第568話 第六章「証人を守る拳」後編
右足の踵を継ぎ目から抜く。
左膝が震える。
立てる。
構造的な損傷はない。
ただし、熱と腫れが増えている。
「座ってください」
医療員が言う。
「証人は」
「帰路出口へ到着」
「シキは」
「証拠入口へ向かっています」
「証拠袋」
「受領済み」
「襲撃者」
「四名確保。外壁下に少なくとも二名」
「木廊」
「使用停止」
「帰路は」
「下の土手道へ切替」
凱は、そこで初めて座った。
救護椅子は曲がっている。
彼は直そうと手を伸ばし、やめた。
「椅子が曲がっています」
医療員が言う。
「知っている」
「直さないんですか」
「今日は、座れればいい」
医療員が左膝装具の留め具を一段ゆるめる。
「痛み、いくつ」
「五」
「歩行は」
「できる」
「聞いていません。歩く必要は」
凱は、城内へ続く木廊を見る。
「ない」
「では、十分間の荷重禁止」
「警備報告が」
「座ってできます」
「襲撃者の確認」
「別の担当です」
凱は口を閉じた。
能力が消えた後も、自分が立っていなければ現場が止まると思う癖は消えていない。
「十分」
彼は言う。
「十二分」
「増えた」
「交渉したからです」
「医療は、値切ると高くなるのか」
「身体が値段を決めます」
下の土手道から、証人三十六の到着札が戻った。
《帰路出口、午前八時五十九分》
《本人、追加録音を希望》
凱は記録器を受け取る。
声は小さい。
『戻る途中で、襲った人の一人が、私の番号を呼びました。名前じゃない。施設番号』
息を吸う音。
『知っている人かもしれない。でも、見に戻りません。顔合わせを求めないでください』
凱は、録音を二度聞かない。
一度で聞き取れた。
二度聞けば、確認ではなく、自分の記憶へ焼き付けるためになる。
「公開範囲」
記録係が問う。
「本人指定は」
「施設番号を呼ばれた事実。番号そのもの、声、推測相手は限定」
「証拠袋の信用性へ使いますか」
「使わない。襲撃者が本人を知っていた可能性と、証拠内容が真実かは別」
「本人確認のため、確保者との対面を」
「しない」
「識別できれば」
「本人が拒否した」
「危険人物を逃す可能性」
「確保者は逃げていない。対面しなければ調べられないことと、別証拠で調べられることを分けろ」
警備監査担当が、少し不満そうに記録する。
「あなたは、証人の安全を優先して捜査を妨げる」
「そう評価される可能性はある」
「責任は」
「俺。対面を求めないと決めた時刻、八時六分……違う」
凱は時計を見る。
「九時零分四十一秒」
「あなたの判断?」
「本人の拒否を受領し、警備責任者として対面を求めないと決めた」
「本人の責任では」
「拒否した責任と、捜査手段を選ぶ責任を混ぜるな」
監査担当は、凱の名を判断欄へ書いた。
確保された四人のうち、一人は証人三十六の施設番号を知っていたと認めた。
理由は話さない。
もう一人は、証拠袋を冬城側へ渡すつもりだったと供述。
別の一人は、法廷へ届く前に燃やすつもりだったと供述。
四人目は、証人を連れ戻す報酬を受け取ったという。
目的は同じではない。
出廷させたい者。
出廷させたくない者。
紙だけ欲しい者。
人だけ欲しい者。
襲撃という一語へまとめると、誰が何を奪おうとしたか消える。
「俺たちの防衛も、一語にすると同じだな」
凱が言う。
医療員が装具の上から冷却帯を巻きながら聞く。
「何と」
「証人を守った」
「守ったでしょう」
「法廷へ押し込まないことと、戻る道を開けることと、証拠を別に運ぶことを、一つにしたら、次は同じやり方で失敗する」
「では、分けて報告してください」
「長い」
「王の演説よりは短い」
「元王だ」
「膝は現役です」
凱は、十二分の休止が終わるまで、椅子から立たなかった。
午前九時二分。
証拠袋は法廷へ届いた。
証人三十六は出廷しない。
真琴が、本人の録音を再生する。
『出廷しません。理由は、誰のために話すか分からなくなったから。証拠は提出します。私の証言がないことを、紙が全部説明したことにしないでください』
次に、袋が開かれる。
紙片は三層。
第一稿。
御厨朝の筆跡。
《緊急命令は二十四時間で自動失効》
《再発令には発令者名、継続理由、受領現場の確認を要する》
第二稿。
同じ朝の筆跡。
《安全認定が継続する場合、自動更新を認める》
第三稿。
冬城の決裁印後。
《安全認定主体は中央決裁室》
《現場確認は事後報告で代替可》
《発令者名は内部ログへ分離》
朝自身が、自動更新を原案へ入れている。
冬城が、条件をさらに削っている。
どちらか一人だけの文ではない。
冬城側補佐官が立つ。
「御厨朝が、自動更新を提案した事実が確認されました」
真琴は答える。
「はい」
「中央の命令だけではない」
「はい」
「申立側の主要証人が、制度設計者です」
「はい」
「それでも冬城評議官の監督責任を問う?」
「問います」
「矛盾では」
「複数人が責任を持つことを、矛盾と呼びません」
冬城は、朝を見た。
朝は傍聴席ではなく、被審理者の待機席へ座っている。
黒い杖。
装具。
書類。
痛みで顔を歪めてはいない。
歪めないことも、信用の証拠にはならない。
袋の開封後、法廷はすぐに朝の原案へ進まなかった。
証人三十六がいないからこそ、紙へ話させすぎない確認が要った。
真琴は、三枚の文書を透明板の下へ置いた。
「本人は、この紙の成立過程をどこまで知っていますか」
録音が再生される。
『第一稿と第二稿を複写した。第三稿は、決裁後に配布されたものを受け取った。誰が文を変えたかは見ていない』
「冬城評議官が直接削ったと、証人は言っていますか」
冬城側補佐官が尋ねる。
「言っていません」
「御厨朝が全て変更したとも」
「言っていません」
「では、文書だけで作成者を確定できない」
「作成者欄、改訂印、筆圧、内部ログと照合します」
「証人が出廷しないため、反対尋問できません」
「その不利益は残します」
真琴は、証拠札へ書いた。
《提出者、出廷撤回》
《成立過程の本人認識は限定》
《反対尋問不能による評価上の制限あり》
「証言を拒んだ者の紙を、弱く扱う?」
傍聴席から声が飛んだ。
審理官が静粛を命じる前に、真琴が答えた。
「拒否を罰にしません。確認できない範囲を、確認できたことにもしません」
「脅されたのに」
「脅迫があったことは、別の加害事実です。紙の作成者を自動的に証明はしません」
シキが限定席で、短文入力機へ打った。
《人がいないと、紙は大きくなる》
巴が平文へ直そうとして、止めた。
「そのまま公開してよいですか」
シキは三つの札を見る。
公開。
限定。
拒否。
公開を選ぶ。
《人がいないと、紙は大きくなる。だから紙の大きさも記録する》
「大きさとは」
補佐官が問う。
シキは少し考える。
《紙だけで決められる範囲》
「あなたは文書の専門家ではない」
《はい》
「なら、意見にすぎない」
《はい》
「なぜ出す」
《私の行為記録も、私が話さない部分より大きくされるから》
シキは、顔も出生名も出さない。
無標班で何をしたかの全部も出さない。
それでも、限定した行為記録を出す。
限定は、半分の真実ではない。
本人が責任を引き受ける範囲と、まだ渡さない範囲の境界だった。
真琴は三枚の文書の横へ、証人三十六の不在札を同じ大きさで置いた。
紙が一人で証人席へ座らないように。
証人三十六の到着札が法廷へ届いた後、帰路の記録係から追加票が来た。
《帰路途中、右靴紐切断》
《本人、交換を希望》
《予備紐一本使用》
《医療介助は拒否》
《同行者シキ、接触なし》
「ここまで審理記録に要りますか」
若い書記が尋ねた。
凱は冷却帯を巻いたまま答える。
「靴紐が切れて転べば、帰路が安全だったことにならない」
「転んでいません」
「転ばなかった理由を、本人の運だけにするな」
「シキが触らなかったことも?」
「本人が接触を拒否した。代わりに予備紐の袋を地面へ置いた」
「細かい」
「細かいことを抜くと、《安全に帰った》の一行になる」
帰路係は、切れた紐を証拠にしようとした。
証人三十六は返却を求めた。
自分の靴の一部だから。
写真を撮るか尋ねられ、それも拒否した。
残ったのは、長さ、色、切断位置、交換時刻を記した紙だけだった。
物がなくても、出来事は記録できる。
物があるからといって、法廷が持ってよいわけではない。
シキは限定証人席へ入った。
顔は見えない。
出生名も出ない。
その後ろで、証人三十六の椅子は空いている。
凱が守ったのは、入廷させる道ではなかった。
空席へ戻る道と、空席のまま届いた紙だった。