第100話 第十二章「平文の余白」後編
正午。
通訳料の支払い箱を開けた。
市場共同基金。
八旗調査費。
空白の旗の作業換算。
当事者任意。
金額は、見積もりより多い。
追加作業が増えたため、請求も増えている。
「増えた分、払えない」
乾物屋。
《分割》
「何回」
《三回》
「利息」
《なし》
「通訳さんが損する」
《払わない人より、払う時期が遅い》
「ボタンは」
最初の日に入っていた釦。
紙には《現金なし。服の修理一回》。
柏木秋枝が手を上げる。
「私」
巴の白手袋には、昨日の騒ぎで縫い目が裂けている。
右人差し指の部分は、添え木に合わせて開かなければならない。
「直す。指が曲がらなくても脱げる形にする」
《料金》
「釦一個分」
《安い》
「市場価格」
《誰が決めた》
「私」
《交渉》
「胡麻団子二個」
《三個》
「二個と半分」
《切る?》
「三個」
契約が成立する。
真琴が書面を出そうとする。
秋枝が笑う。
「手袋を直して、団子三個。明日の昼まで。気に入らなければ縫い直す。これでいい」
巴は自分の言葉で言い返す。
《右手が固定されたまま脱着できる形。明日正午まで。団子三個。合わなければ一回直す》
秋枝が頷く。
真琴は紙を引っ込める。
「口頭契約も有効です」
「成長した」
迅。
「元から知っています」
「使わなかった」
「証拠が――」
真琴は止まり、言い直す。
「今回は、当事者二人と立会人がいます」
凱と七瀬が頷く。
「撮影は?」
秋枝。
「しません」
七瀬。
「団子を食べるところも?」
「許可があれば」
「それは駄目。食べ物は食べる前に撮ると冷める」
「団子は最初から冷たいです」
「理屈じゃない」
七瀬はカメラを置いた。
午後零時三十六分。
胡麻団子は、三つとも大きさが違った。
秋枝が手袋を直す間、乾物屋が市場の菓子屋から買ってきたものだ。
「大、中、小」
巴が左手で書く。
「三個です」
秋枝。
《契約に大きさ》
「書いてない」
《私の負け》
「契約は勝ち負けじゃないでしょう」
《団子は別》
巴は一番小さい物を口へ入れ、しばらく噛む。
「味は」
迅。
《胡麻》
「見れば分かる」
《甘い》
「それも」
《三個目まで質問禁止》
「契約?」
《お願い》
迅は黙る。
二個目を食べる。
三個目を半分に割り、巴は秋枝へ片方を差し出した。
「三個の契約では」
《私が受け取った。渡す自由》
「理屈を覚えたね」
秋枝は半分を受け取る。
直した白手袋は、右人差し指の側面が紐で開く。添え木を外さず脱着できる。疑問符、読点、括弧、句点の印は、縫い目を避けて描き直されている。
《句点が曲がった》
「指が曲がらないから、布の方を曲げた」
《意味が変わる》
「終わりは真っすぐじゃない、ってことで」
巴は手袋を見つめた。
《良い》
「修正一回、使わない?」
《使わない》
「確認」
《今は》
秋枝は笑った。
共同食堂の別卓では、空白の旗の作業換算が清算されている。
迅――安全対応、扉三、護衛二、聞き取り三十二。
七瀬――記録確認四十八、撮影二十一、拒否対応、返却作業。
凱――読み上げ、聞き書き、仮本人確認。
轟――扉修理、卓修理、鍵盤加工。
タマキ――経路図、配送、返却記録。
真琴――条文照合、分離文案、運用履歴。
「俺の聞き取り三十二は、安全じゃない」
迅。
「途中で役割を追加しました」
真琴。
「誰が」
「各本人が、聞き取り担当として受けた」
「責任票にない」
「追記します。事後ですが、本人の紙に担当名があります」
「金、増える?」
「増えます」
「じゃあいい」
「原則の話は」
「増えないならする」
七瀬が笑う。
凱の作業換算には、《命令しなかった時間》は入っていない。
「俺は、かなり働いたぞ」
「証明できません」
真琴。
「命令しなかった回数を数えれば」
「言おうとした回数は分かりません」
三一が言う。
「顔」
「顔は契約外です」
全員が槙司を見る。
槙司は粥の時と同じ顔で答えた。
「同意する」
「それ、顔が契約外って方?」
「凱の顔が命令していた方だ」
凱は不満そうだが、笑った。
巴の清算票には、通訳料、材料費、交通費、追加作業、右手負傷による休業見込みが並ぶ。
休業見込みを誰が負担するかは、まだ決まらない。
「黒板会の処分が出る前に、休業補償を払うと、誤訳を承認したことになる」
槙司。
《負傷は起きた》
「原因の評価が未了だ」
《医療費は》
「市場安全費から仮払い。責任割合は後日」
《休業は》
「一日二時間まで働ける」
《減った分》
「審査中」
巴は請求書へ書く。
《未払ではなく、審査中》
乾物屋が覗く。
「違う?」
《審査期限と担当がある》
「いつ」
槙司。
「黒板会の初回審査、九月二十六日。市場側の負担確認、二十五日。巴は資料閲覧可。通訳を別に手配する」
《私の審査の通訳》
「あなた自身にさせない」
《誰》
「別の登録者を依頼する」
巴は頷く。
自分の言葉を、自分だけで訳さない。
空白の旗へ所属すれば、迅たちが代わりに立つかもしれない。
所属しないから、巴は自分の審査へ自分の専門家を選べる。
「帰るのか」
迅が訊く。
《今日は》
「どこへ」
《黒板会の寮》
「榊と同じ?」
《棟が違う》
「送る」
《依頼?》
「右手が使えない」
《足は使える》
「荷物」
《少ない》
「夜」
《昼》
「危ない」
《何が》
迅は答えに詰まる。
《助ける相手を、先に弱くしない》
「じゃあ、頼まれたら」
《料金》
「高い」
《依頼しない自由》
「それ好きだな」
《好き》
巴は折り畳み黒板を左手で持つ。持ちにくい。
タマキが細い肩紐を付けた。
「借す」
《返す日》
「九月三十日の監査」
《それまで使う》
「うん」
「送らなくていいのか」
迅。
タマキは首を振る。
「巴の荷物を巴へ届けた。行き先は巴が決める」
迅は何も言わない。
巴は市場の出口で振り返る。
白布は壁際に巻かれている。
誰も広げない。
この仕事の期限は終わった。
迅たちは市場の者ではない。
巴も迅たちの者ではない。
それでも、同じ卓で団子を分けた事実は、所属がなくても消えない。
巴は右手を上げず、左手だけで《また》を作った。
いつ、どこで、何の仕事かは定めない。
迅は手話を知らない。
「それ、何だ」
巴は黒板へ書く。
《今は説明しない》
「有効な返答?」
巴は頷いた。
午後一時四十三分。
巴は市場の中央掲示板へ、平文用紙を一束置いた。
制度名ではない。
役所の印もない。
誰でも複写できる普通の紙。
一枚目に、使い方。
《全部を埋めなくてよい》
《同じ言葉を繰り返さなくてよい》
《絵、印、身振りでもよい》
《質問した人が答えを教えない》
《後で直したら、前の文も残す》
《やめる方法を、始める前に確認する》
最後に大きな空欄。
三一が鉛筆を持つ。
「ここ、何を書く」
《質問》
「今ない」
《空ける》
「誰かが勝手に書く」
《箱へ入れる》
轟が右手で、薄い木箱を作った。
左肩は上げない。
蓋に細い穴。
鍵は付けない。
「誰が読む」
三一。
「市場の担当者と、書いた人。名前なしなら公開卓で」
真琴。
「答えられない質問は」
「答えられない、と書く」
槙司が右手で追記する。
「いつ答えるか決められない場合は」
巴。
《未定》
「未定の見直し日は」
《決められるなら》
「決められないなら」
《決められない、と書く》
三一が呆れる。
「何でも、そのまま書くんだな」
《嘘の句点よりいい》
迅が紙を一枚取る。
「俺、書くことない」
《持ち帰る?》
「何に使う」
《分からない》
「役に立たない」
《今は》
迅は紙を戻した。
持ち帰らない。
必要になった人が取れる場所へ置く。
七瀬は掲示板を撮る。
人の顔は入れない。
用紙の空欄が映るよう、少し引く。
巴は用紙の最下段を確認した。
最初は《理解しました》と印刷される予定だった欄。
黒板会の旧書式では、そこへ署名する。
今は違う。
太い字で、一行。
《分からないと言える》
その下に、署名欄はない。
質問を書く余白だけが残っていた。