第65話 第七章「事故の責任」前編
八月十八日 午前七時五十一分
映像は、映っている物についてはよく喋る。
映らなかった物については、たいてい無実を装う。
火群七瀬は赤錆大工場の記録室で、二百十三本目の作業映像を止めた。
画面には、二番圧延列。
時刻、七月三十日、午後二時十一分。
工員が三人。
ローラーが四本。
圧力計は正常。
警報灯は緑。
事故は、この七分後に起きている。
七瀬は映像を戻した。
午後二時十七分。
画面右端の工員が、弁へ近づく。
手袋を外す。
指を曲げる。
また手袋を着ける。
その一秒が、何度見ても気になった。
「止めすぎ」
背後から迅が言う。
「一秒です」
「九回見た」
「九秒です」
「朝飯、何秒」
「食べました」
「何を」
「質問が低品質」
「答えがない」
七瀬は再生を押した。
工員の指がまた曲がる。
「痺れています」
「映像だけで診断?」
「手袋を外した。温度確認なら掌を向ける。彼は指先を握っている。握力低下か、振動障害か、単なる癖」
「本人へ聞く」
「辞めています」
「どこ」
「住所記録は閉鎖。七月三十一日付で長屋契約も終了」
「探す?」
「今はしません」
七瀬は画面の左下を指した。
黄色い札が一瞬だけ通る。
《休憩 十四時〇〇分》
分の数字は、人の肩で隠れている。
映像の時計は二時十一分。
休憩札が出るなら、工員は食堂へ向かうはずだった。
誰も動かない。
画面の外から、何かを聞いた。
三人が同時に左へ顔を向ける。
口が動く。
音声はない。
この工場の記録設備は、機械音の解析を優先する。人の声は高雑音として圧縮され、一定量を超えると削られる。
事故原因を調べる映像から、人間の会話だけが効率よく消えていた。
「数字、変えてない」
迅。
「ええ」
「じゃあ何を隠した」
「カメラの外で言えば、何も書き換えなくて済みます」
七瀬は映像を三秒ずつ送る。
午後二時十二分。
休憩札が裏返る。
《点検継続》
札を返した手だけが映る。
「誰」
迅。
「特定できません」
「鉄志?」
「特定できません」
「声、ない」
「だからです」
「顔もない」
「だからです」
七瀬は映像を止めた。
事故映像には、犯人がいなかった。
疲れた指。
裏返る札。
消えた声。
正常値を示す計器。
どれも一人では人を傷つけない。
全部が揃うと、誰かの腕を焼く。
「責任って」
迅が言う。
「何です」
「一人に刺す釘じゃない?」
「比喩が雑です」
「抜いたら終わると思う」
「では、構造材へ刺さった多数の釘です」
「轟に言え」
「彼は全部抜いて壁を倒します」
「正しい」
「正しくありません」
七瀬は右手でカメラを持ち上げた。
左肩が熱を持っている。
以前なら、痛みを画角の外へ置いた。
今は録画開始前に、鏡面へ時刻を映す。
「撮影者、火群七瀬。八月十八日、七時五十七分。左肩炎症、三脚低位置、手持ち撮影は十分以内」
「自分も撮る?」
「撮影条件です」
「痛い?」
「質問が低品質」
「答えは」
「はい」
迅がカメラ鞄を持った。
「勝手に」
「重い」
「私のです」
「肩も?」
「返してください」
「どっち」
七瀬は黙った。
迅は鞄だけを持って記録室を出た。
腹が立つ。
腹が立つ相手の配慮は、受け取りづらい。
だから配慮は、たいてい感謝を要求しない形の方が長持ちする。
記録室を出る前に、七瀬は壁の時計を撮った。
八時一分十四秒。
作業映像の時計は、八時〇分五十七秒。
「十七秒」
迅が言う。
「進んでいます」
「どっちが」
「まだ不明です」
七瀬は携帯時計を出した。前夜、議事堂の標準鐘へ合わせてある。
八時一分九秒。
壁時計は五秒進み、映像装置は十二秒遅れている。
「事故の七分、変わる?」
「事故そのものは変わりません。休憩札、警報、入退場記録を重ねる時、十二秒で順序が変わる可能性があります」
「十二秒で人が悪くなる?」
「なります」
七瀬は断言した。
警報より前に弁へ触れれば、勝手な操作。
警報より後なら、緊急対応。
同じ手が、時計一つで加害者にも救助者にもなる。
「誰が時計を合わせる」
「記録係」
背後から声がした。
灰色の作業着を着た女が、鍵束を持っている。四十代。左手の人差し指に、古い火傷の盛り上がり。名札は《記録・井桁》。
「いつ」
七瀬。
「週の初めの朝」
「その翌日です」
「昨日は停電試験で飛んだ」
「再同期は」
「していない」
「なぜ」
「操業を止めないと基準信号を入れられない」
「止めるための記録を合わせるには、先に止める必要がある」
迅。
「そうなるね」
女は悪びれずに言った。
「どうして手動時計を置かないんです」
「置いた」
棚の奥から、丸い時計を出す。
針が止まっている。
「電池」
「配給が切れた」
「ぜんまい式は」
「粉塵で遅れる」
「鐘の音を記録へ入れる」
「音声は人の声ごと削る」
七瀬は口を閉じた。
記録係の説明は、全部正しい。
正しい理由が積み重なり、結果として時刻が合わない。
「あなたは、十二秒のずれを知っていましたか」
「日によって違う。最大二十秒」
「事故調査へ申告を」
「欄がない」
「余白があります」
「余白へ書くと、設備不良扱いになる。記録設備が止められる」
「止めるべきでは」
「止めたら、映像が一本も残らない」
女は鍵束を鳴らした。
「ずれた時計と、ない時計。どっちがいい」
「選択肢が悪い」
迅。
「現場の選択肢は、だいたい悪いよ」
七瀬は三つの時計を同じ画角へ入れた。
壁時計。
映像装置。
自分の携帯時計。
「八月十八日、八時三分二十二秒。標準鐘基準の携帯時計に対し、壁時計プラス五秒、映像装置マイナス十二秒。確認者」
「井桁千鶴」
女が名を言った。
「公開してよいですか」
「名前は出せ」
「理由」
「あとで誰かが、記録係が隠したと言うから」
「隠していませんか」
「隠した。欄がないことを理由に、書かなかった」
七瀬はカメラ越しに女を見る。
「責任を認める」
「認めたら時計が合う?」
「合いません」
「じゃあ、次」
女は棚から同期表を出した。
一か月分。
定期点検日ごとのずれが、鉛筆で小さく書かれている。
プラス八。
マイナス六。
プラス十九。
停電。
「残していたんですか」
「消す勇気はない」
「出す勇気は」
「なかった」
「今は」
「事故が起きた」
「事故がないと、出せない?」
「事故がない時に出すと、事故を起こす奴だと言われる」
七瀬は同期表を受け取らなかった。
「複製してよいですか」
「原本はここ。持ち出すな」
「なぜ」
「私が後で書き換えたと言われる」
「では、原本の位置、封印番号、複製工程を連続撮影します」
「面倒だね」
「記録は、信じてもらえない人のために面倒であるべきです」
女が笑う。
「名言?」
「手順です」
「流行ってるの、その返し」
「誰が」
「若い負傷者」
南雲秋生のことらしい。
工場は大きい。
それでも、同じ言い回しは配管より速く回る。
七瀬は原本を机へ置いたまま、頁を一枚ずつ撮った。迅が封印紐を持つ。右手ではなく左手。結び目は不格好だった。
「緩い」
七瀬。
「取れない」
「見栄えが」
「証拠に顔ない」
「結び目にはあります」
「誰の」
「結んだ人の癖です」
「じゃあ、これでいい」
迅は結び直さなかった。
不格好な結び目が、その時、右腕を使えなかった確認者の事実を残す。
記録の正しさは、傷一つない紙ではない。
どこがずれ、誰がそれを知り、直せなかった理由まで残っている紙だった。
午前九時二十分
南詰所の診療室には、窓が一つしかなかった。
その窓も、赤錆大工場の煙突へ向いている。
初日の熱傷を負った若い工員は、右前腕を包帯で吊ってベッドへ座っていた。
十七歳。
名前は南雲秋生。
髪を短く刈り、左の眉だけ途中で切れている。喧嘩傷ではなく、八歳の時に工具箱へぶつけた傷だと本人が先に説明した。
喧嘩傷と思われる方が格好いいが、嘘をつくと母親に訂正されるらしい。
母親は同じ工場の洗浄係だった。
「顔は撮らないでください」
秋生が言う。
「理由を確認します」
七瀬。
「親方を悪く言ったみたいに切られる」
「悪く言う予定ですか」
「言わない」
「では、音声だけ。氏名は」
「出す」
「顔と名前の扱いが逆では」
「顔は母ちゃんに似てる。名前は俺のだ」
七瀬はカメラを窓辺へ固定し、レンズを圧力計の予備盤へ向けた。
音声だけを別機へ入れる。
「八月十二日の事故について。あなたへ赤戻り区画の点検を命じた人物は」
「命じられてない」
「では、なぜ入りました」
「音が変だったから」
「誰へ報告を」
「補佐へ」
「返答は」
「親方が炉前から離れられない。見られるなら見ろ、って」
「命令では」
「違う。俺が行くって言った」
「断れましたか」
「断れた」
「断った場合」
秋生は包帯の端を引いた。
「別の奴が行く」
「罰金は」
「ない」
「評価」
「知らない」
「長屋、食券、配属」
「真琴さんみたいな訊き方するな」
「不本意です」
「似てる」
迅が壁際で言った。
「黙ってください」
「音声入る」
「今のも入っています」
「消す?」
「消しません」
「じゃあ黙らない」
「退室してください」
「断れる?」
「断れます」
「残る」
秋生が笑った。
右腕の痛みで、すぐ顔をしかめる。
七瀬は待った。
痛みが引くまで、質問を重ねない。
以前の彼女なら、表情が変わった瞬間こそ記録した。
記録は事実を逃がさないためにある。
だが、人間は事実を供給する機械ではない。
「続けられますか」
「はい」
「なぜ、自分から入りました」
「親方が、前に俺を引っ張り出したから」
「いつ」
「去年の冬。給水塔の足場が落ちた時」
「返したかった」
「借りじゃないけど」
「では」
「親方だけ立ってるの、ずるいから」
秋生は窓の外を見た。
煙突から薄い蒸気が出ている。
「何がずるい?」
「格好いい」
「危険です」
「だから格好いい」
「危険を引き受ける人を尊敬する」
「うん」
「自分も同じことをした」
「うん」
「結果、負傷した」
「それも、うん」
「鉞谷鉄志に責任があると思いますか」
秋生は長く黙った。
窓の外で、交代笛が鳴る。
彼は聞こえる耳をそちらへ向けた。
「ある」
言った。
「どの責任」
「親方が休まない責任」
「あなたへ入れと命じた責任ではなく」
「命じてない」
「止めなかった責任」
「それはある」
「あなた自身は」
「行った責任がある」
「工場は」
「行けば褒める責任」
「補佐は」
「誰か行けって、名前を言わなかった責任」
「街は」
秋生が七瀬を見る。
顔はカメラへ映っていない。
「湯が出て当たり前だと思った責任?」
「質問しているのはこちらです」
「分かんないから聞いた」
七瀬は答えなかった。
記録者が答えると、証言の形が変わる。
だが、答えないことも形を変える。
「その問いは、証言の後に私個人として答えます」
「今は?」
「保留します」
「便利」
「不便です」
「どっちでもいい。親方一人だけ悪く編集しないで」
「編集方針は、あなたの希望だけでは決めません」
「じゃあ顔も出す」
「脅迫ですか」
「交換」
「不成立です」
「頑固」
「記録者への悪口としては低精度です」
秋生はまた笑った。
「親方と同じだ」
「どこが」
「自分だけ止まらない」
七瀬の左肩が、何もしていないのに痛んだ。
迅は壁へ目を向けたまま、何も言わなかった。
午前十一時四分
工場前の掲示板には、三種類の紙が貼られていた。
《操業継続》
《一部点検》
《給湯代替試算中》
住民が四十人。
報道用の小型受信機を持つ者が七人。
七瀬は生配信の接続画面を開いた。
視聴待機、六百二十三。
画面下には、既に文字が流れている。
《工場は事故を隠したのか》
《鉞谷を逮捕しろ》
《白布が給湯を奪う》
《元王が工場を接収する》
《映像を出せ》
どれも、映像が出る前に結論を持っていた。
「開始しない?」
迅。
「確認中です」
「何を」
「生で出すべきか」
「いつも出す」
「いつもが正しいとは限りません」
「秋生のせい?」
「彼の証言を一人の免罪符にしないためです」
「鉄志を悪者にしない?」
「悪くないとも言いません」
「難しいな」
「あなたが簡単すぎます」
迅は掲示板の《一部点検》へ指を置いた。
「ここ、誰が書いた」
「運転統括補佐」
「一部ってどこ」
「記載なし」
「点検した人」
「記載なし」
「終わる時刻」
「記載なし」
「簡単じゃない。空白が多い」
七瀬は迅を見る。
彼は字を読むのが得意ではない。
だが、書かれていない帰り道を見つける。
「生配信を止めると、隠したと言われます」
「止めないと?」
「今から選んだ映像を並べれば、鉞谷一人を原因にできます」
「違う」
「ええ」
「じゃあ、やめる」
「それでは記録が改竄されます」
「撮るのやめろって言ってない」
「公開を止める」
「同じ?」
「違います」
「鉄志みたい」
「訂正してください」
「止めた後に動かせるか」
迅は七瀬の接続画面を指した。
「配信止めても、記録は残せる?」
「残せます」
「なら止める」
「誰の判断で」
「おまえ」
「あなたが言った」
「言っただけ」
「都合がいい」
「便利」
「違いは」
「便利は、使う人が困る」
意味が分からない。
分からない言葉は、後から効くことがある。
七瀬は生配信の接続を切った。
視聴待機の数字が消える。
六百二十三人へ、何も見せない選択をした。
胸の奥が冷えた。
カメラを止めた時より、怖い。
記録者の恐怖は、見逃すことではない。
見せない間に、自分が嘘つきへ変わることだ。
「固定記録へ切り替えます」
七瀬は言った。
「誰に」
迅。
「自分に」
「聞こえた」
彼女は三脚を四台出した。
一台目、旧調整槽の残量計。
二台目、赤戻り圧力計。
三台目、工場正門の入退場時計。
四台目、休憩札と停止署名台。
すべて固定。
人物を追わない。
英雄も、犯人も、画面中央へ置かない。
時刻だけを同じ画角へ入れる。
「撮影開始。十一時十二分零秒。計器番号、旧槽一、赤戻り三、入退場北、休憩南。レンズ封印、火群七瀬。確認者」
「竜胆迅」
「あなたは画面へ触れないでください」
「今、確認者」
「触れない確認をしてください」
「難しいな」
「立っているだけです」
「鉄志と同じ」
「二度目は悪意です」
迅は少し笑った。
七瀬は笑わない。
笑うと三脚が揺れる気がした。
固定撮影を始めると、掲示板の前にいた住民は、映像の代わりに七瀬へ集まった。
「いつ見せる」
「公開条件が整った後です」
「条件って誰が決める」
「証言者の同意範囲、時刻同期、設備記録の照合、医療情報の除外」
「長い」
「短くすると誰かの人生になります」
浴場の番台女が腕を組む。
「うちは今朝も三十七度。工員の顔を守って、客は風邪を引けって?」
「顔の公開と湯温の復旧は別です」
「別にしてる間、湯は冷たい」
「はい」
「はい、で済むのか」
「済みません」
七瀬は逃げずに答えた。
生配信を切った者が、見せない理由だけを話せば、秘密を立派に飾ることになる。
「代替給湯の説明は、十九時に旧議事堂であります。工場停止の判断はまだ出ていません。現在公開できるのは、初日の負傷三、以後の重傷ゼロ、旧槽の代替可能時間が二十二から二十五時間の範囲、停止に必要な部品が未確定、以上です」
「鉞谷が止めないんだろ」
男が言う。
「それは事実ですか、質問ですか」
「みんな知ってる」
「誰から」
「映像で」
「私はまだ出していません」
「昔のだよ。炉前で倒れない奴」
「能力の映像は、停止判断の記録ではありません」
「倒れないなら、働けばいい」
七瀬の喉が固くなる。
工場の論理と、街の論理が同じ言葉へ着いた。
倒れないなら働け。
守るための能力が、休まない理由として流通する。
「倒れないことと、壊れないことは違います」
「じゃあ壊れた映像を出せ」
「本人が壊れるまで待てという意味ですか」
男の顔が変わる。
「そうは言ってない」
「私も、そう聞こえるように切り取りたくありません」
七瀬は言葉を下げた。
「だから、今は出しません」
番台女が訊く。
「じゃあ、あんたを信じろって?」
「信じなくていいです」
ざわめきが止まる。
「記録者を信じる制度は、記録者が間違えた日に終わります。固定カメラ四台の封印番号、設置時刻、確認者、公開しない範囲を掲示します。監視役は工場側、住民側、負傷者側から一人ずつ。私も含め、誰も単独で持ち出せません」