第211話 第八章「水圧」前編
二月二十六日 午前三時四十四分
建物が壊れる音は、大きいとは限らない。
環水三号塔が最初に鳴らしたのは、眠っている犬の歯ぎしりに似た音だった。
ギ。
短い。
低い。
雪を踏む音へ混じる。
伏見轟は、外壁へ当てていた右耳を離した。
「全員、止まれ」
声量は大きくない。
それでも、周囲の作業員が止まった。
轟が危険指示を出す時、助詞は省かない。
「足を上げない。今の位置へ置いたまま、私語を止めろ」
外周で動いていた十二人が、そのまま固まる。
梯子を持つ二人。
配管を測る三人。
湯を運ぶ二人。
警備四人。
記録補助一人。
風だけが動いた。
十秒。
二十秒。
塔の内部から、別の音。
ドン。
上ではない。
地下。
ポンプが止まった時の衝撃だった。
「南主ポンプ、停止!」
計器係が叫ぶ。
轟は右手を上げた。
「叫ぶな。次の音を聞く」
水圧計の針が落ちる。
百六十。
百四十五。
百二十。
通常値は百八十キロパスカル。
「外側の供給弁は」
「閉じたままです。包囲側が住民水を使わないため、二十一日に閉鎖」
「塔内の消費だけで、この落ち方はしない」
九十。
七十。
轟は膝をつき、凍土へ掌を置いた。
振動がある。
中央水槽の水が、南側の非常排水へ流れている。
「排水弁も開けた」
「誰が」
計器係。
「中」
塔頂の放送器が鳴った。
久我檻の声。
『外部供給を拒否する。塔は内部水だけで維持する』
「維持してない」
轟は塔を見上げた。
『外部は南接続管から離れろ。汚染を持ち込んだ場合、責任は外部へ帰属する』
水圧計が五十を割った。
環水三号塔は、建設時の姿ではない。
古い不同沈下を直すため、中央水槽の周囲へ八本の補助柱を足した。
それでも足りず、住民が地下の空洞へ水を満たし、荷重を均した。
正規の補修ではない。
水の重さを、別の水の圧力で支えている。
急に抜けば、建物の中央だけが軽くなる。
外周住戸の重さは残る。
輪が外へ開く。
「全員、右足を半歩、内側へ」
轟が言った。
「一斉に動くな。東から一人ずつ。三秒間隔」
作業員が従う。
外周の凍土へかかる荷重を、わずかでも均すためだ。
水務隊副官が駆けてくる。
「供給弁を開く」
「待て」
「圧が落ちている!」
「こっちの水をそのまま入れたら、逆流する」
「浄化済みだ」
「接続管が十日止まってる。内部の錆と泥を押し込む」
「では洗浄してから」
「洗浄してる間に床が泣く」
ギ。
もう一度。
今度は、塔の西側から。
轟のこめかみから首へ走る三本傷が、寒さで白くなる。
「タマキ!」
「いる!」
配達箱を背負った少年が、計器幕舎から飛び出した。
「塔内へ送れる音は」
「再利用管。共通前置き三回、その後は階と用件」
「圧が落ちてる。上階から水を使うのを止めろ」
「誰から」
「構造担当の轟から」
「誰へ」
「塔の全階へ。ただし、医療と乳児は止めない」
「何のため」
「建物を立たせる」
「受理」
タマキは木槌を使わなかった。
夜中の失敗を繰り返さない。
外側の再利用管へ、金属製の配達箱を当てる。
箱の底を指で押し、低い共鳴を作る。
三回。
間。
十二回。
全階。
続けて、住民が作った緊急停止の合図。
長く一回。
短く二回。
音は地下から上へ走った。
塔内で、蛇口が閉じていく。
七瀬が窓を見ている。
「三階、白布を下げた。四階は継続。乳児の窓。七階、青布を中央へ移動。九階は変化なし」
「九階は医療」
由良が言う。
通行証を失ったため包囲線の外にいる。
それでも窓の生活を読む仕事は止めていない。
「止めなくていい。四階と九階は使え」
轟。
「全体へ止めろって送った」
タマキ。
「例外を送れ」
「最初から言って」
「時間がなかった」
「中では、もっとない」
タマキは箱を叩く指を止めた。
「もう一度、全階へ訂正を送る。医療、乳児、火災だけ継続。ほかは十分停止」
「十分では足りない」
「長い停止は生活を壊す。何分なら立て直せる」
轟は計器を見る。
二十八キロパスカル。
「十五分」
「十五分後に戻せる保証は」
「ない」
「じゃあ、十分停止、五分ごと更新」
「細かい」
「生活なので」
轟は頷いた。
「それで行け」
タマキが合図を送り直す。
七瀬は訂正時刻を記録した。
最初の命令が粗かったことも消さない。
午前三時五十一分。
南側の非常排水から、水が噴き出していた。
直径二十センチの管。
雪を削り、茶色い水路を作る。
「止められるか」
凱が聞く。
「外からは弁がない」
轟。
「内側へ入る道は」
「地下点検槽」
「久我が閉じる」
「住民が開けた」
「誰が行く」
迅はすでに、点検槽へ向かっていた。
「聞く前に決まっているようだ」
「止めろ」
轟が言った。
迅が止まる。
「何」
「入って、誰を倒す」
「弁を開けたやつ」
「倒したら、弁は閉まるか」
「閉める」
「どの順で」
「排水から」
「違う。排水を一気に閉めると水撃が返る。補助弁を二目盛り、主弁を四分の一、三十秒待って補助をもう一目盛り」
「長い」
「覚えろ」
「二、一、待つ、一」
「数字を減らすな」
「二目盛り。主、四分の一。三十秒。補助、一」
「その後、圧力を聞け」
「聞こえない」
「管に手を置け。震えが細かくなったら止めろ」
「人は」
「管から離せ。殴るなら、弁から三歩以上離れた場所だけ」
「三歩」
「おまえの七歩を使うな」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「顔で決めるな」
迅は点検槽へ入った。
左手から。
右前腕は冷えで痺れている。
狭い穴へ肩を斜めにし、泥の上を滑る。
七瀬は顔を撮らない。
点検槽の入口と、入った時刻だけを記録する。
午前三時五十三分。
轟は南接続管へ走った。
右肩の打撲が痛む。
走るたび、皮下で鈍い塊が揺れる。
左肩は手術後の制限がある。
両腕で抱える仕事を、一人へ渡せない。
「手動圧入を作る!」
轟は水務隊へ指示した。
「給水車を直結しない。清浄水を開放槽へ落とし、手押しポンプ三台で接続管へ入れる。圧は四十を超えるな」
「必要流量に届かない」
「届かせるな。急に戻すと割れる」
「三台では」
「人を増やす。一台四人、交代二分。押す速さは笛で合わせる」
「笛は塔内の合図と混同する」
澪はいない。
救難笛の専門家がいない現場で、似た音を軽く使えない。
「板を叩け」
轟は橙色の工事板を地面へ置いた。
「一回で押す。二回で戻す。三回は停止」
「単純すぎる」
「今は単純にしろ」
十二人が手押しポンプへつく。
凱も一台の柄を握った。
「膝」
轟。
「腕で押す」
「腕だけなら腰を壊す」
「では、どうする」
「左足を後ろ。膝を深く曲げるな。体重を前へ落とせ」
「命令か」
「危険指示だ」
「従う」
板が一回鳴る。
十二人が押す。
透明な開放槽の水面が下がる。
接続管の圧力計が、ゆっくり上がる。
二十六。
二十七。
二十八。
急がない。
急げない。
塔は水を失っている。
しかし、助ける水を一気に入れれば、古い配管を破る。
救助とは、正しい量を正しい速さで間違える仕事だった。
手押しポンプは、十二人が同じ力で押すほど安定しなかった。
体格が違う。
腕の長さが違う。
疲労も違う。
一台目は凱と水務隊員三人。
二台目は救護員二人、警備員二人。
三台目は設備員四人。
最初の十往復で、二台目だけ圧が高くなった。
「速すぎる!」
轟が板を三回叩く。
全台停止。
「同じ合図で押した」
救護員。
「押す深さが違う」
「目一杯だ」
「目一杯を揃えるな。柄へ印をつける」
轟は白い布を細く裂き、各柄の同じ高さへ結んだ。
「ここまで。体格の大きい者は、手を内側。小さい者は外側。力じゃなく距離を合わせる」
「急いでいる」
「急いで壊したいなら、勝手に押せ」
誰も押さない。
板、一回。
十二人が柄を下げる。
白布が同じ高さで止まる。
二回。
戻す。
圧力計の針が、今度は滑らかに上がった。
タマキは配管へ停止更新を送りながら、ポンプの人員札も書く。
《一台目:凱、志摩、吉野、榎》
《二台目:梨田、香取、木津、阿部》
《三台目:水務設備四名》
「名前、いる?」
迅は点検槽へ入る前に聞いた。
「交代の順番」
「重さなら、名前じゃなくて体重」
「倒れた時、誰を抜くか分かる」
「倒れる前に抜け」
「それを言うため」
十二人目の警備員が、柄を戻した時に手を滑らせた。
鉄の柄が跳ねる。
隣の救護員の顎へ向かう。
轟が右手を出した。
打撲した肩へ衝撃が入る。
柄を掴まず、掌で軌道を下へ変える。
地面へ当たる寸前、左足で踏む。
「止め!」
板が三回。
「すみません」
警備員の指が震えている。
「握力、落ちてる」
轟。
「まだ押せる」
「できるかじゃない」
「今抜けたら、十一人」
「予備を入れる」
「予備は」
全員が周囲を見る。
外側の人数を減らしたため、すぐ使える予備がいない。
凱が柄から離れる。
「私が二台目へ移る。一台目は三人で」
「三人だと左右が偏る」
轟。
「では」
包囲線の外から、由良が赤索を投げた。
通行証停止中で線へ入れない。
「柄へ巻いて! 外から引く!」
「索で押す?」
「戻す側を引く。押す時は三人。帰りを私が取る」
「距離、足りるか」
「帰巣線は、戻す方が得意」
由良は赤索の端を、自分の腰ではなく地面の杭へ回した。
人を引っ張らない。
柄が下がる。
三人が押す。
戻りで、由良が索を引く。
同じ距離。
「包囲線を越えてる」
水務隊副官が言う。
「索だけ」
「自由行動停止だ」
「私は動いてない」
「屁理屈を」
「止める?」
圧力計が三十を示す。
副官は索を切らなかった。
「記録する」
「して。どの時刻に、何を助けたかも」
七瀬が遠くから言う。
「午前三時五十四分。鷹取由良、包囲線外から赤索で一号手押しポンプの戻りを補助。通行停止命令への抵触可能性を併記」
「便利な書き方」
由良。
「不便です。判断する人が増えます」
塔の五階窓で、黒衣の警備員が外を見ていた。
敵側の人間が、通行停止中の由良の索を使って圧を戻している。
誰が塔を攻め、誰が守っているか、ポンプの柄は区別しない。
ただ、押した量だけを水へ渡す。
手を滑らせた警備員は、救護員へ回った。
指の震えは、低血糖だった。
塔へ返した食事を受け取らなかった外側は、乾燥食の時間も遅れている。
「食べろ」
タマキが自分の穀物板を半分渡す。
「おまえの分は」
「後の俺へ残すと怒られる」
「誰に」
「全員」
警備員は半分を受け取った。
人員を減らした結果、予備が足りない。
水を守った結果、食事が遅れた。
正しい変更にも、別の穴が開く。
轟はその穴を、失敗と呼んで記録へ足した。
《手押しポンプ予備人員一名以上。交代者の食事を作業開始前に確認。》
禁止事項ではない。
次に持たせるための、できることだった。
午前三時五十六分。
地下管路。
迅は腹ばいで進んだ。
頭上の管が、低く震えている。
通路の幅は肩一つ半。
高さは一メートル。
立てない。
拳を大きく振れない。
前方に灯り。
四角い金属枠が、通路を塞いでいる。
久我の捕縛具。
「出口、見たな」
暗闇から声がした。
久我ではない。
若い女。
格子縫いの黒衣。
片頬に四角い貼布。
「名前」
迅が言う。
「左伯ハコ」
「何した」
「主ポンプ停止。排水開放」
「久我の命令?」
「外へ責任を返すための実演」
「塔が壊れる」
「外が供給を切ったからだ」
「排水を開けたのは中」
「外が包囲しなければ開けない」
「長い」
「おまえの質問が短すぎる」
ハコは枠を押した。
四角い金属が、通路の左右へ広がる。
迅の退路側にある点検槽の光を塞ぐ。
久我の《退路狩り》ではない。
ただの道具だ。
しかし狭い場所では、ただの道具が能力より強い。
前から、もう一人。
男が短槍を突く。
迅は右へ避けない。
右には排水弁の細管がある。
左へ避ければ、主弁の把手へ肩が当たる。
下へ沈む。
槍先が髪を掠める。
迅は男の手首を左手で取った。
引かない。
引けば、男の踵が弁へ当たる。
押さない。
押せば、背中で圧力計を割る。
手首を、その場で半回転。
男の肘が管へ沿う。
痛みで指が開く。
槍を落とさず、迅が受け取る。
床へ置けない。
転がれば弁下へ入る。
歯で柄をくわえ、壁の配線留めへ差し込む。
「器用」
ハコが言った。
「褒める?」
「後で閉じ込める」
「褒めてない」
男が左肩から体当たりする。
迅は胸で受けた。
背後に弁がある。
下がれない。
一歩を譲れない場所では、《七退一還》は始まらない。
迅は相手の勢いを止めず、横へ流す。
男の胸を管の丸みに沿わせ、ハコの足元へ滑らせる。
ハコが避ける。
その一歩で、彼女の踵が補助弁へ触れた。
「触るな」
迅は男を放し、ハコの足首を掴んだ。
強く引けば転ぶ。
弱く押せば、足だけが弁から離れる。
ハコは反対の足で迅の顎を蹴った。
視界が白くなる。
迅の右手が床へつく。
痺れた小指が折れそうに曲がる。
だが弁は動かない。
「勝ちたいのか、修理したいのか」
ハコが聞いた。
「後者」
「格闘中に言う台詞じゃない」
「今、聞いた」
迅は低い姿勢から、ハコの腰へ肩を入れた。
持ち上げない。
通路の空いた四角へ移すだけ。
ハコの背中が、久我の金属枠へ当たる。
枠が閉じる。
自分の道具に挟まれ、ハコの右腕が止まった。
迅は彼女を殴らない。
補助弁へ手を伸ばす。
二目盛り。
金属が重い。
ひとつ。
ふたつ。
主弁を四分の一。
腕時計を見る。
三十秒。
ハコが枠から腕を抜く。
男も起き上がる。
二人とも、迅ではなく弁を見る。
「閉めたら、外が勝つ」
ハコ。
「塔が立つ」
「久我の命令が」
「塔より重い?」
ハコは答えない。
十五秒。
男が迅へ手を伸ばす。
ハコがその腕を止めた。
「待て」
「ハコ」
「三十秒と言った」
「敵の指示だ」
「管の震えを見ろ」
二十五秒。
振動が、粗い。
二十八。
二十九。
三十。
迅は補助弁を一目盛り戻す。
管へ掌を当てる。
震えが細くなる。
「止める」
ハコが言った。
「何を」
「排水。全部じゃない。あと一目盛り」
「理由」
「地下水位が南だけ低い。完全に閉じると北へ返る」
「知ってた?」
「住民改造は知らなかった」
「誰が排水を全開にした」
ハコの口が固くなる。
「私」
「久我は」
「二目盛りと言った」
「なぜ全部」
「外の圧力計へ、はっきり見せるため」
「見えた」
「塔まで動くとは思わなかった」
「あとで書け」
「命令するな」
「記録」
「おまえ、七瀬みたいだな」
「不名誉?」
「確認が必要」
三人で弁を戻した。
敵と味方ではない。
水を急に戻せない者同士だった。
午前四時二分。
外側の圧力は三十五まで戻った。
だが塔の西基礎が、二ミリ沈んだ。
轟は測定杭を見た。
「止まってない」
「圧を上げる?」
水務隊副官。
「上げない。西へ荷重を足す」
「何で」
「人を退ける。まず、外側の装備」
西側に置かれた盾、工具箱、予備鋼材を東へ移す。
「それだけで」
「二百キロ減る」
「建物に比べれば誤差だ」
「建物は誤差から壊れる」
轟は塔の窓へ向かって叫んだ。
「西側の住民! 廊下へ出るな! 外周へ物を置くな! ただし、急いで動かすな!」
久我の放送器が応じた。
『外部の命令を受けるな』
「命令じゃない。危険指示だ!」
『違いは誰が決める』
「壊れた後じゃ遅い!」
『こちらも構造を見ている』
「見てるなら、南排水をなぜ開けた!」
沈黙。
轟は声を低くした。
「久我。おまえが必要だ」
水務隊員が振り向く。
凱も。
轟は繰り返した。
「塔の内側の荷重と、人の位置はおまえが知ってる。西側の部屋を空けるな。何人いる」
『答える義務はない』
「義務の話じゃない。重さの話だ」
『住民を数字にするな』
「数字にしないと、床へ何人乗せていいか分からない。名前で床は支えられない」
『おまえは外だ』
「だから中を聞いてる」
久我の呼吸が、放送器へ入る。
短い。
開けた屋上にいる時の声だった。
『西側、二階から十二階。廊下に十九人。住戸内に二十七。共同倉庫へ水袋が百四十個』
「水袋は一つ何リットル」
『十』
「一・四トン。どの階」
『六、七、八』
「西へ偏ってる。東側へ移す。ただし一度に二袋。廊下を走るな。エレベーターは使うな」
『外から指図するな』
「なら、おまえが同じ指示を出せ」
久我は一秒、黙った。
『六、七、八階。水袋を東側へ移せ。一度に二袋。廊下を走るな。昇降機は停止』
塔内で足音が動く。
西側の人影が、急にではなく、一つずつ消える。
七瀬が窓ごとの移動を記録する。
タマキは配管で、五分ごとの水使用停止更新を送る。
由良は包囲線外から、七階のノノへ布位置で確認する。
青布が左へ移る。
東側への移送開始。
轟は測定杭を見る。