第49話 第十一章「採決」前編

七月二十七日 午後六時十二分

 ガラスの割れる音には、二種類ある。

 事故の音と、合図の音だ。

 南窓から降った破片は、まだ床へ届いていなかった。

 凱は王席の前に立ったまま、飛び込んでくる三人の順番を見た。

 先頭は紺の腕章。両手に毛布を広げている。拳も棒も持っていない。投票箱へ毛布をかぶせ、監視線を切るつもりだ。

 二人目は作業靴。窓枠へ片足を残し、椅子を蹴って通路を塞ごうとしている。

 三人目は白い腕章。胸元に《秩序》の二文字。右手だけ空いている。

 投票箱へ触れるための手だった。

「南、三」

 澪の声が体育館の反響を切った。

「正面、七。用具口、五。退出路は西。負傷者は保健室へ。復唱」

「南、三」

 轟が床を踏む。

「正面、七」

 迅が左手を上げる。

「用具口、五」

 タマキが九十七番の座布団の横で答えた。

 凱は投票箱を見た。

 古い木箱だ。三十年前の校内選挙で使われたらしい。投入口には真琴が貼った封印紙が三枚。箱の周囲には白墨で直径三メートルの円が引かれ、採決中、認証を受けていない者が箱か円内の机へ触れれば、その採決は無効になる。

 守る者も、触れられない。

 盾にすれば失格。

 持って逃げても失格。

 敵を叩きつけても失格。

 規則は腕力を縛る鎖ではない。

 腕力へ、どこまでが勝ちかを教える線だった。

 先頭の毛布が開く。

 轟は円へ背を向け、両足を柱間隔へ置いた。

「そこ、持つな。先に人が泣く」

 毛布の下端を踏み、引いた。

 男の両腕が前へ伸びる。轟は胸で受けず、右肩を半歩引いた。巨大な体の横を、男の勢いだけが通り抜ける。毛布が床へ落ちる。轟の左手が男の腰帯をつかみ、白墨の円から外へ回す。

 投げない。

 倒せば、次の者の踏み台になる。

 男は両足を床へ残したまま、体育館の壁に向けて立たされた。

「なんで俺が壁を見てる」

「箱より安全」

 二人目が蹴った椅子は、床を滑って円へ向かった。

 迅が動く。

 右腕は胸元へ固定したまま。左手首にも包帯。使えるのは足、肩、背中、そして人より少し悪い性格だった。

 一歩、退く。

 椅子の脚が迅の靴先を追う。

 二歩。

 円の縁が踵へ近づく。

 三歩目の代わりに、迅は椅子の背へ左の靴底を乗せた。

 踏み止めるのではない。角度を変える。

 椅子は迅の体重を受け、右へ九十度回った。投票箱の横を二十センチで外れ、王席の脚へぶつかる。

 高い椅子が揺れた。

 座っている者はいない。

 だから誰も落ちなかった。

 三人目が低く潜る。

 腕章の少年だった。十五、六歳。拳を握らず、指を開いている。投票箱へ一度触るだけでいい。捕まった後のことは考えていない足だ。

 迅は追わなかった。

 追えば円の内側へ入る。

「凱」

 名前だけが落ちる。

 凱は左膝を曲げた。

 装具の金具が鳴る。

 痛みは、判断を遅らせるためにあるのではない。どの判断が二度できないかを知らせる。

 少年と箱の間へ、凱は右足を置いた。

 拳ではなく、胸を出す。

 少年の掌が凱の外套へ当たった。

「どけ!」

「何のためだ」

「採決を止める!」

「誰に頼まれた」

「みんなだ!」

「名を言え」

 凱の声は大きくなかった。

 それでも、少年の足が一瞬止まる。

 王だった頃の凱なら、その一瞬を服従に変えた。

 今は質問へ変えた。

「おまえの名だ」

 少年の目が揺れる。

「……関係ない」

「関係がある。おまえが触れれば、おまえの選択で採決が消える。白戸の命令でも、秩序班の判断でもない。おまえが決める」

「俺一人のせいにする気か」

「違う。俺一人のせいにもさせない」

 少年が歯を食いしばる。

 右手が凱の脇を抜ける。

 凱はその手首をつかまなかった。

 肩を半歩だけ前へ入れる。

 少年の腕は投票箱へ届かず、凱の外套を滑った。凱の胸に下がる割れた青銅鐘が、掌へ硬い音を返す。

 その音へ少年の視線が落ちた。

 轟の大きな手が、少年の腰を円の外から抱える。

「戻す」

「離せ!」

「箱から。意見からじゃない」

 轟は少年を床へ伏せず、後ろへ三歩運んだ。

 南窓の三人が止まるまで、十一秒。

 正面入口の七人は、その十一秒を待っていた。

 正面の扉は外され、朝から第二受付の長机になっている。

 扉がないことを、彼らは弱点だと思った。

 澪は出口だと考えた。

「西列、退場開始。歩行。走るな。荷物は胸。戻る者は青札」

 傍聴者が二列に分かれる。

 七人は逆流してくる群衆へ紛れ、受付の脇を抜けようとした。

 誰も武器を見せない。

 一人は泣いている老人の肩を抱き、一人は空の食器を重ね、一人は子どもの手を引いている。

 その親切な形のまま、投票箱へ近づく。

 澪は笛を吹かなかった。

 右耳には高音が刺さる。大きな音で平衡感覚が崩れれば、出口全体を見失う。

 代わりに、床へ白い救助索を引いた。

「退出は索の右。入場は左。どちらでもない者、止まれ」

 六人が止まった。

 一人だけ止まらない。

 子どもの手を引いていた女だ。

 澪は子どもの顔ではなく靴を見た。

 左右が違う大きさ。大人用の靴紐で手首を結ばれている。

「その子の名」

 女は答えない。

「受取人確認」

 タマキの声が議場から飛ぶ。

 女の手が緩んだ。

 子どもはその瞬間、手を抜いた。

「知らない人」

 澪は子どもへ近づかない。

「西へ行ける。黄色い前掛けの人まで十二歩。走らなくていい」

 子どもが一歩。

 女が追う。

 澪の救助索が、女の足首ではなく進路の前へ落ちた。

「踏めば転ぶ。止まれ」

 女は跳んだ。

 跳ぶと、空中では進路を変えられない。

 迅が横から肩を入れる。

 女は投げられず、受付の長机へ両手をついた。

 机が二十センチ滑る。

 朝、入口から外した鉄扉は重い。受付台になっても重い。

 秩序班の二人が、それを押し返した。

 正面入口が狭まる。

「扉を戻せ!」

 誰かが叫ぶ。

「閉めれば会議を守れる!」

「閉めない」

 澪が言った。

「帰る人がいる」

「敵も入る!」

「敵を理由に出口をなくさない」

 迅が女の手首を背へ回さず、両掌を机へ置かせた。

「そのまま。動くなら右。箱は左」

「命令するな」

「選択肢。右は外。左は轟」

 女は轟を見た。

「右で」

「賢い」

「腹立つ」

「それは自由」

 迅は身体を外し、女が自分の足で退く隙間を作った。

 残り六人のうち、三人がそれに続く。

 二人は入口で座り込み、一人が受付台の下から細い鎖を取り出した。

 鎖の先には鉤。

 投票箱そのものではない。

 箱を載せた低い台の脚を引けば、円の外から倒せる。

「下」

 七瀬が言った。

 固定カメラの画角は箱と百席を捉えたまま。彼女自身は三脚へ触れず、右足で予備の反射板を蹴った。

 銀色の板が床を滑り、台の下へ入る。

 鉤が反射板の縁へかかる。

 男が鎖を引く。

 投票台ではなく反射板が飛ぶ。

 白い光が体育館の天井を走った。

「眩しっ」

「映像は適正露出です」

 七瀬は左肩を押さえながら言う。

「人間は?」

 タマキ。

「過剰露出」

「謝って」

「採決後」

 鎖の男が目を細める。

 真琴の鎖付き筆記具が、彼の鎖へ一度だけ巻きついた。

 力では勝てない。

 真琴は引かず、鎖の途中へ自分の眼鏡ケースを通した。

 男がもう一度引く。

 ケースが床のボルトへ引っかかり、鎖の方向が変わった。

「私物損壊」

 真琴が呟く。

「会議経費」

 タマキが返す。

「認めません」

「さっき僕の端子は会議経費」

「あなたのは業務機材です」

「眼鏡ないと何も見えないでしょ」

「見えないのは人の顔です。条文は手元にあります」

「もっと危ない」

 鎖の男が二人の会話へ一瞬気を取られた。

 迅はその一瞬を使い、男の踵を自分の靴先で内へ払った。

 膝が折れる。

 男の身体は床へ落ちず、受付台へ尻から座った。

「受付?」

 タマキが訊く。

「異議申立て」

 迅。

「番号札いる?」

「今はいらない」

 正面の七人は、誰も投票箱へ届かなかった。

 だが、用具口から入った五人は、すでに議場の内側にいた。

 用具口は台所へ近い。

 小麦が粥の桶を保健室へ移した隙に、白い布を腕へ巻いた五人が調理室を抜けた。

 そのうち二人は、午前中まで配膳を手伝っていた。

 小麦から包丁の場所を教わり、鍋を洗い、交代時間を鍋帳へ書いた者たちだ。

 裏切りは、知らない相手より手順に詳しい。

「投票を止めろ!」

 一人が叫んだ。

「こんな会議は空腹の人間を利用してる!」

 嘘ではない。

 だから声が通る。

「利用したのは白戸だ!」

 別の傍聴者が怒鳴る。

「白戸だけじゃない!」

 侵入者が返す。

「おまえらも食わせて座らせた!」

 小麦は保健室の扉から顔を出した。

「粥は持って帰れる。座らなくても食べられる。鍋帳の三十七頁」

「紙に書けば脅しじゃないのか!」

「書かない脅しより見つけやすい」

 小麦は木べらを持たなかった。

 代わりに、配膳用の濡れ布巾を五枚、侵入者へ投げた。

「熱い?」

 一人が反射的に受ける。

「ぬるい。手を拭いて。箱へ触ったら、油がついてなくても痕が残る」

「脅してるだろ」

「説明。脅すなら沸騰させる」

 五人の足が一拍止まる。

 小麦はその隙に、台所から出てきた調理者を西へ逃がした。

 澪が人数を受け取る。

「調理、八。うち歩行困難、一。帰路へ」

「二人残る」

 小麦が言う。

「私と鍋番」

「帰れる」

「鍋が帰ってない」

「鍋は人じゃない」

「人が明日食べる」

 澪の眉が動く。

「三十分。危険増加で変更」

「復唱。三十分。増えたら十五分」

「帰還先」

「食堂」

「自力?」

「荷車。轟を借りない」

「確認」

 二人の会話は喧嘩に聞こえた。

 実際、半分は喧嘩だった。

 残り半分が帰路になる。

 五人が再び走る。

 投票箱まで十二メートル。

 轟は南窓の三人を壁際へ押さえ、迅は正面の鎖を足で踏んでいる。

 間に合わない。

 凱が前へ出ようとした。

 左膝が鈍く鳴る。

「座れ」

 迅が言った。

「誰に命令している」

「膝に」

「聞かない」

「似てる」

「何とだ」

「おまえに」

 五人の先頭が円へ達する。

 その肩を、白戸依久が止めた。

 細い身体だった。

 止め方だけが細くない。

 右足を斜め前へ置き、腰を落とし、両腕を上げる。朝、白戸へ委任を残した元運送班の女の構えだった。大型荷物を受けるための姿勢。借りた動作が、依久の骨格へ一瞬だけ重なる。

「退いてください」

 白戸の声は、女の低い息継ぎまで似ていた。

「依久、おまえが呼んだんだろ!」

「採決を止める意見は預かりました。箱へ触れる許可は預かっていません」

「同じだ!」

「違います」

 白戸の声が一段低くなる。

「僕は、今回は、違うと決めます」

 先頭の男が白戸へ体当たりした。

 白戸は受ける。

 借りた運送の姿勢が、床へ力を逃がす。

 一人は止まる。

 二人目が横へ抜ける。

 白戸は左手を伸ばした。

 今度は別の動き。

 委任状の束の中にあった、籠球選手の防御姿勢。足が交差せず、腕だけで進路を狭める。

 三人目が低く潜る。

 白戸の身体が、また別の誰かへ変わろうとする。

 右手の指が震えた。

 袖口の白札が一枚、床へ落ちる。

 誓痕が手の甲から指へ白い筋を走らせた。

《白紙委任》は、署名した者の技能を借りる。

 借りた数だけ、身体の左右が混ざる。

 右利きの足。

 左利きの肩。

 背の高い者の間合い。

 小柄な者の重心。

 白戸は三人を同時に借りた。

 右足が左へ踏み、左肩が右へ開く。

 関節が、自分の順番を失う。

「依久、切れ!」

 真琴が叫ぶ。

「借用を一つへ限定。委任番号を声に出せ!」

「四十二、運送受け」

「他を解除」

「解除」

 白戸の身体から二人分の癖が抜ける。

 だが、右薬指だけが戻らなかった。

 真っ直ぐ伸びたまま、第二関節で白く固まる。

 白戸の顔から血の気が消える。

 それでも、先頭の男を押さえ続けた。

「おまえのために来た!」

 男が叫ぶ。

「僕のためなら」

 白戸の息が詰まる。

 自分の意見を言う時だけ、最初の言葉が出にくい。

「僕に、選ばせてください」

 男の肩から力が抜けた。

 その隙間を、残り二人が抜ける。

 迅は円の縁へ走った。

 一人目の靴先が白墨を踏む。

 迅は一歩退く。

 相手が追う。

 二歩。

 相手の掌が投票箱へ伸びる。

 三歩。

 迅の踵が円の内側へ入る直前で止まる。

 七つまで退けば、返せる。

 だが、返す相手が違う。

 この侵入者を殴っても、食券は自由にならない。

 箱を守っても、委任は本人へ戻らない。

 迅は三歩分の勢いを拳へためず、床へ逃がした。

 左足を軸に、身体を半回転。

 背中が相手の胸へ当たる。

 打撃ではなく、壁になる。

 相手の手は迅の肩越しに伸びるが、箱まで指一本足りない。

「退いたのに、殴らないのか」

「今日は高い」

「何が」

「一発の値段」

 迅は背中を預けたまま、相手の重心を右へずらす。

 轟がそこへ入る。

 一人を受け取り、円の外へ立たせる。

 最後の一人は、箱を諦めて固定カメラへ向かった。

 記録を切れば、採決の異議審査ができない。

 七瀬は三脚から離れなかった。

 左肩が震えている。

 カメラを抱けば守れる。

 抱けば画角が動く。

 七瀬は右手でクランクを回し、左手を上げた。

「撮影継続。接触者の顔は記録対象です。拒否は採決後に受け付けます」

「脅しか!」

「警告です。カメラを壊す選択は、あなたのものです」

「そうやって全部、本人の責任にする!」

「いいえ」

 七瀬はレンズから目を外した。

「私はここへ置いた責任を負います。あなたが壊す責任と、別々に」

 男は三脚の脚を蹴った。

 七瀬は支えない。

 タマキが九十七番の番号札を片手で押さえたまま、もう片方の手で三脚の横へ配膳カートを滑らせた。

 蹴りは三脚ではなく、カートの車輪へ当たる。

 金属音。

「それ、病院から借りた」

「知らねえよ!」

「返す物。壊すなら名前」

「うるさい!」

「名前」

 男が二度目を蹴れない。

 十四歳の少年は強くない。

 だが、壊した後の受取人を言わせると、大人は少し弱くなる。

 澪が西口から戻った。

「退出、四十一。帰路事故、ゼロ。議場侵入、十五。接触、ゼロ」

 右耳へ手を当て、迅の口元を見る。

「継続?」

 迅は頷いた。

「採決を」

 凱が言う。

 体育館の中で、十五人の侵入者が箱から離れた位置へ立たされている。

 縛られてはいない。

 出る道もある。

 残って異議を述べる道もある。

 正面から入った女が受付台に腰を預けて言った。

「採決を認めたわけじゃない」

「記録する」

 凱。

「侵入したことも?」

「する」

「食券で票を集めたことも?」

「する」

「おまえが王席に座ったことも?」

 凱は高い椅子を見ない。

「する」

「都合のいいところだけ残すなよ」

「そのために、あなたの異議も残す」

 女は黙った。

 敵意は消えない。

 消えないまま、箱へ触れないことを選んだ。

 身体層の決着は、それで十分だった。

 午後六時二十七分。

 真琴が採決再開を宣言した。

 議場百席のうち、本人が会場または遠隔音声で直接参加している席は八十。

 代理委任が有効な席は十九。

 九十七番は、本人が期限と撤回方法を指定した明示的委任拒否。

 合計は百。

 ただし、それは改正案が成立した場合だけだ。

 現行規則では九十九。

 会議を成立させるために、成立していない会議が規則を変える。

 白戸が指摘した循環は正しい。

 真琴は黒板へ二つの円を描いた。

「第一円。現行規則で確認できる九十九席が、暫定手続きの審議を開く権限を持つか」

「持たないなら終わりです」

 白戸が言う。

「はい」

 真琴は認めた。

「第二円。審議を開く権限があると判断した場合、明示的委任拒否を在席状態へ加えるか。第二円には九十七番本人の意思を証拠として置きますが、票としてはまだ数えません」

「本人の声を使って、本人を数えない」

 小麦が台所口から言った。

「気分が悪い」

「私もです」

「なら変えなよ」

「変えるための採決です」

「規則って、腹が減ってから献立を決めるね」

「献立が先だと、食べられない人を数え損ねます」

「それ、私の仕事に喧嘩売ってる?」

「比喩の精度へ異議を」

「元気そうで何より」

 百席の何人かが笑った。

 笑いは緊張を消さない。

 ただ、息を一度入れ替える。

 凱の前には、二枚の委任状が残っていた。

 朝には二十三枚あった。

 返答窓口を開き、一人ずつ質問を受け、二十一人が本人投票、他者への委任、棄権、退場のいずれかを選び直した。

 二枚だけが、凱へ残すと答えた。

 一人は足の悪い老人。

 一人は三歳児を抱えた父親。

 二人とも言った。

 凱なら早く決める。

 自分は最後まで聞く余裕がない。

 委任は悪ではない。

 誰かへ任せなければ参加できない人もいる。

 問題は、任せた後に取り戻せるかだった。

 凱は二枚を持って立つ。

「委任番号、十四、七十三」

 真琴が確認する。

「現時点で有効です。委任者本人は、あなたが全議案を一括処理することへ同意しています」

「返す」

 体育館がざわめいた。

 真琴の眼鏡の左つるが上がる。

「理由を記録します」

「俺は二人の事情を知った。だから、俺なら二人の代わりに正しく決められる、と考え始めた」

「それは委任の目的です」

「違う。目的の一つだ」

 凱は紙を見た。

「もう一つは、二人が自分では抱えきれない時間を俺へ預けることだ。俺が票を使えば、二人の時間を俺の判断へ変える。必要な時もある。だが、今日の議案は、誰が代表権を持つかを決める。代表権を集める者が、自分へ集まった代表権で決めてはならない」

「利益相反」

 真琴が言う。

「そうだ」

「法的には回避できます。あなたが白布認証の候補者から外れ、空席改正だけ投票する方法も」

「法的にできることを、全部する必要はない」

 迅が壁際から言った。

「但し書きが泣くぞ」

「あなたは黙って侵入者を見ていてください」

「見てる。右から二人目、まだ箱を見てる」

 男が視線を逸らす。

 凱は委任状を真琴へ渡した。

「本人へ返答窓口をつなぐ。今夜中に本人投票するか、明示的委任拒否を選ぶか、他の代理人を選ぶか、現行の棄権とするか。俺へ再委任する選択も残す」

「再びあなたを選んだ場合は」

「その時は、次の採決で受けるかを俺が答える。今日は受けない」

 真琴が二枚の紙へ、赤い印を押した。

《代理人返却。委任者の地位は消滅しない》

 凱の手から二票がなくなる。

 勝つための数が減る。

 胸の奥が冷える。

 命令を失う恐怖ではない。

 自分が使えば通せた結果を、他人へ返す恐怖だ。

「白戸」

 凱は呼ぶ。

 白戸は右手を胸へ抱えていた。薬指は曲がったまま伸びない。袖口の白札は半分に減っている。

「同じ窓口を開ける」

「命令ですか」

「要求だ。拒否できる」

「拒否したら」

「委任は形式上残る。ただし、委任者からの質問に答える義務と、撤回方法を示す義務も残る」

「僕の支持者を、あなたの正しさへ移すつもりですか」

「移さない」

「あなたは二票を返した。僕が返さなければ、僕だけが悪く見える」

「そう見える。俺が先にした行為は、あなたへ圧力を作った」

 凱はそれを否定しなかった。

「だから、窓口は俺の側でなく、真琴と七瀬の共同管理にする。撤回した者の行き先を公開しない。おまえへ残す者の理由も、本人が望まなければ読まない」

 七瀬が固定カメラの横から言う。

「映像は手元を外します。音声は本人が選択。撤回人数だけ集計し、氏名と移行先は記録庫で封印します」

「あなたは僕を信用していない」

「はい」

 七瀬は即答した。

「だから、あなたの支持者があなたを選ぶ自由まで疑わないよう、手順を分けます」

 白戸の声が七瀬の子音へ似かける。

 彼は途中で止めた。

「僕は、今回は、窓口を認めます」

 真琴が時刻を書く。

「委任者十三名。最終質問時間、十五分。代理人は回答不能を認められる。回答不能は自動撤回ではない。委任者が選ぶ」

 体育館の横に設けた音声台へ、順に回線がつながる。

 一人目は白戸へ残した。

『宿を手配してくれたのは依久だ。条件があったとしても、寝床がなければ息子と路上だった。俺は委任を続ける』

「記録しました」

 七瀬。

 二人目も残した。

『字が読めない私に、依久は全部読んだ。白布の人は薬を運んだけど、うちの地区には来なかった。私は依久へ任せる』

 三人目は撤回した。

『食券を返さないと、委任をやめられないと思ってた。返さなくていいなら、自分で反対する』

 四人目は白戸から凱へ移そうとした。

 凱が断った。

『じゃあ迅』

「俺もいらない」

『人気ないな、おまえら』

「助かる」

 迅が言った。

 声の向こうで笑いが起きた。

 その人は明示的委任拒否を選んだ。

 五人目は、白戸へ残しながら空席制度に賛成すると言った。

『依久に任せるのは、私が考えないためじゃない。考える時間を買うため。依久、私が何を訊いたか忘れないで』

「忘れません」

『真似して言わないで』

 白戸は口を閉じた。

「……はい」

 それは誰にも似ていない短さだった。

 十五分後、白戸の委任は十三から九へ減った。

 四人が委任拒否または本人投票へ移り、九人は残った。

 白戸は孤立しなかった。

 孤立させれば、彼へ任せた人々の判断まで偽物にする。

 凱は九枚の紙を見た。

「九人分、重いか」

 白戸は右薬指を左手で伸ばそうとした。

 伸びない。

「重いです」

「降ろすか」

「いいえ」

 声が凱へ似かけ、また止まる。

「僕は、今回は、持ちます。九人が返せと言うまで」

「確認した」

 凱はそれ以上言わなかった。

 任せることを選んだ人間へ、英雄的な自立を押しつけるのも支配だ。

 午後六時五十九分。

 第一の採決が始まった。

 議題は、白布の認証ではない。

《明示的委任拒否を、定足数へ数えられる在席状態として暫定的に認める手続き改正》

 条件は五つ。

 一、本人確認ができること。

 二、拒否する委任の範囲が明示されること。

 三、期限または再確認時刻が示されること。

 四、本人が撤回方法を選べること。

 五、沈黙を自動的な拒否とみなさないこと。

 声を出せない者、文字を書けない者、映像を拒む者については、本日中に完全な恒久規則を作らない。本人が事前指定した合図と証者の方法を、別記の未決事項として残す。

 未完成を理由に、今日の明示的な拒否を消さない。

 今日の一人を理由に、明日の全員を決めない。

 真琴が一文ずつ読み、轟が黒板へ平たい言葉で書き直す。

《任せないと言った席は、いないことにしない》

「法文ではありません」

 真琴が言う。

「読める」

 轟。

「精度が」

「後ろ、読めてる」

 最後列の老人が親指を立てる。

 真琴は不満そうに、その下へ正式文を小さく書いた。

「本文と但し書き、同じ大きさで」

 小麦が言う。

「黒板が足りません」

「王席の背、使えば」

 凱は高い椅子を見た。

 真琴も見る。

「備品への書き込みは」

「朝から人の権利へ書き込んでたでしょ」

 小麦が返した。

 轟が王席の背へ板を立てかけた。

 椅子自体には書かない。

 それでも、高い背もたれは但し書きを載せる台になった。

 投票方法は三つ。

 賛成札、反対札、保留札。

 保留は棄権ではない。理由を残し、本人の席を数えた上で、どちらにも委任しない。

 凱の二票は返却手続き中のため保留。

 白戸の九票は、委任者ごとの指示に従い、賛成三、反対五、保留一へ分かれた。

 白戸は一括して手を上げなかった。

 九枚を一枚ずつ、真琴へ渡した。

 自分の票は反対。

「理由」

 七瀬が訊く。

「暫定でも、空席を出席へ数える制度は、本人確認を行う者へ権力を集めます。今日の看護師と記録者が誠実でも、次もそうとは限らない」

「記録します」

「それと」

 白戸は言葉を探した。

「委任を拒むことだけが、自分の声ではありません。誰かへ任せることも、恥にしないでください」

 凱は頷かなかった。

 賛成もしない。

「少数意見として全文を残す」

 票が箱へ入る。

 紙の落ちる音は小さい。

 人が人を殴る音より、ずっと小さい。

 それでも、体育館の百人は一枚ずつ聞いた。

 箱を開けられるのは、真琴、小麦、白戸側の数え役の三人。

 勝った側だけで数えないためだ。

 封印紙を切る。

 凱は水を飲まなかった。

 決断後、結果が出るまで飲まない癖は王を降りても残っている。

 迅が壁際から紙杯を投げた。

 凱の右手が受ける。

「まだだ」

「飲まないと数が変わる?」

「変わらない」

「じゃあ飲め」

「命令か」

「膝から」

 凱は紙杯を見た。

 水を一口飲む。

 誰も死ななかった。

 真琴が集計を読む。

「賛成、六十九。反対、二十二。保留、九」

 六十七を超えた。

 一票差ではない。

 反対二十二も、保留九も消えない。

「暫定手続き改正、成立」

 九十七番の空席が、在席へ変わる。

 人は来ない。

 椅子も動かない。

 番号札だけが、同じ場所にある。

 それでも、合計が百になる。

 タマキが小さく言った。

「届いた」

 凱は九十七番を見た。

「何が」

「いないこと」

「違う」

 タマキが凱を睨む。

 凱は言い直した。

「誰にも渡さないことが、届いた」

「なら合ってる」