第217話 第十一章「建物を残す勝利」前編

三月一日 午後三時十三分

 鷹取由良は、勝った側の場所に立たなかった。

 どこが勝った側か、分からなかったからだ。

 環水三号塔の正面。

 外された扉は、厚布の上へ寝かされている。

 格子は開いている。

 第一波から第五波までの退去は終わった。

 塔の外へ出た者、四十三人。

 塔へ残った者、五十八人。

 医療先で判断を保留した者、五人。

 数字を足せば百六。

 数字だけ見れば、全員の所在が確定したように見える。

 実際には、出た四十三人のうち十一人が、翌朝戻るかもしれない。

 残った五十八人のうち七人は、家族の診察結果で移るかもしれない。

 保留した五人は、答えを出さないまま眠っている。

 人間の数は、足しても結論にならない。

「公開対話を始める」

 真琴が言った。

「議長は置かない」

「置かない会議を、誰が始めた」

 久我檻が壁際から言う。

 彼女は塔正面の広い空間へ出ていない。

 外した扉を立てた仮壁と、塔の外壁が作る狭い角にいる。

 肩はさっきより下がっている。

 呼吸も深い。

 誰も中央へ出ろとは言わない。

 広場へ引き出せば、久我の発作を弱点として使うことになる。

 公開とは、全員を同じ位置へ置くことではない。

「始める時刻だけ、私が読んだ」

 真琴。

「終わる時刻は」

「決めない。ただし、日没前に鍵の所在を確認する」

「それは終わる時刻だ」

「実務の締切です」

「言い換え」

「区別です」

 水巻ハツが椅子へ座った。

「先に鍵を出しな。話しながら持ってると、話の結果まで持ってるように見える」

 久我は鍵束へ手を置いた。

 格闘で輪が曲がっている。

 鉄の鍵と色札が、以前より不揃いにぶら下がる。

「外へ渡さない」

「外へとは言ってない」

 ハツ。

「住民代表という名で、外側に選ばれた者へ渡す可能性がある」

「私らが選ぶ」

「集会参加者は全員ではない」

「全員が参加しないと、何も返さない?」

「不在者の権利を守る」

「不在者の鍵を、あんたが持つ理由にはならない」

 久我は黙る。

 阿久津サナが前へ出た。

「診療所の鍵」

「外部薬商との接触確認が」

「私が受け取る。副鍵はハツ。開けた時刻と目的は二人で残す」

「医療者でない者へ副鍵を」

「あなたより、ポンプ婆さんの方が患者の秘密へ興味がない」

「褒められてる?」

 ハツ。

「確認が必要」

 久我の声に、短い冗談が混じった。

 狭い角では、彼女は少しだけよく喋る。

 サナは手を出した。

「返して」

「二人で開閉記録。薬品庫は診療者二名の照合。緊急時は事後記録」

「その条件、誰が決めた」

「安全上必要だ」

「提案なら聞く」

 久我の指が止まる。

「提案する」

「受ける。後で変えるかもしれない」

「変更時は」

「自分たちで決める」

 久我は赤い診療札と、細い鍵を外した。

 一本の輪から抜くのに、曲がった金具が引っかかる。

 轟が工具を差し出した。

「借りる?」

「自分でやる」

「輪を切るな。戻せなくなる」

「戻す必要はない」

「金属は使える」

「おまえは何でも直すな」

「直せる物を捨てるな」

「話が長い」

「迅よりは」

 久我は工具を借りた。

 輪を少し開き、診療鍵を抜く。

 サナへ渡す前に、一度だけ見た。

 十二日前、彼女が薬品庫を守るため預かった鍵。

 守った時間と、返さなかった時間は、同じ鍵へ付いている。

「返却」

 久我が言う。

「受領」

 サナ。

 七瀬が時刻を記録した。

「午後三時二十一分。診療所鍵一本、診療許可札一枚。久我檻から阿久津サナへ。副鍵は後ほど作製予定」

《返還》ではなく?」

 真琴。

「元の所有関係を確認できていない。現時点では返却と受領」

「細かい」

 タマキ。

「鍵なので」

 轟が言う。

「それ、みんな使う」

 次は配給。

 沼代ケンが出る。

「食料庫は、俺一人で持たない」

「では誰と」

 久我。

「四階の炊事婆さん二人と、一週間交代。開ける時は二人。閉める時は、最後に使った奴以外が確認」

「責任が分散する」

「仕事も分散する」

「盗難時に誰を問う」

「最初から盗人を決めるな」

「損失が出た場合は」

「量と時刻を先に見る。それから人」

「遅い」

「粉袋を殴り合った時より早い」

 五階の窓から、住民が声を上げた。

「沼代に渡せ!」

 別の声。

「久我にも一本残せ!」

「配給には残さない」

 ケンが上を向いて言う。

「警備は警備。飯は飯だ」

「襲撃が来たら」

「その時、警備が食料庫の前へ立て。鍵まで持つな」

 窓の声は、すぐには納得しなかった。

 久我の支持者だった。

 彼らは久我へ全てを返せと要求しているのではない。

 久我がいなくなった後の混乱を恐れている。

 由良はその恐怖を「依存」と呼ばなかった。

 名前をつけると、外側から小さく見える。

「警備の話を先に決めろ!」

 五階から声。

「鍵をばらばらにして、今夜襲われたらどうする!」

 真琴が答えようとする。

 由良が手を上げた。

「私たちが答える話じゃない」

「では誰が」

 真琴。

「残る人」

 磯良ノノが、外した扉の横へ立った。

 右手の二本の指がない。

 左手に、三色の布。

「久我に、警備を頼みたい人」

 ノノが塔へ呼びかける。

「窓に黒い物を出して。反対の人は出さない。出さない人を反対に数えない。話したくない人もいるから」

「期限を先に」

 ハツ。

「二週間。正面と屋上の見張り。外周巡回。住戸、診療、配給、ポンプの鍵は持たない。夜間に外へ出る人へ理由を聞かない。ただし戻る予定時刻を伝えるかは本人が選ぶ」

 久我が言う。

「所在不明者が出る」

「出るかもしれない」

「探せない」

「探してほしい人は、頼む」

「頼めない状態なら」

「そのための当番を別に置く。久我だけじゃなく」

「追跡者が複数いれば、情報が漏れる」

「一人なら、その一人が檻になる」

 ノノは黒布を持っていない。

「私は頼む。でも、あんたの鍵は減らす」

 窓に、黒い物が出始めた。

 帽子。

 鍋敷き。

 靴下。

 四角い布。

 煤けた手袋。

 一階、三つ。

 二階、二つ。

 三階、四つ。

 五階、七つ。

 七階、五つ。

 九階、一つ。

 全住戸ではない。

 何も出さない窓も多い。

 黒い物の数は、久我への信任票ではない。

 世帯人数も違う。

 窓へ近づけない者もいる。

「これで決める?」

 タマキ。

「決めない」

 七瀬。

「意思表示があった窓と時刻だけ記録する」

「じゃあ、どう決める」

 ハツが言う。

「残る者のうち、久我を警備に置くことへ明確に反対する人がいるか、階ごとに聞く。反対がある階では、その階の巡回を久我へ任せない」

「塔全体を一つにしない?」

「一階が頼んでも、七階が断れる」

「警備経路が途切れる」

 久我。

「途切れた階は、別の当番」

「弱点になる」

「弱点を理由に、断れなくするな」

 階ごとの確認は、黒い物の数を数えるより時間がかかった。

 一階。

 久我の外周巡回を依頼。

 ただしポンプ室前はハツの当番だけ。

 二階。

 正面警備は依頼。

 廊下巡回は断る。

 夜中に足音がすると眠れない者がいる。

 三階。

 乳児世帯は、窓下の見回りを求めた。

 扉前で立ち止まらないこと。

 四階。

 診療所周辺はサナが呼んだ時だけ。

 五階。

 外周巡回を依頼。

 配給庫前には、久我ではなく交代当番を置く。

 六階。

 保留。

 床荷重の確認が終わるまで、警備経路そのものを決めない。

 七階。

 ノノが依頼。

 住戸扉の番号を控えないこと。

 八階。

 断る。

「理由は」

 久我が聞いた。

 八階の窓から、白い紙が降りた。

《理由を求めない条件だったはず。》

 久我は紙を見た。

「確認しただけだ」

 ノノ。

「確認が、断った人へ説明を要求してる」

「危険箇所を知る必要がある」

 八階から、二枚目。

《構造上の危険は轟へ伝える。警備上の危険は、伝えたい時に伝える。》

 久我は口を閉じた。

「八階は巡回しない」

 真琴が記録する。

「階段を通る時は?」

 久我。

「上下階へ行くための通過は可。ただし八階で停止しない。急迫時は別」

「急迫の判断は」

「目で見える火、漏水、暴力。その他は、八階から呼ぶ」

「音だけの異常は」

「ハツか轟へ」

「遅い」

「遅い危険を、断れない理由にするな」

 八階の窓に、青い布が出た。

 設備不具合。

 外へ。

 急がない。

 警備は断るが、修理は求める。

 同じ窓から出る二つの意思は、矛盾しない。

 九階。

 医療設備の搬送が終わるまで保留。

 患者が戻った時、本人へ聞き直す。

 十階。

 家畜区画の外周だけ依頼。

 住戸廊下は断る。

 十一階。

 共同炊事場の夜間搬入時だけ。

 時刻はケンが毎日書き換える。

 十二階。

 全員が一時退去中のため、屋上機械室だけ。

 住戸への巡回は、戻った者が決める。

「経路が穴だらけだ」

 久我は図を見る。

「穴じゃない」

 ハツ。

「入らない場所」

「侵入者は、入らない場所を選ぶ」

「警備も、入っていい場所だけでやる」

「失敗したら」

「その階が次を決める」

「私が責任を」

「全部、取らなくていい」

 久我の声が止まる。

 責任を減らされることを、彼女は権限を奪われるより嫌った。

「取らなくていい、は免責か」

「違う」

 真琴。

「担当外で起きたことを、担当したことにしない。担当範囲で怠ったことは残す」

「八階で侵入が起きた場合」

「八階が断った結果も記録する。ただし、それを次に警備を断れない罰へ使わない」

「結果を負わない選択になる」

「負うことと、選択権を失うことは別です」

 久我は十二階分の途切れた経路を見た。

 一本の巡回線ではない。

 毎日変わる、短い仕事の集まり。

「警備計画として美しくない」

 ノノ。

「住む場所は、あんたの図面を美しくするためにない」

「伏見の台詞に似ている」

「嫌?」

「確認が必要」

 今度は、誰かが少し笑った。

 笑わなかった声が、五階から落ちた。

「久我がいなかったら、俺たちはあの夜に殺されてた!」

 粉袋の争いを止めた時から、久我を支持している男だった。

「鍵を奪って、次に泥棒が来たら、誰が責任を取る!」

 ハツが見上げる。

「泥棒が来た責任と、守れなかった責任は違うよ」

「言葉で逃げるな!」

「逃げ道は、久我が閉じる」

 タマキが小さく言った。

「今は黙って」

 真琴。

 五階の男は続ける。

「外は十二日待った! 久我は二時間で門を閉めた! それを、鍵を持ちすぎたって後から責めるのか!」

 久我は男へ「黙れ」と言わなかった。

 代わりに、壁際で鍵束を握る。

 ノノが答えた。

「守ったこと、消してない」

「じゃあ返すな!」

「返しても、守った夜は消えない」

「鍵がなきゃ、次は守れない!」

「正面と屋上は持つ」

「全部じゃないと間に合わない!」

「全部持ってたから、診療所の薬をサナが自分で出せなかった」

「久我が出した!」

「出した。遅れた時もある」

 サナが口を挟む。

「二月二十二日の夜、喘息発作の吸入薬を開けるまで七分。久我は外周騒音を襲撃と判断して屋上にいた。鍵は久我の腰にあった」

「助かっただろ!」

「助かった。七分苦しかった事実も残る」

「そんなの、どんな仕組みでも失敗はある!」

「そう。だから、失敗が一人の不在で全部へ広がらないように分ける」

 男の声が止まる。

 久我が低く言った。

「七分は、私の判断だ」

「外周騒音も本物だった」

 サナ。

「屋上へ行く必要はあった」

「診療鍵を持っていく必要はなかった」

「私以外が持てば、奪われる」

「あなたも、屋上で奪われる可能性はあった」

 久我は返せない。

 五階の男が窓枠を叩いた。

「俺は、それでも久我に頼む!」

 ノノが頷く。

「頼めばいい」

「反対しないのか」

「私も警備は頼む」

「じゃあ同じだろ!」

「同じ人へ頼んでも、渡す物は選べる」

「半端だ!」

「生活は半端だよ」

 ハツ。

「水は満杯か空っぽかじゃない。必要な圧で流す」

 男はしばらく黙った。

 やがて、五階の窓へ黒い帽子を出した。

 その隣へ、赤い布も結ぶ。

 警備を頼む。

 住戸への訪問は断る。

 二つを同じ窓へ出した。

「記録した?」

 男が七瀬へ叫ぶ。

「位置と時刻だけ」

「名前も出せ! 俺は久我を支持する!」

「公開期間は」

「何だ」

「いつまで名前を出しますか」

「ずっとだ!」

「三日後に変えたくなった場合は」

「変えない!」

「今は、そう記録します。氏名の公開は三日後に再確認」

「面倒だ!」

「よく言われます」

 男の支持も、久我の所有物にはしなかった。

 支持した人間には、後で変わる権利がある。

 変わらなくても、その権利を使わなかっただけだった。

 久我は窓を見上げた。

 自分を求める黒い物。

 何も出ない窓。

 彼女は全てを同じ意味にしなかった。

「二週間」

 久我が言う。

「正面と屋上。依頼のある階の外周だけ。住戸へ入らない。診療、配給、ポンプの鍵は持たない」

「夜間通行札も」

 ノノ。

「警備に必要だ」

「通る人を止めるためじゃなく、見張り当番の交代札だけ」

「外出者の予定を」

「聞きたいなら、頼む。答えるかは相手」

 久我は嫌そうな顔をした。

「顔で決めるな」

 チカが格子の内側から言う。

 久我が振り向く。

「おまえが言うのか」

「みんな言う」

 久我は鍵束から黒い夜間通行札を外した。

 五枚。

「不要」

 ノノ。

「全部?」

「全部」

「夜間警備の交代は」

「紙へ名前と時間を書く。札を持ってないから止める、をなくす」

「偽名が使える」

「偽名でも、その時間に当番をした人が分かればいい」

「所在確認が曖昧になる」

「生活って、そういう時ある」

 久我は黒札を机へ置いた。

 配給鍵。

 ケンへ。

 ポンプ室鍵。

 ハツへ。

 外周足場の鍵。

 階ごとの代表へ。

 入浴札。

 共同浴場の壁へ掛け、時間を書き換えられるようにする。

 住戸の予備鍵。

 封筒へ入れ、各戸の本人へ返す。

 一つずつ。

 鍵束は軽くなる。

 久我の腰から鳴る音が減る。

 最後に残ったのは、正面警備鍵と屋上警備鍵。

 二本。

 同じ鍵の複製を、ハツとノノが持つ。

「久我だけが閉じられない」

 真琴が確認する。

「久我だけが開けることもできない」

 ハツ。

「緊急時は遅れる」

 久我。

「三人のうち二人で開ける」

「一人が倒れたら」

「残り二人」

「二人が倒れたら」

「その時は、扉を外す大男がいる」

 ハツが轟を指した。

「毎回呼ぶな」

 轟。

「工賃払うよ」

「先払い」

「ちゃっかりしてるね」

「家族へ送る」

 午後四時四十八分。

 鍵の所在を、全て確認した。

 七瀬は鍵の形を撮った。

 持ち主の顔は、本人が希望した場合だけ。

 真琴は文書へ「恒久」と書かなかった。

 正面警備の委任期限は、三月十五日の日没。

 更新は自動ではない。

 何もしなければ終わる。

「自動更新を入れない?」

 久我。

「入れない」

 真琴。

「集会を開けない事態なら」

「期限終了後は、鍵をハツとノノへ返す」

「襲撃中でも」

「襲撃中の緊急行動は別。警備委任の継続とは分ける」

「但書が多い」

「あなたに言われたくない」

 久我は署名欄を見た。

 右手で、角ばった字を書く。

《久我 檻》

 所在を囲うような字。

 その下に、期限。

 由良は署名しなかった。

「おまえは」

 久我。

「住民じゃない」

「交渉した」

「だから責任を取らない?」

「取る。でも鍵の決定へは署名しない」

「何へ署名する」

 由良は別紙を出した。

《天環・剛嶺への同時送付記録》

 内容は、塔の所属ではない。

 退去者の人数。

 残留者の人数。

 未回答と保留。

 水圧。

 損傷箇所。

 鍵の現在位置。

 外部の無断進入を認めないこと。

 住民の意思が変更され得ること。

「これを両方へ送る」

 由良。

「剛嶺は、剛嶺出身者の返還を求める」

 久我。

「天環は、給水設備の管理を求める」

 真琴。

「どちらも、住民の答えより先に決めない」

 由良は署名した。

 通行証は止められたまま。

 剛嶺へ戻れば、命令違反を問われる可能性がある。

 天環に残れば、包囲線妨害を問われる。

 勝つ行動は、どちらかへ味方することだった。

 責任を負う行動は、両方へ同じ紙を出すことだった。

 同じ紙を送る前に、同じ質問が届いた。

 天環側の野戦電話。

 剛嶺側の短波受信機。

 二つとも、由良を呼んでいる。

「先にどっちへ出る?」

 タマキが聞いた。

「同時」

「口は一つ」

「だから私が答えない」

 由良は二つの機器を机へ並べた。

 天環の野戦電話から、行政管理官の声。

『環水三号塔は市内給水系統へ接続された重要設備である。安全確認完了まで、残留者を含む全員を市指定施設へ移送する』

 剛嶺の短波から、境界連絡官。

『剛嶺登録者十四名の身柄を確認した。うち九名は直ちに帰還させよ。家族関係が未確認の五名は境界施設で照合する』

 二つの声は互いを聞けない。

 どちらも、自分が先に質問したと思っている。

 由良は送話器を持たなかった。

「誰へ聞いてる」

 タマキが天環側へ言う。

『現地調整担当へ』

「名前」

『鷹取由良』

「何のため」

『移送命令の実施』

 剛嶺側にも同じ三問。

『鷹取由良。登録者の帰還調整だ』

「両方、由良へ頼んでる」

 タマキ。

「私は荷札じゃない」

 由良は、塔の前へ向き直った。

「天環へ移るよう言われた人。答えたい人だけ、ここで答えて。剛嶺から帰還を求められた人も同じ。私へじゃなく、向こうへ」

 最初に出たのは、二階から一時退去した老女だった。

 外套の上へ毛布を巻いている。

 名前の公開は望まない。

 天環の送話器を受け取る。

「今夜は市の診療宿舎へ行くよ」

『全員の移送に同意するということか』

「私は一人だよ」

『同居者については』

「自分で聞きな」

『安全確保のため、世帯単位の登録が必要だ』

「便所へ行くのも世帯単位かい」

 タマキが笑いかけ、口を閉じた。

 老女は冗談を言ったのではない。

「明日の朝、膝が動けば塔へ戻る。これは避難で、引っ越しじゃない」

『建物の安全が確認されるまで帰還は認められない』

「確認するのは伏見とハツだろ。あんたは、私の膝を確認した?」

 行政管理官が答えに詰まる。

 老女は送話器を返した。

「伝わった?」

 タマキ。

「聞こえたのと、伝わったのは違うね」

 次に、五階の男が剛嶺側へ出た。

 登録上は剛嶺籍。

 環水三号塔で十二年暮らしている。

『帰還輸送を用意する』

「帰還って、どこへ」

『登録地の東斜面区』

「そこは六年前に崩れて、家がない」

『再配置住宅を照会する』

「照会が終わるまで、塔にいる」

『境界施設で待機せよ』

「塔の方が家だ」

『登録変更の申請がない』

「家が崩れた時、申請所も崩れた」

 連絡官は沈黙した。

「俺を返すなら、まず返す場所を作れ。作れないなら、帰還って言葉を使うな」

 男は受信機を置いた。

 由良を見ない。

 剛嶺に反対したのではない。

 自分の暮らしを、剛嶺の帳簿より先に置いただけだった。

 九階の透析患者は、天環側の診療所へ一時移る。

 送話器の前へ椅子を置き、機械が見える位置に座った。

「治療は受ける。住所は変えない」

『市指定施設へ収容中は、臨時居住者として登録する』

「医療上の所在だけ」

『緊急連絡のため、家族情報も』

「私が指定した姉一人。別居してる息子には知らせない」

『理由を』

「言わない」

『家族照会が必要な場合がある』

「必要になったら、私に聞く」

 サナが横へ立つ。

「本人の判断能力は保たれています。医療同意と行政登録を結合しないでください」

『医師か』

「塔の診療者です」

『資格番号を』

「患者の返答より先に、私の資格を聞くのですか」

 行政管理官は、手続きを説明し始めた。

 正しい説明だった。

 正しい順番ではなかった。

 真琴が割り込まない。

 患者本人が、送話器を近づける。

「話が長い。治療は受ける。所属は渡さない。書ける?」

 短い言葉が、手続きの長さを切った。

 七階のノノは、どちらの機器にも出なかった。

「呼ばれてないから?」

 由良。

「呼ばれたら出ると思う?」

「思わない」

「正解」

 その代わり、ノノは送信機の配線を直した。

 声が途切れると、外側は「通信不能」を「回答不能」へ変える。

 回答しない権利を守るには、通信できる状態を保つ必要があった。

 ハツは両方へ同じことを言った。

「ポンプは止めない。水は送る。鍵は渡さない」

『設備は市の財産だ』

 天環。

『建設時の主要技術は剛嶺が供与した』

 剛嶺。

「水は、どっちの喉へも入るよ」

『所有権の話だ』

「飲む前に聞くのかい」

『法的管理がなければ事故責任が曖昧になる』

「事故の時は逃げたくせに、責任だけ早いね」

 ハツは電話と受信機を並べて見た。

「今日のところは、塔の水を止めない責任を私らが持つ。市の管へ出す量は水務局と毎時確認。剛嶺へ行く支管も同じ。明日、嫌になったら降りる。次の人を探す。永久って書くな」

 天環側が言う。

『住民だけで重要設備を管理する前例になる』

 剛嶺側も言う。

『境界設備を一地区の判断へ委ねることは認められない』

 ハツは笑った。

「前例は、先に起きた後でそう呼ぶんだよ」

 久我が壁際から言う。

「事故時の指揮は必要だ」

「だからあんたを二週間、警備に置く」

「設備指揮ではない」

「設備は私。飯はケン。薬はサナ。外はあんた」

「分かれすぎる」

「前は、あんたへ集まりすぎた」

 久我は反論しようとして、やめた。

 由良が二つの機器へ近づく。

「今の返答を、塔全体の回答にしないで」

『では正式回答は何だ』

 天環側。

「一つにはならない」

『行政判断に必要だ』

「必要だからって、あることにはならない」

『剛嶺登録者の扱いは』

「本人ごとに別紙。答えない人は未回答。医療先へ行く人は、治療先だけ。戻る人は帰還先だけ。どちらの所属になったかは書かない」

『命令違反を継続するのか』

 剛嶺側。

「命令の対象が私なら、私へ処分を出して。住民の移動へ混ぜないで」

『通行証停止中の者に調整権限はない』

「だから、調整していない。聞こえるように機械を置いただけ」

 由良は送話器を机へ戻した。

 権限がない者にもできることはある。

 権限がないと、他人の答えまで代わりに出せない。

 それは不便で、少しだけ安全だった。

 天環側は、全員移送命令を撤回しなかった。

 剛嶺側も、登録者帰還要求を撤回しなかった。

 ただし、どちらもその場で実行できなかった。

 拒否されたからではない。

 対象が一つではないことを、記録されてしまったからだった。

 由良は二通の封筒を作った。

 同じ順。

 同じ語。

 同じ添付。

 一通を天環水務局へ。

 一通を剛嶺の境界連絡所へ。

「片方へ先に届いたら」

 タマキ。

「もう片方が疑う」

「どうする」

「同時に送る」

「誰が」

「おまえ」

「二方向だよ」

「途中の分岐まで一緒。そこから、外側の配達員を一人ずつ」

「受取人は」

「天環水務局の記録窓口。剛嶺境界連絡所の記録窓口」

「何のため」

「塔を、どちらかが先に所有したことにしないため」

「料金」

「両都市へ請求」

「払わなかったら」

「私が払う」

「高いよ」

「通行証を失った斥候の貯金は、使い道が少ない」

「受理」

 タマキは二通を同じ鉄箱へ入れた。

 分岐点まで、同じ振動を受けるように。

 午後五時十五分。

 天環水務隊の監督官が、塔前へ旗を持ってきた。

 青白い天環市旗。

「給水設備の安全管理を示す。屋上へ掲揚する」

「誰の決定ですか」

 真琴。

「水務局だ」