第461話 第一章「能力回収炉」前編
二月十四日 午前七時十四分
止まった時計は、正しい時刻を二度だけ指す。
水科イオは、その言い方を嫌っていた。
止まった時計は、一日中ずっと止まっている。
たまたま文字盤と現実が重なる二秒を、正しさと呼ぶのは、動かなかった二十三時間五十九分五十八秒への侮辱だった。
だから、明日班の相談机には、時計が四十七個あった。
全部、違う時刻で止まっている。
午前零時。
午後四時三十一分。
七時十二分。
針のないもの。
文字盤だけが割れたもの。
秒針が同じ場所で小さく震え続けるもの。
四十八個目を置く空間だけ、机の右端に残してあった。
「空いてる」
環玉樹が言った。
緑のニット帽。
胸より大きな鉄箱。
左右で違う靴紐。
左耳には、薄い綿を詰めている。
「見れば分かる」
イオは左前腕の真鍮装具を二度叩いた。
光らない。
秒数を正確にする力も、動作を終了時刻へ固定する力も、もうない。
残ったのは、金属の重さと、刻まれた時刻と、外す理由がまだないという本人の判断だけだった。
「何を置く場所」
タマキが訊く。
「まだ置かない時計」
「送り主」
「未定」
「受取人」
「私」
「目的」
「置くか決める」
「配達にならない」
「だから料金は払わない」
「相談料は」
「午前八時から」
「今は七時十四分」
「十五分」
壁の振り子が、一拍遅れて鳴った。
イオが目を細める。
「七時十五分、零秒」
「今、時計見た」
「見てない」
「壁見た」
「振り子」
「時計の一部」
「討論は有料」
「八時から?」
「今から」
タマキは鉄箱から封筒を出した。
白い紙封筒。
赤い糸で二重に閉じられている。
封緘便は使っていない。
送り主は、中央抑制拘置所の暫定審理記録室。
受取人は、水科イオ。
目的は、能力状態記録の送信先確認。
「開ける?」
「送った人は」
「真琴。写しを作ったのは七瀬。原票の公開範囲は、収容者ごとに違う」
「中身を見た?」
「見てない。目的だけ」
「受領」
イオは右手で封筒を押さえ、左手で糸を解いた。
右腕は、能力があった頃より細い。
左右の筋量差は、三か月で少し縮まった。
同じになったのではない。
右が弱くなり、左が仕事を増やした結果、差の見え方が変わっただけだ。
封筒から、薄い紙が十七枚出た。
拘置所の抑制具が記録した、発光、脈拍、皮膚温、誓痕活動の推移。
七十二人分ではない。
同意した者、匿名化を選んだ者、医療目的だけを許可した者、公開を拒んだ者で、紙の形が違う。
イオは一枚目を見た。
「送信先、中央誓務院能力維持局」
「長い」
「長い名前は、責任者が多いふりをする」
「本当に多いかも」
「なら名簿を出す」
二枚目。
送信時刻。
十二月二十七日から一月五日まで、二時間ごと。
三枚目。
受領確認。
受領者名はない。
部署印だけ。
四枚目。
利用目的。
《能力状態の安定化、回収可能値の算定、公共安全上の出力予測》
イオの左足指が、作業靴の中で一度動いた。
昔なら、秒を測る癖だった。
今は、怒りが足へ逃げた。
「回収可能値」
タマキが読む。
「人を空き瓶みたいに言う」
「瓶は、持ち主が分かることもある」
「これは」
「部署印だけ」
イオは十七枚を時刻順に並べた。
十八秒。
右膝が固まった。
椅子から立たない。
無理に伸ばさない。
膝頭の下へ掌を入れ、呼吸を一つ。
タマキは助け起こさない。
「開始」
「七時十七分十八秒」
「記録する?」
「して」
「本人公開」
「明日班の医療欄。外部は月集計だけ」
「目的」
「私が、できない時間を仕事から隠さない」
「受領」
タマキが小さな紙へ書く。
九分後、膝がほどけた。
イオは立たず、紙の十五枚目を持ち上げた。
送信先の下に、小さな数字があった。
《炉 第三受領層》
「炉」
タマキが言う。
「燃やす?」
「能力は石炭じゃない」
「回収って書いてある」
「人は、名前を付けると仕組みが分かった気になる」
「イオも、明日班って付けた」
「気づいたから、毎月改名候補を募集してる」
「応募」
「何」
「今日班」
「却下」
「昨日班」
「もっと却下」
扉の外で、靴底が一度止まった。
午前八時。
最初の相談者が来た。
その人は、右手にだけ薄い手袋をしていた。
三十歳前後。
灰色の作業上着。
胸の縫製組合章は、糸が切れかけている。
名前の公開は拒否。
明日班では《右手の縫製工》と記録している。
「先週は」
イオが訊く。
「針を持てた」
「今週」
「午前は持てる。午後、指が勝手に開く」
「治療日」
「火曜と金曜」
「今日は金曜」
「だから来た」
「ここ、治療所じゃない」
「知ってる。止めるって聞いた」
縫製工は右手袋を外した。
掌に、薄い誓痕。
縫い目のような白い線が、親指から小指へ走っている。
能力減衰期〈フェード〉へ入って半年。
縫製工の誓いは、破れた布を一度だけ元の張りへ戻す。
橋布、病院幕、救難担架。
大きな仕事ほど、右手の指が数時間開かなくなる。
中央の安定治療を受けるようになってから、反証後の拘縮は半分になった。
仕事を続けられた。
賃金を受け取れた。
組合の若手へ教えられた。
「止めないで」
縫製工が言った。
イオは、すぐ返事をしない。
止めるべきだと思っている。
自分の能力は、十二月一日に終わった。
失ってから、能力がなくても働ける工具と工程を作ってきた。
だから、誰にでも同じ朝が来ればいいと、一度は思った。
同じ朝は、平等に見える。
同じ崖から全員を落とすことも、遠くから見れば横一列だ。
「何を止めるか、まだ分けてない」
イオが言う。
「炉」
「炉は何をしてる」
「能力を安定させる」
「それだけ?」
「治療の人は、そう説明した」
「同意書」
縫製工は胸ポケットから折った紙を出した。
右手では開けない。
左手で四つ折りをほどく。
書面には、出力平準化、反証緩和、職業復帰支援とある。
反証の行先は書かれていない。
「止めるなら」
縫製工が言う。
「私の仕事も止まる」
「可能性がある」
「組合は待たない」
「待たせる方法を作る」
「いつまでに」
イオは黙った。
未来の話になると、部品名へ逃げる癖がある。
今日は逃げる部品がない。
「二月二十六日までに、止めるか止めないかを決める」
「その前に私の指は」
「次の治療を受けて」
「止めたい人が言う?」
「受けるなとは言わない」
「矛盾」
「二つ同時に本当なだけ」
タマキが机の端で、料金票へ鉛筆を当てた。
「相談、十一分」
「今、金の話?」
縫製工が睨む。
「無料だと、誰の仕事か消える」
「いくら」
「今日は明日班負担。次回から、本人収入に合わせる。払わない選択あり」
「選択、多い」
「少ないよりいい」
縫製工は手袋を戻した。
「止める日を、先に決めないで」
「決めない」
「止めないとも言わない」
「言わない」
「役に立たない相談所」
「正確」
縫製工は帰った。
扉の向こうで、右手ではなく左手が手すりへ触れる音がした。
イオは四十八個目の空間を見た。
「置く?」
タマキ。
「まだ」
縫製工が帰って十三分後、二人目の相談者が来た。
左袖を肩まで切った青年だった。
腕がないのではない。
右腕と左腕がある。
左だけ、布を何枚も巻いている。
布の下には、もう光らない誓痕がある。
青年は椅子を勧められても座らなかった。
「再起動の申請」
最初の一言が、それだった。
「ここは申請窓口じゃない」
イオ。
「相談所」
「相談なら聞く」
「再起動したい」
「理由」
「前は、二人分持てた」
「何を」
「煉瓦。梁。人」
「今は」
「一人分も頼まれない」
青年の左腕の誓痕は、重量を分ける能力だった。
能力があった頃は、二人で持つ荷を一人で持てた。
能力が減衰してからは、二人で持つ作業へ入れられない。
力が足りないからではない。
以前より遅いからでもない。
周囲が、途中で能力が切れることを恐れた。
「普通の荷役へ戻る訓練は」
「普通って言うな」
青年の声が上がる。
タマキは料金票から鉛筆を離した。
イオは謝らない。
「言い直す。誓痕を使わない荷役」
「受けた。三週間。賃金は半分」
「理由」
「再訓練中」
「期間」
「未定」
イオの口元が硬くなる。
無期限。
その言葉は、時間を測る人間にとって、壁より重い。
「再起動適合検査は、誰が勧めた」
「中央」
「危険説明」
「ある。心臓。腎臓。反証の急増」
「それでも」
「したい」
「誰かが止めようとしたら」
「困る」
「私が止めたいと言ったら」
「裏切り」
青年は即答した。
イオの右膝が、椅子の下でわずかに動く。
「そう思っていい」
「否定しない?」
「あなたの仕事をなくす側なら、裏切りって呼ばれることはある」
「じゃあ、止めないで」
「まだ決めない」
「さっきの人にも言った?」
「聞いてた?」
「階段で」
「なら、同じ答え」
「相談所なのに」
「答えを売る店じゃない」
青年は左袖の布を外した。
誓痕の中心に、細い金属片が埋め込まれている。
「これ、中央で付けた」
「いつ」
「一月二十九日」
「再起動前?」
「適合を見る試験」
「同意書」
「ある」
「写し」
「ない」
「取って」
「頼めばくれる?」
「くれない可能性がある。だから頼んだ記録を残す」
「面倒」
「能力が戻ったら、面倒じゃなくなる?」
青年は答えなかった。
能力は、手続きを軽くしない。
戻るのは腕の強化であって、賃金、契約、同意書の写し、心臓の危険まで持ち上げてはくれない。
イオは申請補助用紙を一枚出した。
「再起動希望って書く」
「止めたい人が?」
「希望を隠したら、止める計画が正しく見えすぎる」
「私の名」
「公開範囲を選んで」
「全部」
「今すぐ決めない」
「決めた」
「怒ってる時の全部は、明日の全部と違うことがある」
「子ども扱い?」
「私は二十歳。大人扱いされた結果が、腕のこれ」
真鍮装具を示す。
「明日の八時まで、公開範囲だけ保留。再起動希望そのものは今日の日付で受領する」
青年は用紙へ左手で書いた。
字は大きい。
《再起動を希望する。仕事を返してほしい》
理由欄の下に、イオが別の欄を足す。
《仕事を返す責任者》
空白。
青年はそこを見た。
「中央?」
「中央が雇うなら」
「組合?」
「組合が賃金を戻すなら」
「誰」
「それを探す相談」
「遅い」
「再起動より」
「ずっと」
「正しい」
青年は、正しいと言われて嬉しそうにはしなかった。
用紙を机へ置く。
「止めたら、また来る」
「止めなくても来て」
「何のため」
「賃金を半分にした理由は、炉が動いてても残る」
青年は左袖を戻した。
布の結び目を、一度失敗した。
タマキが手を出しかける。
青年は首を振る。
二度目で結べた。
扉が閉まる。
イオは申請用紙を四十八個目の空間へ置きかけた。
止める。
「時計じゃない」
タマキが言う。
「知ってる」
「置かない?」
「時計が来るまで空ける」
用紙は、別の棚へ置いた。
午前九時三十分。
相談机の空席へ、ひとつの小包が届いた。
送り主は、名を公開しない。
受取人は明日班。
目的は《置くか決めるために見せる》。
「目的が長い」
イオが言う。
「送り主が決めた」
タマキは料金票を添えた。
「開封は」
「中身を見てから選ぶ、はできない。開封すれば受領」
「では受領する」
「目的ごと?」
「置くか決めるために見るところまで。展示は別」
赤糸を解く。
中には、止まった懐中時計が一つ入っていた。
蓋の裏へ、短い文章。
《処置を受けた三年は、子どもを抱けた。反証の送り先は知らなかった。三年を返せとは言わない。知らなかったことを、同意したことにしないでほしい》
時計は午後六時二分で止まっている。
「四十八個目?」
タマキが訊いた。
イオは机の右端を見た。
空けてある場所。
置けば、列が完成する。
完成すると、四十八人分の被害を集めた象徴に見える。
しかし、この時計の持ち主は、処置を受けた側だった。
「違う」
イオは時計を空席へ置かなかった。
「何が」
「四十八番目は、転嫁された人の席。これは、利益を受けた人が送った」
「同じ設備」
「同じ設備でも、同じ欄じゃない」
「どこへ置く」
イオは机の中央へ白い布を敷いた。
止まった四十七個の時計とも、空席とも離す。
「ここ」
「名前」
「まだない」
「名札なし?」
「仮に、《受け取った時間》」
「意味仮名?」
「ただの説明」
「料金は」
「展示しないから、保管料」
「誰が払う」
イオは自分の財布を出した。
「明日班」
「個人?」
「今は私。後で、設備利用者の相談費へ戻すか本人に確認」
タマキは受領票へ書く。
《展示なし。処置利益の否定なし。説明されなかったことの同意化なし。再確認日、二月二十六日》
「長い」
「目的に合わせた」
イオは懐中時計の蓋を閉じた。
動かそうとはしない。
止まった物を直すことと、止めた理由をなかったことにするのは違う。
壁の振り子が一拍遅れた。
机には、四十七個の時計。
四十八個目の空席。
そして、どちらにも入らない一個が置かれた。
午前九時五十六分。
時雨ミソラは、明日班の扉を肘で開けた。
右手に赤い手袋。
左手に青い手袋。
淡い水色のフード。
その後ろに、竜胆迅。
紺の学ランの下へ、右肋部を守る帯はもう巻いていない。
一月の打撲は、押せば違和感が残る程度まで引いている。
迅は部屋へ入る前に、出口を二つ見た。
一つしかない。
窓を開ける。
「勝手」
イオ。
「二つになった」
「三階」
「下に庇」
「患者を窓から出す話をするなら帰って」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
ミソラは相談机へ、十一枚の医療票を置いた。
氏名はない。
病室呼称と症状と、本人が許可した範囲だけ。
「中央炉と同じ補助線へ接続されてる患者」
「何人」
「十一」
「止めたら」
「症状が悪化する可能性。呼吸三。循環四。疼痛と不随意発動、四」
「死ぬ?」
迅が訊く。
「可能性はある」
「止める時間」
「一斉なら、準備なしで四分から二十分」
「長い」
「患者には短い」
迅が十一枚を見る。
「炉が四十八人へ反証を流してる可能性がある」
「可能性」
ミソラが訂正する。
「まだ確定じゃない」
「赤い針を見た」
イオ。
「四十八本」
「人?」
「平均十八・四歳」
ミソラの手が止まる。
「今止める?」
迅。
「止めない」
「四十八人」
「十一人」
「数で比べる?」
「比べない。両方見る」
「時間がない」
「時間がない時、誰の説明を省くか決めるのが医療」
「省かない方法」
「作るまで止めない」
迅の右親指が、赤い七結びを押さえる。
「間に合わなかったら」
「私の判断として残す」
「四十八人へ何か起きたら」
「それも」
「重い」
「軽い判断を持ってきて」
迅は黙った。
イオが十一枚を、四十八個の時計の前へ並べる。
時計の数。
患者の数。
数は、互いを消さない。
「中央へ行く」
イオ。
「私も」
迅。
「来ないで」
「理由」
「殴る顔」
「見学の顔」
「同じ」
タマキが迅を見る。
「少し違う」
「どこ」
「踵」
迅の右踵は、床を擦っていない。
「見学で行く」
迅が言った。
「止める判断は、十一人へ説明してから」
ミソラ。
「四十八人の状態確認は、同時」
イオ。
「同時は嫌い」
タマキ。
「なぜ」
「同じ時刻に二つ届くと、どっちを先に渡すか誰かが決める」
「今日は、決める人を探す」
イオは四十八個目の空間を残したまま、立ち上がった。
右膝は動いた。
次に固まる時刻は、分からなかった。
午前十一時三十二分。
中央能力回収炉は、炉に見えなかった。
煙突がない。
火も見えない。
中央機械塔の地下四階。
白い円筒が三つ、床から天井へ立っている。
円筒の周囲には銀色の細管が巻かれ、四十八本の細い線が壁の中へ消えていた。
見学路の床は黒い。
靴跡が残る素材。
冬城なら、白を選ぶと思っていた。
案内した若い実務者は、二十代前半に見えた。
名札は裏返されている。
濃灰の制服。
袖口だけが擦れている。
話すたび、右手で資料の角を揃える。
「本施設は、誓痕出力の急激な変動を平準化します」
「回収は」
イオ。
「減衰過程で失われる余剰活動を、治療と公共設備へ再配分します」