第401話 第七章「タマキの条件」前編
十月二十日 午後二時二十三分
真鍮の輪には、取扱説明書がなかった。
正確には、あった。
輪の外側へ、白い文字で十二行。
《対象者を中央へ立たせる》
《接触板を七点へ装着する》
《適性語を三回復唱させる》
《対象行動を反復させる》
《発現確認後、条件を記録する》
十二行のどこにも、対象者が断る方法は書かれていない。
環玉樹は、説明書を下から読んだ。
「終了方法」
「電源を切る」
水科イオ。
「中にいる人が切れる?」
「切れない」
「外の人」
「切れる」
「じゃあ、外の人の能力」
「そういう器具」
イオは否定しなかった。
否定しない声が、いちばん低い。
真鍮装具の刻印を、左親指が一つずつなぞる。
零時。
一時。
二時。
午後二時二十三分を示す刻印はない。
「使えば、出るかもしれない」
「出る」
「さっき、出るとは限らないって」
「この型なら、何かは出る可能性が高い」
「何か」
「施設が欲しい何か」
「僕が欲しいものじゃない」
「救助に使えるかもしれない」
「使えないかもしれない」
「そう」
「水科イオは、どっちを勧める」
イオの指が止まった。
いつもなら、秒数で答える。
残り時間。
出力。
成功確率。
終了時刻。
今日は、数字が先に出ない。
「私は、使いたい」
タマキは輪を見る。
「僕に?」
「救助に」
「同じじゃない」
「同じにしたくなる」
イオは自分の言葉を、自分で訂正する。
「正確には、使わせたい。十二人を救う理由がある。私には装置を操作する技能がある。四分で出る可能性がある。今の私は、その三つを並べると、あなたの拒否を邪魔だと思う」
「思うんだ」
「思う」
「言っていいの」
「言わないと、善意の顔で触る」
タマキはイオの左前腕を見る。
真鍮装具。
時刻の刻印。
止まった機能を、外さずに残している。
「水科イオも、入った?」
「別型」
「断った?」
「断る欄がなかった」
「逃げた?」
「逃げる方向を器具が決めた」
タマキは鉄箱を床へ置いた。
留め具を外す。
中身を一つずつ出す。
古い列車切符。
折れた舞台券。
市場の平文契約の写し。
病院で使った触覚札。
塩の白い粉が残る荷札。
名前のない返送票。
角の欠けた受領印。
どれも、能力がない時に運んだ物だ。
その多くは、きれいに届かなかった。
列車は途中で分かれた。
舞台は最後まで演じなかった。
契約は一枚から何枚にも分けた。
病院では撮らない時間ができた。
食料は全部守れなかった。
返送票は、宛先が死んでいた。
「能力があったら、全部届いた?」
タマキが訊く。
迅は答えない。
イオも答えない。
凱が地上指揮台から言う。
「届いた物もある。届かなかった理由が別の物もある」
「王みたいな答え」
「王は終わった」
「じゃあ凱みたいな答え」
「それなら受け取る」
凱は左膝を曲げず、机の端へ体重を預けている。
「タマキ。器具の使用を決める権限は、俺にない。現場の残り時間を示す責任はある」
ミソラが潜水表を持ち上げた。
「酸素一本を旧寮の空気溜まりへ接続した。呼吸用。工具には使っていない」
「何分」
「保守回廊、十八分。圧力管理室、二十一分。旧寮、二十四分」
「増えた」
「一本減った」
九本のうち一本が、下へ送られた。
時間を買った。
買った時間を、誰かの能力へ賭けるか。
タマキは真鍮の輪の前へ立つ。
輪の中には入らない。
「条件を作る」
巴が白手袋を上げる。
「能力条件を?」
「配達条件」
「誓痕が従う保証はありません」
「僕も従う保証ない」
「それは保証というより、反抗です」
「同じじゃない?」
「保証は、できなかった時に責任の所在を決めます。反抗は、できなかった時にも気分がよい」
「一文字巴、今、僕を怒らせた?」
「理解確認です」
「怒った」
「確認できました」
巴の口元が少し上がる。
右人差し指は硬直している。
左手で防水紙を押さえ、白手袋の指先で句読点を作る。
「まず、何を成立させたいですか」
タマキは答える。
「行先」
「誰の」
「運ばれる人」
「誰が決める」
「本人」
「意識がない場合」
タマキはミソラを見る。
「救命代行。本人が選んだとは書かない」
ミソラが頷く。
「次」
巴。
「受取人」
「人ですか、施設ですか」
「受け取る人。東、西、中央にいる」
凱が三口の連絡板を確認する。
東医療口。
当直医と登録担当。
西家族口。
共同宿舎の受入責任者と、面会拒否を扱う係。
中央保留室。
呼称だけで入れる受領係と医療者。
「三口とも、受取人の名前を出せる」
「本人に見せられる?」
「触覚札へ役割と受入れの印を付ける」
「受け取る人も、受け取るって言う」
「受入れが撤回された場合は」
「道はなくなる」
タマキは即答した。
「なくなったのに、あるふりをしない」
巴が書く。
《受取側の受入れ》
「目的」
タマキ。
「目的は、救助」
施設整備員が言う。
「大きすぎる」
タマキは首を横へ振る。
「目的は、一人ずつ違う」
東へ行く目的。
呼吸処置。
加温。
外科。
感染管理。
西へ行く目的。
家族に会う。
家族に会わず共同宿舎へ入る。
自分の住戸へ戻るための連絡だけを取る。
中央へ行く目的。
まだ決めない。
名前を保留する。
二十四時間後に選び直す。
「同じ口でも、目的が違う」
「目的が途中で変わったら」
巴。
「札を破る」
「水中で破れますか」
轟が防水札の端をつまむ。
「破れん。丈夫に作った」
「丈夫すぎ」
「救助道具だ」
「撤回道具でもある」
轟は札を見る。
自分が作った物の欠点を認める時、眉が下がる。
「切れ目を入れる」
「水で勝手に裂けない?」
「二枚重ね。内側だけ引けば切れる。外側は残る」
「切ったことが残る」
「残る」
轟は工具を取る。
札の端へ、半円の切れ目を一つ。
タマキが引く。
内側の封だけが切れる。
外形は残る。
「撤回」
「撤回した人を、元の行先へ運ばない」
「次の行先を決めるまで」
「保留」
巴が書く。
《本人は随時破封できる》
「呼称」
タマキ。
「必要ですか」
「本人が選ぶ」
「本名でなくても」
「受取人が、その人だと分かる呼び方」
「一日だけでも」
「一便だけでも」
「無言でも」
「印でもいい」
綺理が口を挟む。
「呼称を保管する範囲は」
「札と受領記録だけ」
「映像へ写す?」
七瀬。
タマキは首を横へ振る。
「本人がいいと言ったら」
「行先と目的は」
「同じ」
「同じとは、本人が許可した範囲だけ?」
「そう」
七瀬は撮影機を持ち上げない。
濡れて壊れた機材は、分解したまま布の上にある。
「分かりました」
綺理は三つの受領箱へ、別々の鍵を付ける。
「呼称は出口間で共有しません。本人が変更を求めた場合、旧札は破棄せず、変更履歴だけ封じます」
「破棄したい人は」
「受領確認後、本人が選べます」
「全部、選ぶことが増える」
施設整備員。
「時間がないのに」
「増やしたいんじゃない」
タマキは言う。
「勝手に減らさない」
真鍮の輪の表示器が、赤い文字を流している。
《適性語を三回復唱》
タマキは読む。
「復唱しない」
巴が顔を上げる。
「確認しないという意味ですか」
「僕が言い直したら、僕の言葉になる」
「聞き間違いは」
「指で見せる。本人に直してもらう」
「声がない人は」
「札を指す。握らない。渡す。首を振る。何もしない。全部、同じにしない」
百舌が透明壁の向こうで見ている。
彼女の両手は背中。
タマキは続ける。
「僕は、宛先を復唱しない」
「配達員が復唱しないのは危険です」
巴。
「普段はする」
「今回は」
「能力が僕の声を正解にしたら困る」
「では、確認方法は」
「本人が選んだ札。受取人の受入れ。封。僕は両方を指す。違ったら本人が封を切る」
「受取人が変更したら」
「道は消える」
「到達不能を知ったら」
「進まない」
「急いでいたら」
「急いでるって、ない道をあることにする理由じゃない」
迅が壁にもたれている。
濡れた髪から床へ水が落ちる。
「おまえ、能力が欲しかったんじゃないのか」
「欲しい」
「使えばいい」
「迅は、欲しい拳なら何でも殴る?」
「殴りたくても殴らない時はある」
「何で」
「殴った後に、殴る前より悪くなる時」
「能力も?」
「同じだろ」
「迅は最初から持ってた」
「だから、持ってない奴の怖さは分からない」
「分からないって言える?」
「言える」
「じゃあ聞いて」
「聞いてる」
タマキは緑のニット帽を取った。
左側頭部。
髪の薄い火傷痕。
水門火災で残った皮膚。
誰も「隠さなくていい」と言わない。
本人が取ったから、見える。
「能力が出たら、みんな、やっとって言う」
迅は黙る。
「やっと戦える。やっと役に立つ。やっと同じ。そう言われたら、前の僕は何だった?」
「配達員」
「今も」
「配達員」
「能力が出ても」
「料金を取る配達員」
「割引は」
「しろ」
「しない」
「けち」
「正規料金」
タマキは少し笑った。
笑ってから、輪を見る。
「器具は使わない」
イオの指が真鍮装具へ食い込む。
「理由」
「外の人が切れるから」
「それだけ」
「水科イオが使わせたいから」
イオの目が細くなる。
「喧嘩を売ってる?」
「確認」
「確認して何が分かった」
「能力が出る前の僕と話してる」
イオは息だけ先に笑い、すぐ消した。
「今の私は、装置を壊したい」
「救助に使える」
「だから壊したい。使える道具ほど、使う理由が増える」
「壊す?」
「今は壊さない。証拠。電源だけ外す」
「外す人」
「私」
「目的」
「あなたの条件へ割り込ませない」
「受領」
イオは輪の背面へ回る。
工具を入れる。
左手で固定。
右手で支える。
真鍮装具が一度鳴る。
電源線が外れる。
表示器の赤い文字が消えた。
真鍮の輪は、ただの輪になる。
電源を外された真鍮の輪は、急に古く見えた。
赤い文字が消えただけで、表面の傷が目立つ。
七つの接触板。
手の跡。
額を当てた跡。
胸板の中央に、爪で削った三本線。
タマキが指を近づける。
「触らない」
イオ。
「電気、切った」
「電気がなくても、証拠は減る」
「三本線」
「終了を求めた痕かもしれない」
「かもしれない」
「確認できない。だから、格好いい反抗の印にしない」
イオは透明板を輪へ立てる。
《使用停止》
《所有者確認中》
《救助終了まで再接続しない》
「救助終了後は」
「調べる。壊すか、保存するか、使用した人へ訊く」
「水科イオは」
「壊したい」
「さっきと同じ」
「同じだから、私一人で決めない」
タマキは輪の内側を見た。
「能力を失った人が、能力を出す器具を壊したい」
「分かりやすい?」
「分かりやすすぎて、違うことがありそう」
「ある」
「何」
「私は、これが役に立った記録も知ってる」
イオは床へ座らず、真鍮装具へ体重を逃がす。
「閉じた防火扉を開ける能力。崩落を三秒止める能力。熱傷者の体温を一定に保つ能力。器具で出た力が、人を救ったことはある」
「なら使う?」
「使った人が、その後どうなったかも知ってる」
「どう」
「能力名で呼ばれた。仕事を変えられた。家族へ報奨金が出た。拒否すると、救われた人を見捨てるのかと言われた」
「今の僕みたい」
「まだ違う。あなたは、輪へ入っていない」
「入ったら同じ?」
「同じにしないため、今止めた」
タマキは輪を背にする。
見ないのではない。
今の救助判断へ使わない。
巴は、タマキが挙げた五条件を、三つの架空事例へ当てた。
「一人目。呼称《カモメ》。東医療口。目的、呼吸処置。東の当直医が受入れ。本人が封を閉じる」
「成立」
タマキ。
「途中で東の再圧室が満床」
「受取側が受入れを撤回」
「能力は」
「道を消す」
「代わりに中央へ自動変更」
「しない」
「救命が遅れる」
「中央を本人へ訊く。訊けないなら医療代行。僕の能力は使わない」
「二人目。意識なし。呼称不明。西の共同宿舎に家族がいる。家族は受入れ。医療者が西を代行」
「成立しない」
「家族がいるのに」
「送り主本人が選んでない」
「あなたの能力は、意識のない人を助けにくい」
「そう」
「欠点として受け入れる?」
「欠点じゃなく条件」
「言い換えでは」
「欠点って言うと、直す方向が決まる」
巴が一度、白手袋を止める。
「では、制約」
「それなら」
「三人目。呼称《なし》。中央。目的、決めない。中央の受領係が受入れ。本人が封を閉じない」
「成立しない」
「封を閉じない理由は」
「分からない」
「時間がない」
「待つ」
「待てない場合」
「能力なしで運ぶか、別の人を先にする」
「封を閉じないことを拒否へ数える?」
「数えない。封を閉じてない」
「沈黙と同じ」
百舌が透明壁の向こうで、わずかに目を伏せる。
タマキは彼女を見る。
「何もしないことに、僕の都合の意味を入れない」
百舌が表示する。
《時間経過は意味を持つ》
「何の」
《酸素減少》
「本人の同意じゃない」
《救助順へ影響》
「それは書く」
《結果は同じ》
「同じじゃない。封を閉じないから後ろになったのと、時間が減って別の人を先にしたのは、あとで責任が違う」
百舌の右手が背中で少し動く。
《死んだ場合》
「もっと違う」
《本人は訂正できない》
「だから生きてるうちに訊く」
《遅い》
「速くする。でも、同じにはしない」
百舌は表示板を下ろす。
反論が終わったのではない。
時間が終わりへ近づいている。
受取側の三人が、低音回線へ出た。
東の当直医。
西の共同宿舎担当。
中央の受領係。
タマキは、本人側の条件だけを作っても、受取人がただの印なら意味がないと考えた。
「質問」
東へ。
「受け取るって、何をする?」
《呼吸・循環・体温の評価。必要な処置。照会は救命範囲》
「満床なら」
《受入れ前に撤回。受入れ後は床を作る》
「床が作れない」
《他院へ移す前に本人または代行者へ説明。勝手に送り返さない》
西。
「受け取るって」
《本人が指定した相手との連絡。面会拒否の保護。共同宿舎または個別移動》
「家族が本人を連れていくって言ったら」
《本人の選択を確認。判断不能なら保留》
「西へ来たから家族に会う、にはしない」
《しない》
中央。
「受け取るって」
《呼称だけで入室。二十四時間の保留。最低限の医療。次の行先を選ぶ支援》
「二十四時間で決まらない」
《延長を交渉》
「必ず延長?」
《保証しない》
「受け取らない?」
《今は十二人まで受け取る。十三人目は受入れ撤回》
タマキは三つの返事を札へ書かせる。
受取人は、善意の穴ではない。
受領後に何をするか。
できなくなった時に、いつ撤回するか。
誰へ説明するか。
そこまで言って、初めて受取人になる。
「能力が出る前に、仕事が増えた」
迅。
「出なかったら、これだけ残る」
「出たら」
「これがないと使えない」
「面倒だな」
「迅の七歩も面倒」
「俺は条件を紙にしない」
「だから間違える」
「おまえも間違える」
「紙にして間違える」
「同じじゃないか」
「どこを間違えたか分かる」
迅は少し考える。
「それは、腹が立つ」
「便利?」
「腹が立つ」
「受領」
会話の間にも、潜水表の残り時間は減る。
条件を決めることが、救助そのものになる瞬間はない。
決め終えた後に、水へ入る人が要る。
タマキは、真鍮の輪ではなく、三本の索を見た。
午後二時三十一分。
タマキは、仲間の前で条件を言った。
「一。送り主が、自分の呼ばれ方を選ぶ」
巴が書く。
「二。送り主が、受取先と目的を選ぶ」
「受取先は施設名だけでなく、受取人または役割まで」
「そう」
「三」
「受取側が、受け取るって示す」
「四」
「防水札を封する」
「五」
「本人がいつでも封を切れる」
「効果は」
イオ。
「まだない」
「出るとしたら、何を望む」
タマキは三本の索を見る。
「今、通れる方向」
「道そのものではなく?」
「方向だけ」
「人を軽くする?」
「しない」
「酸素を増やす?」
「しない」
「水門を開ける?」
「しない」
「役に立たない可能性」
「ある」
「それでも」
「僕が決めてない道を、速く運ぶよりいい」
百舌が表示板へ打つ。
《保証なし》
タマキは頷く。
「ない」
《残り十二》
「いる」
《時間》
「減ってる」
《なら》
「能力が出なくても潜る」
《技能不足》
「前半は地上って決めた。前半が終わった」
《終わりは誰が決める》
タマキはミソラを見る。