第162話 第七章「切符で結ぶ道」後編
鉄箱の内蓋から、小さな黄色い札が落ちた。
山吹色の糸。
《食事札。四時間ごと。運ぶ前に食べる。受取人・環玉樹。目的・倒れない。送り主・土門小麦。》
裏に時刻欄がある。
昨夜八時、空白。
午前零時、空白。
午前四時、空白。
青年が訊く。
「受取人は」
「僕」
「目的」
「倒れない」
「受けた?」
「札は」
「食事」
「送り主、いない」
「受取人がいる」
「配達じゃない」
「送り主の目的と、受取人の目的、違う?」
タマキは札を見る。
空腹を感じていなかった。
感じる前に、仕事へ押し込んでいた。
青年が食堂の棚から、塩パンを一つ取る。
「料金」
「食事札で払う」
「それ、小麦の」
「帳簿につける」
「僕の配達料から引かない?」
「交渉は食べてから」
「順番が変」
「胃は会議しない」
タマキは塩パンを受け取った。
「受領時刻」
「七時三十分」
「遅延理由」
「受取人が意地張った」
「具体的に」
「三回、食事を抜いた」
「書かない」
「じゃあ、食べるまで金具を付けない」
タマキは食べた。
塩が強い。
半分で水を飲む。
青年は留め具を取り付けず、本当に待った。
食べ終わるまで、仕事は一つも進まなかった。
午前十一時。
十九人の受渡者が、切符道を一周した。
全員ではない。
西高架の氷運びは、息子の発熱で断った。
代わりを探す前に、断った時刻を記録する。
誰も理由を要求しない規則だったが、本人が自分で書いた。
《家へ戻る。》
代わりは、市場の三一が引き受けた。
足は速くない。
荷車を押すため、両手が塞がる。
透明管を荷車の外側へ吊り、封印が見えるようにした。
「遅いよ」
タマキが言う。
「お前より年を食った」
「何分」
「年を分で数えるな」
「区間」
「四十二分」
「予定、二十八」
「雪と市場の荷下ろしを入れろ」
「十四分遅い」
「十四分分、俺の顔を見せる」
「顔は記録じゃない」
「市場じゃ記録だ」
「中央では通じない」
「なら、札を書け」
三一は受渡札へ、遅延理由を書く。
《荷車の氷を先に診療所へ渡した。原票より、溶ける。》
タマキは消さなかった。
原票が一番大事だと、道が決めてはいけない。
「配達料、減らす?」
三一。
「減らさない」
「十四分遅い」
「目的が増えた」
「高くなる?」
「診療所から取って」
「お前、冷たいな」
「氷運んだ人に言われたくない」
試験は、速さでは失敗した。
記録では成功した。
断った人。
代わった人。
途中で別の荷物を先にした人。
時計がずれた場所。
すべてが、見えるまま次へ渡った。
午後二時四分。
王環第二待合所の時計が、四分進んだ。
時刻管理班の隊員が、壁時計の裏へ鍵を入れた。
長針を四目盛り送る。
タマキは、待合所の入口でそれを見た。
「何してる」
「中央時刻へ補正します」
「前は」
「十三時五十九分」
「今」
「十四時三分」
「時間、増えた?」
「表示を正しました」
「四分、どこから来た」
「来ていません」
「時計が嘘だった?」
「遅れていました」
「時計が嘘ってこと?」
「機械に真偽はありません」
隊員の言い方は、榛名に似ている。
対象、理由、期限。
言葉を短くしても、答えが出ないことはある。
七瀬の固定撮影機が、壁時計を撮っていた。
画面内の時刻札は、別の携帯時計で十四時零分。
壁時計は、補正前十三時五十九分。
隊員が鍵を回す。
十四時三分。
同じ一秒の映像に、二つの時刻が入る。
「撮っていいって誰が言った」
隊員がカメラへ近づく。
「会場管理者です」
七瀬が答えた。
今日は遠隔確認ではなく、切符道の最後の試験を見るため来ていた。
「時計補正は業務記録です。撮影許可に含まれません」
「撮影範囲の通知には、会場時計を含むとあります」
「調整作業は個人情報ではありません」
「では、公開できますね」
「論点が違う」
「何が違いますか」
隊員は黙った。
タマキが壁時計の下へ立つ。
「補正した人の名前」
「時刻管理班、受渡番号一一」
「命令した人」
「榛名柊吾」
「目的」
「八会場の同期」
「補正前の差」
「記録不要です」
「どうして」
「正しい時刻へ直したため」
「直す前に票を入れたら」
「正しい時刻へ換算します」
「直した後に来た票は」
「表示時刻で受領します」
「同じ道なのに」
「補正前後で基準が違います」
「誰が知ってる」
「管理班です」
「運ぶ人は」
「規則に従ってください」
「読めない」
「公示済みです」
タマキは、試験用の透明管を持ち上げた。
東門から六区間を通り、十九人の手を経た白紙。
最後の受渡札に、壁時計の時刻を書く。
《十四時三分》
その横へ、切符札の時刻。
《十四時〇分》
「どっちを書くのですか」
七瀬が訊く。
「両方」
「正しい方は」
「分からない」
「時計が嘘だと思いますか」
「思わない」
「管理班が嘘を?」
「それも、まだ」
「では、何を記録しますか」
「壁時計は四分進められた。切符札は進める前の時計で書かれた。七瀬さんの映像は両方撮った」
「結論は」
「受ける人が考える」
隊員が言う。
「判断を先送りするのですか」
「運ぶのが仕事」
「先ほど、運ぶだけではないと言ったでしょう」
「目的は選ぶ。どっちの時計が正しいかは、僕が選ばない」
「都合がいい」
「都合が悪いから、両方つける」
タマキは、切符札へ新しい穴を開けた。
半円の隣へ、四角。
補正前と補正後。
二つの時刻を持つ区間。
古い保守券の価値は、完全になくなった。
新しい証拠になった。
七瀬は撮影を続ける。
「この映像を公開しますか」
「時計のところは」
「受渡者の顔も映っています」
「顔は切って」
「編集になります」
「じゃあ、最初から顔が入らないところだけ」
「その前の映像は保管します」
「公開しない?」
「本人確認が終わるまで」
「終わったら、もう一回訊いて」
「分かりました」
隊員が、壁時計の裏蓋を閉じる。
小さく、金属が鳴った。
「あなたたちは、遅れを作っています」
彼は言った。
「違う」
タマキ。
「何が」
「遅れを隠してない」
「同じことです」
「隠すのと、遅いのは違う」
「結果は無効になります」
「誰が受け取る」
「中央です」
「目的は」
「制度判断」
「じゃあ、中央が考える」
タマキは透明管を、王環第二待合所の元手荷物員へ渡した。
「受取人、名前」
「受渡番号二〇。個人名は非公開」
「目的」
「試験票の最終受領」
「時刻」
元手荷物員は、二つの時計を見る。
「壁時計、十四時五分。携帯札、十四時一分」
「両方書いて」
「どちらを先に」
「見た順」
男は書いた。
十四時五分。
十四時一分。
同じ受領へ、二つの時刻。
タマキは、自分の切符札にも同じ順で記す。
インクが、古い印刷へにじんだ。
切符には、出発地と到着地があった。
今は、その間に、四分の違う時間が乗っていた。
午後五時三十分。
旧客車教室へ戻ると、床の切符道は一周していた。
タマキの鉄箱には、新しい留め具が付いている。
左右で形が違う。
閉めると、前より大きな音がする。
かちり、ではない。
がちゃん。
怖い時に鳴らせば、旧客車の端まで聞こえる。
「うるさい」
七瀬が言った。
「記録」
「何の」
「怖い」
「今、怖いのですか」
「少し」
「何が」
「道ができた」
「できたから?」
「僕がいなくても届く」
七瀬は、質問の続きを急がない。
撮影機は下ろしている。
「いいことなのに」
タマキが自分で言う。
「はい」
「僕の仕事、減る」
「減りますか」
「十九人に分かれた」
「道を作る仕事が増えました」
「配達員じゃない」
「配達員が道を作ってはいけませんか」
「料金表にない」
「作りましょう」
「簡単に言う」
「平文は巴さんへ」
「料金、高い」
「記録協力費から払えます」
「前払い、まだ」
「交渉中です」
「遅い」
「七日以内」
「それも遅い」
タマキは、二つの時刻が書かれた切符を、床の輪の最後へ置いた。
十四時五分。
十四時一分。
正しい方へ丸を付けない。
どちらかを捨てれば、道はきれいになる。
きれいな道は、誰がどこで転んだかを忘れる。
鉄箱の新しい留め具が、旧客車の揺れで一度、がちゃんと鳴った。