わずかに揺れる。
回線ではない。
本人が、椅子の背へ体重を移した。
「それを、両方認めたと呼ぶのですか」
質問は、口頭異議ではない。
確認として審理官が許可する。
「はい」
真琴が答える。
「両方を認めた後、どう統治する」
「本審理は、国家形態を決めません」
「逃げる」
「範囲を守ります」
「範囲の外で、人は死ぬ」
「範囲を越えて一人が決めても、人は死にます」
「だから、何も決めない?」
「今日は、何が起き、誰にどの権限があり、どの異議を受け取っていたかを決めます」
「明日は」
「明日の命令を、この審理の名で出しません」
冬城は、真琴ではなく凱を見る。
凱は傍聴席でも代表席でもない。
警備終了待機席へ座っている。
王位を終えた男へ、冬城は答えを求めない。
凱も答えない。
「認定第五」
拘置所分類。
真琴の声が、少し低くなる。
「中央抑制拘置所における《関連者》分類は、能力保有者本人を越え、家族、治療者、運搬者、接触者へ拡張された」
巴。
「能力を持っていない人も、《能力者と関わった》という理由だけで閉じ込められました」
「拡張原案には、朽葉真琴の署名がある」
「この文を作った責任は、真琴にもあります」
「獅堂凱の緊急命令が、拡張の政治的根拠として使用された」
「凱が出した《危険の連鎖を止めろ》という命令も、閉じ込める理由へ使われました」
「賀茂冬実は、施設運用により私刑、薬剤紛失、看守暴力を減少させた一方、期限のない予防収容、無通知扉開放試験、面会制限を行った」
「冬実が守った人もいます。閉じ込め続けた人もいます。片方で片方を消しません」
賀茂冬実は、限定傍聴席にいる。
左小指は、まだ完全には曲がらない。
施設長権限は停止中。
彼女は拍手も反論もせず、認定文の数字だけを確認している。
私刑件数。
薬剤紛失。
無期限収容人数。
扉開放試験の対象。
数字が一つ読み違えられた時、冬実が訂正札を上げた。
「薬剤紛失、十七から二ではなく、十八から二。初期集計の一件が、別棟で後から判明しています」
申立側に有利な《減少幅》が大きくなる訂正だ。
真琴は確認する。
「原記録は」
「限定番号二十二。受領済み」
「訂正を採用します」
冬実は、守った実績を増やすために訂正したとも見える。
同時に、正確な数へ戻したとも言える。
動機を、数字の代わりにしない。
「認定第六」
記録改変。
灯里。
薄墨。
藍。
中央広報。
現場記録者。
「火群灯里は、取材拒否後も撮影を継続し、救助場面の再演を求めた」
巴。
「灯里は、冬城に不利な記録を残した人であると同時に、撮られたくない人を撮り続けた人です」
「薄墨影治は、拒否音声の一部を削除した公開版を作成し、記録庫経路を不正使用した」
「薄墨は、原版を残したことと、公開版を改変したことの両方を行いました」
「名取枝里、現在呼称・藍は、強制環境下で記録値を書き換え、同時に自分が選んで改変した部分がある」
「命令されたから全部仕方なかった、にも、自分でやったから強制はなかった、にもなりません」
藍は限定回線の向こうにいる。
服薬後の眠気があり、証言は行わない。
姉妹関係を映さない。
シキの顔も、画面にはない。
「各改変について、命令系統、強制の程度、個人判断、被害、保存された原版を別途評価する。単一の《記録は信用できない》という結論は採用しない」
巴が平文へする。
「一人が嘘をついたから全部嘘、にはしません。一人が本当を残したから全部正しい、にもしません」
七瀬は、母の記録を見ない。
照合表の時刻だけを追う。
自分の肩が痛むことも、母を擁護しなかった証拠にはならない。
母を断罪しなかった証拠にもならない。
彼女は、数字が一つ違うのを見つけた。
「訂正」
声を上げる。
「灯里の取材拒否時刻。正式文、十六時四分十八秒。原媒体は十六時四分十九秒。上映機の始動遅延一秒。原媒体基準へ」
真琴が確認する。
「訂正を採用。正式文、平文とも変更。変更者、火群七瀬。理由、上映機始動遅延」
冬城が言う。
「一秒で、何が変わる」
七瀬が答える。
「何も変わらないかもしれない」
「では」
「一秒を雑にしていい理由にならない」
「全体が見えなくなる」
「全体は、一秒を捨てた人の頭の中にしかない」
「あなたの母も、全体を撮ろうとした」
「失敗した」
「あなたも失敗する」
「する」
「それでも記録を信じる?」
「信じない。照合する」
七瀬は、そこで母を守らない。
捨てない。
母の映像と、別の時計と、機材の遅延と、自分の訂正を同じ列へ置く。
午前十時二分。
冬城の二十分が終わる。
医療担当が終了札を上げる。
「最後に一言」
冬城が求める。
「事実認定への訂正ですか」
「いいえ」
「なら、書面で」
「公開審理で、私の声を切るのか」
「あなたが受領した医療条件です」
冬城は、右手を少し上げる。
銀具は絶縁固定。
何も発動しない。
「では、書面にする」
「受領窓口を表示します」
回線が切られる。
冬城は生きている。
反論も続く。
この場から退いたことを、敗北とも逃亡とも確定しない。
午前十時十一分。
首席審理官が、認定文の範囲をもう一度読む。
「本審理が認定するのは、以下の事実です」
中央承認。
中央の監督権限と継続判断。
反証転嫁の制度的運用。
同期命令の訂正受領後継続。
関連者分類の拡張。
複数主体による記録改変。
中央および各施設の維持・保護実績。
「本審理は、刑罰を決めません」
傍聴席がざわめく。
「冬城征士郎の最終的な有罪・無罪を決めません」
ざわめきが大きくなる。
「御厨朝、朽葉真琴、獅堂凱、賀茂冬実、火群灯里、薄墨影治、名取枝里、その他個人の最終責任を決めません」
誰かが叫ぶ。
「じゃあ、何のための審理だ!」
首席審理官は、声の主を探さない。
「次の手続きが、《そんな事実はなかった》《全部現場の逸脱だった》《全部中央だけがやった》《記録は全部嘘だ》から始まらないためです」
「判決を出せ!」
「本審理の権限を越えます」
「権限を作れ!」
「その権限を、いま私が作れば、今日問うたことを繰り返します」
迅が、警備線の内側から小さく言う。
「名言みたい」
真琴が見る。
「無許可発言」
「すみません」
「軽い」
「重くすると、判決になる」
「なりません」
傍聴席の一部が笑う。
今度の笑いは、怒りを消さない。
待たされる人の生活も消さない。
刑罰が決まらないことで、救われない人がいる。
急いで決めれば、また削られる人がいる。
どちらの不満も、異議欄へ入る。
その後、首席審理官は、認定文とは別の灰色紙を開いた。
「事実認定に伴う保全措置を読みます。刑罰ではありません。最終的な権限配分でもありません」
冬城の回線は切れている。
それでも、本人へ同じ文書を病院で渡す受領係の名と時刻が、灰色紙の上部へ書かれていた。
「冬城征士郎が中央決裁室において持つ権限のうち、反証分配、同期命令、関連者収容、記録公開範囲に関する新規承認および自動更新を、各個別手続きへ引き継ぐまで停止します」
傍聴席が、今度は別の方向へざわめく。
「全部止めろ!」
「病院と水はどうする!」