第327話 第六章「失敗する命令」前編
七月六日、午前九時四十一分。
旧王環競技場の南広場で、獅堂凱の命令は三つに割れた。
「下がれ」
凱はそう言った。
一番近くにいた作業員は、持っていた鉄管を下へ置いた。
二人目は、足場の下から一歩だけ退いた。
三人目は、自分に言われたのではないと思い、頭上の仮設幕を結び続けた。
三人とも、日本語は分かっていた。
分かっていて、違う動きをした。
これまでなら、起こらなかった。
白い外装板が、幕の上で鳴った。
乾いた金属音。
螺子が一つ、石床へ落ちる。
「全員、下がれ!」
凱の二度目の声が広場へ叩きつけられる。
声量はあった。
腹から出ていた。
競技場の壁へ反響し、北側の露店まで届く。
それでも、全員は同じ方向へ動かなかった。
幕を結んでいた男が、結び目を最後まで締めようとした。
鉄管を置いた女は、転がり始めた管を追った。
足場下の若者は、凱へ顔を向けたまま固まった。
「聞こえなかったのか!」
凱が踏み出す。
左膝の装具が、浅く鳴る。
頭上で、二枚目の外装板がずれた。
「凱、止まれ」
伏見轟の声だった。
命令というより、工事用の測定値に近い。
大きく、低く、対象が一人に絞られている。
凱は止まった。
轟は右手を上げ、指を一本ずつ使った。
「灰色帽子。縄を離せ。右へ四歩」
幕の男が、縄を離す。
「赤い手袋。管を追うな。足で止めるな。左の木枠へ入れろ」
女が、転がる鉄管の前へ木枠を差し込む。
「青い上着。凱を見るな。頭の上を見ろ。柱の外へ」
若者が、二歩で柱の外へ出る。
「北側。吊り索を緩めるな。南側。今から三つ数える。仮支柱を右へ倒す」
誰も同じ言葉を受け取っていなかった。
だから、同じ方向へ逃げられた。
「一」
外装板が、仮設幕の骨へ当たる。
「二」
轟は左肩を身体へ付けたまま、右腰で支柱の底を押した。
「三」
南側の作業員二人が支柱を倒す。
板は幕を巻き込みながら、空いた砂地へ滑り落ちた。
砂が低く跳ねる。
誰も下敷きにならなかった。
凱は落ちた板を見た。
縁が二度曲がっている。
交換が必要だ。
人間は交換しなくて済んだ。
「退避完了」
轟が言う。
「負傷確認。赤い手袋、右足首。灰色帽子、右手。青い上着、耳。順に返事」
三人が答える。
凱は答えなかった。
自分は訊かれていない。
事故ではない。
南広場安全記録には、そう書かれた。
《外装板の支持螺子脱落。落下前に作業停止。人的被害なし。外装板二枚破損。原因調査中》
真琴が用紙の端へ、別の欄を作る。
《最初の警告内容》
凱は椅子に座らず、机の前に立っていた。
「危険だから下がれ、と言った」
「最初は《下がれ》だけです」
七瀬。
撮影機は回していない。
左肩を休めるため、腰高の台へ小型録音筒だけを置いている。
「意味は同じだ」
「危険の場所が違います」
轟は折れた螺子を布へ並べた。
「下がる方向も違う。足場の下から下がる。管から離れる。吊り索を持ったまま支柱の外へ出る。三つは別だ」
「以前は通じた」
凱の言葉が、机の角で止まる。
「以前は、全員が俺を見た」
「見て、何をした」
イオが訊いた。
椅子へ横向きに座り、左右の長さが違うズボンの裾を揃えないまま、相談票を膝へ載せている。
「従った」
「何へ」
「命令へ」
「内容へ?」
凱は答えない。
イオは右腕を机へ置いた。
強化が失われた腕。
見た目には普通だ。
電気熱傷の白い線だけが、肘から手首へ斜めに残っている。
「能力があった頃、私は作業車を片手で止めた」
誰も驚かなかった。
台帳にある。
見た者もいる。
「止めた後、車輪止めを入れる人へ《急いで》って言った。全員、急いだ。何を急ぐかは言わなかった」
「車輪止めだろう」
「一人は救護箱を取った。一人は後輪へ回った。一人は私の右腕を支えた。最後の人だけが止めを持った」
「事故は」
「起きなかった。私が持っていたから」
イオは右手の指を開く。
開いた。
力は戻らない。
「次に同じことが起きた時、もう持てなかった。仲間は私を車両から遠ざけた。座らせて、毛布を掛けて、何も触らせなかった」
「保護した」
「そう。私は必要な手順を知っていたのに、保護された」
凱の眉が寄る。
「それが不満か」
「不満。正しかった部分もある」
イオは二つを同時に言う。
「私は右腕を以前の速度で出そうとして、別の作業員の顎を打った。骨は折れなかった。歯が一本欠けた。私を現場から離す判断は正しかった。でも、その後三か月、時計の確認まで代わりにされた」
タマキが鉄箱の上で、欠けた歯の数を指で一つ作る。
「歯、払った?」
「治療費は払った」
「時計は」
「返してもらった」
「三か月後」
「三か月と二日」
「覚えてる」
「時間の人だから」
イオは凱へ向き直る。
「力を失うと、二種類の人が寄ってくる。前と同じことをさせる人と、何もさせない人。どっちも、今の身体を見ない」
「俺は何も失っていない」
「今日の指示は失敗した」
「能力ではなく、説明の不足だ」
「そう。それを能力のせいだけにしなかったのは、今日一番いい答え」
褒められた気がしない。
イオは相談票へ書く。
《職種:復旧指揮》
《現在できる仕事:危険箇所の発見、人数配置、優先順位決定》
《支援が必要な仕事:対象別の具体指示、長時間立位》
《本人が拒否する支援:代行命令、常時介助》
「勝手に書くな」
「読んで直して」
「俺は相談者ではない」
「今、相談してる」
「していない」
「じゃあ、怒ってる」
「それは認める」
「一個埋まった」
イオは《現在の感情》の欄へ、怒りと書いた。
真琴が横から用紙を見る。
「感情を職能台帳へ入れる必要はありますか」
「怒ってる時に命令が短くなる人は必要」
「主観的です」
「本人の申告」
「申告していません」
「認めた」
真琴は反論を考え、やめる。
代わりに、事故記録へ追記した。
《再発防止:危険方向、対象、動作、待機条件を分けて指示する。全体命令だけで退避完了とみなさない》
凱は文字を見る。
「長い」
「人が死ぬより短いです」
真琴の言葉は、いつも句点の後まで続いているように聞こえる。
午後、凱は同じ広場で説明をやり直した。
集まった作業員は二十七人。
朝の三人もいる。
外装板を落とした現場から逃げず、原因確認へ戻った。
凱は図板を持つ。
図板は嫌いだった。
両手が塞がる。
視線が紙へ落ちる。
王が紙を読む間、群衆を見られない。
「南広場の作業を、三区画へ分ける」
誰も動かない。
以前なら、声の最初で背筋が伸びた。
今は、聞いているだけだ。
聞いているだけの人間は、従っていないように見える。
凱はその見え方を飲み込む。
「一班。灰色の縄から北。外装板を下ろす。吊り索を離すな。螺子が落ちたら、作業を止めて右手を上げる」
灰色帽子の男が手を上げる。
「右手を上げるのは螺子が落ちた時?」
「そうだ」
「板が鳴った時は」
「止めろ。左手を上げる」
「両方なら」
「両手だ」
「縄、離れる」
轟が咳を一つする。
凱は言い直す。
「声で《両方》と言え。手は縄から離すな」
男が頷く。
二班。
三班。
質問は七つ出た。
凱は七つに答えた。
一度目より、開始が十二分遅れた。
事故は起きなかった。
作業速度は、以前より一割落ちた。
夕方までに終わるはずだった外装撤去が、三枚残った。
「失敗だ」
凱は言った。
轟は作業台の上で、工具を数えている。
「何が」
「予定を達成していない」
「人を落とさず、板を六枚下ろした」
「九枚の予定だった」
「予定を直す」
「弱くなるたびに予定を下げるのか」
「身体と人数と天気が変われば、予定は変える」
「王は、変わる条件の中で結果を出す」
「今日は王の仕事か」
凱は轟を見る。
轟は数え終えた工具へ布を掛ける。
「外装を外す仕事だ」
「同じだ」
「違う。王冠で螺子は回らん」
「誰が王冠で回すと言った」
「言ってない。言ってないのに、同じだと言った」
轟は右肩で工具箱を持ち上げる。
左肩は上げない。
「違うものを同じにすると、一番強い名前が全部食う」
「王が食ったと言いたいのか」
「おまえが、何を言ったかより、誰が言ったかで人を動かしてた話だ」
「動かなければ守れない時がある」
「ある」
轟は否定しない。
「だから朝、俺は名前と動作を言った。急ぐのをやめてない。命令もやめてない。中身を増やした」
「時間が掛かる」
「時間の掛からん説明は、後で人の時間を取る」
工具箱の蓋が閉じる。
凱は、広場に残った三枚を見る。
未達成の三枚。
生存した二十七人。
同じ紙の上で、どちらを先に書くか。
「明日は何時だ」
「八時」
「七時半にする」
「作業員の契約は八時」
「俺だけ七時半に来る」
「先に螺子を調べるなら、検査の賃金を付ける」
「俺へ?」
「作業へ」
小麦の言葉が移っている。
善意と仕事を混ぜない。
王と螺子を混ぜない。
分けるほど、帳簿は厚くなる。
作業終了後、競技場の北会議室で公開判定の座席図が広げられた。
四千二百の椅子が、小さな四角で並んでいる。
紅城乱馬は、そのほとんどを赤で塗っていた。
「赤は何だ」
凱。
「販売席」
「多い」
「競技場は、人を入れるためにある」
「避難通路は」
「白」
「撮影拒否区画」
「薄赤」
「赤だ」
「照明が違う」
「紙では同じに見える」
七瀬が、赤鉛筆を乱馬から取り上げた。
「撮影同意、撮影拒否、保留を、色だけで分けないでください」
「札も付ける」
「暗転したら読めません」
「興行中に書類を読む客はいない」
「読めない条件で同意を取らないでください」
乱馬は椅子へ深く座った。
「検証だけなら、地下の白い部屋で二百人に見せればいい。四千二百席を使うなら、舞台として使う」
「舞台だから、検証を演出へ従わせる?」
「検証も演出だよ。誰を正面へ置くか。どの順に読むか。沈黙を何秒待つか。君だって選ぶ」
七瀬は否定しない。
「選んだことを隠しません」
「俺も隠さない。《最後の王戦》って大きく書く」
カナタが、座席図の上へ一枚の紙を置く。
《途中退出口》
「最後まで見る義務はない」
「出口はある」
乱馬。
「客席の後ろ。照明が消える。退場すると前を横切る」
「じゃあ、演出が退出を罰してる」
「そんな意図は」
「意図がなくても、四千人の前で立つのは勇気が要る」
凱が座席図を見る。
「東西へ退出路を増やす」
「席を百二十潰す」
「潰すと言うな」
轟が壁際から言った。
「空ける。通路の幅は車椅子二台がすれ違う分。東は床が傾いてる。仮床を入れる」
「費用」
真琴。
「材料はある。作業賃金は六人、半日」
「興行会計」
乱馬が渋い顔をする。
「安全は共同会計では」
「興行のために増設する分は興行」
小麦が会議室へ食事券を置きながら言った。
「安全を善意へ入れると、次の興行で消える」
「君たち、金の話をすると元気だね」
「払う人が元気じゃなくなるから、先に話す」
真琴は座席図の余白へ書く。
《一般販売席 三千三百九十を上限》
《一般観客は能力判定の証者へ自動算入しない》
《登録証者 二百十名》
《登録後も開始前まで辞退可》
《開始後の離席、沈黙、拍手は、判定支持と自動解釈しない》
「二百十は、なぜ」
タマキ。
「過去の判定規格です」
真琴。
「二百十一だと駄目?」
「駄目ではありませんが、比較条件が」
「百人目の空席の時、数を揃えるために人を入れたら怒った」
「今回は、能力出力の測定条件です」
「人を測定器にする?」
真琴の筆が止まる。
凱が答える。
「証者は、俺が誓いを守ると信じる人間だ。機械ではない」
「じゃあ、二百十人みんな、凱を信じる?」
「信じない者も必要だ」
「信じない人は証者?」
「俺が誓いを守らない可能性まで見ている者だ」
「それ、信じてる?」
タマキの問いは、遠回りをしない。
凱は座席図の二百十の小さな四角を見る。
「俺の言葉が、能力で信じさせたものかもしれないと疑っている。その疑いを持ったまま、記録を見る者を含める」
「本人が、そうしたいって言った人だけ?」
「そうだ」
「辞めたいって言ったら」
「辞められる」
「凱が困っても?」
「困る」
「それでも?」
「辞められる」
タマキは二百十の四角の一つへ、小さな扉を描いた。
「一人ずつ出口」
「図面に扉を二百十個作るな」