第68話 第八章「七瀬の無音」後編

《名言みたいで嫌》

 七瀬は一行消す。

《先にあなたを運ぶ》

 工員が頷く。

 それで十分だった。

 避難線を越える。

 外気が顔へ当たる。

 音が戻る。

 最初に聞こえたのは警報ではない。

 工員の荒い息だった。

 七瀬は彼を救難員へ渡し、すぐ戻ろうとした。

 澪が腕を掴む。

「何分」

 今度は聞こえる。

「撮影開始から六十九分」

「肩」

「三脚」

「あなたの肩」

「行けます」

「質問してない。状態」

「痛み、七段階で五。可動域、前方九十度まで」

「戻るなら、搬送補助だけ。機材を持たない」

「記録が」

「固定で続いてる」

「奪われる可能性」

「人を置く」

「誰を」

 澪は近くの救難員を指名しなかった。

 門前に立つ者へ向かって言う。

「固定記録の封印確認を一人。できる者」

 三人が手を上げる。

 澪は一人を選ぶ。

「理由」

 七瀬。

「左耳が聞こえ、字を読める。さっきの区画へ家族がいない。断れます」

「やります」

 選ばれた救難員が答えた。

 七瀬は彼へ封印番号を渡した。

 自分のカメラを、自分以外の目へ預ける。

 胸がざらつく。

 信頼という言葉は、温かい響きを持ちすぎている。

 実際の信頼は、番号を渡し、壊した時の責任まで相手へ説明する、かなり冷たい作業だ。

 搬送を終えた七瀬は、澪の条件どおり機材を持たずに赤配管区へ戻った。

 両手が空いている。

 いつもなら撮影機が塞いでいる右側の視界まで広い。

 その広さが落ち着かない。

 誰かが倒れた瞬間、記録できない。

 誰かが嘘を言った瞬間、証明できない。

 だが今は、声そのものが届かない。

 証明より先に、相手が何を求めているか確かめるしかない。

 第一分岐に工員が一人、壁へ背を付けていた。

 銀盆は足元。

 両手で耳を塞いでいる。

 音から逃げる仕草に見える。

 この音量では、塞いでも変わらない。

 七瀬は正面へ回り、視界へ入る。

 指を一本立てる。

 見える。

 男は頷く。

 次に、胸を指す。

 呼吸。

 男は首を振った。

 苦しいのか。

 違うのか。

 七瀬は筆記板を渡す。

《補聴具が外れない》

 右耳に小さな防塵栓が食い込み、熱で膨らんでいる。無理に引けば皮膚を裂く。

 七瀬は救護札を赤く返す。

 澪へ届くまで、人から人へ回す。

 男が七瀬の袖を掴んだ。

《持ち場》

 筆記板へ一語。

 七瀬は返す。

《交代者》

《来ない》

《名前》

 男は書かない。

 交代者を告発したくない。

 七瀬は質問を変える。

《最後に確認した時刻》

《十二時四十分》

《連絡方法》

《口頭》

 口頭は、この区画で消える。

 七瀬は男の持ち場札を裏返す。

 勝手に停止へはしない。

 表面へ黄色い三角を貼る。

《交代未確認》

 到着した澪が札を読む。耳栓を診て、男へ退避を指示する。

 男は拒否する。

 澪は持ち場を指し、自分を指す。

 引き受ける。

 男が首を振る。

 救難員は弁を扱えない。

 七瀬は配管図を開き、同じ工程の第二分岐を示す。そこにいる工員へ黄色札を回す。

 十秒後、向こうから盆が返る。

 赤ではない。

 白い反射を二回。

 交代可能。

 男はようやく壁から離れた。

 補聴具が外れない耳を押さえ、澪と退避する。

 七瀬はその背中を撮れない。

 撮影機は遠くの三脚にある。

 記録へ残るのは、固定画面の端を横切る二人の脚だけだ。

 後で見た者は、耳栓も、拒否も、交代を待った時間も知らない。

 七瀬は筆記板へ一連の時刻を書く。

《十四時三十三分 第一分岐、交代未確認》

《十四時三十四分 第二分岐へ照会》

《十四時三十四分十秒 交代可》

《十四時三十五分 退避開始》

 自分の観察として記す。

 推定は書かない。

 男が怖かったのか、責任感があったのか、交代者を庇ったのか。

 それは本人が後で言うことだ。

 第二分岐へ向かう。

 今度は、工員二人が同じ盆を握っていた。

 一人は右へ送りたい。

 一人は左へ送りたい。

 光の経路が分かれている。

 七瀬は間へ入らず、配管番号を指す。

 二。

 二人とも、自分が二番だと思っている。

 番号札が蒸気で剥がれ、床へ落ちていた。

 到達確認の線が二重になる危険。

 七瀬は落ちた札を拾う。

 糊は使えない。

 濡れた場所では剥がれる。

 タマキの受領票から細い綴じ紐を借り、盆の柄へ結ぶ。

 誰から。

 誰へ。

 何のため。

 質問の形をした紐は、光より地味だ。

 地味な物ほど、蒸気の中で残ることがある。

 片方を二番、もう片方を三番へ直す。

 二人が順番に光を送る。

 今度は分かれない。

 七瀬は記録のない場所で、記録のための手順を直して歩いた。

 撮っていない時間は、空白ではない。

 空白へ何をしたかを書ける者だけが、カメラの外を都合よく埋めずに済む。

 午後三時十一分

 蒸気が一度、薄くなった。

 撮影機は無事だった。

 レンズの前に、あの工員が置いた筆記板が立っている。

《止まった音が怖い》

 顔も名も映らない。

 文字だけ。

 画面の奥で、工員たちが赤い円を送り続けている。

 まだ停止合図ではない。

 到達確認。

 七瀬はカメラの横へ座った。

 左肩へ冷却布を当てる。

 撮影終了を宣言しない。

 無編集の銀文字は、弱くなっても残っている。

 画面には誰も中央にいない。

 鉞谷も、迅も、澪も、小麦も端にしか映らない。

 中心にあるのは、半開きの弁。

 回りきらない鉄の輪。

 床へ置かれた銀盆。

 そして、人から人へ移る、意味を待っている赤い光だった。

 七瀬が撮影終了を宣言する前に、タマキが銀盆を数えた。

「十九」

「二十枚借りた」

 小麦が床を探す。

 半開きの弁輪の下に、一枚だけ縁の曲がった盆があった。

 鉄志が足場を作るため、床の溝へ差し込んだ物だ。

 抜くと、楕円になっている。

「料理に使えない」

 小麦。

「直す」

 鉄志は左手で受け取ろうとする。

「今、曲げる?」

「戻す」

「さらに曲がる」

 タマキが盆へ札を結ぶ。

《銀盆一枚、変形。使用者・鉞谷鉄志。用途・足場固定。返却状態・要修理》

 鉄志が口を動かす。

 蒸気は薄くなったが、まだ聞き取りにくい。

 七瀬は読唇しない。

 筆記板を渡す。

《弁へ置いた》

 七瀬が書く。

《床です》

《同じだ》

《違います》

《細かい》

《記録です》

《修理代は俺》

 タマキが下へ追記する。

《個人負担希望。見積もり後に再確認》

 鉄志が眉を寄せる。

《今決めた》

《金額を知らない》

《盆だぞ》

《食堂の備品》

《いくら》

《後で》

 鉄志が筆記板を強く返す。

 小麦が笑う。

「後って何時」

 蒸気の中でも、鉄志の不満だけはよく見えた。

 七瀬は曲がった盆を画面の端へ置く。

 赤い光を運んだ道具。

 弁の足場になった道具。

 食事へ戻れなくなった道具。

 英雄の武器にすれば、曲がりは勲章になる。

 食堂の備品として見れば、修理費と代替品が要る。

「撮影終了条件」

 七瀬は声に出した。

 まだ蒸気へ削られる。

 字幕札を置く。

《負傷者一名、救難へ引継ぎ済み》

《退避票、掲示継続》

《到達確認の意味、停止命令ではないと全区画確認》

《銀盆二十枚、十九枚通常返却、一枚要修理》

《固定記録の封印、救難員へ引継ぎ》

 最後に、自分の状態を書く。

《撮影者、左肩痛五。手持ち撮影を終了。医療確認へ移る》

 七瀬は終了を宣言した。

 レンズ縁の銀文字が消える。

 画面が暗くなる前、曲がった盆の縁が一度だけ赤い光を返した。

 きれいな円ではない。

 それでも次の人へ届いた。