第433話 第十一章「再演を中止する」前編
午後二時二十九分
紅葉カナタは、制御室へ入る前に右足の固定帯を締め直した。
痛みは六。
新しい断裂の感触はない。
歩ける。
走らない。
階段は手すり。
技能札へ書いたことを、自分だけ例外にしない。
制御室の扉は半開きだった。
中には、止まらない舞台時計。
事前映像。
放水量表示。
可動街区の位置。
観覧席の人数。
再演精度。
再演精度、三八パーセント。
事故対応の成否を示す数字はない。
「ようこそ、失敗した演出家」
八城レムの声がした。
本人は制御卓の奥にある医療観察室へいる。
右膝を固定され、寝台。
移送先の病院は受入れ準備中。
まず腫脹と血流を確認する必要があり、劇場内医療室へ運ばれた。
声は内線から。
「ようこそ、負傷した試験官」
カナタ。
「対句にしないでください」
「では、右前十字靱帯断裂疑いの試験官」
「診断確定前です」
「正しい」
「あなたの足は」
「古傷の炎症。新規断裂所見なし。医療係の触診。画像は後」
「なぜ来たのです」
「止めるため」
「放水量は下がっています」
「演目」
「再演精度は低下しましたが、事故対応を第六景として記録すれば完遂できます」
「第五景までしかない」
「追加します」
「私の失敗を、作品の新場面にする?」
「現実を記録へ取り込むことは、あなたも肯定していた」
「取り込む前に、現在の名を残す」
「全員の名簿はあります」
「役で呼んでる」
「歴史上の位置を示すためです」
「歴史に、今日の右膝はない」
内線の向こうで、短い沈黙。
「私の負傷を論拠に使わないでください」
「使わない。今日の負傷は今日の記録。岳の転倒へ混ぜない。再演の失敗を、黒雨の成功へ足さない」
「訓練を中止すれば、参加者は認証を得られません」
「補償する」
「補償で技能資格は得られない」
「その損失も認める」
「認めるだけでは、仕事へ戻れない人がいる」
「だから続ける?」
「完遂記録があれば認証は出せます」
「事故下で役を外した動きを、英雄再演の完遂として?」
「実地対応です」
「役を外したことを隠して?」
「付記します」
「付記は本文より小さい」
「なら同じ大きさで」
「結末は」
「全員避難。英雄帰還」
「英雄、誰」
「役を担った八名」
「全員、降りた」
「史実上の呼称として」
「本人の拒否より強い?」
レムは答えない。
制御卓の正面で、岳の再現映像が止まっている。
兜を上げた一人。
背後の人々は小さい。
カナタは映像停止釦を押した。
反応しない。
運営鍵が必要。
「映像は教育資産です」
「止めるだけ」
「削除ではありません」
「では止めて」
「完遂後に」
「今」
「紅葉さん。あなたは、途中で止めた舞台によって人を救った経験を、正しさとして使っている」
「使っています」
「今回は、止めたことで混乱が増えた」
「はい」
「あなたの判断も失敗した」
「はい」
「なら、継続する判断にも可能性がある」
「あります」
「なぜ拒む」
「続ける人を、役へ戻すから」
「技能札を使ったまま最終場面へ進めば」
「英雄帰還を外す?」
「訓練の中心です」
「外せない」
「はい」
「なら中止」
「二択にしているのは、あなたです」
「第三案は」
「未完を完遂として記録する」
「言葉が壊れてる」
「現実は常に不完全です」
「だから完遂と呼ばない」
カナタは放送卓へ座った。
赤い全域釦。
観覧席。
停止区画。
外部記録。
運営本部。
鍵がない。
「開きません」
レム。
「知ってる」
「何を」
カナタは技能札を取り出した。
《演出・放送》
《設備判断は技術者へ》
《説明が長い。止めてよい》
「放送技師」
観客席から入った設備技師が、扉に立っている。
「非常音声だけなら、手動線へ直結できます」
「映像は」
「無理。音声だけ」
「十分」
「運営許可は」
「ない。操作者名と時刻を残す」
「私は、仕事を失うかもしれない」
「断れます」
技師は自分の札を見る。
《場内拡声》
《低圧》
《映像不可》
《雇用上の不利益を恐れる》
最後の行は、後で足した。
「やります。ただし、目的は演出中止の宣伝ではなく、現在の事故情報と責任者の告知」
「受けます」
「あなたの台詞、私が切っていい?」
「長ければ」
「受領」
手動線をつなぐ。
舞台音楽の端子を抜く。
非常拡声へ、一本の音声。
技師が指を上げる。
三。
二。
一。
カナタは話す。
「午後二時三十六分。青灯再演劇場、演出担当の紅葉カナタです」
自分の名。
「本日の《黒雨救助記録・公開認証演習》を中止します。再開しません。代替結末を演じません」
技師が頷く。
続けてよい。
「理由。実放水事故。可動街区の予定外動作。安全装置の独立性不足。現在の避難経路と史実脚本の不一致。私が安全装置削減の全一覧を確認しないまま演出案を提出したこと」
喉が乾く。
「私は、削減の決定者ではありません。しかし、確認不足の責任があります。運営側の責任と相殺しません。参加者が役を外したことを失格として扱わず、現在使用した技能、拒否、休憩、訂正、負傷を本日の記録とします」
観覧席が静かだ。
誰かが拍手しそうな間がある。
カナタは先に言う。
「拍手は求めません。多数決もしません。これは成功宣言ではなく、中止と失敗の報告です」
手が上がらない。
静かなまま。
「認証を失う者、賃金を失う者、負傷した者、観覧者、技術者への補償窓口を本日中に掲示します。私の名を使う全演目を、期限を決めず中止します。再開予定はありません」
技師が目を上げる。
カナタは続ける。
「現在の行動。役名ではなく技能札へ従ってください。南は通行不可。西階段閉塞。東市場高台へ、歩ける者は二列。搬送は医療指示。工具班は巻上停止へ。観覧席は、退出、座席待機、技能申告を選べます。どれも演習への同意にはなりません」
放送を切る。
拍手はない。
泣き声が一つ。
怒鳴り声が二つ。
質問が多い。
それが、現在の返事だった。
「完遂記録が失われました」
レムの内線。
「はい」
「私の研究も」
「失われてない。失敗として残る」
「失敗の研究へ価値を置くのは、結果を知っている者です」
「価値を決めない。消さない」
「私は、事故を起こした試験官として固定される」
「あなたは、型を信じて運用した。境界で右膝を負傷した。負傷後も継続を主張した。再演研究の技能がある。全部を別に残す」
「それでは、誰も私を理解できない」
「一行で理解されたい?」
沈黙。
「いいえ」
「私も」
制御室の技術卓へ、轟から通話が入る。
「放水、三分の一。排圧路、詰まり。巻上、まだ動く」
「止め方」
カナタ。
「西巻上塔の主制動。停止区画内の手動だけじゃ足りん。外側の動力室、時刻制御で落とす」
「誰が」
「イオが行く。凱同行。技師二」
「イオの能力」
「境界外で使える」
カナタは時計を見る。
午後二時四十三分。
零時まで、九時間余り。
イオの《終業刻》は、設定した終了時刻に作業系統を強制停止する。
止める対象、時刻、担当範囲が明確でなければ働かない。
可動街区の巻上機は、事故後も微速で動いている。
機械を分解するには十時間以上。
人が残る区画を固定しなければならない。
「今、使えば」
カナタ。
「停止できるか未確認」
轟。
「能力に合わせるな。機械側の準備が先」
「受領」
事故対応は、夕方まで続いた。
中止放送の直後、最初に制御室へ届いたのは非難ではなかった。
「三列目、聞こえません」
観覧席の読み上げ担当。
「四列目は聞こえた。五列目、子どもが泣いてる。六列目、出口へ動き始めた」
「中止は届いた?」
カナタ。
「言葉は。理由が途中」
「短くする」
「短くしすぎると、誰の責任か消えます」
「では二段」
技師が提案する。
「今の行動は短く。責任説明は紙と後続音声」
「受領」
場内へ、まず三行。
《演目は中止》
《現場の指示だけを聞く》
《退出・待機・技能申告を選べる》
その後で、カナタの名と確認不足。
運営の安全装置削減。
放水事故。
役札運用停止。
説明を一つの長い名台詞にしない。
観覧席の各列へ、紙が回る。
退出希望者は北通路へ集まりかける。
しかし、北通路の幅は一度に四人。
車椅子二台が向き合えば止まる。
「先着順」
警備員が言いかける。
「理由別」
七瀬。
「医療。帰宅。家族確認。技能。待機。全部、先着ではない」
「順番を誰が」
「医療は医療。帰宅は交通。家族は限定照合。通路容量は警備。私たちは人数を照合」
「決定者が多い」
「一人にすると、全部の事情を同じにする」
北通路の手前へ、五枚の札が下がる。
《医療》
《帰宅》
《家族確認》
《技能申告》
《待機》
人は列を移る。
一度医療へ並び、薬を受け取った後、家族確認へ戻る。
帰宅を選んだが、交通手段がなく待機へ変える。
技能申告したが、入区せず観覧席の誘導だけを選ぶ。
変更のたび、人数は増える。
「合計が観客数を超えます」
運営係。
「履歴の数」
七瀬。
「現在人数と分ける」
「報告が複雑に」
「現実が報告書へ合わせて一回しか選ばないなら、簡単」
午後二時五十二分。
六十四人の参加者名簿に、三つの空欄があった。
現在位置を照合できない。
「行方不明三」
進行係が言う。
「まだそう書かない」
タマキ。
「名簿にいない」
「役名と実名の重複」
一人は《市場の母》として医療名簿へ。
一人は本名で観覧席の家族確認へ。
一人は技能札の呼称だけで、黄区画の休憩席へ。
「本人確認」
七瀬。
《市場の母》は、役名で呼ばれることを拒否する。
「実名、公開しない」
「現在位置だけ」
「東医療受付、座席番号で」
二人目は、本名が同姓同名の観覧者と重なっていた。
「生年月日」
「言いたくない」
「参加札の結び色」
「青」
「左手の擦過傷」
「ある」
「限定照合」
三人目は《分からない》とだけ書いた技能札を持っている。
「名を言う?」
タマキ。
「今は嫌」
「呼び名」
「青三」
「現在位置、黄休憩席。戻り希望」
「まだ」
「受領」
三人は、行方不明ではなかった。
しかし、名簿の空欄が間違いだった事実は残す。
《役名混入一》
《同姓同名一》
《本人希望呼称一》
《照合完了 二時五十九分》
「見つかったから消す?」
進行係。
「消さない」
七瀬。
「次の名簿で同じ三つが起きる」
午後三時五分。
カナタは舞台時計の停止を求めた。
「既に演目は中止しました」
時計担当者。
「針が進んでいる」
「事前時系列の記録です」
「現在の中止時刻へ止める」
「歴史時刻が失われます」
「別時計へ残す」
「舞台時計は展示物です」
「誰が止める」
「設備管理者」
「あなた?」
「担当です」
「止めるか」
担当者は、時計を見た。
針は、英雄帰還予定の時刻へ近づいている。
「私は、この時計を十年整備しました」
「止めたくない?」
「止めれば、故障と見られる」
「中止表示を付ける」
「それでも、動く物を止めるのは」
「拒否できる」
「代わりの人が止める?」
「資格のある人を探す」
担当者は工具を取る。
「私が止めます。理由は演出担当の命令ではなく、現在時刻と事前時刻の混同防止」
「受領」
「停止時刻」
「二時三十六分」
「もう過ぎています」
「針を戻す?」
「戻せば、時計がその時刻に止まったように見える」
「では」
「現在の針を止め、表示へ《中止宣言 二時三十六分/時計停止 三時七分》と二つ書く」
カナタは一瞬迷う。
物語なら、時計は中止の瞬間で止まる方が美しい。
「正しい」
カナタは言った。
「美しくない?」
担当者。
「正しい方が、後で美しくされにくい」
午後三時七分。
舞台時計を停止。
表示板へ二つの時刻。
後日、機構を調整し、針は中止時刻へ置く予定と記す。
現在、勝手に物語へ合わせない。
午後三時十分。
西巻上主軸の準備表が届く。
人力制動。
排圧。
荷重移動。
停止区画外の時刻制御。
イオは紙を読む。
「能力を先に使えば、止まる?」
カナタ。
「終わる時刻は作れる。壊れず止まる準備は別」
「零時まで」
「知ってる」
「焦る?」
「焦って、機械を私の能力へ合わせたくなる」
「私が止める?」
「何を」
「その考え」
「止められない。確認して」
イオは準備を四段へ分ける。
一、全員退避。
二、荷重を北と南へ分散。
三、制動爪二本を手動位置へ。
四、停止時刻を指定。
「能力は四番目」
「はい」
「四番目がなくても」
「手動遮断。時間は増える。零時を越える可能性」
「能力を使わない選択」
「残す」
「誰が決める」
「私。技師。荷重確認。退避確認。どれか一つ欠けたら使わない」
「最後なのに?」
「最後だから使う、は条件じゃない」
カナタは、自分が演目を最後までやらせようとした理由と同じ言葉を見つける。
最後。
記念。
再演。
終わりが近いと、人は不完全な準備へ意味を足す。
「私も確認に入る?」
「設備技能」
「ない」
「放送。中止後の場内連絡。そこ」
「受領」
イオは凱へ地図を渡す。
「持って」
「読めない」
「持つだけ。私が見る」
「なぜ俺」
「右腕へ工具。左手は時計。口は説明」
「全部埋まっている」
「そう」
「俺の技能は」
「地図を持てる」
「読めなくても?」
「落とさなければ」
凱は地図を受け取る。
「技能が小さい」
「今日の主題」
二人は動力室へ向かう。
途中、凱が大きな床矢印へ従い、旧配置へ曲がる。
「違う」
イオ。
「矢印が」
「昨日」
「現在図は」
「あなたが持ってる」
凱は紙を見る。
上下が逆。
「読めない」
「言った」
「案内を」
近くの技能札。
《現在配置を歩いた》
参加者へ頼む。
「動力室まで案内できるか」
「できます。階段は遅い」
「俺も」
「なら一緒」
元王と元能力者と、名前の大きくない案内者が、同じ遅さで歩く。
舞台の中止は、事故の終わりではなかった。
中止したからこそ、誰が時計を止め、誰が名簿を直し、誰が機械を止めるかを、役ではなく決め直す必要があった。
午後三時十二分。
西階段から最後の待機者六人を、東市場へ移す。
三時四十九分。
南放水路の水深が三十一センチまで下がる。
四時二十分。
負傷者、医療搬送七。
うちレムは右膝靱帯損傷疑い。
重篤者なし。
十夜は脈拍確認と搬送記録だけを担当し、競技動作をしない。
五時五分。
六十四人全員の現在位置を照合。
見学者から入区した二十三人。
観覧席側で誘導へ残った十一人。
途中退出者。
待機者。
全て別名簿。
英雄帰還場面は、始まらない。
舞台時計の機構は、午後三時七分で止まっている。
カナタが中止を放送してから、三十一分後。
表示板には、中止宣言と機構停止の二つの時刻が分けて書かれた。
事前映像も、兜を掲げる直前で止まる。
夕方から夜へ、技術作業が残る。
可動街区の住宅模型は、傾いたまま固定されている。
巻上機の主軸が熱を持つ。
制動爪が半分しか入らない。
午後八時、夜間作業へ残る人数を再確認した。
参加者六十四人のうち、残留希望は二十九。
医療搬送七。
帰宅十六。
宿泊待機十二。
「合計」
タマキ。
「六十四」
「残留二十九の中に、医療受付へ行った人が三人」
「重複」
「現在位置は」
「残留二十六、医療三」
「履歴は二十九」
「分ける」
夜になると、数字の間違いは疲労の顔をして来る。
轟は、夜間作業へ残る二十六人をさらに分けた。
巻上準備、八。
排水、六。
見回り、四。
記録、四。
食事、四。
「食事も作業?」
運営係。
「腹が減った奴が、制動爪へ手を出す」
轟。
「厨房担当は演習外です」
「今は事故作業」
小麦はこの場にいない。
共同食堂から届いた鍋と、観覧席売店の乾パンで、四人が温かい汁を作る。
英雄の祝宴ではない。
塩分。
水分。
アレルギー表示。
交代時刻。
凱は食事班の札を読む。
「卵なし。豆あり。塩分制限分、二」
「誰のため」
「公開しない」
「受取場所」
「医療受付」
「受領」
イオは動力室の前で、三度目の準備確認をした。
「制動爪一本目」
「手動位置」
「二本目」
「半分。軸温度が高い」
「能力時刻を遅らせる」
技師が驚く。
「零時へ近づきます」
「今使えば、爪が入らない」
「能力が止めれば」
「時刻へ抵抗を作るだけ。固定は人」
「残り」
「三時間五十四分」
「焦らない?」
「焦ってる」
「見えません」
「同じ確認を三回してる」
「慎重では」
「焦ると確認を増やす癖」
「悪くない」
「人を疲れさせる」
イオは、四度目を自分一人で見に行かない。
「次の確認、別の人」
「誰」
観客席から入った元設備技師が手を上げる。
「巻上機は専門外。制動爪の位置確認なら」
「受ける。私の数値を見ずに先に測って」
「盲検?」
「言葉が大きい。ただの別確認」
二人の測定。
イオ、挿入四十八ミリ。
元技師、四十六。
「差二」
「許容」
「再測定しない?」
イオは、したい。
「しない。二ミリ差を残す。荷重判断は低い方」
「受領」
午後九時十二分。
レムの病院から、手術前の固定が完了した連絡。
午後九時四十分。
帰宅者十六人の到着確認。
家へ戻らず、別の宿泊先へ変更した人が一人。
「帰宅失敗?」
記録係。
「本人変更」
タマキ。
「帰宅と書いた」
「目的は安全な夜。家だけじゃない」
「本人へ確認」
受領先から返事。
《到着》
《行先変更は本人希望》
《所在非公開》
「受領」
午後十時十五分。
舞台時計の表示板を修正。
《中止宣言 二時三十六分》
《機構停止 三時七分》
《針位置は展示上、中止時刻へ調整予定》
カナタは《予定》へ線を引く。
「なぜ」
時計担当。
「調整するか、まだ決めていない」
「見た目が」
「今の針を残す案もある」
「二つの時刻が見えます」
「その方がいいかもしれない」
「いつ決める」
「事故調査と、展示を受ける人の意見後」
「英雄の帰還時刻へは戻さない?」
「戻さない」
午後十時五十八分。
巻上周辺の退避確認。
一人、見つからない。
工具返却をしていた設備員が、南倉庫へ残っていた。
「呼び出し」
「音声届かない」
「伝令」
タマキは能力を使えない停止区画へ入る。
「二人」
凱。
「誰」
「現在配置を歩いた案内者」
二人で行く。
南倉庫。
設備員は、借りた六角レンチを棚へ戻していた。
「今?」
タマキ。
「所有者が」
「返却期限、事故後」
「失くすと」
「人が先」
「分かってる。でも、借りた物を持ったまま帰れない」
タマキは返却札を書く。
《一時保管》
《本人退避》
《返却未了》
「未了でいい?」
「嫌だ」
「死ぬより」
「比べるな」
「比べない。今は出る」
設備員は棚から離れる。
退避確認をやり直す。
午後十一時二十二分。
巻上周辺、零。
能力の最後の発動より前に、返し切れない工具と、帰り先を変えた人と、二ミリ違う測定値が残った。
完璧な終了条件ではない。
人を残さないために必要な不完全だけを抱え、零時へ向かった。
午後十一時三十三分。
カナタは動力室へ行こうとして、右足を止めた。
止めたのは意思ではない。
足首が、先に止まった。
腫れは朝より強い。
新しい断裂所見はない。
冷却、圧迫、挙上。
医療係が書いた三つを、どれも守っていない。
「責任者が現場へ行かなくてどうする」
「行く責任と、行かない責任があります」
十夜が言う。
自分は脈拍確認の椅子から立たない。
胸の機器へ負担をかけない範囲で、帰って来る作業員の脈と休息を記録している。
「格好いい」
カナタ。
「医療指示です」
「さらに格好いい」
「褒めると従わない人に見えます」
「もう見えてる」
イオから伝言が来る。
《演出担当は制御室待機》
《中止後の放送窓口》
《動力室へ不要》
「不要」
カナタは読み上げる。
「強い言葉です」
十夜。
「必要ないと言われると、役を外された気分になる」
「外したでしょう」
「自分で外すのと、他人に外されるのは違う」
「では、拒否しますか」
カナタは右足を床へつける。
痛み。
昨日までなら、それでも歩く場面を作った。
観客がいなくても、自分の中の観客へ見せた。
「受領する」
制御室の椅子へ戻る。
右足を箱へ載せる。
冷却材を巻く。
「責任を持つって、全部の場所へ行くことじゃないんだな」
「全部へ行く人は、たいてい記録へ遅れます」
「名言」
「不整脈患者の実務です」
カナタは、動力室へ渡す紙へ署名した。
《現場判断――水科イオと設備技師》
《中止放送と外部説明――紅葉カナタ》
《医療判断――医療係》
《この分担は免責ではない》
最後の一行だけ、少し字が大きい。
演出家の癖は、能力がなくても残る。
午後十一時四十一分。
イオは外側動力室へいた。
停止区画の黒い帯を越えた場所。
左前腕の真鍮器具に、弱い反応が戻っている。
能力は残っている。
十二月一日零時まで。
「終了時刻」
技師。
「二十三時五十八分三十秒」
イオ。
「零時ではなく?」
「惰性三十秒。零時までに完全停止」
「対象」
「西巻上主軸。補助排水は含めない。観覧席照明は含めない。医療室も含めない」
「担当」
「私が終了を指定。技師二人が制動爪。轟が停止区画側の荷重確認。凱が全員退避を復唱」
「失敗時」
「能力が止まらなければ、手動遮断。人は先に離す」
凱が名簿を読む。
「巻上周辺、退避完了。保守床、零。住宅模型内、零。医療室は別系統。停止してよい」
イオは止まった時計を一つ、主軸の銘板へ結ぶ。
終業刻〈ラスト・シフト〉。
能力名を口にする。
最後の実用発動になるかもしれない。
言わない。
事実だけで足りる。
「西巻上主軸。十一月三十日、二十三時五十八分三十秒で終了。再開は、機械検査と新しい担当者の署名まで不可」