第402話 第七章「タマキの条件」後編

 ミソラは潜水表と、タマキの呼吸数を見る。

「浅水訓練は合格。単独潜水は不可。迅または施設潜水員と対。最大潜水六分。浮上後十五分休止。耳痛、吐き気、視線の揺れが出たら中止」

「僕が中止を選ぶ?」

「選べる。症状が判断を奪う場合、私が止める。その時は代行と書く」

「受領」

 凱が地上指揮記録へ署名する。

「タマキの参加範囲。潜水六分。対行動。能力発現を前提にしない。発現しなくても失敗とは記さない」

「出たら」

「出た事実と条件を記す。人間の評価へ使わない」

「凱、前より細かい」

「王をやめると、仕事の範囲を書く時間が増える」

「楽?」

「不安が増える」

「じゃあ、なんで」

「不安を他人へ命令するよりましだからだ」

 タマキはニット帽を鉄箱へ入れる。

 潜水帽をかぶる。

 火傷痕が隠れる。

 隠したのではない。

 水へ入るために覆った。

 迅が赤い索を自分の腰へ結ぶ。

 もう一本をタマキへ。

「方向が分からなくなったら」

「僕が訊く」

「誰に」

「隣にいる人」

「俺が分からなかったら」

「二人で戻る」

「能力が出たら」

「同じ」

「出なかったら」

「同じ」

 タマキは鉄箱の留め具を鳴らそうとして、箱が地上にあることへ気づく。

 代わりに、腰の防水札を一枚叩いた。

 乾いた音はしない。

 水へ入る前から、水中の音だった。

 条件を決めても、潜水服はタマキの身体に合わなかった。

 施設の最小サイズ。

 袖が四センチ長い。

 股下が六センチ余る。

 腰帯を締めると、配達札の袋が脇腹へ食い込む。

「能力で」

 施設職員が言いかける。

 全員が見る。

「……何でもない」

「言って」

 タマキ。

「身体に合わせられる能力なら、と思っただけです」

「僕のは方向」

「まだ出ていません」

「出るなら方向」

「本人が望んでも、違う能力になる場合があります」

 イオ。

「だから器具へ入れない」

「装備はどうする」

 轟が袖を折る。

 一度折る。

 二度。

 水中でほどけないよう、外側へ留め帯。

 股下の余りは切らない。

 膝裏へ畳み、左右同じ厚みにする。

「返却するから?」

 タマキ。

「次に小さい人が使う」

「僕専用を作る?」

「救助後、潜水を続けるか本人が決めてから」

「能力者用」

「環玉樹用。能力は服の寸法に入らん」

 腰袋の位置を胸の中央から右脇へ移す。

 左側頭部の火傷痕へ、潜水帽の縫い目が当たる。

 布を一枚挟む。

 ミソラが確認する。

「痛み」

「一」

「水圧後」

「分からない」

「不明を記録」

 タマキは鏡を見る。

 緑のニット帽はない。

 潜水帽。

 大きな面体。

 胸へ三枚の札。

 能力者らしい姿ではない。

 借り物を身体へ合わせた救助員。

「似合う?」

 迅。

「面体で顔見えない」

「だから訊いた」

「似合わない」

「正確」

 浅水槽で、条件札を一度だけ試す。

 送り主役、凱。

 呼称、凱。

 受取先、槽の反対側にいる迅。

 目的、防水札を渡す。

 迅が受入れを示す。

 凱が封を閉じる。

 タマキが札へ触れる。

 何も起きない。

「出ない」

 施設職員。

「失敗」

 凱が首を横へ振る。

「条件はそろった。能力が出る保証がないことも、条件どおりだ」

「本番で出なければ」

「普通に運ぶ」

 タマキは水へ入る。

 槽の反対側まで三メートル。

 方向は見えている。

 能力が要らない。

 札を迅へ渡す。

 迅が受領。

「料金」

 凱。

「練習は半額」

「取るのか」

「送り主、元王」

「元を付けるな」

「じゃあ凱」

「高くなる理由が消えた」

「正規料金」

 能力は出なかった。

 配達は終わった。

 出なかった時間を、発現前の失敗にはしない。

 タマキは水から上がり、呼吸を数える。

 十六。

 耳の痛み、なし。

 吐き気、なし。

 視線の揺れ、なし。

 ミソラが潜水許可欄へ署名する。

《最大六分》

《能力発現を前提にしない》

《出なかった場合も予定どおり帰還》

 タマキも署名する。

 能力が出るかどうかより、戻る条件の方を先に決めた。

 本番前に、受取側の撤回訓練を一度だけ行った。

 東の当直医が言う。

《救急寝台一床、使用不能》

 受入れを示した後で、条件が変わった想定。

 タマキは東札を持つ凱を見る。

「受取側が撤回」

「俺はどうなる」

「送り直さない。地上にいるから、別の受取先を訊く」

「水中なら」

「安全な待機点まで戻る。勝手に西へ変えない」

「酸素が足りなければ」

「医療代行を提案する。本人が答えられるなら、本人」

 ミソラが補う。

「応答不能で、待機が生命を失わせる場合だけ代行。到着後、代行理由と他の選択肢を本人へ返す」

「東は責任を負う?」

 イオ。

 当直医の返答。

《受入れを約束した時刻》

《撤回した時刻》

《寝台を失った理由》

《代替を探した範囲》

《すべて記録》

「謝れば終わり?」

《終わらない》

「罰を受ければ」

《それも終わりではない》

「じゃあ何のために記録する」

《次の人へ、同じ一床を二重に約束しないため》

 イオは口を閉じる。

 自分の能力を失った時、謝罪も処分も受けていない。

 だから、罰がないことに腹を立ててきた。

 罰があれば生活が戻るわけではないと知っていても、腹は立つ。

「受領」

 イオは言った。

「納得ではない」

《それも記録》

 西の共同宿舎担当は、別の想定を出した。

《元同室者、急病》

《面会不能》

《宿泊と食事は受入れ可能》

「目的の一部が消える」

 タマキ。

《受入れを撤回するか、目的を変更するか本人へ確認》

「家族へ替える?」

《しない》

「元同室者が明日戻るなら」

《待つ場所と期限を提示》

「明日戻らないかもしれない」

《保証しない》

 保証しない受取人は、頼りなく見える。

 保証できないことまで保証する受取人より、少しだけ安全だった。

 中央の受領係は、さらに悪い想定を出す。

《十二床が埋まった》

《十三人目は受入れ不可》

 凱が訊く。

「十二人目までを先着で固定するのか」

《しない》

「では誰を外す」

《外さない。十二人を受け入れた後の十三人目へ撤回を伝える》

「水底で十三人が同時に中央を選んだら」

 返答まで五秒かかった。

《十二人を勝手に選ばない》

《全員へ満床を伝える》

《別の受取先または受入れ待ちを選び直してもらう》

「時間がない」

 百舌。

《その場合は医療優先順位》

「中央は医療施設じゃない」

《だから東と協議》

「協議の間に酸素が減る」

《減る》

 百舌は表示板を強く打つ。

《遅い制度は殺す》

 タマキは頷いた。

「速い制度も、違う人を送る」

《死者よりまし》

「死者にしないために速くする。でも、誰でもいいにはしない」

《両立しない場合》

「その時に決める。今、決めたふりをしない」

 百舌の右手が背中で動く。

 鈴は鳴らない。

 タマキは三つの受領札の裏へ、一行を足した。

《受取側の撤回は、送り主の失敗にしない》

 巴が読む。

「逆も要ります」

 別の一行。

《送り主の撤回は、受取側の拒絶にしない》

「能力の失敗は」

 施設職員。

 タマキは少し考える。

《能力が出ないことを、送り主・受取側・配達員の人格評価へ使わない》

「長い」

 迅。

「短くして」

「出なくても、誰も悪くない」

「出たら」

「誰も偉くない」

 タマキは裏面へ書く。

《出なくても、誰も悪くない》

《出ても、誰も偉くない》

 凱が見る。

「制度文としては軽い」

「軽い方が沈まない」

「水中では紙も沈む」

「防水札」

「理屈まで防水か」

「凱の冗談、重い」

 誰も笑わない。

 凱だけが少し笑った。

 タマキは三枚の札を腰袋へ戻す。

 発現する能力の名前は、まだない。

 名前より先に、撤回の入口を作った。

 午後二時三十五分。

 圧力筒の内扉が開く。

 タマキは、能力者としてではなく、配達員として潜った。