第112話 第六章「乗客名簿」後編
七瀬。
手回し字幕機へ一文を入れ、各車両の表示板へ送る。自動ではない。車両間の有線回線へ、係員が一枚ずつ差し込む方式。
「回答は記号だけにしません」
真琴が言う。
「《必要》の理由が法的条件になります」
巴は首を振る。
《最初は記号》
「理由がなければ、単なる希望として扱われます」
《希望で足りる》
「非常操作には具体的危険が」
《今は非常操作を決めない》
「後で時間がなくなります」
《今、理由を書かせると時間がなくなる》
真琴は眼鏡の左つるへ手を上げる。
途中で止める。
「私は、また全部を一度に求めていますか」
巴は頷く。
「あなたに言われると腹が立ちます」
《私も》
「なら公平ですね」
《違う》
「なぜ」
《二人とも困るだけ》
真琴は少し笑った。
「訂正します。平等です」
各車両へ質問を送る。
車両担当が一人ずつ読み上げる。
聞こえない人には文字。
文字が難しい人には絵。
寝たきりには付き添いでなく本人の瞬き。
最初の集計は、六両目だけ不自然だった。
《不要》が十二。
《必要》も《保留》もゼロ。
巴は表示板を見たまま、六両目へ再送する。
《質問方法》
返答。
《車内放送で一度読み上げ。異議者のみ挙手》
巴の右親指が、手袋の句点を強く擦る。
異議を出さないことを、不要へ数えた。
寝ていた者。
聞こえなかった者。
他人の前で手を上げられなかった者。
全部が、列車を続けたい人へ変えられている。
巴は六両目へ向かう。
迅が立とうとする。
《一人で》
「護送員が」
《仕事の修正》
「危険なら」
《呼ぶ》
六両目の担当者は、悪意を持っていなかった。
「時間がなかった。反対がある人だけ言えば早いと思った」
巴は一枚の板を見せる。
《反対できると知っていた人》
担当者の顔が固まる。
「全員ではない」
《では、十二は回答ではない》
「未回答に戻す?」
《戻す》
「数字が悪く見える」
《正しく見える》
巴は座席を一列ずつ回る。
十二人のうち、必要五、不要四、保留三。
全員が同じではなかった。
担当者は自分の集計欄を二本線で消し、時刻と理由を書く。
《黙示を不要と誤認》
「処分されるかな」
巴は首を傾げる。
《訂正した事実も残る》
「慰め?」
《記録》
「少しは慰めて」
巴は考え、板へ書く。
《次は、一人ずつ訊ける》
担当者は苦笑した。
「それ、仕事が増えるだけだ」
《仕事なので》
九両目へ戻るまでに七分使った。
時間は減った。
誤った十二人は消えた。
どちらを損失と呼ぶかで、運行の思想が分かれた。
巴は九両目の表示板で返答数を見る。
四両目。
必要二。不要七。保留一。
五両目。
必要一。不要八。保留二。
六両目。
必要五。不要四。保留三。
七両目。
必要二。不要十一。保留一。
八両目。
必要六。不要五。保留四。
九両目。
必要九。不要四。保留三。
十両目。
必要七。不要二。保留二。
十一両目。
必要三。不要二。保留一。
十二両目。
必要二。不要一。保留一。
人は車両ごとにも揃わない。
一両を止めるか進めるか決めれば、その中でまた少数が生まれる。
「車両単位では足りません」
真琴。
「人を移す」
タマキ。
「希望ごとに?」
「降りる選択が必要な人を、止まれる車両へ」
「移動中の転倒危険」
「今、走ってる」
「だから危険です」
「停まらないなら、走ってる間にする」
「論理が乱暴です」
「線路が乱暴」
轟が窓から車両長を測る。
「三両なら、座席百二十。必要と保留、全部入る」
「保留も止まる側へ入れるのですか」
凱。
タマキは首を振る。
「保留の人に訊く。止まれる側と、進む側、どっちで次を決めたいか」
「質問が増える」
「次の一問」
巴はタマキを見る。
物から経路を読む少年が、言葉の順番を使っている。
《良い》
「料金」
「今そこ?」
迅。
「巴が言った」
《言ってない》
「顔」
《顔は契約外》
「市場の言い合いを列車で繰り返すな」
真琴が言い、全員が彼を見る。
「何です」
「自分で使った」
タマキ。
「引用ではなく注意です」
「用途が違う?」
「そうです」
「便利」
会話の間にも列車は進む。
窓の外の石壁が、住宅へ変わる。
午後一時七分。
車内放送が鳴った。
『全車両へ。運行責任者、折部翼。無許可の意思調査が行われています。運行安全を損なう移動はしないでください。目的地への移送は契約どおり継続します』
巴は放送器の横の文字表示を見る。
聞こえない彼女のために、乗務員が速記した文が一拍遅れて出る。
《無許可》
《安全を損なう》
《契約どおり》
すべて嘘ではない。
だから強い。
凱が応答釦へ手を伸ばす。
巴が止める。
「何だ」
黒板。
《私が》
「放送できるか」
《文字》
七瀬が字幕回線を繋ぐ。
巴は一文を書く。
《降りるよう勧めていません。次に安全に停まれる場所で、降りる選択肢が必要かを本人へ尋ねています》
送信。
続けて書きたくなる。
《回答は撤回可能》
《保留可能》
《記録範囲は》
書かない。
折部から返事が来る。
《選択肢を示せば、乗客は停止可能と誤認します》
巴。
《停止候補はありますか》
返答。
《運行上の候補は常に複数あります。安全と保安のため、責任者が選定します》
《本人は候補を知れますか》
《決定後》
《決定前に意思を聞きますか》
間。
八秒。
七瀬は時刻を記す。
返答。
《移送同意を基礎に判断します》
巴。
《今朝の変更後の意思は未了です》
《車内で継続中です》
《誰が》
《あなたです》
文字が表示された瞬間、巴の右人差し指が痛んだ。
責任を明瞭にされた。
間違っていない。
巴は同行確認者として乗った。
だから急がされている。
確認が終わらなければ、自分の遅さになる。
終われば、折部の運行が正当になる。
どちらにしても、時間を決めた者は外に残る。
迅が表示板を見る。
「折部は列車を動かしてる?」
車両担当が答える。
「運転は先頭の運転士。速度指示は運行部と折部責任者。信号は各駅」
「折部を倒したら」
「列車は急には止まりません。責任者不在時は運行部古橋巡が引き継ぎます」
「古橋はどこ」
「二両目」
「折部の隣」
「別卓です」
「能力で走らせてる?」
「何の話です」
笠井が答える。
「折部さんの誓痕は、落下や衝突を宛先へ寄せるものです。駆動や制動はできない」
「なら殴る意味ない」
「最初から殴るつもりだったんですか」
「会ってから決める」
「怖い人だな」
「屋根で知ったろ」
「屋根では、変な人だと思いました」
「訂正された?」
「怖くて変な人」
迅は包帯を巻かれた左手を見た。
「増えた」
巴は表示板へ書く。
《責任者を倒すことと、列車を止めることは別》
七瀬が頷く。
「記録します」
真琴。
「当然です。運行命令系統を切れば、代行へ移るだけです」
「知ってた?」
タマキ。
「鉄道組織として当然です」
「先に言って」
「誰も折部さんを倒す作戦だと言っていません」
全員が迅を見る。
「俺も言ってない」
「顔」
タマキ。
「契約外」
迅。
真琴は何も言わない。
全車両の最初の回答が揃った時、表示板は一つの数字を出した。
《必要 二十七》
《不要 三十一》
《保留 十九》
波佐間が数字を指す。
「不要が一番多い。列車を進めるべきだ」
秋枝が反発する。
「三十一人のために、二十七人を運ぶの」
「多数決ならそうなる」
「多数決だって誰が決めた」
車内の声が大きくなる。
巴は表示板の電源を切った。
数字が消える。
「隠した?」
波佐間。
巴は首を振る。
黒板へ書く。
《合計は、列車全体を一つへ決める時だけ必要》
「一つの列車だ」
《車両を分けられる可能性》
「可能性だけで、数を無視する?」
《無視しない。使い道を変える》
巴は回答を車両ごとへ戻す。
四号車。
継続七。必要二。保留一。
十号車。
必要九。不要一。保留三。
十二号車。
乗客は少ないが、資材が多い。
「数字を分ければ、都合よく見える」
波佐間。
《合計も、都合よく見える》
「じゃあ何を信じる」
《目的》
「止めること?」
《違う》
巴は最初の質問をもう一度出す。
《次に安全に停まれる場所で、降りる選択肢が必要ですか》
《目的は、選択肢を持つ人を、持たない人の数で消さないこと》
秋枝が言う。
「でも、私たちのために進む人を危険にしたら同じ」
巴はうなずく。
止める側だけを弱者にしない。
進む側にも、理由と危険がある。
真琴が車両表へ条件を足す。
「分離する場合、継続側は最低でも運転車、運行記録、医療連絡を残す。停止側には手動制動、乗降補助、医療担当。人数だけで分けられない」
「人を設備みたいに言う」
タマキ。
「役割を示しています」
「本人が嫌って言ったら」
「代わりを探す」
「いなかったら」
「案を捨てる」
巴はその言葉を大きく書く。
《成立しなければ、案を捨てる》
迅が読む。
「間に合わなくても?」
《危険な操作を、正しい目的で正当化しない》
「止まれない人は」
《次の方法》
「ないかもしれない」
《あると言わない》
迅は嫌そうな顔をする。
拳で開ける扉なら、できるか、できないかがある。
手続きの扉は、正しく進んでも間に合わないことがある。
「不親切」
迅が言う。
《はい》
巴は認める。
《できないことを隠す親切より》
波佐間が腕を組み直す。
「俺は進む。でも、停止側の操作員が足りないなら、俺は手伝わない。進む車両の証言者だから」
「それでいい」
秋枝。
「怒らない?」
「怒る。でも、頼んで断られたことを、命令へ変えない」
「難しいな」
「あなたが言った」
「俺は簡単な方を選んだ」
「私も、自分の簡単な方」
違う簡単さが、同じ列車に乗っている。
巴は合計数字を消さない。
別の頁へ移す。
必要になる場面はある。
食事の数。
座席。
医療品。
ただし、誰の意思が勝つかを決める用途には使わない。
数字は中立ではない。
何へ使うかを書かなければ、最も声の大きい目的へ配達される。
午後一時十九分。
保留者へ、次の一問を送った。
《次の判断を、停まれる車両と進む車両のどちらで行いたいですか》
回答は、停まれる側十人、進む側六人、まだ選ばない三人。
まだ選ばない三人には、移動しない権利を残す。
列車内の人数と座席、医療状態、荷物、付き添いを照合する。
必要と停まれる側を合わせ、三十四人。
十、十一、十二両目で収容できる。
ただし十二両目は郵袋と資料が多い。
座席を作るには荷物を前方へ移すか、床固定を増やす必要がある。
「十二両目は、さっき戻した」
タマキ。
「郵袋を前へ移せば使える」
迅。
「切った人、誰」
笠井が手を上げる。
「命令に従いました」
「後悔」
「今、訊きますか」
「今使えた」
「その時は予定外連結の危険がありました」
「今もそう思う?」
笠井は答えを急がない。
「切離し自体は必要だったと思います。ですが、先に乗員と目的を確認する時間はありました」
「何秒」
「四十秒ほど」
「それで足りる?」
「あなたなら、何に使います」
「誰が乗ってるか。何で来たか。切ったらどうなるか」
「三問」
「一問じゃない」
巴が黒板へ書く。
《一問は、全部の場面に使わない》
タマキは頷いた。
「便利じゃない」
《だから仕事》
巴は一問確認の一覧を、車両ごとに分けた。
四から八両目は、継続希望が多い。
十から十二両目へ、降車選択を必要とする者を移す。
止める車両。
進む車両。
まだ、どこで止めるかは決まっていない。
それでも勝利条件は変わった。
列車を止めるのではない。
止まりたい人間がいる場所を止め、進みたい人間がいる場所を進ませる。
一つの目的地を、複数へ分ける。
「三両を切る」
早瀬から車内回線が入った。
文字表示は短い。
《十九番側線 収容三両》
《進入まで三時間三十一分》
《手動制動必要》
《乗降足場 現地で準備》
タマキが二重V字の切符を掲げる。
「これ」
巴は切符を見る。
朝、彼から渡された途中。
公式の路線図にはない。
誰かが使い終え、捨てた経路の記録。
「三両だけ」
凱が言う。
「残りは進める」
波佐間が訊く。
「本当に北環へ行けるのか」
「行く車両の運行員が決める」
「おまえは保証しない?」
「保証できない」
「王なら言った」
「だから今は言わない」
「不便だな」
「知っている」
秋枝が言う。
「不便でも、私の不便を私が選べるなら、その方がいい」
波佐間は窓の外を見る。
「俺は、早く着く方を選ぶ」
「それも選べる」
凱。
「途中で止めるなよ」
「俺は止めない」
「誰が止める」
タマキが切符を裏返す。
「乗ってる人と、運転する人」
巴は一枚の黒板へ、最初の質問を残した。
もう八枚は床へ並べない。
必要になった人へ、一枚ずつ渡す。
列車の窓に、北環の高い煙突が遠く見えた。
終点はまだ一つに見える。
車内では、進み方が既に分かれていた。