第328話 第六章「失敗する命令」後編

 轟。

「気持ち」

「工事図へ気持ちを書くな」

「でも、入口は一人ずつある」

 轟は反論せず、別紙へ《登録取消窓口》と書いた。

 乱馬が座席図を指で叩く。

「一般客は、何を見る。証者でないなら、ただの客?」

「見ることを選んだ人」

 七瀬。

「入場料を払った人」

 小麦。

「途中で返金を求められる人」

 真琴。

「拍手しても委任したことにならない人」

 タマキ。

「面白くなかったら怒る人」

 カナタ。

「最後まで見たら、何か受け取った人」

 乱馬。

 凱が訊く。

「何を」

「それを、俺が決めたい」

「決めるな」

「演出家へ残酷だ」

「観客の意味まで演出するな」

 乱馬は笑う。

「君、王をやめる練習が上手くなった」

「まだやめていない」

「だから面白い」

 会議室の隅で、鐘巻十夜が懐中時計を三分進めた。

「俺の第二部、入場時刻は?」

「二十二時四十分」

 真琴。

「終了は」

「試合終了後、医療確認。興行全体は零時まで」

「試合が長引いたら」

「停止条件を優先」

「客が待ってる」

「待たせる」

 豪はいない。

 十夜のセコンドを断って、救護訓練へ行っている。

 十夜は自分の手袋を巻き直す。

「最後の夜に、待たせるのは悪いね」

「最後と決めたのは誰」

 イオ。

「契約」

「契約を書いたのは」

「俺と乱馬と興行局」

「心臓は署名した?」

「指がない」

「ある。あなたの指で書いた」

 十夜は胸の札を押さえる。

「水科さん、冗談が重い」

「重量欄ない」

 真琴は新しい紙を出す。

《医療停止時、興行契約は自動停止》

《停止後の再開は、本人同意と医療再評価を要する》

《観客の期待、返金額、録音拍手を再開理由にしない》

 十夜が読む。

「最後の一文、俺が泣く」

「涙は再開理由へ入れません」

「真琴さん、芸が分かってきた」

「分かりたくありません」

 凱は座席図へ最後の指示を出す。

「空席を六百残す」

「救護動線と緩衝帯で五百八十」

 轟。

「二十は」

「用途を決めない」

 乱馬が見る。

「売れたのに、空ける?」

「当日、予測できない事情のため」

「空白は絵にならない」

「空白が必要になってから作る方が遅い」

 凱は、座席図の赤を二十席ぶん消した。

 白い四角が残る。

 その席に誰が座らないかは、まだ誰も知らない。

 座席図を決めた後、二十席の空白が本当に役に立つか、無人の競技場で試した。

 人の代わりに、背もたれへ砂袋を置く。

 四千二百の椅子へ、四千二百個は置けない。

 百二十個だけ。

「少ない」

 乱馬。

「人間は砂袋より重い」

 轟。

「熱はない」

「熱を測る試験じゃない」

 カナタが、東通路の上段へ立つ。

「想定。第二部終了後、観客一人が胸痛。東通路で転倒。後ろの人が止まる。録音拍手が流れる」

「最後の条件、必要?」

 乱馬。

「流すんでしょ」

「盛り上がり次第」

「事故も盛り上がり次第?」

「分かった。流す」

 録音拍手が鳴る。

 無人の椅子へ、均一な音が降る。

 カナタが転倒役の砂袋を通路へ置く。

「開始」

 凱が中央へ立つ。

「東側、通路を空けろ!」

 誰もいない。

 当然、動かない。

 誘導員役の十二人が、凱の声を聞く。

 三人が東へ走る。

 二人は西から回ろうとする。

 四人は、どの東側か分からず中央を見る。

 残りは、拍手で聞こえない。

「停止」

 轟が言う。

 凱が振り向く。

「まだ開始直後だ」

「救護到達、遅れる」

「声量を上げる」

「音響より大きく?」

「録音を止めろ」

 乱馬が操作卓を見る。

「停止線、舞台袖」

「なぜ」

「演出停止は舞台監督」

「今、乱馬が卓にいる」

 カナタ。

「本番は俺が舞台袖」

「じゃあ今、誰が止める」

 音響係が手を上げる。

「停止権限、聞いてません」

 真琴が記録へ書く。

《録音再生の停止権限が、再生担当者にない》

「音響係にも止める権限を」

 凱。

「演出が崩れる」

 乱馬。

「人が倒れたら、崩せ」

「倒れたか、音響席から見えない」

「誰が伝える」

 全員が、カナタを見る。

「僕?」

「舞台袖監督」

 乱馬。

「一人へ集めた」

 カナタが言う。

 空の競技場へ、録音拍手だけが続く。

 七瀬が、固定台の横から赤い札を上げた。

《医療音声優先》

 音響係が読む。

 自分の判断で再生を切る。

 拍手が止まる。

「今の権限は」

 真琴。

「赤札が出たら、音響係が切る」

「赤札を出せる人」

「医療者、安全責任者、舞台袖監督、記録責任者」

「本人は」

 タマキ。

「観客が倒れた人?」

「手を上げられないかもしれない」

「近くの人」

「誰でも赤札を出せると、悪戯が」

 審査職員。

「赤札を出すのは誰でも。再生停止は即時。誤報かは後で確認」

 凱が言う。

「演出を止める損害より、救護音声が消える損害を優先する」

 乱馬が眉を上げる。

「王命?」

「興行条件。おまえが同意しなければ、録音拍手を使わない」

「選択肢が狭い」

「音は一つでいい」

 乱馬は空の客席を見る。

「使う。赤札も」

「署名」

 真琴が紙を出す。

「今?」

「本番前」

 乱馬は署名する。

 二回目の訓練。

 凱は中央へ立たない。

 北区画の誘導員一人へ言う。

「東通路、上段で胸痛者。録音停止済み。おまえは上から三列を座らせる。救護路を一列空ける。復唱」

「東上段、三列座らせる。中央一列を空ける」

「中央ではない。通路側一列」

「通路側一列」

 次の一人。

「東下段、立っている者を西へ動かすな。その場へ座らせる。転倒者の周囲二席を空ける」

「受けた」

 次。

「救護班、東入口から。担架ではなく椅子。胸痛者へ触れる前に意識確認」

「受けた」

 凱の声は、一度に全体へ届かない。

 区画担当が復唱する。

 言葉が十二個に分かれ、通路が一つ空く。

 救護役が、転倒砂袋へ到達する。

 所要、一分十二秒。

 一回目は、二分を越えても到達できなかった。

「遅い」

 凱。

「一回目より早い」

 轟。

「本番は人がいる」

「人がいるから、区画担当もいる」

「拍手で聞こえない」

「赤札で切る」

「赤札が見えなければ」

 七瀬が、白い札を一枚追加する。

《再生中》

「音が流れている時は、表示を出します。止まったか、目で分かる」

「高音が聞こえない人は」

 タマキ。

「表示と床の低音振動を組み合わせます」

 澪は来ていない。

 来ていない人の感覚も、設計へ入れられる。

「三回目」

 凱が言う。

 乱馬が椅子へ座り込む。

「興行前に、興行より長い」

「事故は、終演後も続く」

 カナタ。

「名言っぽい」

「記録しないで」

 七瀬。

「もう覚えた」

 迅が言う。

「劣化原本」

「失礼だな」

 三回目の訓練は、五十八秒だった。

 誰も王路を使わない。

 空けた二十席のうち八席を、救護器材の一時置場へ使った。

 残る十二席には、最後まで誰も座らなかった。

 用途を決めなかった空白は、決めなかったまま役に立った。

 広場の外には、凱の支持者が四十人ほど残っていた。

 作業員ではない。

 旧白冠の腕章を持つ者。

 過去の公開誓戦の券を首から下げた者。

 病院線を守られた家族。

 凱の命令で配給列へ入れた住民。

 彼らは、朝の失敗を見ていた。

 見て、別の意味をつけていた。

「わざとだろう」

 年配の男が言う。

「能力を温存した。八日の判定まで」

「そうでなければ困る」

 若い女。

「王が普通の説明をしてる間に、外環は取られる」

「迅に勝てば戻る」

「最初も、あいつを殴って王になった」

 凱が歩みを止める。

「違う」

 四十人が静まる。

 静まるまで、一呼吸掛かった。

 以前より長い。

「最初の決闘で、俺は王になっていない。俺は既に白冠の旗主だった。迅との戦いで、記録と責任が公開された」

「でも、勝った」

「勝敗は」

 凱の声が一瞬止まる。

 あの夜。

 自分は立っていた。

 迅も立っていた。

 殴られた。

 王として残った。

 誰が勝ったと記録した。

 観客は、結末を一語にしたがる。

 一語は覚えやすい。

 覚えやすいものは、何度も売れる。

「決まっていない」

 凱が言う。

「今度こそ決めろ」

 別の男が叫ぶ。

「力があるなら王でいい。ないなら降りればいい」

「能力がなくても王だ!」

 反対側から声が返る。

「凱様が守った!」

「王路が消えても、王は王だ!」

 両方の声が、凱の前へ進路を作る。

 右へ行けば、勝て。

 左へ行けば、勝たなくていい。

 どちらも、自分で歩幅を決めていない。

「静かに」

 凱が言う。

 静かにならない。

「静かにしろ!」

 怒鳴る。

 今度は静まった。

 能力ではない。

 驚いたからだ。

 驚きは、一度しか使えない。

 凱は群衆の中央へ立つ。

「七月八日、公開判定を行う」

 乱馬が、広場の端で腕を組んでいる。

 長い暗赤色の髪を、風が持ち上げる。

 口元が、宣伝文句の形へ動いた。

 凱は先に言う。

「三部構成だ。第一部は指揮試験。第二部は鐘巻十夜の興行試合。第三部で、竜胆迅と再戦する」

 群衆が沸く。

 四十人の声が、競技場の四千二百席を埋めたように響く。

「勝てば王だ!」

「能力がなくても王だ!」

 同時に飛ぶ。

 凱は、どちらも肯定しない。

「判定に使う証者は、事前登録した二百十人だけだ。客席の声を無制限に能力へ足さない。試合の勝敗と代表資格は別に審査する」

「別にするな!」

「逃げるな!」

「王を審査するな!」

 三つの反対が重なる。

 凱は怒鳴らない。

 今日はもう、驚きを使った。

「反対の受付は、北窓口。氏名を公開しなくてよい。理由も必須ではない。七月七日二十時まで」

 真琴が後ろで息を吐く。

 今の文言は、彼女が作った。

 凱は借りた。

 借りた言葉で命令すると、王が小さくなるのではない。

 言葉の持ち主が増える。

 迅は、競技場の七段差に座っていた。

 夕日が段の縁へ細い線を作る。

 読み切りの夜とは違う。

 あの時は雨が残り、群衆の息が白かった。

 今は乾いた夏の熱が石へ残り、座ると傷のない掌まで温かくなる。

「正式挑戦状」

 凱は封筒を差し出した。

 迅は受け取らない。

「さっき、口で聞いた」

「契約条件がある」

「真琴の字だろ」

「内容は俺だ」

「字も自分で書け」

「公式文書だ」

「誕生日の黒板は書いた」

「比較するな」

 迅は封筒を見る。

 表には、《竜胆迅へ》とある。

 凱の右手で書かれた字だ。

 最初の一画が、少し長い。

 受け取る。

 中の契約書を開く。

《第三部 公開再戦》

《開始予定 二十三時五十二分》

《三ラウンド制。一ラウンド三分。休憩一分》

《本人、医療者、審査主任、安全責任者のいずれも停止できる》

《本人は理由を示さず停止できる》

《停止後に説明を強制しない》

《延長なし》

《能力所見、身体技能、試合勝敗、代表資格を別記録とする》

「夜遅い」

 迅。

「十夜の興行契約が零時終業だ」

「その前に俺たちを入れる理由は」

「客席が残る」

「客のためか」

「公開判定だ」

「公開と満席は同じじゃない」

「満席にはしない。四千二百席のうち、一般販売は三千三百九十。証者は二百十」

「十分多い」

「おまえは観客がいても戦える」

「おまえは、観客がいないと出ない」

 凱の目が細くなる。

「だから確かめる」

「何を」

「まだ出るか」

「出なかったら」

「終わる」

「何が」

 凱は答えない。

 迅は契約書を畳まない。

「おまえ、終わるものを一個にしたがるな」

「王路が出なければ、王位の根拠が」

「能力が終わる。試合が終わる。王をやめる。おまえが死ぬ。全部別だ」

「死ぬとは言っていない」

「言わない方が使う」

「何を」

「身体」

 迅は立つ。

 七段差の一番下へ降りる。

 凱は上にいる。

 昔と同じ構図になる。

 迅は横へ二歩ずれた。

「同じ場所に立つな」

「験担ぎか」

「飽きた」

「おまえは勝ちたいのか」

 凱が訊く。

「勝ちたい」

 迅は即答する。

「なら、全力で来い」

「来る」

「止めるな」

「止める」

「矛盾している」

「おまえを殴るのと、おまえの自殺を手伝うのは別だ」

「自殺ではない」

「じゃあ、自分で止まれる」

 凱は契約書の停止条項を見る。

 自分で入れた。

 真琴が書いた。

 イオが理由不要を足した。

 審査主任が認めた。

 全員の言葉が、一枚に同居している。

「止める必要がなければ、止めない」

「それでいい」

「勝っても、王位を奪わないのか」

「要らない」

「責任から逃げるのか」

「王冠を取らないと逃げたことになるなら、その王冠、便利すぎる」

 迅は署名欄へ自分の名を書く。

 右手を使った。

 環指と小指が、最後の払いで少し遅れる。

 字は崩れた。

「おまえも書け」

 凱は同じ筆を受け取る。

 右手が震える。

 最初の《獅》が、二本に見える。

 書き直さない。

《獅堂凱》

 二人の名が、勝者欄のない紙へ並ぶ。

 競技場の時計が、十八時を打った。

 乱馬が遠くで試合告知の幕を広げる。

《最後の王戦》

 カナタが、その《最後》の文字だけを裏返した。

 裏には何も書いていなかった。