第344話 第二章「記憶の値札」後編

「失敗も?」

「特に」

「今の本人は」

「映像の外」

「だから美しい?」

「生活は、作品を濁らせる」

 イオは、その男を嫌った。

 嫌いな人の金でも、出品者の家賃になる。

 そこが一番嫌だった。

「落札したら、リクへ追加で払う?」

「契約どおり」

「契約を変える?」

「価値が下がる」

「今の本人を入れると?」

「作品ではなくなる」

「じゃあ、あなたが買うのは記憶じゃない」

「何です」

「現在を切った額縁」

 収集家は笑った。

「良い言葉です。買っても?」

「売らない」

「値段は」

「付けない」

「残念」

「残念で終わる?」

「市場ですから」

 イオは待合区画を出た。

 全員に理由があった。

 理由があることと、してよいことは別。

 理由を聞かないことと、拒否することも別。

 予定より十八分遅れた。

 遅延理由は、四人の入札者と、答えを変えなかった一人だった。

 午後五時三分。

 蔵座へ戻ると、二番の仮入札は九十六万へ上がっていた。

 重くなった鉄枠の下で、石床の亀裂が一ミリ伸びている。

 価はその長さを測っていた。

「戻った」

「七分遅れ」

「数えた?」

「床の亀裂より見やすい」

「所有者の現在、確認した」

「公開範囲」

「呼称と生活条件。今日だけ有効」

「取り消し」

「費用提示前は保留」

 価は小さな秤を止めた。

「売却金が必要」

「必要だから、全部の権利を渡したいとは限らない」

「分けると値段が落ちる」

「落ちたら守れない?」

「保管費は下がらない」

「じゃあ市場の問題」

「市場だけの問題にすると、誰が払う」

「そこを調べる」

「調べる人の賃金」

「請求する」

「誰へ」

 イオは答えられなかった。

 価は勝った顔をしない。

「理念は、請求先が空欄だと無料奉仕になる」

「だからって、本人の記憶を売る?」

「本人が売ると言った」

「消えると思ってた」

 価の左手が、値札銃を強く握った。

「契約に書いた」

「六ポイントで」

「読めないなら、代理人が」

「代理人は誰」

「債務相談員」

「債権者と同じ組合」

 価の声が低くなる。

「それでも、六万は今の家賃になった」

「今の本人へ、残り何が返る」

「落札金」

「過去が売れる間だけ」

「能力がなくなった現在に、買い手がいないなら」

「仕事を作ればいい」

「誰が」

「あなた」

 価は即答した。

 イオの足指が止まった。

「元能力者の互助を作るって、公開判定で言った」

「まだ相談所」

「いつ組織になる」

「日付を聞くな」

「日付が好きでしょ」

「自分の未来は別」

「便利」

 価は二番の札を見上げた。

「過去を買う客はいる。現在を雇う客は少ない。競売を壊すなら、その差額を持ってきて」

「壊すって言ってない」

「七瀬たちは言う」

「聞いた?」

「顔」

「顔で責任は分からない」

「流行ってる?」

「元王の台詞」

 価は値札を一枚、空中で切る仕草をした。

「王は売れる」

「もういない」

「元王はもっと売れる。失った物には希少性が出る」

「嫌な商売」

「来た人が言う?」

「言う」

 イオは二番の鉄枠へ近づいた。

 触れない距離。

 重さは見えない。

 床の亀裂だけが、値段を示す。

「リクの右腕は、九十六万」

「現時点」

「リクの今の賃金は、前の三分の一」

「市場が違う」

「同じ人」

「同じ人でも、商品は違う」

「人は商品じゃない」

「記憶は?」

 価が訊く。

 イオは答えない。

 自分も、七月八日の映像を誰かが持っている。

 右腕の強化を失った瞬間。

 凱へ「家賃を払える?」と訊いた声。

 止まった能力。

 映像はイオではない。

 だが、売られたら、無関係とも言えない。

「まだ分からない」

 イオは言った。

「値段は」

「付けない」

 価は帳面を開いた。

 入札額。

 手数料。

 保管費。

 取消料。

 医療費。

 どの欄にも、《値を付けない》はなかった。

「空欄は、ゼロになる」

 価が言う。

「ゼロは数字」

 イオ。

「何も書かないのとは違う」

「会計では同じ」

「だから会計だけに決めさせない」

 イオの通信筒が震えた。

 リクからだった。

《今日の面談、四十二分。作業が一件遅れた。補償を請求していい?》

 イオは価へ見せる。

「誰が払う」

「あなた」

 価。

「競売所の調査」

「競売所は頼んでない」

「本人確認に必要だった」

「あなたが必要だと思った」

「じゃあ私」

「即答?」

「仕事を止めた」

「いくら」

 イオはリクへ聞く。

《普段の四十二分の賃金。交通費なし。電球は後で替えた》

「三十八環」

 価が言う。

「安い」

「本人の請求」

「能力を失った人の四十二分が三十八環。過去の十八秒が百二万」

「市場が違う」

「さっき聞いた」

「では、上乗せする?」

「私が勝手に価値を付ける?」

「慰謝料」

「本人は求めてない」

「移動時間」

「私が行った」

「質問を考えた時間」

「本人の生活」

「値段を付けないと、三十八で終わる」

「値段を増やすと、本人の請求が小さかったことにする」

「では」

 イオは三十八環の送金票を作った。

 別に、競売所へ調査協力費の制度化を申請する。

「リクへは三十八。次の人から、説明前に時給と中断費を確認する」

「今回の不足は」

「私の仕事で払う」

「互助相談所の金?」

「自分の報酬」

「未来の組織が、また遅れる」

「今日の人へ、未来のために無料で待てと言わない」

 価は帳面へ、新しい仮欄を引いた。

《本人確認協力費》

「正式じゃない」

「仮」

「消す?」

「使われたら残す」

 リクから受領確認が届く。

《三十八環。多くも少なくもない。今日は》

 今日は。

 明日も同じとは書いていない。

 イオはその一語を、組織の約束へ勝手に変えなかった。

 午後五時十九分。

 二番の仮入札が、百二万へ上がった。

 鉄枠がさらに沈む。

 その下で、現在の本人が交換した電球は、誰にも見られず点いていた。