第213話 第九章「退去の順番」前編

二月二十七日 午前七時二十九分

 真琴は、一枚の書類を十二枚に破った。

 紙は、思ったより良い音を立てた。

 ビリ、と。

 環水三号塔の前に集まっていた役人たちが、全員同じ顔をする。

 紙を破る音には、法律を知らない人間でも理解できる力がある。

「何をしている」

 天環水務局の監督官が言った。

「修正です」

「破棄だ」

「原型を保ったまま直せないため、破棄してから作り直します」

「それは《給水塔居住者一括救出・一時収容同意書》だ。昨夜、法務が作成した」

「題名から問題があります」

「どこが」

《一括》《救出》《一時》《同意》」

「全部ではないか」

「はい」

 真琴は十二枚の紙片を、雪の上へ落とさなかった。

 順番を保ったまま机へ並べる。

 一枚目。

 目的。

 二枚目。

 対象者。

 三枚目。

 搬送先。

 四枚目。

 家財の扱い。

 五枚目。

 医療情報。

 六枚目。

 居住権。

 七枚目。

 水利用権。

 八枚目。

 退去期限。

 九枚目。

 残留者の責任。

 十枚目。

 警備権限。

 十一枚目。

 記録公開。

 十二枚目。

 署名。

「一枚へ結び直すから、同意できなくなる」

 監督官は紙片を見る。

「緊急時だ。簡潔でなければ百人を処理できない」

「人を処理する書類になっています」

「言葉尻だ」

「言葉は、書類では尻ではなく入口です」

 タマキが横から覗いた。

「名言?」

「反論だ」

「長い」

「短くする。まとめるな」

「矛盾してる」

「別々に短くする」

 真琴は眼鏡を押し上げた。

 階別集会の結果が、塔の窓と配管と地下蓋から届いている。

 一階。

 ポンプ担当七名と、その家族十一名。

 残留希望。

 給水維持のため、少なくとも五名は残る必要がある。

 二階。

 高齢者が多い。

 十六名中九名が一時退去。

 四名は家族の退去後に残る。

 三名は未回答。

 三階。

 乳児二人。

 家族単位で移るなら退去。

 子どもだけの優先搬送は拒否。

 四階。

 発熱者がいる。

 診療所の判断を待つ。

 退去の賛否ではなく、感染隔離経路が先。

 五階。

 配給係を含む十二名。

 六名残留、四名退去、二名保留。

 六階。

 水袋を東へ移した階。

 床の荷重確認後、一部退去。

 七階。

 磯良ノノを含む九名が残留。

 二名が天環側宿舎。

 一名が剛嶺側の親族へ連絡を希望。

 八階。

 西窓の「介入不要」を掲げた住戸は、病人の休息を優先。

 現在地を公開せず、医療者一名だけ入室希望。

 九階。

 透析患者と介助者は医療設備ごと動かせる場合のみ退去。

 設備だけを先に運ぶことは拒否。

 十階。

 外周帯に細い亀裂。

 構造上は早期退去が望ましい。

 しかし二世帯が、下階に家畜を残せないと保留。

 十一階。

 共同炊事場。

 残留者の食事を作る三人だけ残り、七人退去。

 十二階。

 屋上機械室の騒音と、前夜の圧力低下で睡眠障害。

 全員、一時退去を希望。

 同じ塔に住む百六人が、十二通りでも足りない答えを出した。

「一括救出ではない」

 真琴は言った。

「一括でなくても、出口は一つだ」

 監督官。

「それをこれから開ける」

「久我が応じる保証は」

「ない」

「なら、書類を先に整える意味は」

「扉が開いた時、外側の都合で全員を同じ列へ入れないためです」

 監督官は苛立った。

「順番が逆だ。まず救出し、それから希望を聞く」

「場所を移した後では、戻る選択の費用が増える」

「命より家を優先するのか」

「本人が何を命の一部と考えるかを、外部が決めないと言っています」

「火災なら、問答無用で運ぶだろう」

「今、火災ですか」

「占拠だ」

「占拠と火災を同じにしない」

「悠長な」

 真琴は紙片を一枚持ち上げた。

《居住権》

「この一枚を外せば、搬送は速くなります。その代わり、退去者が戻れる保証が消えます。速さが必要なら、誰がこの一枚を引き受けるか署名してください」

 監督官は手を出さなかった。

 速くする責任は、遅らせる責任より見えにくい。

 午前八時十二分。

 轟が、塔の模型を運んできた。

 廃材で作った円筒。

 十二段。

 各階へ小さな鉄片が置かれている。

 住民一人を五十グラム。

 水袋を百グラム。

 大型家具を灰色のナット。

 透析設備を青いボルト。

「玩具?」

 監督官。

「床は数字を見ない」

 轟は答えた。

「重さを見る。人が見ても分かるようにした」

「本物の荷重計算は」

「別紙」

 真琴が三十六枚の表を上げた。

「短くない」

「建物は簡潔さへ配慮しません」

 タマキが模型の一階へ、鉄片を五つ置く。

「ポンプ担当。残る」

 二階から九つ取る。

「退去」

 轟が止める。

「一度に九人を階段へ出すな」

「なぜ」

「二階だけならいい。十二階と十一階が先に下りてくる。踊り場へ重なる」

「上から順?」

「それも駄目」

「なぜ」

「上を全部先に出すと、中央水槽の上部荷重が急に軽くなる。昨日ほどじゃないが、外周の偏りが出る」

「じゃあ下から」

「出口で詰まる」

「面倒」

「建物なので」

 タマキが自分の言葉を取られた顔をした。

「返して」

「何を」

「それ」

「誰から、誰へ、何のため」

「嫌な大人になった」

 轟は欠けた前歯へ舌を当て、短く笑った。

 退去順は、意志の強さだけで決められない。

 上階の危険。

 下階の医療。

 階段荷重。

 水圧。

 外気温。

 家族。

 家畜。

 移動補助具。

 残る人の食事。

 構造上の正しさは、人間を部品へ変えやすい。

 人間の希望だけでは、階段が持たない。

「案」

 轟が模型へ線を引いた。

「十二階から四人。次に二階から三人。十一階から炊事以外の三人。三階から一世帯。六階から水袋二十。九階から透析設備の固定具だけ。そこで十五分停止」

「家族を分ける」

 由良が包囲線の外から言った。

 通行証停止中のため、机から三メートル離れている。

「十二階の残りは、次」

「その十五分で何か起きたら、先に出た四人と残った家族が分かれる」

「階段を壊せない」

「分かってる。でも、家族単位で動きたいって答えがある」

「家族単位が六人なら、一度に六人は下ろせる。十二階だけなら」

「その間、二階の高齢者は待つ」

「待てるか確認する」

「構造計画を住民へ選ばせる?」

「選ばせない。危険を説明して、優先を聞く」

「説明を理解できない人は」

「分からないと言える」

「時間が」

「またそれ?」

 由良の声が鋭くなる。

 轟は黙った。

 自分の得意な図面で、他人の遅さを消そうとしていた。

「何分なら、説明に使える」

 由良が聞く。

「二時間」

「本当は」

「四時間」

「じゃあ四時間」

「扉が開く時刻が遅れる」

「開けた先で順番が決まってなければ、扉を壊したのと同じだ」

 轟は模型を見た。

 小さな鉄片。

 全部、同じ重さに作った。

 人間は同じではない。

「模型、作り直す」

「今から?」

「家族は針金でつなぐ。移動補助がいる人は底を重くする。保留は置かない。空白札にする」

「自分で増やすの、禁止事項」

 タマキ。

「必要なら増やす」

「寝るのは禁止してない?」

「してない」

「して」

「なぜ」

「轟が自分を構造材にするから」

「俺は人だ」

「知ってる?」

 轟は答えず、模型を持って幕舎へ戻った。

 幕舎の床へ、轟は本物の階段幅を引いた。

 縦二・七メートル。

 折り返し踊り場、一・二メートル四方。

 手すりの張り出し、左右七センチ。

 雪の上では線が消えるため、細い木片を並べる。

 段差の代わりに、厚さの違う板を十二枚。

「これを上り下りする?」

 タマキが聞いた。

「下りるだけ」

「十二階分?」

「ここでは二階分。疲れは別に足す」

「別に足すって、どうやって」

「終わった後、同じ動作を六回」

「それは足してる」

 轟は返事をせず、十二階で使う予定の椅子を置いた。

 木製。

 背もたれが高い。

 右後脚の接合部に古い割れ。

「これ、使うの」

 凱がしゃがみ込む。

「住民が指定した」

「割れている」

「だから先に分かった」

 轟は椅子の脚へ白墨を塗った。荷重がかかれば、割れ目の開きが線で見える。

 運び手役は、水務隊員二人と、外側の救護員一人。

 本人役にはタマキが座った。

「なぜ俺」

「軽い」

「人格じゃなくて体重で選ばれた」

「建物なので」

「また取った」

 前後二人で椅子を持ち上げる。

 横の一人が手すり側へ立つ。

「開始」

 轟が言った。

 一段目。

 前の水務隊員が下がる。

 後ろの隊員は、椅子の背を持ち上げた。

 タマキの体が前へ滑る。

「止め」

 轟。

「まだ一段」

「一段で落ちる」

 座面が水平ではない。

 前を下げ、後ろを上げれば、座った人間は階段の方向へ抜ける。

「本人は足で踏ん張れる」

 監督官が言う。

「足の悪い人だ」

「固定帯を使え」

「固定すると、怖くなって降りたい時に自分で降りられない」

 由良が線の外から言った。

「安全のためだ」

「安全って、ほどける人が決めると簡単だね」

 真琴は椅子の横へ細い帯を二本置いた。

「腰を縛るのではなく、座面の前へ滑り止めを追加します。本人が手で外せる留め具にする」

「手が動かなければ」

「横の一人が、本人の合図で外す」

「合図できなければ」

 タマキが椅子から言った。

「始める前に止め方を決める」

 轟。

「声?」

「声、手、足。どれも難しいなら、顔を二回右へ向ける」

「それ、今決めた?」

「本人へ聞いてから採用」

 線の中では、決めたつもりの安全がすぐに壊れた。

 二回目。

 椅子の前縁へ毛布を巻く。

 運び手の手の位置を揃える。

 横の一人は、支えるのでなく本人の視界へ入る。

 踊り場まで下りた。

 タマキが言う。

「怖い」

「役だろう」

 監督官。

「役でも、前向きで階段を下りるのは怖い」

 轟は椅子を逆向きにした。

 本人の顔を上り側へ向ける。

 後ろ向きに下ろす。

 今度は足元が見えない。

「どっちがいい」

「本人による」

 真琴が答えた。

 選択欄が一つ増えた。

《椅子の向き――進行方向/上り方向/その場で決める》

 次は、九階の透析設備だった。

 百四十キロの代わりに、砂袋を積んだ台車を使う。

 患者役は凱。

「なぜ私だ」

「膝に制限がある」

「役に立つ古傷だな」

「役に立たせるな。痛んだら止めろ」

 タマキが角鏡を踊り場へ置く。

 台車が先に曲がる。

 鏡の中へ、青い布を巻いた台車が映る。

 凱は一段上からそれを見る。

 二つ目の曲がり角。

 鏡が低すぎた。

 台車の上しか映らない。

「見えない」

「本人役が背高いから」

「本番の人は私より十二センチ低い」

「もっと見えない」

 タマキは鏡を配達箱へ載せた。

 今度は角度が上すぎる。

 七瀬が小型撮影機を鏡の位置へ置き、画角を確認した。

「鏡の中心、一メートル十二。下向き十四度」

「数字にする?」

 タマキ。

「本番で置く人が私ではない」

 床へ印がついた。

 その時、塔の九階の窓で青い布が二度揺れた。

 本人が見ている。

 タマキは鏡を持ち、窓へ向けて傾けた。

 太陽の反射を送るのではない。

 鏡の裏側へ、白墨で高さと角度を書いた面を見せる。

 窓の布が、一度だけ上下した。

「確認?」

 迅が聞いた。

「たぶん」

「たぶんで進める?」

「地下で聞く」

 タマキは自分の推定を、決定欄ではなく質問欄へ書いた。

 十階の家畜では、さらに揉めた。

 家畜と呼ばれていたのは、山羊二頭と、兎の籠三つだった。

 外側の収容所は人間の寝床しか準備していない。

「衛生上、居住区へは入れられない」

 監督官。

「なら飼い主は出ない」

 由良。

「動物を優先して危険建物へ残るのは認められない」

「誰が認めるの」

「保護責任者だ」

「家畜を置いて出た人が、次の日に戻れない時の責任者は」

 監督官は答えない。

 小麦はこの現場にいない。

 食事と動物の扱いを、いつも彼女へ頼るわけにはいかなかった。

 タマキが、塔へ届いた配給記録をめくる。

「山羊の乳、四階の乳児へ少し使ってる」

「医療用か」

「食料。代替がない日だけ。兎の糞は一階の藻床へ。家畜だけ切ると、水の浄化材も減る」

 轟は模型の十階から、灰色のナットを外さなかった。

「一階の旧資材庫を、仮の家畜区画にする」

「給水設備の近くだ」

「壁で分かれてる。排水は外周溝。床荷重は足りる」

「誰が移す」

「飼い主」

「飼い主が退去希望だ」

「第一波の後、戻る?」

 由良が聞く。

「戻ることを退去失敗に数えないなら」

 真琴が書く。

《一時退去後、家畜移動のため本人の希望で再入館できる。警備判断だけでは拒否しない。》

「出した人を戻すのか」

 監督官。

「扉が一方向だと、救出は移送になります」

 真琴。

「危険だ」

「危険なので、時間と同行者を決めます」

 計画は、紙を増やすほど遅くなった。

 だが、遅くなった分だけ、開門後に誰かが立ち止まる理由が減った。

 最後に、轟自身が椅子へ座った。

「何をしてる」

 迅。

「運ばれる側をやる」

「重い」

「だからやる」

 四人が持つ。

 右肩へ響く振動を、轟は椅子の脚から感じた。

 運ぶ側なら聞き逃す小さな横揺れだった。

 二段目で手を上げる。

「止め」

「何」

「後ろ右の持ち手、握り替えが遅い」

「見えてないだろ」

「椅子が先に教えた」

 持ち手役の若い水務隊員は、悔しそうに手を見る。

「昨日から指が冷えて」

「交代」

「できます」

「できるかじゃない。途中で戻れるか」

 轟は椅子から降りた。

 隊員の手へ温石を渡す。

「本番は、途中で頑張った人間から壊れる」

「俺を外すんですか」

「前を外す。鏡係ならできる」

 役割を失わせず、負荷を変える。

 それは建物の補強と似ていた。

 柱を褒めて耐えさせるのではない。

 壊れる前に、重さを別へ渡す。

 轟は模型を作り直した。

 同じ五十グラムの鉄片へ、色の違う糸を結ぶ。

 赤は家族。

 青は医療。

 黄は動物と仕事。

 白は未決定。

 糸は、人を縛るためではない。

 離した時に何が切れるかを見るためだった。

 午前九時五十分。

 塔内の階別集会と、外側の構造説明をつなぐため、配管と窓札だけでは足りなくなった。

 久我は正面扉の覗き窓へ、受話器を一つ取り付けた。

 外と内を直接つなぐ。

 ただし、受話器は久我の手の届く場所にある。

「誰が話す」

 久我。

「各階で選ぶ」

 真琴。

「一人ずつ」

「同じ人が全項目を話さなくてよい」

「時間がかかる」

「承知しています」

「四時間」

「轟が要求した」

「伏見は二時間と言った」

「本当は四時間だった」

「本音を推定で採用するな」

「本人が訂正した」

「なら記録を出せ」

 七瀬が時刻つき記録を差し出す。

 久我は覗き窓から読んだ。

「面倒な連中だ」

「よく言われる」

 七瀬。

「褒めていない」

「それもよく言われる」

 最初に話したのは十二階だった。

『六人家族は一緒に下りる。二人世帯は、隣の単身者と三人で動く。足の悪い者一人。担架ではなく、椅子を使う』

 轟が質問する。

「椅子の脚幅」

『四十八センチ』

「階段の最狭部は五十二。通る。背もたれを壁側へ。持つ人数は」

『四人』

「多い。踊り場で詰まる。前後二人。横に一人、交代用」

『本人が怖がる』

「本人へ聞く」

 受話器の向こうで、声が替わる。

『横に一人いてほしい』

「横は手すり側。体重をかけるな。交代は二階ごと」

『分かった』

「分からなければ」

『言う』

 次に二階。

『高齢者九人のうち、三人は朝の薬の後でなければ動けない。二人は便所が近い。出口の待機列が長いなら残る』

 真琴が搬送先へ連絡する。

「入口に椅子と簡易便所を置く。待機列から外れる権利を記載」

「権利って書く必要ある?」

 タマキ。

「書かないと、列を離れた人が最後へ回される」

「誰が回す」

「善意の係員」

「善意が面倒」

「制度は、悪人より善人の迷いを止めるためにある時もある」

「名言?」

「職業上の愚痴だ」

 三階。

『乳児を一人ずつ運ばない。家族で移る。荷物は毛布、ミルク、薬。玩具一つ』

 監督官が口を挟む。

「玩具は不要物だ」

 受話器の向こうで、母親の声が止まった。

 真琴は監督官を見た。

「不要と判断した根拠を」

「緊急搬送の重量制限」

「玩具の重量は二百グラム。母親の荷物総量は制限内」

「優先度の話だ」

「誰の不安を減らす物か、本人が説明している」

『眠る時、これがないと泣く』

 母親。

「携行を認めます」

 真琴が書く。

 監督官が鼻を鳴らした。

「一つ一つやっていては終わらない」

「一人一人が終わらなければ、救出だけ終わっても意味がない」

 四階。

 診療所のサナが出る。

『発熱者二名。感染症の可能性は低いが、通常列へ入れない。外の診療班は、患者名を公開せず受け取れるか』

 七瀬が撮影機を下げる。

「名を記録しない」

 真琴。

「識別は」

『寝台番号と、私の同行』

「受け入れ可能」

 九階。

 透析患者本人が話す。

『機械を先に出すな』

「理由を聞いてよいですか」

 真琴。

『機械が外へ行ったら、私は出るしかなくなる』

「搬送の選択を残すため、設備と本人を同時に移動する」

『そうして』

 轟が割る。

「設備は百四十キロ。本人を同時に階段へ出すと、踊り場荷重が上がる。機械は担架に固定し、本人は一段上を歩く。離れる距離は三メートル以内」

『見える?』

「曲がり角では見えなくなる」

『見えないのは嫌だ』

「鏡を置く」

 タマキが言った。

「配達用の角鏡、二枚ある。踊り場へ一枚ずつ。機械と本人が互いに見える」

『それなら』

 タマキは料金表を出しかけ、しまった。

「今回は、いらない」

「無料?」

 迅が聞く。

「鏡は貸す。返却票をもらう」

「やっぱり取る」

「金じゃない」

「同じ顔してる」

 七階。

 ノノが受話器へ出た。

『私は残る。縫い台も残す。久我は警備だけなら残していい』

 由良は包囲線外で聞いている。

「警備だけ、とは」

 真琴。

『外周見回り。夜間侵入。水泥棒。住戸の鍵は持たせない。診療札も配給札も』

「警備鍵は」

『正面と屋上だけ。地下はハツ。外周足場は階ごと』

「期限」

『二週間』

 久我の声が受話器の向こうから入る。

『短い』

 ノノ。

『長い方がいい?』

『再襲撃の危険は二週間で消えない』

『じゃあ、二週間後にまた頼むか決める』

『判断の間に襲撃が来る』

『今日だって来るかもしれない』

『だから鍵を渡せない』

 久我が受話器を取った。

『外へ告げる。全鍵を渡す案には反対する』

「全鍵を外へ渡す案ではない」

 真琴。

『住民へ分けても、奪われる。配給係が脅されれば食料庫。医療者が脅されれば薬庫。設備係が脅されればポンプ』

「あなた一人が脅された場合は、全部です」

『私は耐える』

「他の人は耐えない?」

『技能が違う』

「脅迫へ耐える技能を、鍵の条件にしますか」

『現実として必要だ』

 塔内から、別の声。

『久我を残せ!』

 五階の男。

『外は十二日も見てただけだ! 久我は最初の日に門を閉めた!』

 別の女。

『でも診療所の鍵は返せ!』

『配給は久我がいないと揉める!』

『配給したのは沼代たちだ!』

『外の兵が入ったらどうする!』

『外も入れない!』

 声が重なる。

 久我の支持者は、洗脳されていない。

 彼女が実際に守った夜を覚えている。

 外側の遅さも知っている。

 鍵を一つにする危険より、決める人がいない恐怖を重く見ている。

「静かにしろ」

 久我が言った。

 塔内が静かになる。

 その一声で静かになる事実が、彼女の支持と支配を同時に示した。

「今のも、記録する」

 七瀬。

『何を』

「あなたの一声で、発言が止まった」

『混乱を止めた』

「そう記録する。止まった人の発言が終わっていたかは不明」

『面倒だな』

「よく言われる」

 午後零時四分。

 四時間の説明が終わった。

 説明が終わる直前、十二階から訂正が入った。

『六人家族、一緒に下りるを変更する』

 受話器の向こうは、最初に椅子の向きを指定した家族だった。

「理由は書かなくてよいです」

 真琴。

『でも、説明する。父親が椅子を持つ予定だった。さっきの模擬を窓から見て、無理だと言った』

「負傷?」

 サナ。

『右手の指が二本、朝から動きにくい。今まで言わなかった』

 轟が目を閉じた。

 模擬訓練で外した若い水務隊員と同じだった。

 持てると言う人間を、持たせる前に外せたのは外側だけ。

 塔内には、まだ百人分の「できる」が残っている。

「代わりの運び手を外から出す」

 監督官。

『外の人を部屋まで入れるのは嫌だ』

「では一階で交代」

 轟。

『十二階から一階まで、父親を外す』

「内側の別の人」

『みんな、自分の家族を運ぶ』

 受話器の向こうで、別の声がした。

『私が持つ』

 十一階の共同炊事場の女。

『うちは三人退去で、一人は元気。十二階へ上がってから一緒に下りる』

「上へ行く分、疲労が増える」

 轟。

『だから二人で交代する。飯を運ぶ時、毎日その階段を上がってる』

「本人へ確認」

『本人が言ってる』

「椅子の人へ」

 少し間があった。

 年老いた女の声。

『あの子なら知ってる。粥をこぼすけど、手は強い』

「こぼす必要ある?」

 炊事の女。

『嘘をつかないため』

 窓の向こうで笑いが起きた。

 十二階の父親は、運び手から外れた。

 代わりに、椅子の横で声をかける役へ移る。

「役をなくさない?」

 タマキ。

「本人が残りたいなら」

 真琴。

「役がないと、家族についていけないと思う人もいる」

「仕事のために退去する?」

「逆です。退去するために、仕事を作ってしまう」

 父親へ、何もしなくてよい選択も伝えた。

『声をかける』

 本人が決めた。

 計画表の《運び手》から名前が消え、《同行・声》へ移る。

 変更は、最初の判断が間違いだった証拠ではない。

 説明を聞いた人間が、自分の体を新しく数え直した証拠だった。

 真琴は、全ての階へ同じ確認を送った。

《模擬と説明を見た後で変えたい項目があれば、理由なしで変更できます。変えないことも回答です。》

 七階からは《変更なし》

 五階からは、残留六名のうち一名が退去へ変更。

 二階からは、未回答の一人が《本日は決めない》と返した。

 回答しない人が、保留を選んだ人になった。

 同じ場所へ留まっても、外側から勝手に与えた沈黙と、自分で選んだ保留は違った。

 退去順は、一列ではなく六つの波へ分かれた。

 第一波。

 十二階の二世帯。

 二階の歩行可能な三名。

 四階の発熱者一名と医療者。

 第二波。

 十一階の退去者三名。

 三階の乳児家族一組。

 六階の荷重調整用水袋十袋。

 第三波。

 九階の透析設備と本人。

 踊り場へ鏡を置く。

 他の列は停止。

 第四波。

 十階の家畜を先に一階の空き区画へ移し、二世帯が退去。

 第五波。

 二階の服薬後の高齢者。

 五階と七階の希望者。

 第六波。

 保留者が、その時点で改めて選ぶ。

 各波の間に十五分。

 水圧、床振動、医療、外気温を確認する。

「完璧?」

 タマキが聞く。

「完璧な避難計画は、避難前にしか存在しない」

 轟。