第403話 第八章「封緘便〈シールド・ルート〉」前編

十月二十日 午後二時三十六分

 最初の一メートルで、タマキは上下を間違えた。

 圧力筒の床を蹴ったつもりだった。

 身体が横へ流れ、肩が壁へ当たる。

 水中では、床も壁も同じ硬さをしている。

 迅が腰索を一度引く。

 停止。

 タマキは壁へ手を置いた。

 気泡の上がる方を確かめる。

 目で見た上と、身体が感じる上が、半拍ずれている。

 まだ能力の反証ではない。

 ただの潜水技能不足だ。

 その区別をつけるのが、最初の仕事だった。

 迅が指を二本立てる。

 呼吸。

 タマキは面体の中で、二回ゆっくり吸った。

 澪から引き継いだ低音器が、胸骨へ小さく振動する。

 一回。

 進行。

 二人は内扉を離れた。

 水没学校の廊下。

 壁の掲示物が、天井から垂れている。

 紙は水を吸い、文字だけを手放していた。

《今月の目標》

 赤い枠だけが残る。

 中身は水へ溶けている。

 目標が消えても、枠だけは人を囲う。

 タマキは見ないふりをしなかった。

 見たうえで、先へ進む。

 図書室の前を通る。

 最初に十四人がいた場所。

 机は天井へ張りつき、本は床へ沈んでいる。

 人が減った空気溜まりは広く見える。

 広くなったのではない。

 待つ人が少なくなっただけだ。

 迅が左を指す。

 圧力管理室。

 タマキは首を横へ振る。

 その前に、壁際の灯り。

 三回。

 間。

 一回長く。

 受取確認。

 地上の中央保留室から、触覚信号が届いている。

 タマキは防水札を取り出した。

 円の溝。

 中央。

 裏面。

《受取役 中央保留室・当直二名》

《呼称のみで受入れ》

《目的 決定保留/加温/二十四時間内再確認》

《受入れ有効 午後三時十分まで》

 巴の文字は、水に濡れても読めるよう大きい。

 タマキは札を迅へ見せる。

 迅が頷く。

 受取人はいる。

 次は送り主。

 圧力管理室の空気溜まりには、八人いた。

 水面と天井の間、七十センチ。

 配管の熱で、空気が湿っている。

 息をするたび、誰かの呼気を吸っている気がする。

 百舌が先にいた。

 透明壁へ背をつけ、残り人数を表示している。

《八》

 そのうち三人は、次の便へ準備済み。

 東一。

 西一。

 中央一。

 残り五。

 中央札を持つ一人が、タマキを見る。

 作業着。

 右眉に裂傷。

 腰へ古い工具袋。

 名簿の呼称欄は《未定》

 タマキは水面へ顔を出す。

「送り主」

 相手が眉を寄せる。

「あなた」

 胸を指す。

「呼ばれ方」

 《未定》は打鍵器を取る。

《未定》

「今だけ?」

《今だけでもない》

「ずっと?」

《決めていない》

「未定を選ぶ?」

 相手は頷く。

 決めていないことを、他人が空欄にしたのではない。

 本人が《未定》を選んだ。

「受取先」

 円札。

 《未定》は中央を指す。

「目的」

 打鍵。

《決めないため》

「加温は」

《受ける》

「医療確認」

《呼吸と体温だけ》

「二十四時間」

《短い》

「延長希望?」

《着いてから交渉》

 タマキは中央札の裏を見せる。

 受取役。

 目的。

 期限。

 復唱しない。

 自分の口で《未定》の目的を言い直さない。

 指で一つずつ示す。

 呼称。

 受取先。

 目的。

 受入れ。

 《未定》が、全部に触れる。

 最後に、封の切れ目を指す。

 タマキは自分の指を離す。

 切るかどうかは、本人の手だ。

 《未定》は切らない。

 内側の薄い封を折る。

 轟が作った二重札。

 タマキが外側を重ねる。

 押す。

 封緘。

 何も起きない。

 空気溜まりの呼吸音。

 配管の振動。

 遠くで金属が軋む音。

 タマキは札を見る。

「出ない」

 迅は言う。

「まだ水へ入ってない」

「地上でも方向はある」

「能力に訊くな。本人に訊いた」

「訊いた」

「じゃあ運ぶ」

「能力なしで?」

「今までと同じ」

 迅は先に面体を下ろした。

 タマキも続く。

 《未定》は自力泳者。

 ただし右足首に古い固定具があり、速くは進めない。

 腰索を三人でつなぐ。

 迅。

 《未定》

 タマキ。

 能力が出るなら、最後尾では不便だ。

 そう考えた瞬間、タマキは自分で首を横へ振った。

 能力に合わせて人の順番を変えない。

 《未定》が決めた目的は、能力を試すことではない。

 中央へ届き、決めない時間を受け取ることだ。

 水へ入る。

 圧力管理室を出る。

 正面の廊下は、水流が強い。

 左の保守口は、図面上では中央へ通じる。

 右の教員準備室は行き止まり。

 迅が左を指す。

 タマキも、地図どおりなら左だと思う。

 その時。

 胸の内側で、何かが閉じた。

 音ではない。

 封筒の糊が乾く時のような、薄い抵抗。

 左側頭部の火傷痕から、首筋へ冷たい線が走る。

 鎖骨。

 胸。

 右脇腹。

 右足。

 皮膚の下へ、細い緑の折り線が浮かぶ。

 水中で見えるほど明るくはない。

 迅の灯りが当たった瞬間だけ、住所札の罫線のように光る。

 タマキは左を見る。

 違う。

 身体の線は、右を向いている。

 行き止まりの教員準備室。

 タマキは迅の索を二度引いた。

 停止。

 右を指す。

 迅が首を横へ振る。

 図面では行き止まり。

 タマキはもう一度、右。

 胸の封が締まる。

 方向だけが分かる。

 距離は分からない。

 安全かも分からない。

 通れる高さも分からない。

 ただ、現在通行可能な一方向。

 封緘便〈シールド・ルート〉

 名が先に浮かんだのではない。

 機能が身体へ来て、地上で巴が書いた仮称が後から追いついた。

 タマキは右へ進む。

 教員準備室。

 机。

 棚。

 壁。

 行き止まり。

 迅がタマキの肩を掴む。

 タマキは右足を指す。

 線が、下を向いている。

 床。

 床板の一枚が浮いている。

 住民が後から掘った排水点検口。

 図面にない。

 迅が板を持ち上げる。

 左肩。

 右手。

 古傷の痺れ。

 板は重い。

 タマキの能力は軽くしない。

 《未定》も工具袋から小さな梃子を出す。

 三人で上げる。

 点検口。

 直径七十センチ。

 人一人ずつ。

 内部へ、古い配達索が通っている。

 住民が食料や洗濯物を運ぶために張ったものだ。

 中央保留室の下部倉庫へつながる。

 道は、能力が作ったのではない。

 暮らしていた人が作った。

 能力は、今も通れる方向を示しただけだ。

 迅が先へ入る。

 《未定》が続く。

 タマキは最後。

 点検口の縁へ腰が当たる。

 配達箱は地上。

 身体だけでも狭い。

 右足を曲げる。

 左肩を抜く。

 線は真下。

 距離が分からない。

 点検口の途中で、《未定》の足が止まる。

 右足首の固定具が、突起へ引っかかっている。

 迅が前から引く。

 《未定》が痛みで身体を固くする。

 タマキは後ろから押さない。

 押せば速い。

 本人の足首がどこまで曲がるか、分からない。

 灯りを当てる。

 固定具の留め具。

 工具袋。

 《未定》が自分で工具を選ぶ。

 小さな六角棒。

 水中で回す。

 一回。

 二回。

 時間が減る。

 タマキの呼吸器の針も減る。

 能力は酸素を増やさない。

 三回。

 固定具の外側だけが外れる。

 《未定》が足首を少し回す。

 痛い。

 けれど、自分で進める角度を選ぶ。

 迅が引く。

 タマキが留め具を押さえる。

 三人で通る。

 点検口の先。

 中央経路の倉庫。

 受入れ信号。

 三回。

 間。

 一回長く。

 胸の封が、少し緩む。

 到着はまだ。

 圧力筒まで九メートル。

 方向は前。

 タマキは先へ出る。

 ここからは配達索を辿ればいい。

 能力を使い続ける必要はない。

 線は残っている。

 けれど、タマキは目で索を見る。

 手で結び目を数える。

 普通の道具がある時、能力だけを見ると、見える物を失う。

 中央圧力筒。

 外扉が閉じる。

 内圧が上がる。

 水が膝へ下がる。

 《未定》が面体を外す。

 最初にしたことは、礼でも歓声でもない。

 防水札の封を確かめることだった。

 切れていない。

 受取役が、円の溝を指でなぞる。

 《未定》も同じ円へ触れる。

 同じ動作。

 けれど、誓痕はもう働かない。

 受領が成立したからだ。

 タマキの胸の線が消える。

 左側頭部の火傷痕だけが残る。

 圧力筒の外で、誰かが拍手しそうになった。

 イオが手を上げて止める。

 水中のタマキには聞こえない。

 聞こえない場所で能力が生まれた。

 だから、喝采を能力の一部にしなくて済んだ。

 タマキは十五分休めと言われた。

「次」

「休止」

 ミソラ。

「六分潜った」

「五分二十二秒」

 イオが訂正する。

「十五分休止」

「残り十一人」

「あなたが休まなければ、残り十二人になる可能性がある」

「僕も数に入る?」

「入る」

 ミソラは当然のように言う。

 タマキは壁へ背をつける。

 能力が出た。

 身体が軽いわけではない。

 息も切れている。

 肩は点検口へ擦った。

 右膝に青い痕。

「どうだった」

 迅が隣へ座る。

「方向」

「それだけ」

「それだけ」

「嬉しいか」

「分からない」

「便利だった」

「分かる」

「怖いか」

「分からない」

「料金」

「中央保留室へ請求」

「本人から取るな」

「受取人へ」

「本当に取るのか」

「初回割増」

「けち」

「正規料金」

 会話は、地上と同じだった。

 能力が出ても、タマキは急に名言を言わない。

 迅も、感動して抱きしめない。

 迅が濡れた赤い紐の結び目を数す。

「次も出ると思うか」

「条件が合えば」

「合わなかったら」

「出ない」

「それでいいのか」

「出ないって分かるのも、道」

 十五分の休止は、椅子へ座っているだけでは終わらなかった。

 ミソラが面体の跡を確認する。

 耳。

 鼻。

 眼振。

 呼吸数。

 指先の温度。

「右を見て」

 タマキは右を見る。

「左」

 左。

「目を閉じて、両手を前」

「能力検査?」

「潜水後診察」

「能力が出たから増えた?」

「初潜水だから増えた」

「能力者用の項目は」

「皮膚の線、方向感覚、封が切れた時の症状。別紙」

「別にする」

「潜水外傷と能力反証を一つにしない」

 タマキは目を閉じる。

 両手を前へ出す。

 左手が二センチ下がる。

「下がった」

「自分では」

「同じ」

「もう一回」

 二回目。

 同じ。

「技能不足?」

「疲労か、耳の圧差か、元からか。今は不明」

「能力の代償じゃない?」

「不明を能力の物語へ入れない」

 タマキは掌を下へ向けた。

 不明。

「受領」

 ミソラは記録する。

 《未定》の受領係から、地上回線へ質問が来た。

《経路の所有者》

 タマキが訊き返す。

「何を知りたい?」

《教員準備室の床下》

《中央保留室が管理してよいか》

「僕の道じゃない」

《能力が示した》

「作ったのは住民」

《住民は誰》

 《未定》が打鍵板へ来る。

《私たち》

「使っていい?」

《今回》

「今後」

《別に訊く》

「名前を付ける?」

 受領係。

《封緘路》

 タマキは首を横へ振る。

「付けない」

《なぜ》

「僕の能力名みたいになる」

《能力で見つけた》

「能力が出る前からあった」

《地図にはない》

「地図にないから、人が作ってないことにはならない」

 《未定》が、短い打鍵を送る。

《洗濯索》

 教員準備室の床下を通る古い索。

 食料と洗濯物を運んだ道。

「それが名前?」

《呼び方》

「誰が」

《住んでた人》

「じゃあ洗濯索」

 受領係は記録を訂正する。

《救助時一時経路――洗濯索》

《所有・管理権は未確定》

《今回の通行許可は被救助者側》

 能力者が見つけた道は、能力者の発見物になりやすい。

 発見という言葉は便利だ。

 そこに前からいた人を、後から消せる。

 タマキは、受領票へ自分の名前を所有者欄ではなく、通行担当へ書いた。

 休止八分目。

 西口から受入れ撤回が来た。

 共同宿舎の一室で火災警報。

 受入可能数十四は変わらない。

 ただし、面会拒否者の隔離室が一時使えない。

 次便の西希望者一人は、家族へ会わず共同宿舎へ入る予定だった。

 受取人の条件が変わった。

 タマキの胸に、何も封じていないのに冷たい感覚が走る。

「まだ能力使ってない」

 イオ。

「分かってる」

「身体が先に反応した?」

「焦った」

「能力反証にしない」

「時雨ミソラみたい」

「嫌?」

「正確」

 西希望者は水底にいる。

 新しい条件を伝える。

《西口は開いている》

《面会拒否者用の別室は二十七分後》

《今すぐ出る場合は、共同待合へ仕切りを設置》

《家族名を呼ばない》

《中央保留室へ変更可》

 本人の返答。

《西》

《共同待合》

《仕切り》

 受取人へ返す。

《受入れ》

 封はまだ閉じない。

 タマキは地上にいる。

 本人は水底。

「代理で閉じる?」

 施設職員。

「本人が閉じる」

「潜水員が札を持っていく時間」

「持っていく」

「口頭確認で十分では」

「僕の能力を使わないなら、口頭でも救助できる」

「使えば速い」

「本人の封がないと使えない」

「条件を硬くしすぎた」

「柔らかくすると、誰の手でも閉じる」

 タマキは西札を百舌へ渡す。

 百舌は両手を背中から出さず、左肘で受ける。

 自分の誓痕を誤作動させないため。

 水底へ運ぶ。

 本人が封を閉じる。

 その時、タマキはまだ休止中だった。

「能力、出た?」

 凱。

「出ない」

「受取人も本人も成立」

「僕が札に触れてない」

「触れれば」

「休止が終わってから」

「急ぐ」

「休む条件も、最初に受け入れた」

 タマキは椅子から立たない。

 能力の条件を守るためではない。

 潜水後の身体条件を守る。

 自分が送り主の選択を大事にすると言って、医療者と自分が決めた休止だけ破れば、条件は荷札の飾りになる。

 十五分。

 イオが時計を見せる。

「終了」

 タマキは立つ。

 床は傾かない。

 西札へ触れる。

 胸の折り線が、左へ向く。

 能力は成立した。

 しかし、タマキは潜らない。

 百舌と施設潜水員が、既に西希望者を連れて洗濯索へ入っている。

 方向は左。

 地上から見ても、既知の経路。

「能力いらない」

 タマキ。

「成立したのに」

 施設職員。

「索がある」

「能力を使えば迷わない」

「索を見れば迷わない」

「初発現の確認を」

「確認のために人を荷物にしない」

 タマキは札の封へ指を掛ける。

 本人は水底で封を切れない位置にいる。

 受取人は受入れ継続。

 タマキが切れば、送り主ではない者の撤回になる。

 切らない。

 能力の線が胸へ残る。

 それでも、百舌たちは普通の索で西へ運ぶ。

 到着。

 受領信号。

 線が消える。

 能力を使わなかったのではない。

 能力が存在したまま、普通の道具を選んだ。

 タマキは胸を押さえる。

「何か変」

 イオ。

「能力があるのに、使わなかった」

「後悔?」

「分からない」

「便利な答え」

「保留欄」

「空欄とは違う」

「知ってる」