第567話 第六章「証人を守る拳」前編

六月二十二日 午前七時四十分

 証人を守る、という言葉には罠がある。

 守る者が、証人の行き先まで決めたくなる。

 獅堂凱は、旧中央城の西外郭で、三本の道を見ていた。

 正面の石橋は公開経路。

 左の木廊は限定証人路。

 右の低い土手は帰路。

 どれも城へ近づく道に見える。

 城から離れるために作られたのは、右だけだった。

「帰路の幅、二・一」

 凱は測定票へ書く。

「途中の段差、四センチ。雨天時滑り。外壁側へ手すりなし。戻る者が二人以上重なった場合、追い越し不可」

 警備員が尋ねる。

「帰る人間を、優先して整備する必要がありますか」

「必要だ」

「証人を入廷させるのが仕事では」

「本人が出ると選んだ場合だけだ」

「途中で帰れば、審理が遅れます」

「遅れる」

「不利になります」

「誰に」

 警備員が答えに詰まる。

 凱は責めない。

 自分も以前なら、《こちらに》不利だと言った。

「出廷を強制して得た証言は、早い。早い間違いは、遅い訂正より遠くへ行く」

「名言ですか」

「警備条件だ」

「迅さんみたいなことを言いますね」

「訂正しろ」

「誰の名誉のために」

「私のだ」

 午前八時零分。

 限定証人車が到着した。

 車輪は布で巻かれ、音を抑えている。

 窓は外から見えず、内側からは出口だけ見える。

 最初に降りたのはシキだった。

 黒い覆面ではない。

 顔の輪郭を完全に消すものは、かえって視線を集める。灰色の帽子、半透明の面布、頬から喉までを覆う薄い布。目元も、直接撮影では識別できない角度へ小さな反射板を付けている。

 病院で選んだ呼称は、シキ。

 出生名は公開しない。

 《灰戸》は記録整理上の仮姓であり、本人が選んだ姓ではない。

 シキは、凱の右手を見た。

 武器なし。

 次に左膝。

 装具あり。

 最後に帰路。

「入口より先に、帰り道を見るのか」

 凱が聞く。

 シキは筆談板へ書いた。

《入口は他人が案内する。出口は自分で覚える》

「正しい」

《王が言うと嫌》

「元だ」

《元王が言うと、もっと嫌》

「理由」

《降りた人間は、降りたことを褒められたがる》

 凱は答えなかった。

 シキは続けて書く。

《あなたは今日、誰を入れる》

「入ると選んだ者」

《誰を帰す》

「帰ると選んだ者」

《誰を止める》

「その選択を奪う者」

《きれい》

「違うか」

《きれいすぎる。攻撃者が医療者なら? 帰る者が証拠を持ち出すなら? 入る者が他人の名を売るなら?》

 凱は、石橋の欄干へ手を置いた。

「その場で聞く」

《遅い》

「遅くなる」

《王失格》

「終わった資格だ」

《少し羨ましい》

 シキは筆談板を裏返した。

 そこには、今日の証言範囲が書かれている。

《公開可》

《無標班の命令書式》

《抽出対象の分類語》

《自分が実行した三件》

《拒否した一件》

《治療後に選んだ呼称》

《公開不可》

《顔》

《出生名》

《出生地》

《全薬歴》

《家族情報》

《未審理の行為》

 凱は読み終え、確認印を押した。

「未審理の行為を隠すのか、と聞かれる」

《聞かれる》

「答えは」

《未審理だから公開しない。無かったとは言わない》

「被害者の側から、全部話せと言われる」

《言われる》

「帰るか」

 シキは少し考えた。

《今は入る》

 限定証人車から、もう一人が降りた。

 証人番号三十六。

 中央技術局で、同調命令の更新紙帯を交換していた元保守員。

 名前、性別、顔は限定。

 公開できるのは、手袋をした両手と声だけ。

 証人は、小さな布袋を抱えている。

 中には、自動更新原案の写しと、改訂前後の紙片。

「体調確認」

 医療担当が言う。

「脈、九十二。呼吸、二十。服薬済み」

「出廷意思」

「あります」

「途中撤回」

「できます」

「撤回した場合、証拠袋は」

「本人が、提出だけ継続、返却、保留を選べます」

「証言しないで、紙だけ出せる?」

「真正性確認に必要な範囲は、別の鑑定で補います。本人証言がないことを明記します」

 証人三十六は、布袋を強く抱いた。

「紙が、私より強い」

 凱は否定しない。

「紙は、殴られても痛いと言わない」

「人は言う」

「言えない人もいる」

「はい」

「では、紙の方が強い?」

「違います」

 凱は帰路を見る。

「紙は、帰りたくても自分で帰れない」

 証人三十六は、布袋を見下ろした。

 午前八時十二分。

 一行は限定証人路へ入った。

 先頭、凱。

 二メートル後ろ、シキ。

 さらに二メートル後ろ、証人三十六と医療担当。

 最後尾、二人の警備員。

 道幅一・八メートル。

 左は外壁。

 右は空堀。

 空堀の底まで三・五メートル。

 木廊の下には、昔の跳ね橋を上げる巻上具が残る。現在は固定されているが、歯車へ力を加えれば、廊全体が五度ほど傾く。

 凱は、昨日その巻上具を封印した。

 封印札の番号は、六―西―十二。

 三十メートル進んだ場所で、証人三十六が止まった。

 城外の広場から、声が聞こえる。

「全部公開しろ!」

「顔を隠すな!」

「中央の犬を守るな!」

「証言しろ!」

 逆側からも声。

「裏切り者を入れるな!」

「冬城を売るな!」

「匿名証言は偽物だ!」

 誰が誰を守りたいのか、声だけでは分からない。

 証人三十六の呼吸が浅くなる。

 医療担当が尋ねる。

「休止しますか」

 返事がない。

 凱は振り返るが、近づかない。

「ここから、入口まで四十二メートル。帰路分岐まで十一メートル。前へ進む、ここで休む、帰る。ほかの希望があれば言ってください」

 証人三十六は、布袋を胸へ押しつけた。

「証言しないと、朝さんだけの責任になる」

「なるとは限らない」

「私が紙帯を交換した。朝さんの原案も見た。冬城の改訂も見た。私が言わないと」

「言いたいのか」

「言わなきゃいけない」

「同じではない」

「今それを分けたら、逃げる」

「逃げてもいい」

「よくない!」

 声が木廊へ響く。

 広場の叫びが一瞬止まり、こちらへ注意が向く。

 証人三十六は、自分の声に驚いたように口を押さえた。

「……出ない」

 凱は、復唱する。

「出廷しない」

「出ない」

「証拠袋は」

「出す」

「証言なしで提出」

「はい」

「理由の公開範囲は」

「脅されたからじゃない」

「理由を、言わなくてもいい」

「言う。声を聞いて、誰のために話すか分からなくなった。朝さんを助けたいのか、冬城を落としたいのか、自分だけ助かりたいのか。分からないまま証言したくない」

「そのまま記録する」

「臆病って書かないで」

「書かない」

「勇気があるとも」

「書かない」

 凱は携帯記録器を出し、本人へ開始時刻を示した。

 証人三十六は、出廷撤回、証拠のみ提出、理由の公開範囲を自分の声で記録した。

 終了後、記録器を止める。

「帰路へ」

 凱が言う。

 最後尾の警備員が、城側を見た。

「このまま十一メートル進めば、証人入口です」

「本人は戻る」

「襲撃危険は、前へ進むより帰路の方が高い」

「だから守る」

「証拠は」

「シキが運ぶ」

 シキが首を横へ振る。

《私は、自分の記録だけ》

 証人三十六が布袋を差し出そうとする。

 シキは受けない。

《あなたが、提出先を選ぶ》

「凱さんに」

 証人が言う。

 凱も受けない。

「私は護衛担当だ。証拠提出を選ぶ担当ではない」

「じゃあ誰に」

 医療担当が、携帯の三択札を出した。

《証拠係へ渡す》

《本人と一緒に帰る》

《一時保留庫へ置く》

 証人三十六は、一番目を選んだ。

 最後尾の警備員が証拠受領資格を持っている。

 本人確認。

 封印番号。

 受領時刻。

 布袋が手を離れた。

 証人三十六の両腕が、何もないのにまだ袋を抱く形をしていた。

 証人三十六が帰路分岐へ足を向けた時、封印札が鳴った。

 紙が鳴るわけではない。

 木廊の下で、金属が紙を擦る音がした。

 六―西―十二。

 昨日、凱が自分で貼った巻上具の封印。

「伏せろ」

 凱は命じ、すぐに言い直した。

「木廊が傾く。伏せる、壁へつかまる、帰路へ走る。選べ!」

 証人三十六は壁へ。

 医療担当は伏せる。

 シキは帰路側の手すりへ一歩。

 歯車が噛み合う。

 木廊が右へ傾いた。

 五度。

 数字なら小さい。

 幅一・八メートル、空堀まで三・五メートルの上では、足裏から世界が滑る角度になる。

 証拠袋を受け取った警備員が、城側へよろめいた。

 凱は左膝を曲げず、右足を外壁へ突っ張る。

 身体を低くしない代わりに、上半身を廊の傾きと逆へ倒す。

「袋を胸へ! 手すりへ腕を通せ!」

 警備員が従う。

 シキは、帰路へ進まない。

 証人三十六の背後へ戻り、外側から見える顔の角度を自分の面布で遮った。

「戻る道を使え!」

 凱が叫ぶ。

 シキは筆談できない。

 左手で自分、右手で証人を示し、二本の指を同時に帰路へ向ける。

 《一緒なら》

 証人三十六はうなずいた。

 木廊の下から、灰色の鉤が上がる。

 手すりへ引っ掛かる。

 綱が張る。

 外壁側の点検窓から、黒い布を巻いた二人が入ってきた。

 一人は短棒。

 一人は、面布を引き剥がすための三叉鉤。

 空堀側からは、別の二人が梯子を上がる。

 こちらは証拠袋を狙っている。

 目的が違う。

 顔を暴きたい者。

 紙を奪いたい者。

 同じ襲撃に見えても、協力しているとは限らない。

「前二、下二!」

 最後尾の警備員が叫ぶ。

 凱は、城側へ進めと言わない。

「帰路を開ける。証人は戻る。証拠は城へ行く。担当を分ける!」

 証拠袋を持つ警備員へ、もう一人を付ける。

 医療担当とシキは証人三十六を帰路へ。

 凱は分岐点へ残る。

「一人で?」

 警備員が聞く。

「私が選んだ」

「元王の悪い癖です」

「訂正。左壁の非常紐を引け。増援を呼べ」

「一人ではない?」

「来るまで一人だ」

 短棒の男が踏み込む。

 木廊は傾いたまま。

 相手は下り方向から来るため、速度が乗る。

 凱は正面へ立たない。

 右足を半歩引き、棒の先を左前腕で受ける。

 打撃を止めず、外壁へ流す。

 棒が石壁へ当たり、火花。

 凱の右掌が男の肘へ。

 押し上げるのではなく、傾斜の下へ一センチ送る。

 男の踵が滑る。

 凱は襟をつかみ、落とさない。

「顔を出せ!」

 三叉鉤の男が、シキへ投げる。

 凱は短棒の男を盾にしない。

 人を物へ変える動作は、速い。

 速いからこそ、王だった頃の身体は迷わず選びたがる。

 代わりに、足元の荷重確認板を蹴り上げた。

 木製の薄板が鉤へ当たる。

 軌道が上へ逸れ、面布の十センチ上を通る。

 三叉鉤は外壁の目地へ刺さった。

 シキは証人三十六の肩を押さない。

 帰路を指し、自分が先へ一歩出る。

 証人三十六が、自分で後を追う。

 凱はそれを確認してから、短棒の男の手首を返した。

 棒が落ちる。

 床へ落ちれば、傾斜の下へ滑り、証人の足へ届く。

 凱は右足の甲で止める。

 左膝が、遅れて痛む。

 鋭い痛みではない。

 関節の内側が熱く膨らむような、古い痛み。

 男が凱の胸へ頭をぶつける。

 凱は後ろへ一歩。

 退く。

 胸の鐘はない。

 誓痕も、王路もない。

 ただ、足場を作るために退く。

「元王が退いた!」

 外の誰かが叫ぶ。

「見れば分かる!」

 凱は返し、次の一歩を横へ取った。

 男の前進が空を切る。

 凱の右肩が、男の脇へ入る。

 持ち上げず、傾斜の上側へ押し戻す。

 男は外壁へ背をつけた。

「降伏しろ」

「命令か」

「提案だ」

「拒否する」

「では、棒から手を離せ」

「同じだろ!」

「違う。降伏は、今後の行為まで含む。棒を離すのは、右手だけだ」

「細かい!」

「法廷の隣だ」

 空堀側から上がった一人が、証拠袋を持つ警備員へ飛びつく。

 もう一人は、木廊の支柱へ短い楔を打つ。

 廊をさらに傾けるつもりだ。

 非常紐が引かれる。

 城内で低い鐘が三度鳴る。

 増援まで、最短二分。

「凱!」

 帰路へ入った証人三十六が叫んだ。

 戻って来ようとする。

「そのまま帰れ!」

「でも」

「戻る道を守るのが私の仕事だ!」

「私のせいで」

「違う」

「私が出なかったから」

「違う!」

 凱の声が、大きくなりすぎた。

 証人三十六の足が止まる。

 命令が効く。

 効きすぎる。

 凱は声を落とした。

「あなたが出ないと選んだことと、襲った者が襲うと選んだことは別だ。戻るか、ここで待つか、先へ行くか。あなたが決めてください」

 証人三十六は、後ろを見る。

 帰路の出口まで十五メートル。

 シキが隣で待っている。

「帰る」

「確認した」

 凱は、もう背を向ける。

 三叉鉤の男が壁から鉤を抜いた。

「匿名の加害者を守るのか!」

「加害の記録を届ける」

「顔を見せなければ責任じゃない!」

「顔を見せても責任を取らないやつを、私は知っている」

「誰だ!」

「昔の私だ」

 男の動きが一瞬止まる。

 凱は、その隙へ拳を入れない。

 右手で三叉の柄を押さえ、左手で相手の袖口をつかむ。

 左膝を曲げず、腰を回す。

 鉤の先を床へ向ける。

 男が柄を離す。

 落ちる前に、凱が足で踏む。

 短棒の男が横から抱きつく。

 凱は二人分の重みを受け、木廊の下りへ滑る。

 一メートル。

 二メートル。

 帰路分岐が近づく。

 ここを越えれば、襲撃者が証人の戻る道へ入る。

 凱は左膝を使わない。

 右足の踵を、木廊の継ぎ目へ突き刺す。

 靴底が裂ける。

 止まる。

 胸へ二人。

 右腕に鉤。

 左手は手すり。

 この形で勝つ方法はない。

 勝たなくていい。

 二分、止めればいい。

 凱は息を吸う。

「警備責任者、獅堂凱」

 誰に聞かせるでもなく、名を置く。

「帰路分岐を保持。左膝使用制限。増援待ち。攻撃者二名、負傷不明」

「何を言ってる!」

「あとで、私がどう止めたか説明する」

「死ね!」

「それも記録する」

 短棒の男が肘を凱の顎へ上げる。

 凱は避けず、額を下げて受ける。

 歯が鳴る。

 視界に白い点。

 手すりを離さない。

 証拠袋側で、警備員が一人を壁へ押し付けている。

 もう一人は楔を打ち終えた。

 木廊が、さらに一度傾く。

 八度。

 荷重確認板が一斉に滑る。

 凱の足元を通り、空堀へ落ちる。

 証拠袋も、警備員の胸から半分外れた。

 証人三十六が帰路から声を上げる。

「袋!」

 シキが振り返る。

 次の瞬間、シキは証人を置いて戻ろうとした。

 証人三十六が、シキの袖をつかむ。

「私は帰る。あなたは行くんでしょ」

 シキが止まる。

「私を送るのと、あなたの証言は別」

 証人三十六は自分から袖を離した。

「ここから、一人で帰る」

 シキは帰路出口を見る。

 残り十メートル。

 外の待機医療員が見えている。

 シキは、証人三十六の肩へ触れない。

 左手で《確認》の形。

 証人三十六がうなずく。

 シキは城側へ走った。

 面布が揺れる。

 顔は見えない。

 証拠袋を奪おうとする男の前へ入り、右手で袋ではなく警備員の手首を押し戻す。

 警備員が握り直す。

 男がシキの面布へ手を伸ばす。

 シキは腕を払わない。

 相手の手首へ額を当て、顔を低く保ったまま身体を回す。

 面布に触れさせず、相手を手すりへ送る。

「名前を出せ!」

 男が叫ぶ。

 シキは、喉から短い声を出した。

「シキ」

「本名を!」

「これ」

「ふざけるな!」

「選んだ」

 声は掠れている。

 長くは続かない。

 シキは筆談板を使えないまま、短い言葉だけで返す。

「おまえが選んだ名に、被害者は納得しない!」

「納得、要らない」

「責任を取れ!」

「取る。顔、要らない」

 男が拳を振る。

 シキは避ける。

 反撃は、みぞおちへ一度。

 男が息を止める。

 シキは追撃せず、証拠袋を持つ警備員を城側へ押す。

「行け」

 今度は命令ではなく、役割確認だった。

 警備員が走る。

 増援の足音が、城内から来る。

 一分五十四秒。

 凱は、二人を抱えたまま帰路分岐を守っている。

 最初の増援が、敵を殴ろうとする。

「頭を打つな!」

 凱が叫ぶ。

「手を外せ! 足場の上側へ!」

 増援二人が短棒の男の腕を一本ずつ外す。

 三叉鉤の男は、手すり側へ固定。

 凱の胸から重みが消える。