第571話 第八章「凱の王歴」前編
六月二十五日 午前九時八分
王を辞めた人間は、元王になる。
被害を受けた人間は、元被害者にはならない。
獅堂凱は、証人席へ座る前に、椅子の曲がりを直さなかった。
左脚を少し前へ。
膝装具の角度を固定。
右手は机上。
左手は空ける。
昔なら、背もたれの低い椅子へ座ること自体を拒んだ。
王は座る場所を選ぶ。
今は、座る場所を他人が決めたことも記録へ入れる。
冬城側補佐官が、最初の証拠を掲げた。
白冠連の命令書。
《北東区夜間封鎖》
《配給所統合》
《未登録住民の一時拘束》
《反抗者の鐘没収》
署名。
《獅堂凱》
「あなたは、十九歳で白冠連を指揮し、北東区を事実上統治していましたね」
「はい」
「選挙を受けた?」
「いいえ」
「住民の撤回手続きは」
「ありませんでした」
「夜間封鎖によって犯罪件数は減少した」
「確認できる範囲で、二十九%」
「餓死者は」
「前年同時期の十二人から三人」
「医薬品紛失は」
「四十一件から七件」
「成果があった」
「ありました」
「同時に、拘束された者もいた」
「いました」
「何人」
「百三十七」
「うち、後に具体的な暴力行為が確認された者は」
「四十二」
「残り九十五」
「登録不備、家族関係、通行時刻、所属疑いで拘束しました」
「あなたの命令で」
「はい」
「冬城評議官の命令ではない」
「はい」
「中央がなくても、若い王は同じことをした」
「私はしました」
凱の答えは短い。
傍聴席は、もっと長い言葉を待っている。
事情。
飢え。
妹の病気。
抗争。
中央の放置。
どれも事実だ。
どれも、九十五人を拘束しなかったことにはしない。
補佐官が次の記録を出す。
公開決闘の映像。
白い外套。
鐘。
凱の《王路不退》が群衆の視線を集め、退路を消していく。
「あなたは、観衆の前で退かない王を演じ、支持を得た」
「演じた部分と、信じた部分があります」
「区別できますか」
「完全には」
「今になって便利ですね」
「はい」
「あなたが王位を終えたのは、能力が減衰した後です」
「はい」
「力を失ったから、分散統治を語り始めたのでは」
「その疑いは残ります」
「否定しない」
「否定する証拠がありません」
「では、あなたに中央集権を批判する資格はない」
凱は少し考えた。
「資格という言葉を、誰が発行しますか」
「質問に答えてください」
「私は、過去に命令を集中させました。そのため、集中の危険を証言できます。無罪だから語るのではありません」
「犯罪者が、法を教える?」
「犯罪者の証言を採用するかは、内容と証拠で決めてください」
「自分の変化を、信用しろと」
「信用を求めません」
「朝と同じ答えですね」
「彼女から学びました」
「都合のよい共同台本では」
「台本なら、もっと格好よく書きます」
傍聴席に、短い笑い。
凱は笑わない。
補佐官が、別の命令書を掲げる。
第七水門事故。
十二人を置いた撤退。
岳の名へ責任が集められた記録。
「あなたは、撤退を決めましたね」
「はい」
「十二人を残した」
「はい」
「その責任を、竜胆岳一人の判断に見せる記録訂正を、二年間訂正しなかった」
「はい」
「なぜ」
「訂正すれば、白冠連が崩れ、配給と警備が止まると思った」
「都市維持のため、個人へ責任を転嫁した」
凱の右手が机上で止まる。
冬城の銀具と同じ言葉。
「はい」
迅が警備線の外で、顔を動かさない。
右頬の三針はまだ黒い糸が残っている。
「では、冬城評議官が中央維持のため反証を分散したことと、何が違う」
「違わない部分があります」
「どこが違う」
「私は、違わない部分を先に出しています」
「それでは答えにならない」
「違いを、私の善良さへ置きたくない」
「具体的に」
凱は、机上へ三つの記録束を置いた。
一つ目。
白冠連の命令記録公開。
二つ目。
期限付き委任の返却時刻。
三つ目。
王位終了宣言。
「私は、撤回窓口を作りました。命令の終了時刻を置きました。王位を終えました」
「善行では」
「責任後の行動です」
「過去を消す?」
「消しません」
「では、何の証拠です」
「今も同じ運用を続けているかどうか」
「変わった証拠?」
「変えるために何をしたかの記録です。私が変わったと判定する証拠ではありません」
「巧妙ですね」
「昔より、言い訳が長くなりました」
「それを成長と?」
「不便と呼んでいます」
補佐官は、白冠時代の配給表を示した。
「あなたの統治で、実際に人は救われた。それでも王位は悪だったと?」
「王位が救ったのではありません」
「あなたの命令で、配給が動いた」
「倉庫係、運転手、炊事、警備、住民が動いた。私は順番を決めた」
「決める人間が必要だった」
「必要な場面はありました」
「今もある」
「あります」
「なら、中央決裁も必要では」
「必要な仕事と、必要な範囲と、終了時刻を分けてください」
「災害は終了時刻を守らない」
「だから更新する。自動ではなく、名前を出して」
「更新が遅れれば」
「被害が出ます」
「あなた方は、その被害を受け入れる?」
「受け入れるとは言いません」
「また逃げる」
「被害を選んだ人間が署名する。後で、選ばなかった人へ説明する。それでも足りない」
「結局、中央か無政府かです」
「まだ、その二つにはなっていません」
冬城側補佐官は、そこで質問を切った。
切った位置が、次の証拠の入口になる。
午後一時十三分。
八城レムは、証人席へ歩いて来なかった。
右膝の前十字靱帯再建後。
黒い装具。
両松葉杖。
城の石床は、薄底靴で八拍を刻くために作られていない。
彼女は移動台へ座り、自分で車輪を回して入廷した。
淡い栗色の髪を留める八本のピンのうち、七本は同型。
右端の一本だけ、四角い。
「移動介助を断った理由は」
審理官が確認する。
「自分で動ける距離だからです。疲労したら交代します」
「自立を示すため?」
「違います」
レムは即答した。
「必要な時に介助を求める訓練もしています。本日は入口から証人席まで、二十八メートル。自走可能範囲です」
「痛みは」
「二。固定時間が三十分を超えると四。質問が予定外でも、痛みは証言精度へ自動換算しません」
朝が、待機席でごく小さくうなずいた。
レムは机上へ、八本の映像筒を置いた。
「英雄再演試験の映像です」
「獅堂凱の動作評価を行った?」
真琴が問う。
「はい。私の旧評価では、凱の災害指揮動作は八十七点。迅は六十三点。岳の記録動作は九十四点」
「現在の評価は」
「点数を撤回します」
「理由」
「採点基準が、最初に動いた人、中心へ立った人、他者の動きを揃えた人を高くしました」
「それが、誤り?」
「一部」
レムは、一番目の映像筒を開いた。
災害訓練で、凱が崩落前に全員へ同じ退避姿勢を命じる映像。
「旧評価、八拍以内の統制成立。加点十二」
次の映像。
画面の端で、浅海スエが浴場利用者へ別の姿勢を取らせている。凱の命令と違う。しかし、その区画では熱湯配管があり、同じ姿勢では火傷する。
「旧評価では、命令不従順として減点しました」
「現在は」
「凱の統制だけで救助が成立したという解析を撤回。浅海スエの区画判断を別要因として追加」
「凱の評価は下がる?」
「点数を廃止します」
「質問に答えて」
冬城側補佐官が言う。
「凱の指揮だけでは救えなかった」
「はい」
「中央のように、全体を見た指揮も必要だったのでは」
「この映像で分かるのは、全体指揮だけでは足りなかったことです。中央が必要かは、別証拠」
「あなたは、施設で中央英雄動作を教えた」
「はい」
「岳、凱、迅の型を、正しい救助として」
「はい」
「その教育で、実際に受け身と避難速度は向上した」
「はい」
「救われた人も」
「います」
「なら、型の有効性はある」
「あります」
「型を解体したことを後悔しますか」
レムの指が、机上で八拍を数えかける。
一、二、三。
四拍目で止めた。
「解体していません」
「英雄再演を中止した」
「型を、誰にでも同じ正解として強制する運用を止めました。受け身の型、結索、弁操作は残しています」
「言葉遊びでは」
「違います」
レムは二番目の映像を出した。
岳が転倒する。
画面外の作業員が支える。
岳は一度、出口を間違える。
別の女性が腕を引き、正しい方向へ直す。
「施設版では、転倒と修正者を切り、岳が一人で進路を変えたように編集されました」
「誰が」
「編集承認は中央記録運動学院。最終決裁印は、冬城評議官の部署」
「冬城本人の印ですか」
「部署印。本人承認は確認できません」
「なら、本人責任には使えない」
「はい」
レムは、きっぱり答えた。
申立人席の一部がわずかに動く。
味方に有利な推測を、専門家が自分で切った。
「なぜ、その映像を出した」
「私の解析誤りを示すため」
「あなたの誤りで、凱の責任は軽くなる?」
「なりません」
「重くなる?」
「自分以外の修正を、凱の功績へ含めた部分は訂正されます」
凱が証人席から下がった位置で言う。
「異議はない」
補佐官が振り向く。
「あなたへ不利ですよ」
「知っている」
「レムの評価が誤っていたなら、あなたが当時どれほど有能だったかも不明になる」
「有能さを、統治資格へ使わない」
「しかし、分散統治を語る時は、自分が変わった記録を使う」
「使った。だから、その記録の評価も訂正される」
「自分の足場を壊している」
「足場は、壊れる前に降りる」
迅が警備線の外から、縫った頬を動かさず呟く。
「俺の台詞取るな」
真琴が睨む。
「無許可発言、二回目です」
「今回は小声」
「音量は免責になりません」
レムの三番目の映像は、拘置所崩落時の動作解析だった。
賀茂冬実が、収容者を番号順ではなく、呼吸状態と扉位置で分ける。
轟が支保を組む。
迅が扉から人を押し出さず、床線へ戻す。
「旧評価では、冬実の動作を《拘束継続》として全面減点しました」
レムは言う。
「現在は、崩落時の頭部保護、薬剤優先、外門への押し出し防止について、救命効果を別評価します」
冬実が尋ねる。
「私の拘禁責任は」
「別です」
「施設設計の成果は」
「崩落区画を局所化した壁厚、排煙、内側開錠具は有効」
「無期限収容は」
「違法運用の疑い。私の専門外は審理へ」
「専門家が、専門外を言えるようになった」
「はい」
「昔のあなたなら、全部採点した」
「はい」
「今は成長した?」
レムは、四角い髪留めへ触れる。
「その評価は保留します」
冬実の口元が少し動いた。
レムは、八本の映像筒すべてへ訂正票を付けた。
レムは、自分の試験映像へ訂正札を重ねた。
《獅堂凱は、第三者の退路を確認した後に前進する》
旧解析。
その下へ、新しい文。
《映像では第三者の退路確認を示す視線がある。本人の目的までは確定できない》
「差は」
補佐官が問う。
「前は、行動から人格を読んだ」
レムは右膝装具の留め具を一段緩めた。
「今は、見えた動作だけ」
「あなたは英雄行動の専門家では」
「型の専門家です。英雄の専門家ではない」
「自分の解析を否定する?」
「訂正する」
「以前の評価で、凱の再演認証は上がった」
「はい」
「あなたの誤りが、彼を正しい指揮者に見せた」
「はい」
「責任は」
「解析報告、訓練契約、負傷補償の審理を受ける。今日の凱の命令責任とは別」
凱が口を挟まない。
レムが自分の誤りを認めることを、凱の成長物語へ使えば、また他人の人生を王の脇役にする。
レムは映像を一度戻した。
凱の視線。
左。
右。
前。
「ここ。私は《全員の退路を見た》と書いた」
「実際は」
「左の医療路、右の機材路、正面の相手を見た。全員かは分からない」
凱が言う。
「全員は見ていない」
「覚えている?」
「医療路に二人残っていた。後で知った」
レムは、さらに訂正する。
《本人証言により、全員確認ではなかった》
「あなたに不利ですよ」
補佐官が凱へ言う。
「はい」
「それでも訂正する」
「映像が、私より立派な王を作っている」
「それを壊す?」
「存在しなかった王を、責任者にできない」
レムは映像を止めた。
正しい型は、過去の人間を救わない。
間違った解析を訂正したことも、レムの膝を元へ戻さない。
ただ、次の質問が、存在しない英雄へ向かわないようにする。
《原解析》
《訂正箇所》
《訂正理由》
《訂正後も残る不明》
訂正版だけを残さない。
間違った自分を消さない。
「専門家の信用を下げますね」
補佐官が言う。
「はい」
「それで証拠になる?」
「誤りを訂正できない専門家よりは」
「自分で言えば信用が上がると?」
「上げないでください」
「では、何のために」
「次に同じ映像を使う人が、私の間違いから始めなくて済むように」
レムは、八つ目の筒を閉じた。
閉じる音が八回目になる前に、一度休んだ。
右膝の痛みが四へ上がっている。
「介助を」
彼女は自分から言った。
移動台の後ろへ、係員がつく。
レムは車輪を手放す。
自分で来たことも、他人に押してもらうことも、証言の正しさには使われなかった。
レムの退出後、冬城は自分で証拠申請を行った。
三つの災害記録。
中央暖房網の初期凍結事故。
北外環の疫病封鎖。
黒雨後の七地区同時配給。
どれも、中央決裁がなければ被害が増えたと推定される事例だった。
最初の映像では、地域担当者が暖房弁の優先順位で争っている。
住宅を先にするか、病院を先にするか、工場の凍結を防ぐか。
中央は、病院、乳幼児住宅、主配管保温の順を十五分で決めた。
工場の一部は凍結し、復旧に三か月。
死亡は推定値より三十六人少なかった。
二つ目。
疫病封鎖。
地域協議では、商人、病院、家族面会、外部輸送の利害が割れた。
中央命令で二十四時間封鎖。
感染拡大は抑えられた。
同時に、封鎖内で薬が切れ、四人が重症化した。
三つ目。
七地区配給。
中央在庫表が、一つの地区への集中を止めた。
各地の厨房は、決められた量に不満を持ちながらも動いた。
冬城は、数字を読み上げた。
「分散判断は、適切な場面があります」
彼は言う。
「しかし、同時に複数地域へ損害が出る時、各地域が自分の住民を優先すれば、交渉の遅い者、声の小さい者、記録のない者が先に失われる」
朝が待機席から尋ねる。
「中央なら、失わない?」
「中央も失います」
「違いは」
「全体損失を比較できる」
「比較した人の名前は」
「決裁者です」
「今回、その決裁者を問うている」
「だから、私はここにいます」
冬城は立ち上がらない。
机上の銀具へ手を置く。
「私は、中央が無謬だとは主張しません。中央が必要だと主張します」
真琴が問う。
「中央以外は、無政府ですか」
「期限付き委任、地域手動、複数承認。平時には機能します」
「緊急時は」
「選択肢が増えるほど、判断は遅れます」
「判断が速いほど、誤りも速い」
「誤りを訂正する時間は、決めなければ生まれない」
冬城は、三つの災害記録の後に、証人を一人申請した。
中央暖房網の元弁操作員。
六十二歳。
右手の親指と人差し指を凍傷で失っている。
彼は証人席へ座ると、凱を見なかった。
「中央命令が来る前、何をしていましたか」
冬城側補佐官が聞く。
「三地区から、全部違う弁順が来てた。病院は圧を寄越せ。住宅は夜を越せない。工場は主配管を凍らせるな」
「あなたの判断は」
「決められなかった」
「中央命令後は」
「病院、乳幼児住宅、主配管保温。順番どおり開けた」
「結果」
「病院の手術灯と暖房が戻った。住宅二棟で低体温。工場配管は一部凍結」
「中央がなければ」
「もっと死んだと思う」
冬城は、証人の方へ身体を少し向ける。
「あなたは、中央決裁を必要とした」
「その時は」
「現在は」
「同じ事故なら、早く決める人は要る」
「中央ですね」
「名前は、どうでもいい」
補佐官が少し止まる。
「地域協議では遅い」
「遅かった」
「では」
「でも、中央命令の後、俺の地区の弁だけ開度が違うって報告を三回送った。返事は《統一値を維持》だった」
「統一値で、全体圧を保った」
「俺の弁は、凍って半分しか動かなかった」
「故障は現地設備です」
「そうだ。だから、紙の五十%と、実物の五十%が違った」
証人は、欠けた右手を机へ置く。
「俺は、手で弁を戻そうとして凍傷になった。中央が悪いから指がなくなった、とは言わない。現地が悪いだけとも言わない」
「中央命令を拒否すべきだった?」
「拒否したら、病院の圧が落ちた」
「従うべきだった」
「従った。だから、俺はここにいる」
「中央を支持する証言では」
「支持って、どの部分だ」