第125話 第一章「王に台本」前編
十一月十九日 午前六時四十一分
王冠は、頭に載せる前から重い。
紙に印刷されると、なおさらだった。
獅堂凱は、元配達所の会議室で椅子を直していた。
十二脚。
背もたれの角度はばらばらで、四脚は脚の長さも違う。誰かが廃材から作り、誰かが壊し、伏見轟が直し、また誰かが壊した。空白の旗〈ブランク〉の会議で、形の揃った物は議題の表紙ぐらいしかない。
凱は一脚ずつ、床板の継ぎ目へ前脚を合わせた。
「曲がってない」
窓際から竜胆迅が言った。
「列が曲がっている」
「座る奴も曲がってる」
「人間は直せない。椅子は直せる」
「元王様の改善可能範囲、狭くなったな」
「以前が広すぎた」
凱は十二脚目を押した。左膝の黒い装具が、布の下で短く鳴る。
先月の列車上で腫らした膝は、三週間で平常へ戻っていた。平常というのは、痛みがないことではない。朝の冷えに鈍く疼き、深く曲げると関節の奥で薄い板が引っかかる。それでも歩ける。走らなければいい。階段を往復しなければいい。誰かより先に着く必要がなければ、ほとんど困らない。
必要がない日を、凱はまだうまく使えなかった。
窓際では、迅が作業靴を縫っていた。
昨日、荷車引きが置いていった右足用。爪先の革が裂け、泥が縫い目まで入り込んでいる。迅は針を左手で押し、右手を革の重しにしていた。小指と薬指は、冷えるとまだ細かい仕事を嫌う。無理に握れば縫い目が曲がるので、曲がる前に手を開く。
「それ、仕事か」
凱が訊いた。
「頼まれた」
「料金は」
「靴の持ち主が決める」
「それでは交渉にならない」
「直ってから、払えるだけ」
「払えない者は」
「次に壊れた靴を持ってくる」
「増えるだけではないか」
「仕事って、だいたい増える」
迅は糸を引いた。右手が途中で震え、革が半寸ずれた。
凱が反射的に押さえる。
「そこじゃない」
「押さえろと言っただろう」
「言ってない」
「顔が言った」
「顔を勝手に議決するな」
凱は手を離した。
迅は縫い目を二針ぶん解き、やり直す。凱が押さえたせいではない。最初から角度が悪かった。
「戻すのか」
「曲がったまま進む方が早い」
「なら、なぜ」
「履く奴の足が、毎日そこへ当たる」
凱は椅子の列を見た。
見栄えのために揃えたのではない。通る人の膝が角へぶつからないよう、床の継ぎ目へ合わせたのだと、自分へ言い直す。
「王より靴屋の方が、他人の痛みへ近いな」
「王は足のサイズ訊かないからな」
「訊けばよかった」
「今から訊け」
「誰に」
「座る奴に」
空の十二脚が、返事の代わりに朝の光を受けていた。
「六時四十三分」
火群七瀬が言った。
腰の高さの三脚へ手回し撮影機を載せている。左肩は上げない。右手でクランクの抵抗を確かめ、レンズを空の椅子へ向けた。
「何を撮っている」
「誰も座っていない状態を十秒」
「後で全員が遅刻した証拠にするのか」
「座らされていなかった証拠です」
「椅子まで同意が要る?」
環玉樹が鉄箱を抱えて入ってきた。緑の帽子の下から、寝癖が一本だけ突き出している。左右で色の違う靴紐は、今日は右が黄、左が青だった。
「座る人に要ります」
七瀬。
「椅子は」
「壊れたら轟さんへ」
「料金は」
「あなたは何でも料金にしないでください」
「何でもじゃない。運ぶ物と置く物だけ」
「世の中の大半です」
タマキは鉄箱を机へ載せた。
ごん、と重い音がした。
凱が見る。
「何だ」
「配達」
「送り主」
「八旗祝祭実行局」
「受取人」
「獅堂凱、竜胆迅、火群七瀬、伏見轟、環玉樹、朽葉真琴。それと空白の旗の案件責任者」
「同じ部屋に七通?」
迅は窓枠へ靴を乗せたまま訊いた。
「一通。宛名が七つ」
「一人足りない」
「轟は床下」
床板の下から、二度、鈍い音が返った。
「聞こえてる」
低い声が続く。
「床、昨日より沈んだ」
「俺たちの責任か」
「台所の鍋」
「小麦さんへ言ってください」
「言うと飯が減る」
床下で金具が締まった。
タマキは鉄箱の留め具を開けた。赤い蝋印の封筒と、細長い箱が入っている。
「受領前に確認。誰から、誰へ、何のため」
「今言っただろう」
迅。
「何のためを言ってない」
封筒の表には、金の活字で《八旗冬前祝祭・共同演目参加要請》とある。
凱は胸の割れた青銅鐘へ触れた。
「開封する」
「それは受領?」
「内容を確認するための仮受領だ。最終の受領判断は確認後に行う」
「長い」
「正確だ」
「真琴みたい」
「それは訂正しろ」
扉が開いた。
「訂正理由を述べろ」
朽葉真琴が入ってくる。淡い茶髪は中央で分かれ、丸眼鏡の奥の目だけが朝から細い。左手に濃い紅茶、右手に未記入の受領票。署名だけは右で書く癖が、持ち物の配置にまで出ている。
「本人が来た」
迅。
「なら悪口ではなく当事者評価になる」
「法的には?」
「内容による」
「便利」
「便利という語で不正確さを隠すな」
凱は封を切った。
中から、台本が三冊出てきた。
白。
黒。
朱と群青の二色。
白い表紙には《白王》。黒い表紙には《退路の獣》。二色の表紙には《双面の案内人》と記されている。
題名は、その下にあった。
祝祭劇『白王と退路の獣』。
迅が黒い一冊を取る。
「俺、獣らしい」
「読めるのか」
「題名は」
「本文は」
「字が多い」
「台本だからな」
凱は白い冊子を開いた。
第一幕、洪水後の街。
白王は飢えた民へ食料を分け、争う若者を一声で止める。そこへ、自分だけの退路を探す黒衣の獣が現れる。獣は共同体を嘲笑い、七度逃げ、最後に王の慈悲を知る。
凱は三頁目で止まった。
《我は百の命を背負い、ただ一人、夜明けまで門に立った》
括弧の横に、元になった演説の出典がある。
白冠配給所、二年前十二月十四日。
凱はその日の言葉を覚えていた。
百の命、とは言っていない。
《北側の米を四日分に割る。乳児、病人、夜勤の順だ。俺が決めた。異議は明朝六時まで受ける》
それが本当の文だった。
異議は七件あった。
二件を受け入れ、五件を退けた。
退けられた五人の名前も、凱は覚えていた。
台本にはない。
「美化されている」
七瀬が白い冊子の肩越しに言った。
「事実の一部は正しい」
凱は答えた。
「それが一番面倒です」
七瀬は撮影機を台本へ向ける前に訊いた。
「記録していいですか」
「表紙と、出典のある頁だけ。本文の全撮影は契約確認後だ」
「了解。午前六時四十九分、範囲指定を受領」
「俺のは撮るな」
迅。
「理由は」
「獣が恥ずかしい」
「記録しました」
「撮るなって言った」
「音声です」
「同じだ」
「映像ではありません」
「性格が真琴に寄ってる」
「訂正理由を」
真琴が黒い台本を奪った。
迅の役は、凱の記憶より露骨だった。
獣は洪水で兄を捨て、子どもの薬を奪い、地下試合で金を稼ぎ、王へ殴りかかる。最後には白王の前で膝をつき、《退くこともまた、王の道の内にある》と教えられる。
迅は笑った。
声は出さず、右親指で赤い七結びを押さえたまま、口の端だけを持ち上げた。
「断る」
「まだ参加条件を読んでいない」
真琴。
「読んだら獣じゃなくなる?」
「ならない」
「断る」
「返事の期限は」
タマキが封筒を逆さにした。
別紙が落ちる。
十一月二十日、正午。
本公演は八旗協議における空白の旗の正式議題化に先立ち、市民理解と公共的関心を測定する文化事業である。参加を辞退した場合、その事実は《公開検証への不参加》として広報資料へ記載する。
真琴が眼鏡の左つるを押し上げた。
「脅迫ではない。選択の不利益を堂々と書いている」
「堂々と書けば脅迫じゃなくなる?」
タマキ。
「ならない。ただし、争う時の文言が変わる」
「弱くなる?」
「面倒になる」
「大人の強さって面倒の量?」
「かなりの割合でそうだ」
床下から轟が這い出した。
橙色の工事ベストに木屑が付いている。工具帯は右腰。左肩を頭より上へ上げず、右腕と膝で身体を押し出した。
「何の舞台だ」
「凱が立派で、俺が犬」
迅。
「犬は台本読むか」
「読まないから向いてる」
轟は凱の白い台本を取り、最初に紙の厚さを確かめた。
「燃えやすい」
「批評が早い」
「舞台なら火を使う」
「内容の話をしてください」
七瀬。
「読んでから」
轟は文字を追う速度が遅い。遅いことを隠さず、指で一行ずつ押さえる。真琴が口を挟みかけ、やめた。
凱は自分の台本を読み進めた。
文はよくできている。
短い。
声に出せば響く。
複雑な配給表も、名前を失った犠牲も、観客が二時間で理解できる形へ削られている。凱が実際には迷った時間が、勇気ある沈黙に変わっていた。命令の失敗は、敵の策略になっていた。
ひどい嘘だった。
同時に、立って言ってみたい台詞があった。
《王とは、先頭に立つ者ではない。最後尾が帰るまで、退く権利を預かる者だ》
自分が言ったことはない。
言うべきだった、と一瞬思った。
その一瞬が、凱には怖かった。
「顔が王だ」
迅が言う。
「どういう意味だ」
「読みたい顔」
「おまえの観察は、時々ただの悪口だ」
「今は両方」
七瀬がクランクを止めた。
「出演しなければ、代役で上演できます」
真琴が別紙を読みながら答える。
「できます。本人出演は要請であり、成立条件ではない」
「なら断ればいい」
迅。
「代役があなたを演じます」
「そいつが犬になる」
「あなたが否定しないまま、公的祝祭の記録に残る」
「否定文を出す」
「舞台を見た千人と、否定文を読む人数は同じだと思うか」
迅は黙った。
凱は台本を閉じた。
「現場を確認する」
「出演するのか」
七瀬。
「まだ決めない」
「期限は明日です」
「だから今日、見る」
「俺は行かない」
迅は言った。
タマキが鉄箱の底から小さな紙を出す。
「配達料、六人分」
「七人宛てだった」
「迅は受領拒否」
「待て」
「行かないなら返す」
「台本だけ返せ」
「開いたから返却手数料」
「何で増える」
「戻る方が高い」
迅は黒い台本を脇へ抱えた。
「現場だけ見る」
「受領」
タマキは料金票へ一本線を引いた。
それでもタマキは、台本を鉄箱へ入れなかった。
「受けたのは何」
「現場確認」
凱。
「舞台出演じゃない?」
「違う」
「宣伝に顔を使っていい?」
「許可していない」
「稽古へ参加する?」
「安全確認に必要な範囲で」
「必要を誰が決める」
凱は答えかけ、真琴を見る。
「各自です」
真琴が言った。
「ただし、劇場側が安全確認に必要とする行為を提示し、本人が範囲を選ぶ。参加しないことも選べる」
「長い」
タマキ。
「削るな」
真琴。
七瀬が一枚の白紙へ書いた。
《受領範囲:劇場・契約・安全設備の検分。出演、宣伝利用、政治的支持を含まない。十一月二十日正午までに再確認。》
「これを箱へ」
タマキはようやく頷いた。
「台本と一緒?」
「一緒だ」
「台本の方が厚い。白紙、なくなる」
「上へ置け」
「上だと、先に読まれる」
「そのための紙だ」
タマキは白紙を一番上へ置き、蓋を閉めた。
大人は、同意したことより、同意しなかったことを忘れやすい。
鉄箱は、その忘れ方まで運ぶ。
十一月十九日 午後二時十三分
八旗祝祭劇場は、もともと貨物を回すための建物だった。
円形の車庫。
八本の搬入線。
中央の転車台。
列車が減ったあと、床を張り、千席の客席と回転舞台を入れた。外壁には古い番号が残り、その上から金と朱の布が垂れている。
入口の幕には、白い王と黒い獣が背中合わせに描かれていた。
王の顔は凱だった。
獣の顔は迅に似ているが、牙が四本多い。
「盛られてる」
タマキが言った。
「どっちが」
「迅」
「凱は?」
「肩が本物より細い」
轟が幕を見上げる。
「運ぶ時に邪魔だからな」
「何を基準にしてる」
凱は言った。
受付には誰もいない。
代わりに、客席の奥から拍子木が二度鳴った。
乾いた音が円天井へ昇り、八つの通路へ散った。
舞台が半周する。
白い玉座。
黒い鉄骨。
雨を落とす穴の空いた天井板。
厨房の鍋まで、回転面の中へ組み込まれている。
「出口」
迅が呟く。
「八つあります」
七瀬が数える。
「見えるのは六つ」
「幕の裏に二つ」
「蝶番、内開きが三つ」
「劇場ですよ。非常口は外開きのはずです」
「飾り扉かも」
迅は舞台より先に、通路へ歩いた。
凱は止めない。
止めれば、彼はもっと遠くへ行く。
楽屋へ通された。
白い衣装が吊ってある。
長い上着。
金属糸の肩章。
背中へ八本の細い線が刺繍され、胸には壊れていない青銅鐘の飾り。
凱は触れなかった。
隣には、黒い獣の衣装がある。片袖が長く、背に七本の切れ目。靴底には、舞台上の印へ合うよう白い粉が塗られている。
迅は匂いを嗅いだ。
「新品」
「衣装だからな」
「新品の悪役は信用できない」
「古着なら出演するのか」
「しない」
鏡の前に、半分が朱、半分が群青の薄い面が置かれていた。
その面が、持ち主の手もなく持ち上がったように見えた。
鏡の横から、金髪の青年が現れたためだ。
左右で袖丈の違う稽古着。右足首には薄い補強布。面を顔へ当てると、背中が伸びた。
「ようこそ、かつて王であった人。ようこそ、退くたび名を得た獣。ようこそ、目を閉じぬ記録者たち」
華やかな声だった。
空の楽屋が、一瞬だけ客席になる。
「名前」
タマキが言った。
青年は面を外した。
背中が少し丸くなる。
「紅葉カナタ」
声も低くなった。
「役」
「案内人」
「目的」
「稽古」
「料金」
「座持ち」
「誰が払う」
「座長」
「いい人」
「そこだけで決めるな」
迅が言った。
カナタは黒い台本を見た。
「断る?」
「断った」
「まだ持ってる」
「返す場所を見に来た」
「舞台に置けば、小道具になるよ」
「ごみ箱は」
「舞台袖」
「役者に厳しいな」
カナタは少しだけ笑った。本物か演技か、凱には分からない。
七瀬の撮影機が回っているのに気づくと、彼はレンズへ正対せず、半歩だけ外れた。
「撮影許可は?」
「受付不在。共用部のみ撮影しています。顔は今、画角外です」
「上手い」
「何が」
「外し方」
カナタは迅へ向き直った。
「拳は嘘をつかないと思ってる?」
「急だな」
「台本を嫌う人は、だいたいそう言う」
「思ってない。拳も間違える」
「じゃあ、なぜ芝居が嫌い?」
「間違えたあと、拍手で正しかったことにできる」
カナタの目が、一度だけ動かなかった。
凱は見た。
迅も見たはずだ。
だが、カナタは面を顔へ戻した。声がまた広がる。
「舞台は嘘を使う。偽の刃、偽の血、偽の死。なぜなら、本物の身体が何を恐れたかを、千人へ一度に見せるには、本物だけでは小さすぎるからだ」
「千人に見せなくていい」
「なら、千人が別の嘘を見る」
「脅し?」
「興行」
「同じに聞こえる」
「音響がいいからね」
カナタは舞台側の扉を開けた。
遠くで、誰かが照明を試している。
白い光が一筋、空の玉座へ落ちた。
「役を受けるか、断るか。二つしかないと思ってる?」
凱が答える。
「他に何がある」
「断り方」
「言葉の選び方か」
「立つ場所。誰の前で言うか。言ったあと、どの扉から出るか」
迅が楽屋の奥を見た。
「扉がある前提?」
「舞台には必ずある」
「見えないのが二つ」
「よく見てる」
「開くとは言ってない」
カナタは答えなかった。
代わりに、白い台本を凱へ差し出した。
「出演しなくても、芝居は続く。断れば、断ったあなたが役になる。出れば、出たあなたが役になる」
「逃げ道がないと言いたいのか」
「違う」
面の下の声が、舞台裏の低さへ戻った。
「逃げ道も、作らないと役になる」
凱は台本を受け取らない。
「おまえは、どちら側だ」
「役者」
「それは立場ではない」
「役者には、立場より立ち位置が先にある」
「質問へ答えていない」
「王様みたい」
「俺は王ではない」
「台本では、そうじゃない」
カナタは白い衣装の胸を指した。
壊れていない鐘。
凱は自分の胸の割れた鐘へ手を置いた。
紙の王は、すでに舞台へ立っている。
本人が来る前から。
「明日、午前九時」
カナタが言った。
「安全稽古。役を受けなくても来て。断るなら、壊さず断つ方法を覚えた方がいい」
「壊した方が早い」
迅。
「本物の拳は、壊した物の修理代まで演じてくれない」
「轟が直す」
「工賃」
轟。
「ほら」
カナタは面の奥で笑った。
拍手はなかった。
それでも、空の劇場の白い光は、凱のために用意されたように見えた。
凱は白い台本を取った。
承諾ではない。
検分のためだ。
そう言い訳した瞬間、表紙の《白王》という二文字が、さっきより少しだけ重くなった。
検分は十五分で終わらなかった。
劇場の十五分は、普通の時計より長い。
舞台が一度回る。
雨室の水を抜く。
奈落の蓋を開ける。
吊り物の番号を確認する。
それだけで二十三分が過ぎた。
「時計、遅れてる?」
タマキが壁を見た。
長針は午後二時二十七分を指している。彼の懐中時計は二時三十二分だった。
「五分」
「座長の時計は全部そう」
カナタが面を外したまま答える。
「何のため」
「終わるのを遅くする」
「遅くならない」
「うん」
「じゃあ嘘」
「うん」
「直さない?」
「座長の時計」
「所有権は理由にならないって真琴が言う」
「私はそこまで言っていない」
真琴が言った。
「言いそう」
「推定を引用にするな」
カナタは舞台の縁へしゃがみ、白い粘着布を一本貼った。
長さは靴一足分。
その中央へ、黒い墨で《王》と書く。
二歩離れたところへ、《獣》。
さらに斜め後ろへ、《案内》。
「ここが立ち位置」
「名前ではない」
凱は言った。
「役名」
「俺の名ではない」
「稽古では、呼ばれた方を見る」
「俺は獅堂凱だ」
「舞台では、王って呼ばれた時に振り向いて」
「嫌だと言ったら」
「嫌な顔で振り向く。それも使える」
「何でも使うな」
「使えないものは舞台袖へ置く」
カナタは迅を見た。
「獣」
迅は振り向かなかった。
「竜胆迅」
振り向く。
「素直」
「名前を呼ばれた」
「じゃあ本番も本名で呼べばいい?」
「台本を変えるなら」
「変える権限はない」
「役者なのに」
「役者だから」
凱は、その答えを覚えた。
舞台へ立つ者が、舞台を決めているとは限らない。
王と呼ばれる者が、国を決めているとは限らなかったのと同じだ。
カナタは凱へ白い上着を渡した。
「着るだけ」
「承諾ではない」
「採寸」
「既に作ってある」
「直す場所を探す」
「本人より先に衣装を作ったのか」
「宣伝画より先に本人が来ること、少ないから」
「普通は逆だ」
「普通の人は、自分役を頼まれない」
迅が黒い衣装の片袖を持ち上げる。
「俺の、左だけ長い」
「右手を隠さないため」
カナタの目が迅の手首へ落ちた。
「怪我を見せ場にするな」
七瀬の声が一段硬くなる。
「隠す方がいい?」
「本人へ先に訊くべきです」
カナタは迅を見る。
「見せる?」
「見せない」
「理由」
「治ったみたいに拍手される」
「分かった」
カナタは長い袖を右側へ付け替えるよう、衣装係の机へ札を置いた。反論しない。その速さだけで、凱は少し驚いた。
白い上着は、凱の肩へ正確に合った。
袖丈も、背丈も、左膝の装具が裾へ引っかからない幅も。
「誰が測った」
「映像」
七瀬の口元が水平になる。
「どの映像です」
「公開されていた統旗式。階段の段差を基準に身長を出して、鐘の直径で肩幅を補正」
「精度が高い」
「褒められた?」
「いいえ」
「だと思った」
衣装の背中には、見た目より細い金属板が入っていた。凱が肩を開くと、八本の刺繍が扇のように広がる。
照明が点いた。
白い光は、傷も装具も布の陰へ押し込んだ。
鏡の中に、台本の王がいた。
黒い根元の見える銀白の髪。
真っ直ぐな背。
壊れていない鐘。
本物より、本人らしく見えた。
「一行」
カナタが言う。
「何のためだ」
「声の高さ」
「採寸に声は要らない」
「音響の採寸」
「契約へ追加されていない」
真琴が別紙を上げる。
「試演は承諾していない」
「台本を読むだけ」
「読む場所で意味が変わる」
「だから舞台なんだよ」
カナタは白い台本を開き、最初の台詞を示した。
《名を持つ者は、名を捨てて我が列へ入れ》
「俺は、そんな命令を出していない」
「知ってる」
「なら読ませるな」
「違うと言うために、どこが違うか聞きたい」
凱は台本を見た。
迅は客席へ下り、中央より少し右へ座った。壁を背にし、二つの出口が見える席だ。
「やめてもいい」
迅が言う。
「おまえに許可される筋合いはない」
「じゃあ続けろ」
「命令するな」
「面倒だな、王」
「その呼び方をやめろ」
凱は白い印の上へ立った。
膝の装具が、衣装の下で一度擦れる。
息を吸う。
空の千席は、人がいる時より広く見えた。
「名を持つ者は――」
声が円天井へ届いた。
舞台袖で吊り物を調整していた三人が、同時に手を止めた。
凱自身も止まった。