第64話 第六章「炉心区画」後編

 次を左。

 鉄志は交互に流している。

 だが右側の受け箱は七割。

 左は四割。

「次、左二つ」

 迅。

「分かってる」

「右、いっぱい」

「分かってる!」

「怒ると聞こえる?」

「おまえは黙っても腹立つな」

 次の塊が落ちる。

 鉄志が左へ送る。

 迅は消火砂の袋を足で押し、跳ね返りの角度を塞ぐ。

 一つ。

 二つ。

 工員が戻ってきた。

「親方、交代します」

「持ち場は」

「炉前です」

「誰の指示」

「自分」

 鉄志が何か言いかける。

 工員は耐熱盾を受け取った。

「親方が旧槽の数字を見てください。数字の意味を知ってるの、親方だから」

「おまえじゃ足りん」

「見てる人、六人います」

 彼は周囲を指した。

「俺一人じゃない」

 鉄志の能力は、視線で立つ。

 だが、その視線は、彼一人へ仕事を集めるための鎖ではない。

 鉄志は盾を離した。

 掌の皮が一部、手袋へ張りついていた。

 顔を変えずに剥がす。

「三分」

「五分くれた」

 迅。

「減った」

「使ったのはおまえ」

「言い方が腹立つ」

 鉄志は先に歩いた。

 午後五時三分

 旧調整槽の計器台は、壁に埋まった古い食器棚に見えた。

 丸い計器が十二。

 手書きの数字板が四。

 小さな覗き窓。

 中央に、黒い針の残量計。

 針は七十八を指している。

「何の七十八」

 迅。

「百分率」

 鉄志。

「何が入ってる」

「熱水。旧給湯槽。今は圧力緩衝にだけ使ってる」

「街へ出せる?」

「配管を戻せば」

 凱が修正図を広げた。確認者の工員が、埃の積もった計算板を引き出す。

 残量計の下には、手書きの換算表が貼られていた。

《浴場一か所・一時間 四》

《診療所滅菌 六》

《洗濯場 八》

《飲用加熱 九》

《炉冷却補助 十五》

 単位がない。

「四って何」

 タマキが訊く。

「昔の班が使った目盛り」

 老班長。

「水量?」

「熱量と流量を一緒にした」

「一緒にできる?」

「使う側が同じなら」

「今は違う」

「だから計算し直す」

 凱は十二個の計器を見た。

 残量七十八。

 底部温度六十三度。

 上部温度八十一度。

 漏れ量、毎時〇・七。

 圧力保持、正常範囲の下端。

「二十四時間というのは」

「全部へ普段どおり配れば二十時間もたん」

 鉄志が答えた。

「診療所と飲用を先にして、浴場を止め、洗濯を半分、炉冷却を別槽へ回せば一日」

「誰が優先を決める」

 迅。

「俺じゃない」

 鉄志は即答した。

 凱を見る。

「元王なら得意だろ」

「王をやめた」

「便利だな」

「不便だ。決めたくても決められない」

「街は決めるまで待つか」

 凱は換算表を壁から外さなかった。七瀬へ撮らせ、鉛筆で現行の利用先を書き出す。

 浴場十二。

 診療所三。

 共同洗濯場五。

 食品加工七。

 長屋給湯二千百四十六口。

 数字だけで優先順位は決まらない。

 一人の手術と、千人の入浴を比べる尺度はない。

「全部を救う答えはない」

 凱が言った。

「王様らしい」

 鉄志。

「王なら、あると言う」

「おまえは」

「ないと先に言う。それから、誰が何を失うか名前を付ける」

「遅い」

「早い決定は、失う側を数えないだけだ」

 タマキが換算表の下へ紙を貼る。

《旧槽を使う場合》

《最優先 診療所の滅菌・飲用加熱》

《停止 一般浴場》

《制限 洗濯・食品加工》

《例外の申請先 未定》

「未定で使うのか」

 鉄志。

「未定のまま使うと、声の大きい人が例外になる」

 凱。

「なら今決めろ」

「窓口を三つ置く。診療、食料、衛生。各一人。俺は三人の決定が食い違った時だけ記録へ署名する」

「逃げてる」

「分けてる」

「責任を」

「知識を」

 凱は左膝へ手を置いた。炉前の階段を登った熱が、装具の下へ残っている。

「一人で決めれば速い。ただ、一人が倒れた時、街も倒れる」

 鉄志の目が細くなる。

 自分の話だと分かった。

「俺は倒れん」

「能力の話ではない」

「同じだ」

「違う。倒れない人間は、倒れる予定を作らない」

 鉄志は返さなかった。

 計器台の奥で、小さな滴下音がする。

 毎時〇・七。

 誰かが話している間にも、使える時間は減っている。

 凱は紙へ、仮の配分と公開時刻を書いた。

《本日十九時、議事堂窓口で説明。異議は用途と必要時刻を記す。多数決では決めない》

「多数決じゃないなら、何で」

 タマキ。

「必要を削る順番を、当事者同士で見せる」

「喧嘩になる」

「なる」

「止める?」

「止めない。殴り合いは止める」

「誰が」

 凱は迅を見る。

 迅は残量計を見たまま言った。

「先に椅子」

「何の」

「待つ人の」

 小麦の食堂で覚えた答えだった。

 鉄志が鼻で息を吐く。

「工場を止める話が、椅子の話になるのか」

「人が座るなら」

 迅。

「全部、同じ高さになる」

「ならない」

「少し」

 残量計は七十八のままに見えた。

 よく見れば、針の先が一目盛りぶん下がっていた。

 時間は、会議へ賛成しない。

 だからこそ、誰が決めるかだけで時間を使い切らず、決めた後に誰が直せるかまで残さなければならなかった。

「試す」

「切替弁が地下」

 鉄志。

「操業中しか開かない」

「止める前に開ける?」

「順番を間違えると、赤戻りが槽へ逆流する」

「沸く?」

「割れる」

 凱が針を見る。

「二十四時間あれば、安全停止と修理は可能か」

「部品があれば」

「ある?」

 鉄志は答えなかった。

 その沈黙は、拒否ではない。

 数を数えている顔だった。

「継手三。耐圧布二巻。古い弁座は削り直し。夜通しなら」

「誰がやる」

「俺たちだ」

「休憩込み?」

 確認者が訊く。

 鉄志は彼を見る。

 計器台の奥で、警報灯が一つ赤くなる。

 圧力計の針が、刻線を越えた。

 九・二。

 許容は九・〇。

「今は圧力を落とす」

 鉄志が言う。

「止める?」

 迅。

「落とす」

「同じ?」

「違う」

「何が」

「止めた後に、動かせるかどうかだ」

 鉄志は計器台の横へ拳を置いた。

 殴らない。

 振動を読む。

「二十四時間」

 凱が言う。

「街は一日なら待てる」

「誰が言った」

「まだ誰も」

「なら言わせろ」

「頼むのか」

「説明しろ。湯が止まる。洗濯が遅れる。診療所を先にする。全部言え」

「おまえも説明する」

「止めるならな」

「止めないなら」

「炉前へ戻る」

 圧力計の針が、九・三へ触れた。

 赤い灯が二つになる。

 鉄志は踵を返した。

 迅は残量計を見た。

 二十四時間。

 勝つための時間ではない。

 止めた後を、誰かへ返すための時間だった。

 壁の中で、古い槽が一度だけ低く鳴った。

 長く使われなかった心臓が、自分の中にまだ湯があると知らせる音だった。