第329話 第七章「迅との再戦」前編

七月八日、二十時零分。

 旧王環競技場の四千二百席は、六百席だけ空いていた。

 売れ残ったのではない。

 売らなかった。

 救護動線。

 退出待機。

 撮影拒否者のための遮光区画。

 車椅子の回転半径。

 興奮した観客同士を離す緩衝帯。

 空席にも仕事がある。

 空いているから、無駄とは限らない。

「空席を映して」

 七瀬が言った。

 撮影台は三台。

 中央は固定広角。

 東は試合場だけ。

 西は記録板と時刻表示だけ。

 七瀬自身は腰高の台へ右手を添え、左肩を吊り帯で休ませている。

「客を映さないのか」

 紅城乱馬が訊く。

「撮影同意のある区画は映します」

「四千人の顔があって、初めて大興行だ」

「四千人の顔を売る許可は取っていません」

「熱は数字にならない」

「熱で同意欄は埋まりません」

 乱馬は赤黒い長外套の襟を立てた。

「同意、拒否、保留。君たちは観客に三役やらせる。芝居は一役でも難しい」

「だから役を決めません」

 七瀬は西側の記録板を指す。

《能力判定登録証者 二百十名》

《一般観客 三千三百九十名》

《一般観客は能力判定の証者として自動算入しない》

《退場、撮影拒否、拍手、沈黙は、それぞれ別の意思》

「最後の一行、説明っぽい」

 乱馬。

「説明です」

「舞台に説明を出すと、夢が逃げる」

「逃げられる夢だけ残します」

 乱馬が笑った。

「君、いい敵役になれる」

「役を受けません」

 紅葉カナタが、舞台袖から半分だけ顔を出す。

 金髪。

 赤と青の半面。

 右足首へ薄い固定帯。

「断られたら、演出家は退く」

「君は退いたか」

「一巻分かかった」

「時間を誇るな」

「止まれた事実を誇ってる」

 カナタは客席上の誘導灯を確認する。

「東通路、録音拍手の線と非常放送の線が近すぎる。乱馬、分けた?」

「音響係へ頼んだ」

「自分で見た?」

「演出家は人を信じる」

「事故報告書で一番嫌われる台詞」

 カナタは舞台袖へ消えた。

 乱馬が七瀬を見る。

「昔は、あいつの方が俺を信じていた」

「今は?」

「確認する」

「進歩です」

「寂しいね」

「安全は、だいたい寂しいです」

 客席の照明が半分落ちた。

 拍手が起こる。

 まだ誰も入場していない。

「録音?」

 七瀬。

「開演の合図」

 乱馬。

「観客の拍手と区別してください」

「音が違う」

「記録では波形しか残らない」

「耳で分かる」

「耳が違う人もいます」

 澪は今日、競技場へ来ていない。

 それでも七瀬は、右耳で高音を拾いにくい人の位置から音を考える。

「表示を出します」

 乱馬は音響台の札を裏返した。

《開演用録音拍手 再生中》

 文字は小さい。

 七瀬が札を一段上げる。

「大きすぎない?」

「音より小さいです」

 開場の一時間前、登録証者の受付には二百十三人が並んだ。

 三人多い。

「予備です」

 審査職員が言った。

「人間を予備と呼ぶな」

 凱。

「欠員が出た場合、測定人数を二百十へ合わせるためです」

「三人は、欠員が出なければ帰す?」

 タマキが訊く。

「一般席へ振り替えます」

「証者だと思って来たのに?」

「規格人数があります」

 列の最後にいた老女が、受付札を見下ろした。

「私は二百十一番かい」

「到着順ではありません。抽選です」

「抽選に外れたら、信じてない人になる?」

「一般観客です」

「信じるかどうかを、席で決めるのかい」

 職員は規則を開く。

 規則は、老女の質問より厚い。

 真琴が横から言う。

「測定人数は二百十で固定します。ただし、証言記録の提出は、測定外の方もできます」

「能力には入らない?」

「入りません」

「話には入る?」

「本人が望めば」

 老女は考える。

「じゃあ、私は能力へ入らない方がいい」

「なぜ」

「昔、凱に配給順を変えてもらった。助かった。信じる理由が、恩なのか、今の言葉なのか分からない」

 凱は列の外に立っていた。

 老女が彼を見つける。

「聞いてたかい」

「聞いた」

「怒る?」

「怒らない」

「王の声で言うな」

 凱は息を吐く。

「怒っていない」

 声量を落とす。

 老女は受付札を裏返す。

《測定外証言》

「これでいい」

 列の人数は二百十二になる。

 別の男が、登録札を返した。

「昨日まで証者になるつもりだった。でも、王路が出ないところを見たいと思ってる自分に気づいた」

「見てはいけないとは言いません」

 七瀬。

「証者では降りる。一般席で、撮影拒否」

「受けました」

 二百十一。

 最後の一人は、受付へ来なかった。

 時刻を過ぎても現れない。

 審査職員が予備三人の札を並べる。

「一名を繰り上げます」

「本人確認を」

 真琴。

 選ばれたのは、北工区の溶接工だった。

 左手の三本の指だけ太い。

 能力減衰で検品へ回された青年。

 彼は札を見て、すぐには受け取らなかった。

「繰り上げって、何を期待されてるんです」

「欠員を埋めます」

「俺が凱を信じるからじゃない?」

「登録時に、条件を確認しています」

「昨日は信じるって書いた。今日、仕事の賃金を三割下げられた。王がいても止まらなかった。今は、半分」

「半分では、証者になれない?」

 タマキ。

「分からない」

「分からないって書ける?」

 真琴が札の裏へ欄を作る。

《信頼状態 確信/疑いあり/判断保留》

「今作るのか」

 審査職員。

「元の欄に、確信しかありません」

「測定条件が変わります」

「人間の状態が変わっています」

 青年は《疑いあり》へ印をつけた。

「それでも見る。凱が言ったことを守るか。出るかじゃなく」

 札を受け取る。

 二百十。

 数字は揃った。

 理由は、揃っていない。

 凱は受付の横に立ち、登録者へ礼を言わなかった。

 礼が、残る圧になるかもしれない。

 代わりに、同じ文を一人ずつ読める板へ出した。

《登録後も、開始前まで辞退できます》

《辞退理由の説明は不要です》

《辞退しても一般観覧、返金、他の支援へ影響しません》

 乱馬が板を見る。

「開演前に、客へ帰り方を教える興行は初めてだ」

「役に立つ?」

 カナタ。

「悔しいほど」

「じゃあ残す」

 開場鐘が鳴る。

 二百十人は、同じ入口から入らなかった。

 撮影同意。

 拒否。

 保留。

 歩行補助。

 耳の位置。

 五つの列へ分かれ、それぞれの速度で客席へ向かう。

 凱は最後尾を追い越さなかった。

 第一部は、指揮試験だった。

 凱が試合場へ入る。

 白い長衣ではない。

 紺の作業上着。

 左膝装具。

 黒い手袋。

 胸に王冠の紋はない。

 客席から、《王》と声が飛ぶ。

 凱は振り向かない。

 試験用の区画には、十二人の作業員と、砂袋二十四個、移動式の水槽一基、幅の違う三つの通路がある。

 想定は火災。

 東通路は煙で閉鎖。

 北通路は車椅子を含む五人だけ通れる。

 南通路は十人通れるが、途中に一分後に閉じる防火扉がある。

 目的は、砂袋を運ぶことではない。

 人間役の十二人を、負傷条件に応じて安全区画へ移すこと。

「開始」

 審査主任が言う。

 凱は全体へ命令しなかった。

「青腕章。右足を使うな。二人で支える。北へ」

「どちらが頭側」

 作業員が訊く。

「背の低い方が頭側。段差で先に下りるな」

「了解」

「黄腕章二人。水槽を南扉へ。満水では重い。排水弁を四分の一開けろ」

「水を捨てるのか」

「床へ流すな。受け桶へ。水は後で消火へ回す」

「了解」

 客席が静かになる。

 派手ではない。

 人間が一人ずつ違う指示を受ける光景は、王の号令より遅い。

 凱は十二人へ十二通りの指示を出した。

 二度聞き返された。

 三度、言い直した。

 一度、自分で間違えた。

「南扉、閉鎖まで四十秒」

 審査員。

「黄腕章、水槽を止めろ」

 凱が言う。

「通路を塞ぎます」

 黄腕章が返す。

 凱は図を見た。

 以前なら、《進め》と言った。

 進んだ距離を力へ変え、自分で水槽を押し抜いた。

 今日は、水槽を押さない。

「弁を半分。水を減らす。南へ運ぶのは人だけ。水槽は防火扉の手前へ残せ」

「消火水が届かない」

「防火扉の散水管へ接続する。轟」

 安全係の轟が、区画外から答える。

「試験参加者へ指示を」

 凱は作業員へ向き直る。

「緑腕章。接続管を持っている。水槽と散水口を繋げ。長さは足りるか」

 緑腕章が管を伸ばす。

「二寸足りません」

 凱は一秒黙る。

「水槽を二寸だけ前へ。黄腕章二人。扉の閉鎖線を越えるな」

「了解」

 扉が閉じる。

 管は挟まれない。

 十二人は安全区画へ入る。

 水は散水口へ届く。

 終了時刻。

 二分五十四秒。

 基準より十四秒遅い。

 人的被害なし。

 運び残しなし。

 誓痕反応なし。

 客席の一部が、拍手する。

 別の一部は、黙っている。

「能力は使わなかった」

 審査主任が確認する。

「必要がなかった」

 凱。

「能力判定としては未成立」

「指揮試験としては」

「安全基準を満たす。時間基準を十四秒超過」

「なら、そう書け」

 西側の記録板へ、二行が出る。

《能力所見:未観測》

《指揮技能:安全基準達成/時間基準十四秒超過》

 観客から、声が上がる。

「王なら押せ!」

「能力を見せろ!」

「使わなくていい!」

 凱は声の方を見ない。

 作業員十二人へ、一人ずつ礼を言う。

 礼も、十二通りではない。

 全員へ同じ《ありがとう》だった。

 同じ言葉でも、受け取る時刻が違えば、命令にはならない。

 第一部の結果が出た直後、登録証者へ二枚の札が配られた。

《能力について》

《指揮について》

 一枚へまとめる案は、開始前に捨てた。

 それでも、最初の三十人は同じ言葉を書いた。

《失敗》

 審査職員が集計しようとする。

「どちらの札ですか」

 真琴が止めた。

「能力」

「指揮」

「両方」

 三人の答えが違う。

「同じ文字を一票へまとめないでください」

「集計が遅れます」

「意味が違います」

 真琴は《失敗》の横へ、本人へ確認した範囲だけ追記する。

《能力が出なかった》

《時間基準を超えた》

《王らしくなかった》

 最後の一つは、能力でも指揮でもない。

「どこへ入れる」

 審査職員。

「入れません。自由記述」

「判定へ使えない」

「使わない」

 証者席の老女が札を二枚とも白紙で返した。

「書かないのですか」

「見たことはある。でも、何て書くか決めてない」

「判断保留」

「保留って書くと、後で決める約束みたいだ」

「では、未記入」

「それでいい」

 白紙は、賛成にも反対にも数えられない。

 北工区の溶接工は、能力札へ《未観測》と書いた。

 指揮札へは、長い。

《十四秒遅れた。聞き返した人へ言い直した。水槽を捨てず、使い道を変えた。俺の工場なら、時間超過で減点される。でも、止まった人へ怒鳴らなかった》

「点数は」

 職員。

「分からない」

「評価欄です」

「分からないって書けない?」

 タマキが、別の机から顔を出す。

「また欄、ない?」

「あります。自由記述」

「自由、狭い」

 真琴は評価欄へ、新しい選択肢を追加しない。

 今夜だけ選択肢を増やすと、既に書いた人の意味が変わる。

 代わりに、集計結果を一語へしないことを確認する。

《能力所見》

《指揮技能》

《証者記述》

《本人申告》

 四つを並べる。

 凱は試合場の端で、水を飲んでいた。

 白い長衣を着ていない。

 黒い作業上着の背中へ、汗が少し染みている。

「十四秒遅いのは、失敗だ」

 自分で言う。

 溶接工が、証者席から返す。

「じゃあ、人が死ななかったのは」

「最低条件だ」

「最低を守れない現場もある」

「それで褒めれば、次も遅れる」

「遅れた理由を直す。人が死ななかったことを消さない。二つじゃ駄目?」

 凱は答えない。

 イオが、凱の横へ座る。

「失敗って言われたい顔」

「顔で」

「質問。失敗と言われたら、次に何をしなくて済む?」

「何も」

「説明」

 凱の水容器が、手の中で鳴る。

「十四秒遅れた。能力は出なかった。人は安全区画へ入った。水も残った。全部説明するより、《失敗》の方が短い」

「短い方が正しいこともある」

「今回は?」

「足りない」

 凱は水を一口飲む。

「では、失敗と成功の両方か」

「その二つしかないの、好きだね」

「判定だ」

「作業」

 イオは溶接工の長い記述を指す。

「十四秒の遅れを直す仕事と、安全だった手順を残す仕事。二つある」

「王位は、仕事ごとに分けられない」

「だから分ける話をしてる」

 一般席の窓口では、別の騒ぎが起きていた。

「能力を見に来たのに、出なかった!」

「第一部だけで返金しろ!」

「王が普通の避難訓練をするなら、外でも見られる!」

 乱馬が放送卓へ向かおうとする。

 カナタが袖を掴む。

「何を言う」

「第二部は派手です、と」

「第一部の不満を、十夜で埋める?」

「興行は流れだ」

「人の失望を次の人の危険へ流すな」

 乱馬は足を止める。

「返金は、三部全部を見ない人へ?」

 真琴が契約書を開く。

「途中退出時は、未実施部の割合返金。ただし、能力が出なかったことは興行不履行に含まない。能力判定は、発動を保証していません」

「説明した?」

 タマキ。

「券面に」

「字、小さい」

 七瀬。

「入場時の口頭説明は」

「混雑で省略した区画が二つ」

 職員が認める。

「そこは全額返金を選べるようにしてください」

 乱馬が言う。

 全員が見る。

「俺が言うと、意外?」

「少し」

 カナタ。

「説明してない客を、理解不足で残すと、第二部の拍手が借金になる」

 乱馬は返金窓口へ自分の名を書く。

 派手な第二部の前に、三十八人が退場した。

 空いた席へ、誰も繰り上げなかった。

 売れた熱を、別の人間で埋めない。

 競技場には、最初より少し多い空席が残った。

 第一部と第二部の間に、十八分の休止があった。

 観客には十二分と告知されていた。

 六分増えたのは、青札の選手が契約書の一行を拒否したからだ。

《鐘巻十夜の最後の相手として記録されることに同意する》

「最後の相手になる契約はしていない」

 青札は、控室の椅子へ座ったまま言った。

 左前腕の火傷痕を布で隠している。

「対戦相手の名称です」

 興行係。

「俺の名称じゃない」

「氏名は公開しません」

「名前の話じゃない。《最後》の中へ俺を入れるな」

 十夜は向かいの壁へもたれていた。

「外していいよ」

 興行係が振り向く。

「宣伝上、主カードの文言が」

「俺の最後は、俺だけで足りる」

「対戦の物語が弱くなります」

「弱いなら、殴り合いで強くする」

「そういう発言が、危険行為を――」

「今の撤回。記録しないで」

 十夜が手を上げる。

 七瀬は録音筒を止めていた。

「最初から撮っていません」

「優しい」

「控室は非公開です」

「規則だった」

「規則も、役に立つ時があります」

 真琴が契約書の該当行を二本線で消す。

《青札選手は、鐘巻十夜と一試合を行う》

《報酬は勝敗、試合時間、観客反応によって増減しない》

《氏名、顔、音声の公開範囲は本人が選ぶ》

《試合停止は本人、医療者、安全責任者、審査主任が行える》

「鐘巻本人の停止は」

 豪が戸口から言う。

 救護服。

 セコンド用の水も、タオルも持っていない。

「ある」

 十夜。

「使うか」

「必要なら」

「何を見て必要とする」

「客の顔」

「心電図を見ろ」

「客は拍手する。心電図はしない」

「だから心電図の方が信用できる」

 豪は携帯測定器を机へ置く。

「試合前測定。受けるか」

「契約上は」

「本人へ訊いてる」

 十夜は、胸の札を見る。

《終了予定 零時》

「受ける」

 上着を開く。

 電極を貼る。

 波形が紙へ出る。

 速い。

 不規則。

「期外収縮、連発」

 医療者が言う。

「中止勧告」

「禁止?」

 十夜。

「勧告。本人判断を残す。ただし、悪化時は医療停止」

「青札さん、どうする」

 十夜は相手へ訊いた。

「俺が出るから出ろ、とは言わない」

 青札は波形を見る。

「報酬は出る?」

「中止でも固定額」

 真琴。

「じゃあ、中止を選んでも俺の家賃は払える」

「はい」

「試合をしたら、鐘巻が死ぬ?」

「危険は上がります」

 医療者。

「数字で」

「個人差が大きく、確率では示せません」

「分からないってこと」

「高リスクであることは分かります」

 青札は十夜を見る。

「俺は試合する。ただし、一回でも胸を押さえたら、俺が降りる」

「同情?」

「俺の停止条件」

「俺が平気でも?」

「俺が続けたくない」

 十夜の笑いが、少し薄くなる。

「選手はわがままだね」

「おまえもだ」

「名勝負になりそう」

「名を付けるな」

「青札」

「それでいい」

 豪は十夜の手首へ触れない。

「セコンドは」

 十夜。

「断った」

「最後まで?」

「最後って言う限り」

「じゃあ、明日があるって言えば」

「明日の救護表へ名前を書く」

「リングの角には?」

「立たねえ」

「厳しい」

「おまえの水を持つと、倒れた時まで勝たせる側に見える。俺は止める側だ」

 十夜は手袋の銀の秒針を、一度だけまっすぐに直した。

「止める側も、客に嫌われるよ」

「犬舎の犬は、嫌われても噛まれた人を先に見る」

「俺、犬以下?」

「犬を順位に使うな」

 控室の時計が、二十二時三十八分を示す。

 十夜の懐中時計は、二十二時四十一分。

「もう始まってる」

「おまえの時計だけ」

 豪。

「先に終わる練習」

「終わる練習より、戻る練習しろ」

 十夜は答えず、入場口へ向かった。

 青札は十歩遅れて立つ。

 最後の相手ではない。

 今夜、一試合をする相手として。

 第二部は、二十二時四十分に始まった。

 鐘巻十夜は、黒い手袋を巻き直しながら入場した。

 手首の布には、銀色の秒針模様。

 胸の札には、《終了予定 零時》

 懐中時計は、実際より三分進んでいる。

「お待たせしました」

 十夜は客席へ向けて両手を広げる。

「閉店前の半額札みたいな男、鐘巻十夜です。買うなら今。返品は医療区画へ」

 笑いが起きる。

 救護席の犬飼豪は、笑わなかった。

 赤茶の髪を後ろへ撫で、右膝の装具を締め直す。

「返品受けるの、俺じゃねえぞ」

「セコンドなら受けて」

「断った」

「まだ有効?」

「試合が始まっても有効だ」

「冷たいなあ。犬は最後まで飼い主を待つっていうのに」

「犬を借金の比喩に使うな」

 豪の首から、保護犬舎の木札が下がっている。

「俺は救護。倒れたら止める。勝たせる役じゃねえ」

「倒れないよ」

「それを言うやつが一番倒れる」

 十夜は胸の札を指で弾く。

「零時までは、ね」

 対戦相手は、青い腕章を巻いた二十二歳の格闘家だった。

 氏名は公開しない。

 公開を拒否したからだ。

 記録板には、《青札・本人同意済み・報酬固定・勝敗で増減なし》とだけ出る。

 体格は十夜より一回り大きい。

 左構え。

 前腕に古い火傷。

 能力は使わない契約。

「実況していい?」

 十夜が訊く。

 青札が首を横に振る。

「残念」

 鐘が鳴る。

 青札が前へ出る。

 左足から。

 右肩を少し沈め、前蹴りを隠す。

 十夜は下がらない。

 上体だけを半歩分、後ろへ逃がす。

 前蹴りが黒い上着を擦る。

 十夜の右手が、青札の足首へ触れる。

 掴まない。

 押さない。

 踵が床へ戻る時刻を、指先で測る。

 零・四秒。

 青札の右拳が来る。

 十夜は左へ首を倒す。

 拳が耳を掠める。

 黒髪の銀の筋だけが揺れる。

 左手の掌底を、青札の胸骨へ当てる。

 強くない。

 相手の呼吸が吐き終わる瞬間だけを選んだ。

 青札の身体が半歩止まる。

 十夜はその半歩へ、自分の右足を置く。

 肩。

 腰。

 膝。

 三つを別々の時刻でぶつける。

 青札が後退する。

「喋ってないのに、うるさい」

 豪が救護席で言う。

 十夜は返事をしない。

 青札の左拳が腹へ入る。

 十夜の呼吸が抜けた。

 客席が息を呑む。

 その音を、十夜は聞いた。

 目が細くなる。

「本日限り」

 乱馬の声が場内へ流れる。

「零時王、最後の閉店興行!」

 客席上の字幕が赤くなる。

《LAST SHOW》

 十夜の胸の札が、薄く光った。

 誓痕が、鎖骨の下から円を描く。

 閉店興行〈ラスト・ショー〉

 観客が《これが最後だ》と信じるほど、終業時刻までの動作精度が上がり、その間に生じる反証を零時へ送る。

 痛みが消えるのではない。

 後で来る。

 後で来ると知っている痛みは、借金に似ている。

 今使える金が増えるため、貧しさが見えにくくなる。

 青札の右膝が動く。

 十夜は、動く前に位置を変えた。

 膝の軌道から消える。

 背後へ回ったのではない。

 青札が正面だと思った時刻を、半拍だけ外した。

 右肘を肩甲骨の内側へ。

 左足を相手の踵へ。

 倒す。

 青札が床へ手をつく。

 十夜は首を取らない。

「降りる?」

 訊く。

 青札は右手を二度、床へ打つ。

 終了。

 十夜は手を離す。

 試合時間、一分二十七秒。

 客席が立つ。

 録音拍手が、観客の拍手より半秒早く流れた。

 七瀬は西側記録板へ出す。

《録音拍手 二十二時四十一分三十二秒から再生》

 生の拍手が、その表示を読んで一瞬乱れる。

「余韻を壊すなあ」

 十夜は立ち上がりながら言う。

 口元は笑っている。

 右手は胸へ当たっている。

 豪がリングへ上がる。

「座れ」

「勝者挨拶」

「脈」

「観客へ失礼」

「心臓へ失礼だ」

 豪は十夜の手首を取らない。

「触るぞ」

「同意」

 脈を測る。

「百四十八。不整」

「盛り上がった」

「下りろ」

「零時まで契約」

「試合は終わった」

「興行は終わってない」

 十夜は審査主任へ胸の札を見せる。

《全三部の終了鐘を管理する》

「そんな欄、いつ増えた」

 豪。

「契約書の裏」

「裏へ命を書き足すな」

「表は料金」

 イオが救護席へ来る。

「十二誘導。二拍抜け」

「聞いてた?」

「見た」

 イオは十夜の顔色を見る。

「試合後の心電図」

「第三部の後」

「今」

「商売中」

「患者」

「選手」

「二つ書ける」

 十夜は笑った。

「みんな、欄を増やすの好きだね」

「一個へ押し込むと、どっちか死ぬ」

「零時にまとめて払う」

「利息が高い」

 十夜は心電図を拒否した。

 拒否は記録された。

 豪はセコンド席ではなく、救護席へ戻る。

 十夜の水を持たない。

 タオルも渡さない。

 代わりに、除細動器の電極を開封した。

 二十三時五十二分。

 第三部。

 迅は西側から入った。

 使い古した紺の学生上着。

 赤い七つ結びの紐。

 右手に包帯はない。

 凱は東側から入る。

 白い長衣。

 黒い手袋。

 左膝装具。

 王冠は、試合場の北端にある台座へ置かれている。

 凱は被らなかった。

 観客は、その距離へ意味をつける。

 被る前の王。

 置いてきた王。

 勝ったら取る王。

 本人が説明していない意味ほど、客席で増える。

 七段差が、試合場の中央へ再現されていた。

 昔の広場から石を運んだのではない。

 高さだけを同じにした新しい段差だ。

 一段、十六センチ。

 幅、九十センチ。

 七段。

 迅は見て、舌打ちする。

「悪趣味」

 乱馬の放送が返る。

「再現美術だ」

「古い傷へ寸法をつけるな」

 カナタが舞台袖で言う。

「それ、僕も言った」

「止めなかった」

「床の高さは安全基準へ直した」

「自慢する場所が違う」

 凱は七段差へ上らない。

 平らな場所へ立つ。

「同じ踏み順は使わない」

 迅が言う。

「頼んでいない」

「観客へ」

 客席から笑いが起きる。

 軽口と受け取った。

 迅は笑わせるために言っていない。

 審査主任が、停止条件を読む。

「本人、医療者、審査主任、安全責任者は停止を宣言できる。本人は理由を示す義務を負わない。停止後に説明を強制しない。延長なし。能力所見、身体技能、試合勝敗、代表資格は別記録とする」

「勝敗なしもある?」

 タマキが記録席から訊く。

「ある」

「引き分け?」

「勝敗なしと引き分けは別」

 真琴。

「どう違う」

「引き分けは、勝敗を判定して同等とした結果です。勝敗なしは、判定へ至っていない」

「長い」

「違いは短くなりません」

 鐘が鳴る。

 第一ラウンド。

 迅は退かなかった。

 開始と同時に、右へ走る。

 凱も前へ出ない。

 二人が円を描く。

 観客の期待した直線が、最初から崩れる。

 凱の右拳が、迅の視線を追う。

 迅は拳ではなく、凱の左足を見る。

 装具の外側。

 爪先の角度。

 床へ置くまでの遅れ。

 左へ踏むと、膝が内側へ入らない。

 右へ回る方が速い。

 凱はそれを知っている。

 迅の視線を読んで、あえて左へ踏む。

 痛みを隠す踏み方。

 迅はそこへ攻めない。

 右肩へ入る。

 凱の左肘が落ちる。

 迅の拳を受け、右膝を腹へ。

 迅が肘で切る。

 骨と骨の音。

 一歩、離れる。

 凱の右手が震えている。

 迅の右小指も、受けた衝撃で開きが遅い。

 どちらも、見せない。

 見せないことまで、相手には見える。

 凱が前へ出る。

 普通の歩幅。

 圧は来ない。

 迅は退く。

 一歩ではない。

 斜めへ半歩。

 七退の数へ入れない。

 客席から、《一》と声が出る。

 迅が顔を上げる。

「数えるな」

 声を出した観客が黙る。

 別の区画から、《二》と叫ぶ者がいる。

 乱馬の字幕が、過去映像の歩数表示を重ねる。

 七瀬が西側画面を切る。

《現在の退路歩数 未認定》

 凱の拳が来る。