第212話 第八章「水圧」後編

 二ミリ。

 二・一。

 二・一。

 止まりかける。

「もう少し」

 轟が言った。

 右肩が熱い。

 手押しポンプの柄を一度、受け損ねた。

 打撲した場所へ、さらに衝撃が入っている。

 左手へ替えようとする。

 手術痕が引きつる。

「交代」

 凱が柄を取った。

「まだできる」

「できることと、続けてよいことを分けろ」

「誰に習った」

「おまえだ」

「返すな」

「借りたものは返す」

「面倒」

「迅の真似をするな」

 轟は柄を離した。

 自分が立っていれば持つ。

 その嘘は、建物だけでなく自分にも使っていた。

 午前四時十八分。

 地下管路から迅が戻った。

 顎が赤い。

 右手の小指へ簡易固定。

 後ろから、左伯ハコと若い男が出てくる。

 水務隊が武器を向けた。

「下ろせ」

 迅。

「占拠側だ」

「弁を戻した」

「最初に開けた者でもある」

「両方」

 七瀬が確認する。

「左伯ハコ。排水全開操作を行い、その後、段階閉鎖へ参加した。本人確認は」

「私」

 ハコが言った。

「久我の命令は二目盛り。全開は私の判断」

 水務隊副官が一歩出る。

「拘束する」

「今は駄目」

 轟。

「なぜ」

「塔内の弁位置を知ってる」

「危険人物だ」

「危険だから、必要な情報を持ってる」

「逃げる」

「逃げ道は一つ」

 久我の声が、すぐ近くからした。

 正面扉の内側。

 細い覗き窓が開いている。

 青灰色の瞳。

「左伯。戻れ」

 ハコは久我を見る。

「戻ったら」

「操作記録を書け」

「処分は」

「私の命令が曖昧だった。私も書く」

 ハコの顔が揺れた。

「曖昧じゃない。二目盛りだった」

「外へ責任を返せと言った。結果を強く見せろとも言った」

「私が全開に」

「おまえ一人へ軽くするな」

 久我は覗き窓から轟を見る。

「圧は」

「四十二。西沈下、二・一ミリで止まった」

「戻るか」

「戻す。急がない」

「何が必要だ」

「ポンプ室の主鍵」

「渡さない」

「じゃあ、おまえが中で操作しろ」

「指示を受けない」

「協力を頼んでる」

「違いは」

「失敗したら、俺も書く」

 久我は黙った。

 轟は続けた。

「おまえの技能がないと塔を守れない。俺の外側計器だけでも守れない。ハツの改造管の知識も要る。タマキの音も、住民が水を止める判断も」

「指揮を分ければ遅れる」

「一人で速く間違えた結果が今だ」

「おまえも最初の停止合図で、医療を含めた」

「間違えた。訂正した」

「私は訂正している」

「なら、鍵を開けろ」

 正面扉の向こうで、鍵束が鳴った。

 実鍵。

 許可札。

 久我が一人へ集めた権限の音。

 覗き窓が閉じる。

 扉は開かない。

 代わりに、塔内の放送が鳴った。

『水巻ハツ。主ポンプ室へ。伏見轟の外圧数値を受け、内部操作を行え。左伯ハコは補助弁。阿久津サナは医療用水の使用量を報告。各階は五分ごとに継続または停止を申告』

 ハツの声が、配管越しに返る。

「最初からそうしな」

『反論は記録後に聞く』

「生きてるうちに聞け」

 ポンプが、低く動き始めた。

 一気には回らない。

 ハツが回転数を半分に抑える。

 ハコが補助弁を一目盛りずつ調整する。

 外では十二人が手押しポンプを続ける。

 タマキが五分更新を送る。

 七瀬が窓と時刻を記録する。

 由良が布の位置を読む。

 凱が交代を守る。

 迅が地下点検槽の入口へ座り、誰も弁へ近づけない。

 午前四時三十二分。

 圧力、六十。

 四十五分。

 八十五。

 五時十二分。

 百二十。

 外が明るくなる。

 塔の西基礎は、それ以上沈まなかった。

 七階の窓が開く。

 磯良ノノが、三色の布を掲げた。

「由良!」

 包囲線の外まで届く声。

「聞こえる!」

「私は残る!」

 由良は答えなかった。

 聞こえたことを示すため、赤索を頭上へ一度だけ張った。

 ノノは続ける。

「久我を全部残すって意味じゃない! 塔に残る! 机も! 水も! 修理も!」

「聞いた!」

 由良が叫ぶ。

「救出しろって言ってないからな!」

「言わせない!」

「勝手に帰省扱いもするな!」

「しない!」

「見舞いは来い!」

「それは行く!」

 ノノが窓を閉めた。

 塔内の誰かが笑う。

 外でも、タマキが笑った。

 轟は笑わなかった。

 計器を見ていた。

 圧力、百四十。

「通常まで戻す?」

 水務隊副官。

「百五十で止める」

「不足だ」

「今日は低圧運用。配給量を減らす。風呂は中止」

「住民へ負担が」

「もう負担は出てる。見えないふりをして通常へ戻すな」

 午前六時三分。

 百五十。

 ハツが内部ポンプを止める。

 外の手押しも止まる。

 環水三号塔が、長く息を吐くような音を出した。

 ギ、ではない。

 管の中を、水が均等に満たす音。

 轟は外壁へ右耳を当てた。

 しばらく聞く。

「何て言ってる」

 タマキが聞いた。

「今日は立つ」

「明日は」

「明日、また聞く」

「建物、先の約束しないんだ」

「人間より正直だ」

 停止後、七瀬は最初に「原因」を聞かなかった。

「行為を時刻順に」

 塔内放送と外部記録をつなぐ。

 三時四十四分。

 外側供給管の圧力低下。

 三時四十六分。

 久我が《外部停止の影響を可視化しろ》と指示。

 三時四十八分。

 左伯ハコが南排水弁を全開。

 三時五十一分。

 久我が全開を知り、即時閉鎖を指示せず、外部反応を待つ。

 三時五十四分。

 基礎沈下を確認。

「私の全開が先」

 ハコの声が放送へ入る。

「時系列では、外側の停止が先です」

 七瀬。

「私の名前を薄くするな」

「薄くしない。単独原因にも変えない」

 久我が言う。

『命令は、結果を見せろ、だった。全開とは言っていない』

「それで終わる?」

 ハコ。

『終わらない。私は全開を知った後、止めなかった』

 外の副官が割る。

「供給停止は安全確認のためだ。占拠側の操作とは性質が違う」

 轟が計器から顔を上げないまま言う。

「塔には、性質じゃなく圧が来た」

「規定に基づく措置だ」

「規定は管へ読ませた?」

「比喩で責任を混同するな」

「混同してない。順番へ置いてる」

 真琴が三つの欄を作った。

《外側供給停止の判断と根拠》

《久我の指示と、全開把握後の不作為》

《左伯ハコの全開操作》

「三つとも、別の審理です」

「同じ紙へ書くのか」

 副官。

「同じ建物へ作用したため、時系列は同じ紙。責任判断は分ける」

 ハコが言う。

「私、弁から外れる?」

 久我はすぐに答えなかった。

「今日は外す」

『処分?』

「休ませる」

『同じに見える』

「違う。次に戻る条件を先に言う。ハツと全開・半開の再訓練。単独操作を三日止める」

『三日で足りる?』

 ハツ。

「おまえが決めろ」

『じゃあ、回数で。五回。時間じゃない』

 ハコが小さく笑った。

「受ける」

 失敗をした人間を仕事から永久に消せば、現場は安全になったように見える。

 実際には、失敗を知る人間まで消える。

 戻る条件を決めることは、罰を軽くすることではない。

 次に同じ弁へ触る責任を、見える形で残すことだった。

 正面扉の下から、四角い札が一枚出てきた。

 青い札。

 ポンプ室の許可札。

 扉そのものは開かない。

 轟が札を拾う。

 裏に、久我の角ばった字。

《外圧記録の照合に限り、午前十時まで有効。鍵ではない。》

「けち」

 タマキ。

「期限がある」

 轟。

「喜んでる?」

「鍵より、期限が先に書いてある」

「それがいいの」

「返す時が分かる」

 轟は許可札を工具帯へ入れなかった。

 胸の透明ポケットへ、外から見えるよう差した。

 借りた権限は、隠すと重くなる。

 塔は立っている。

 守ったのは、外でも内でもなかった。

 互いの間違いを、途中でやめた人間たちだった。