第163話 第八章「平文放送」前編
十二月三十日 午後零時五十八分
放送には、幕がない。
紅葉カナタは、それが嫌いだった。
舞台なら、始まる前に暗くできる。
失敗しても、幕を下ろせる。
役者が倒れたら、客へ見せない場所へ運べる。
放送は、線がつながった瞬間から見られている。
紅牙座の旧小道具倉庫。
天井には、偽の月、紙の城壁、王冠、獣の顎、動かなくなった自動拍手機が吊られている。
床へ八本の音声線。
壁へ八枚の印札。
湯桶。
雪靴。
魚籠。
蝶番。
住所札。
安全帽。
開いた両手。
駅の長椅子。
中央の机は、端へ寄せた。
誰も真ん中へ立ち続けないためだ。
「三分」
カナタは言った。
一文字巴が、左手で返す。
《何が。》
「開始」
《どの開始。》
「放送」
《回線確認は始まっています。》
「客には見えない」
《見ています。》
倉庫の隅に、試験受信板がある。
王環第二待合所の子どもが、すでに画面へ顔を寄せている。背後では駅の老人が椅子を直している。南環の浴場会場は湯気で輪郭がぼやけ、北塔では窓の外へ雪が流れていた。
八会場とも、準備中から接続している。
巴の案だった。
本番だけを切り取ると、準備の遅れ、通訳のやり直し、退出した人が消える。
カナタには、準備を見せるのが怖い。
役者が袖で咳をする。
照明係が線を間違える。
台詞を忘れ、もう一度と頼む。
そういうものを隠して、舞台は世界より少し美しくなる。
先月、その美しさが、観客の拍手を同意へ変えた。
「二分」
《時間を言う必要は。》
「俺に」
《では、小さく。》
「うん」
舞台上なら、カナタは残り時間を韻へする。
あと二分、迷う者ほど前へ。
あと一分、拍手の前に息を。
今は、裏方の低い声で数える。
「次は、南」
南環の音声線へ、朱色の札を付ける。
「その次、北」
群青。
《一問目だけです。》
「分かってる」
《二問目は北から。》
「分かってる」
《三問目は西。》
「分かってる」
《四問目は東。二巡目は零番街から。》
「分かってる」
巴は手を止めた。
《三回言う時は、分かっていません。》
「覚えてる。嫌なだけ」
《何が。》
「順番があるのに、物語にするなって言われること」
《物語へしないのではありません。あなた一人の物語へしない。》
「もっと嫌だ」
《料金外の感情です。》
「意地悪、無料だろ」
《覚えていますね。》
カナタは、自分の右足を二度踏んだ。
冬の冷えで足首が固い。
痛みではない。
古い靱帯が、今の床を信用するまで一拍かかる。
滑り止めの松脂を、立ち位置へ薄く擦った。
足元を決める。
声の出る場所を決める。
次に何が起きるかを決める。
決めておけば、拍手が待っている。
今日は、拍手を待たない。
「一分」
カナタは大きく言いそうになり、飲み込んだ。
「一分」
自分にだけ届く声。
午後零時五十九分。
最初に壊れたのは、声ではなく音量計だった。
南環の回線は、湯気で受話器の膜が湿っている。北塔は風が強い。西市場は氷を砕く音が人の声より大きく、東門は鉄扉の振動が低音として混じる。
八本を一つの基準へ合わせると、学塔の小さな声が消えた。
「もう一度、大きく」
カナタが言う。
画面の老教師が、口元だけ笑った。
《大きくできない。》
地域手話の確認者が訳す。
「マイクを近づける」
技師が動かす。
今度は呼吸音だけが膨らむ。
「息、切って」
カナタは言い、すぐに自分の舌を噛みたくなった。
息を切れば、人は話せない。
舞台の発声なら、腹から支えろ、子音を立てろ、客席の最後へ投げろと言える。
今日は、声を作り直す場所ではない。
巴が黒板を上げた。
《聞こえない時、話者を直す前に設備を直す。》
「設備で全部は直らない」
《なら、別経路。》
老教師の机に、白い板を置く。
短い文は本人が書く。
長い文は確認者が書き、本人が修正する。
途中で疲れたら、空白札を出す。
北塔の回線では、風で子音が飛ぶ。
カナタは雑音を切る布を受話器へ巻こうとした。
画面の青年が止める。
「鐘も入れてください」
「声が聞こえにくい」
「鐘の回数が、話している間に変わったら避難です」
「放送中でも?」
「火は採決を待たない」
カナタは雑音を消す布を半分だけ巻いた。
聞きやすさを上げる。
場所の危険まで消さない。
西市場では、馬瀬鈴が試験文を怒鳴った。
「旗のない奴も――」
音量計の針が振り切れた。
「小さく」
「市場だよ」
「壊れる」
「何が」
「計器」
「人は」
「今は無事」
「じゃあ計器を替えな」
馬瀬の後ろで、魚住ミヨが受話器を二歩遠ざけた。
針が中央へ戻る。
人を小さくせず、距離を変える。
東門の子どもは、話すたび透明管の蓋を鳴らした。
「音、止められる?」
「無理」
「どうして」
「閉める練習」
「放送の間だけ」
「放送より票の方が濡れる」
「……続けて」
カナタは、八本の回線表へ音量を書かなかった。
代わりに、聞き方を書く。
《南環――湿気。語尾を確認》
《北塔――鐘を消さない》
《西市場――受話器を二歩離す》
《東門――蓋音も作業記録》
《零番街――子どもの声へ大人の要約を重ねない》
《北工――機械停止時だけ聞こえる声あり》
《学塔――文字と手話を同時に残す》
《王環――待合所の構内放送と時刻を分ける》
「一つの音量にしない?」
技師が訊いた。
「しない」
「聞く側が調整することになります」
「うん」
「苦情が来ます」
「来た時刻を残す」
「巴みたいになりましたね」
「高い?」
「面倒です」
「安い方だった」
巴が、カナタの肩を白板で軽く叩いた。
《開始。》
カナタは八本の札を見る。
音は揃っていない。
揃えないまま、どこから来る声か分かるようにする。
幕のない放送で、最初に守るべきものは、聞きやすい声ではなかった。
声を出した人が、聞きやすさのために別人へ直されないことだった。
午後一時。
最初の問いは、南環の言葉で始まった。
浴場の集会室。
柏木秋枝が、湯気の向こうで紙を持つ。
《旗を持たない隣人が、この仕事の相談へ来る時、何を一緒に決めるか。》
巴が同じ文を手話へする。
字幕板には、標準平文ではなく、南環の語をそのまま出す。
秋枝が続けた。
「一緒に決めるなら、湯の番も、費用も、休む日も書け。来た時だけ口を出して、片付けを旗持ちへ残す席なら要らない」
カナタは、次の地区へつなぐ言葉を考えた。
責任を分ける南環の問い。では、北は――。
言えば、南環が問題提起になる。
北が答えになる。
口を閉じる。
朱札を外し、群青札を上げる。
北塔の青年が話す。
「名簿にない人へ配給判断を渡す時、名簿の責任者が代わりに答えてはいけない。本人が遅れるなら、遅れた理由を残す」
背後で、凱が椅子へ座っている。
前には立たない。
白い外套の裾だけが画面端へ見える。
カナタは、凱を中央へ寄せる画角にしたくなった。
有名な顔が映れば、視聴者は離れない。
撮影機を動かさない。
北塔の話者が終える。
群青札を下ろす。
次は西。
魚籠の札。
順番を言うだけ。
「西、どうぞ」
舞台語を使わない。
魚棚市場の馬瀬鈴が、画面へ大きく出た。
「店札のない奴へ口を出させるなら、勘定も見せる。損した時だけ、おまえは客だとは言わない。得した時だけ、仲間だとも言わない」
言い終えた後、画面外から誰かが「声が大きい」と言う。
「市場だよ」
馬瀬が返す。
受信板の王環会場で、笑う人がいる。
笑いは、拍手より軽い。
同意かどうか分からない。
分からないまま流れる。
一問目の八地区が終わるまで、四十二分かかった。
予定は三十分。
巴は遅延札へ理由を書く。
《学塔の地域手話確認、九分。王環で質問者交代、三分。》
カナタは予定表へ赤線を引きたくなった。
赤線で詰めれば、次は速くなる。
「休憩、七分」
巴が首を横へ振る。
《各地区が選びます。》
「放送は」
《続けます。》
「何を映す」
《休む場所。》
「人が消える」
《消えた人もいます。》
南環では、透析帰りの老人が横になる。
北塔では、雪かきの青年が足袋を替える。
西市場では、魚屋が票机から離れ、氷を補充する。
東門では、透明管のねじ蓋を子どもが練習する。
零番街では、教室の子どもがカメラへ紙の住所札を近づけすぎる。
北工では、夜勤工が味噌汁を飲む。
学塔では、通訳者が手首を温める。
王環では、長椅子を一つ空ける。
休憩は、何も起きない時間ではない。
人が続けられるよう、仕事を止める時間だった。
午後二時十四分。
二問目は、北塔から始まった。
《何を決めるか。》
北の話者は、紙を見たまま黙った。
三秒。
五秒。
十秒。
カナタは、つなぎの文を用意していた。
「雪が言葉を遅らせています」
言わない。
雪のせいか分からない。
「北塔では、いま一人の住民が――」
言わない。
住民が何をしているか分からない。
十五秒。
受信板の端で、王環会場の男が耳を寄せる。
「切れた?」
誰かが訊く。
巴が、空白の札をカメラへ出す。
文字はない。
開始時刻だけ、下へ記されている。
二十秒。
話者が顔を上げた。
「すみません」
カナタの身体が反応する。
謝らなくてよい、と入れたくなる。
入れない。
「俺は、名簿にない人が何を決めていいか、決められません」
北塔の画面が静かになる。
「配給の量は一緒に決めたい。門を閉めるかも。けど、昔の拘束について、白冠の名簿にいた俺が、参加していいと言うのは違う気がする。分からない」
言葉は、答えになっていない。
だからこそ、本当の回答だった。
カナタは群青札を下ろし、次の朱ではなく、西の魚籠札を上げる。
二問目の次地区は西。
「西、どうぞ」
説明しない。
北の沈黙を、物語の美しい迷いへ変えない。
西の馬瀬は、すぐには話さなかった。
北の言葉を聞いた後だからだ。
巴が、情報受領札へ時刻を書く。
この時刻以後、西の回答は、北の発言を聞いた上のものになる。
隠さない。
放送は、答えを汚した。
同時に、何が混じったかを見えるようにした。
午後三時三十一分。
倉庫の搬入口へ、十二人が来た。
六人は成人治安隊。
六人は王環駅周辺の住民だった。
先頭の老女が、紙を掲げる。
《放送停止請願》
「地区の回答を互いに聞かせれば、後の地区が変える」
声は震えている。
怒りではない。
不安を怒りの形へ入れている。
「中央会場へ来た人だけが先に結果を知るのと同じだ。弱い地区が最初に言わされる」
彼女の後ろで、若い男が続ける。
「平文だって誘導だ。話す順番を決めた奴が勝つ」
カナタは否定できない。
順番は、主人公を作る。
「請願、受けます」
巴が黒板を上げる。
《放送中断の範囲と期限を。》
「今すぐ。採決まで全部」
《質問放送も。》
「全部だ」
「対象、放送設備。理由、判断汚染。期限、採決終了」
成人治安隊の隊員が命令書を読む。
「未許可中継を停止。機材を封印します」
八語以内。
榛名の命令形式だった。
カナタは床へ置いた四本の紐を見る。
一、誰が参加する。
二、何を決める。
三、いつ終わる。
四、どうやめる。
停止請願にも、同じ四問が要る。
「誰が参加する」
カナタは訊いた。
舞台の声を使わない。
「王環の請願者二十八人」
老女。
「何を止める」
「他地区の回答を先に聞かせる放送」
「いつまで」
「三十一日の採決まで」
「どうやめる」
「線を切る」
巴が手を上げる。
《違います。撤回方法。》
「請願を撤回する方法?」
《はい。》
「二十八人のうち何人が言えば」
老女は振り返る。
決めていない。
隊員が前へ出る。
「請願未整理。公務命令を執行します」
「次は、零番街」
カナタが言った。
放送表では、三問目の開始地区が西のはずだった。
しかし西会場で、偽票青年への再確認が長引いている。
優先理由が届いた。
《零番街の話者が、夜勤へ出るため先行希望。》
理由を公開し、順番を変える。
カナタは住所札の印を上げた。
「零番街、三分後」
「停止命令です」
隊員が機材へ手を伸ばす。
「三分だけ待て」
「待機しません」
「話者が仕事へ行く」
「放送は未許可です」
「仕事は許可されてる?」
「論点外です」
「舞台では、論点外が一番先に帰る」
カナタは、机を蹴った。
機材へではない。
端へ寄せていた細机の脚を、床の溝へ滑らせる。
机が音声線の前へ横向きに入る。
隊員の進路が一歩狭くなる。
「公務妨害」
「机を動かした」
「意図」
「三分」
隊員の右手が警棒へ触れる。
カナタの右足首が、冷えた床を一度拒む。
踏み込まない。
左足を軸にし、袖の長い作業布を机の脚へ巻く。
舞台格闘は、殴る技術ではない。
観客に危険へ見せ、役者を危険から外す技術だ。
隊員が机を越えようとする。
カナタは布を引く。
机が十センチ回り、相手の膝ではなく盾の縁へ当たる。
金属音。
隊員の注意が下へ落ちる。
その間に、巴が音声線を壁側へ移す。
請願者の若い男が、別の線へ手を伸ばした。
「切れば止まる!」
彼は刃物ではなく、倉庫の舞台鋏を持っている。
カナタは右足で蹴らない。
吊られた黒幕の引綱を左手で解く。
「幕、下ろす」
誰へともなく予告する。
黒幕が、男と機材の間へ落ちる。
厚い布が視界を奪う。
男は鋏を止める。
人がいるか分からない場所へ刃を入れられない。
「次、右」
カナタは言う。
舞台の三手予告ではない。
裏方への単純な指示。
巴が右へ音声箱を滑らせる。
治安隊員が黒幕を払い上げる。
カナタは、天井の偽月へつながる綱を踏んだ。
紙の月が二メートル下がる。
誰も傷つけない軽い大道具。
だが直径三メートルの月が通路を塞げば、盾列は組めない。
「ふざけるな!」
若い男が叫ぶ。
「舞台だから」
「これは政治だ!」
「だから、ふざける場所が要る」
「俺たちの票を芝居にするな!」
カナタは返事を失う。
その通りだった。
自分が放送を設計するほど、話す順、沈黙、画角、印札が、人の判断へ形を与える。
演出は、なくならない。
「芝居にしてる」
普通の敬語が出た。
「すみません。でも、隠していません」
男が黒幕を押しのける。
「謝って続けるのか」
「はい」
「最低だな」
「知っています」
「止めろ」
「あなたの請願も流します」
「誰が頼んだ」
「流していいですか」
男は一瞬、黙った。
「顔は出すな」
「声は」
「変えるな」
「名前は」
「受渡番号で」
「順番は」
「零番街の後」
「どうして」
「夜勤なら、先に行け」
カナタは住所札を上げた。
「零番街、どうぞ」
騒ぎの最中に、話者の声が入る。
旧客車教室の女性。
「住所がない人を、一つの空席へ押し込まないでください」
治安隊員の手が、音声箱の直前で止まる。
請願者も止まる。
止まったから同意したのではない。
次の声を、聞くことを選んだだけだ。
「零番街には、同じ家に住んでいない家族もいます。旗を持たない理由も同じではありません。一人を代表にして、来なければ全員棄権という仕組みには反対です」
カナタは、つなぎを入れない。
女性が息を吸う。
「案件ごとに、必要な人が必要な範囲だけ参加し、終わったら席を返す。それなら賛成します」
発言が終わる。
カナタは即座に、請願者の音声線へ切り替えた。
「王環の停止請願です」
勝利の間を置かない。
自分が守った放送を、決め顔で見せない。
若い男の声が、顔なしで流れる。
「地区の発言を先に聞けば、後の人間は変える。放送は公平ではない。採決まで止めろ」
零番街の話者が、受信板の向こうで聞いている。
反論しない。
巴が情報受領時刻を記録する。
この発言を聞いた後に変わる回答があれば、変わったことを残す。
午後三時五十二分。
放送線は、切れた。
治安隊ではない。
請願者でもない。
倉庫の外壁を回っていた古い銅線が、雪の重みで金具ごと剥がれた。
七番線、学塔。
次の話者が待っている。
映像板には、口元を隠さず座る老教師。隣に地域手話の確認者。質問は四問目、《どうやめるか》。撤回権の話だ。
「修理、十五分」
放送技師が言う。
「次へ飛ばす」
カナタは反射的に答えた。
巴が首を横へ振る。
《順番変更理由を、本人へ確認。》
「線、切れた」
《待つか、後へ回るか、本人が選ぶ。》
「聞けない」
《文字線は生きています。》
細い電信線で、学塔へ二択を送る。
《十五分待つ/後へ回る》
返事。
《待つ。》
「十五分、放送が空く」
《他地区は休憩。》
「全員?」
《選ぶ。》
カナタは、空白が怖い。