第473話 第七章「タマキの搬送票」前編
二月二十一日 午前六時五分
荷物は、黙っていても送り主にできる。
人間を荷物にするには、まず黙らせる必要がある。
環玉樹は、病院の搬送票を全部捨てた。
「捨てないで」
病棟事務が言った。
「古い様式」
「まだ有効」
「本人の欄がない」
「家族欄がある」
「本人は家族じゃない?」
「そういう意味では」
「じゃあ、本人欄」
「書式変更は中央の」
「中央へ送らない」
「何を」
「搬送票」
「搬送記録は中央集約です」
「だから送らない」
タマキは、捨てた票を拾わなかった。
床へ散らしてもいない。
個人情報欄を黒く塗り、古紙箱へ入れた。
廃棄時刻と担当者を箱へ書く。
新しい票は、三枚一組。
病院。
受入先。
本人返却。
家族は、本人が指定した時だけ写しを受け取る。
中央へは、人数と受領時刻の集計だけ。
「三枚は、同じ内容?」
病棟事務が訊く。
「同じじゃない」
「それでは原本が」
「病院は医療。受入先は到着。本人は全部」
「本人用が一番多い?」
「本人のだから」
「なくしたら」
「再発行を本人が選ぶ」
「混乱する」
「今まで、中央だけ分かってた」
「効率は良かった」
「誰に」
病棟事務は答えなかった。
タマキは三枚を重ね、穴の位置を変えた。
病院票は左上。
受入票は右上。
本人票は中央。
左耳の圧外傷が残っている。
紙をめくる音の方向を、時々逆に感じる。
だから、音でなく穴で分ける。
「患者一人目」
時雨ミソラが言った。
「呼び方」
「公開しない」
「本人へは」
「本人が選んだ短い呼称」
「送り主」
「本人」
「受取人」
「北病院仮設病床。受領担当は勤務札B-3」
「目的」
「代替刺激器の試験と一泊観察」
「戻り先」
「外環共同病院。本人が変更可能」
「家族写し」
「不要」
「中央」
「人数だけ」
タマキが書く。
能力は使わない。
普通の紙。
普通の鉛筆。
普通の人が読み直せる字。
患者本人が最後に読む。
「一泊って、朝まで?」
「入ってから二十四時間」
「日付が変わったら一泊じゃない」
「訂正」
「一泊、消す」
消しゴムで消す。
《到着後二十四時間の観察。本人が途中終了を求める窓口あり》
「窓口は」
「病棟東。夜は呼出紐」
「呼出紐が壊れたら」
「手鈴」
「耳が聞こえない人」
「発光板」
「停電」
「手で扉を三回」
「三回は廉」
「病院の三回」
「混ざる」
「二回にする?」
「薬箱と同じ」
八番室の少年が、隣の椅子から言った。
「底を二回」
「病院の呼出、二回でいい?」
「僕だけなら」
「全員じゃない」
「じゃあ、人ごと」
タマキは票へ《呼出方法》の欄を増やした。
手鈴。
発光板。
扉二回。
声。
触れてよい場所。
「欄が多い」
病棟事務が言う。
「人も多い」
「一枚に収まらない」
「二枚にする」
「紙代」
「価が計上」
「中央が払わない」
「未払い欄」
「みんな、それを言う」
「感染」
午前八時二十分。
患者十一人のうち、移動が必要なのは七人。
四人は今の病室で、代替装置だけを入れる。
七人の行先は、最初から七つではなかった。
北病院仮設病床へ二人。
西家族口近くの観察室へ一人。
中央保留室へ二人。
同じ病院内の別棟へ二人。
そのうち一人が、票へ署名する直前に言った。
「北はやめる」
タマキは鉛筆を止めた。
「理由」
「言わない」
「受取先」
「中央保留室」
「目的」
「考える」
「治療は」
「今の薬だけ」
家族が横から口を出す。
「北の方が設備がいいんです」
「本人は中央」
「不安で判断できてない」
「判断できないって、誰が診断」
「家族なら分かります」
「家族は診断名じゃない」
タマキの声が敬語になった。
「ご本人が中央保留室を選びました。医療上、緊急に北へ行く必要があるなら、ミソラが理由を説明します。家族の希望は別票へ書けます」
「別にしたら、家族の意見が軽くなる」
「同じにしたら、本人が消える」
「十四歳に家族のことが分かる?」
「分からないので、本人に聞いてます」
患者が、小さく笑った。
「中央」
「受領担当」
「まだ知らない」
「確認する」
タマキは古い票を破らない。
太い斜線を引く。
《本人変更により無効》
変更時刻。
変更前の行先。
変更後。
変更を聞いた人。
家族票には、家族が北を希望したことも残す。
本人票には、家族票が存在することだけを書く。
内容を見たいかは本人が選ぶ。
「新しい票、今作る?」
「何分」
「八分」
「待つ」
「急いでる?」
「急いでる」
「でも待つ?」
「待つ」
タマキは八分で書かなかった。
十六分かかった。
中央保留室の受領担当が交代し、勤務札が変わったからだ。
旧票をまた無効にする。
患者が溜息をついた。
「面倒」
「行ったら違う人よりいい」
「そうだけど」
「面倒は減らさない。間違いを減らす」
「大人みたい」
「悪口?」
「顔は子ども」
「顔は役職じゃない」
「流行ってるね」
「感染」
午前九時二分。
保護病床のシキは、搬送票を受け取らなかった。
「移らない」
タマキは票を引っ込める。
「治療は」
「ここ」
「代替装置の試験」
「受ける」
「証言記録」
「中央へは送らない」
「どこへ」
「病院限定照合室。原本は私へ返す」
「本人も移動する?」
「しない」
タマキは三枚の票を机へ置いた。
一枚目。
《身体》
二枚目。
《治療》
三枚目。
《証言記録》
「身体を送らない」
シキが言う。
「票も作らない?」
「作る」
「送らないのに」
「送らなかった記録」
「正しい」
シキは《身体》へ斜線を引いた。
《現在地から移動しない。再確認は二月二十四日。中央移送を拒否。病院内の緊急移動はその時に本人へ確認》
「緊急で意識がなかったら」
タマキが訊く。
「治療のための病院内移動は医療代行。中央へは運ばない」
「中央でしか治療できない場合」
「その時の状態で決める。今、同意しない」
「受領」
《治療》には、代替刺激器の試験だけを書く。
「血液検査」
「受ける」
「誓痕痕の測定」
「治療に必要な範囲」
「設備研究への二次利用」
「拒否」
「結果を誰へ」
「私。ミソラ。検査担当。中央へは合計値だけでも送らない」
「理由」
「私の結果は、四十八人の安全値を決める材料へ使われる」
「使わない証明」
「照合室の閲覧記録」
「見る人」
「私が一人ずつ選ぶ」
「選ばない人」
「冬城。中央設備。無標班の旧担当」
「名前を言わない人もいる」
「勤務札まで」
タマキは、閲覧拒否の範囲を別紙へ書く。
拒否者の一覧が、逆に秘密の名簿にならないよう、本人用だけに詳しく残す。
病院用には、閲覧許可を得た者だけ。
三枚目。
《証言記録》
シキは、昔の無標班で行った加害の証言を、限定照合室へ運ぶことだけに同意する。
「記録は荷物?」
「荷物」
「送り主」
「私」
「受取人」
「限定照合室。受領者は綺理」
「目的」
「病院停電時の侵入経路と命令系統の照合」
「閲覧」
「記録の存在だけ公開。内容は、被害者ごとの許可」
「封緘便」
「使わない」
「なぜ」
「今日、使うのは設備部品の一件だけ」
「能力の回数制限?」
「私の運用制限」
「その方が強い?」
「強いか知らない。料金と身体が一件分」
「身体」
「左耳がまだ傾く」
シキはタマキの顔を、正面から見ない。
左側へ立つ。
「こっち、聞こえる?」
「右より悪い」
「じゃあ、右へ」
「右へ急に動かないで」
シキは一度止まり、タマキの視界の中を通って右側へ移った。
「こう?」
「受領」
「触る時」
「左肩。後ろからは触らない」
「私も後ろは嫌」
「同じ理由?」
「違う」
「違うまま、方法は同じ」
証言記録は、黒い封筒三つに分かれていた。
一つは、シキ自身が行ったこと。
一つは、命令を受けたこと。
一つは、見たが実行しなかったこと。
「一緒にしない?」
「一緒にすると、命令されたことが免責に見える」
「別にすると、命令がなかったみたいに使われる」
「三つを同じ袋へ入れて、封筒は分ける」
タマキは厚い透明袋を用意した。
外側へ書く。
《三封筒は同時到着。単独引用禁止》
「家族へ写し」
「いない」
「いない、を公開?」
「しない。家族欄自体を外す」
「空欄にしない?」
「空欄だと、書き忘れに見える」
タマキは欄へ斜線を引く。
《この票では扱わない》
証言記録を運ぶのは、病院の記録係と、限定照合室の受領補助。
タマキは同行しない。
「自分で運ばない?」
シキが訊く。
「受取人と経路を確認した。普通に運べる」
「能力者なのに」
「前から配達」
「能力がない時より、使わない理由を訊かれる」
「シキも?」
「名前を選んでから、全部の理由を訊かれる」
「答える?」
「答えたい時」
「同じ」
「違う」
「違うまま、方法は同じ」
シキが言った言葉を、タマキが返した。
記録係が透明袋を持つ。
「送り主」
「シキ」
「受取人」
「限定照合室、石英綺理」
「目的」
「侵入経路と命令系統の照合。単独引用禁止」
「受領」
袋は病室を出た。
シキは残った。
治療も残った。
証言だけが運ばれた。
移送を拒否した人間の記録が、拒否ごと病床へ固定されるのではなく、本人の選んだ範囲だけ別の場所へ届いた。
タマキは《身体》の搬送票を本人へ返した。
斜線の入った紙。
何も運ばなかったことを、失敗ではなく本人の選択として残す紙だった。
午前十時十一分。
赤錆大工場から、代替抵抗器の最後の部品が出た。
耐熱陶器の筒。
長さ四十二センチ。
直径十八センチ。
重量九・四キロ。
送り主は、鉞谷鉄志。
受取人は、上水第三地域手動所の設備係。
目的は、中央補償器から地域上水ポンプを切り離すための抵抗器八番へ組み込むこと。
到着期限、午後零時四十分。
通常経路は二時間。
間に合わない。
「能力」
鉄志が言った。
「条件」
タマキが返す。
「送り主、俺」
「受取人」
「上水第三。設備係の浜札二番」
「名前」
「本人が勤務札公開だけ」
「目的」
「抵抗器八番」
「受入れ」
鉄志が小さな受信板を見せる。
上水第三から、青い受領灯。
「経路中に変更」
「封を切る」
「誰が」
「送り主か受取人」
「途中の警備」
「切れない」
「事故」
「タマキが切る」
「切ったら能力終了」
「知ってる」
「軽くならない」
「持てるか」
「重い」
「何人」
「二人」
「能力は、お前だけに道を出す」
「一緒に走る人は、紐で確認」
「左耳」
「方向は能力。平衡は普通」
「普通が壊れてる」
「少し」
「少しの床は、人を落とす」
轟が台車を持ってきた。
小径の二輪。
傾斜路用の制動帯。
前輪へ、左右を触って区別できる突起。
「右が丸。左が角」
「見れば」
「目を閉じても」
「閉じない」
「煙が出るかもしれん」
「縁起悪い」
「縁起は安全装置じゃない」
タマキは部品へ防水布を巻いた。
封緘札。
送り主。
受取先。
目的。
三つを本人が読んだ。
鉄志が封を閉じる。
遠くで、上水第三の受領灯がもう一度点く。
タマキの胸の奥で、細い線が一本、ほどけた。
封緘便〈シールド・ルート〉。
世界に道が増えるのではない。
今、通れる一方向だけが、身体へ分かる。
北東。
下り。
右。
低い通路。
「出る」
タマキが言う。
台車の後ろを、工場の若い運搬係が持つ。
名前は公開しない。
役目だけではなく、本人が同行を選んだ記録はある。
「速い?」
「道が分かる。足は普通」
「良かった」
「何が」
「九・四キロが軽くなったら、俺の仕事がなくなる」
「軽くならない」
「良かった」
「重い」
「それも良かった」
「運ぶの好き?」
「金が出る」
「正しい」
二人は走った。
経路は、正門へ向かわなかった。
旧熱管の保守路。
洗濯場の裏。
使われていない計量台の下。
暖房管の上を渡る狭い歩廊。
道は最短ではない。
通れる。
その違いを、能力は説明しない。
タマキは自分で見る。
床の濡れ。
手すりの高さ。
台車の幅。
同行者の息。
「止まる」
「何」
「左、傾いてる」
実際には右へ傾いていた。
耳の後遺症。
タマキは目を閉じない。
台車の突起を触る。
丸が右。
角が左。
「右」
「今、左って」
「訂正。右」
「能力は」
「道だけ」
「便利じゃない」
「便利」
「転びそう」
「普通」
制動帯を締める。
二人で台車を下ろす。
途中、中央警備の検問があった。
「通行許可」
「上水第三の受領」
「中央搬入印がない」
「中央へ運ばない」
「設備部品は中央検査を受ける」
「期限」
「一時間」
「間に合わない」
「規則です」
「誰の水を止める規則」
「通してください」
同行者が言う。
警備員が短棒を横へ出す。
「部品を開ける」
「開けたら封が切れる」
「検査です」
「受取人が変わる?」
「中央検査所が一時受領します」
「違う」
「何が」
「受取人」
「規則上」
「送り主は上水第三へ送った。中央へは送ってない」
「なら、通せない」
道は、検問の向こうへ続いている。
能力は通れると言う。
警備員は通さない。
能力に従って進めば、短棒を避けて抜けることはできるかもしれない。
タマキは止まった。
「受取人へ連絡」
「中央回線は混雑」
「普通の電話」
「ここにはない」
「走者」
「期限に間に合わない」
「あなたの名前」
「勤務識別で」
「通さない理由を書いて」
「子どもへ説明する必要は」
タマキの声が敬語になる。
「十四歳です。配達担当です。送り主、受取人、目的が一致した荷物を、中央が一時受領しようとしています。受取人変更を要求するなら、あなたの識別と理由を記録してください」
警備員の顔が固まる。
同行者が小さく言う。
「大人みたい」
「今それ禁止」
警備員は書かなかった。
代わりに、横の非常口を開けた。
「保守担当の裁量で、経路だけ許可する。検査は上水第三で」
「名前」
「勤務札C-8」
「理由」
「停止準備の遅延回避」
「受領しない?」
「しない」
「通る」
能力の線は、非常口へ曲がっていた。
最初から。
能力は、警備員が扉を開けることまで決めていない。
通れる道は、人の判断によって初めて通路になる。
午後零時二十六分。
上水第三地域手動所まで、残り百八十メートル。
受領灯が消えた。
タマキの胸の線が揺れる。
「止まる」
台車を止める。
受領側から、走者が来た。
「搬入口変更!」
「どこ」
「北は中央警備が封鎖。南の旧洗浄口」
「受取人」
「同じ。浜札二番」
「目的」
「同じ」
「受入れ」
「南で出し直す」
「今の封」
「切る」
走者が息を切らしながら、封緘札へ手を伸ばす。
タマキは止めない。
「受取人本人?」
「代理」
「切れない」
「時間がない」
「本人」
「中でポンプ止めてる!」
「連絡」
「紐信号」
走者が三本の紐を引く。
遠くで、青、青、黄の灯。
受取人の確認符号。
変更。
南。
封切り許可。
「切って」
走者が封を切った。
その瞬間、タマキの胸から道が消えた。
北東も、下りも、右もない。
世界が一度、左へ傾く。
タマキは台車へ膝を付いた。
「能力が」
「終わった」
「南は」
「地図」
「分かる?」
「分からない」
「さっきまで」
「変更した」
「能力をもう一度」
「一件一回。新しい封は、受取人が作る」
「間に合わない」
「案内して」
タマキは言った。
能力を続けるため、変更を拒まない。
受入側が安全な入口へ変えた。
封を切った。
道が消えた。
正しく終わった。
走者が台車の前へ立つ。
「こっち」
「右左、言わないで。建物で」
「赤い煙突へ。次、低い壁」
「受領」
三人で運ぶ。
能力なし。
残り百八十メートルが、来た道のどこより長い。
午後零時三十八分。
南の旧洗浄口。
浜札二番が自分で部品を受け取った。
「送り主」
「鉞谷鉄志」
「受取人」
「上水第三、浜札二番」
「目的」
「抵抗器八番」
「受領」
四十秒後、部品は組立台へ載った。
期限まで二分。
タマキは座り込んだ。
左耳が熱い。
「水」
同行者が差し出す。
「送り主」
「俺」
「受取人」
「環玉樹」
「目的」
「倒れない」
「料金」
「無料」
「怪しい」