第523話 第八章「カナタの無観客演説」前編
観客が減る音はしない。
劇場なら、椅子が鳴る。
扉が開く。
足音が遠ざかる。
放送では、数字だけが減る。
音のしない退出は、役者の想像力をよく働かせた。
たいてい、悪い方向へ。
四月二十五日、午後一時三十二分。
放送所前の廊下が、仮設調整室になった。
保守端子。
紙帯表示。
庁内音声管。
外部へつながる細い予備回線一本。
映像はない。
視聴側には、正式文と平文が交互に表示される。
声だけが乗る。
カナタは床に座る。
右足首へ冷却布。
靴は脱いだ。
足を隠さない。
英雄が傷を隠す必要はない。
そもそも英雄役ではない。
塩見が小さな紙を持って来た。
《接続推移》
カナタは受け取らない。
「見ない約束」
「設備判断に必要です」
「何の」
「予備回線を維持するか。接続が少なければ、別の緊急通信へ回す提案が出ています」
「何人」
「見ない方が」
「判断に必要なら、言って」
塩見は紙を読む。
「開始時、八千四百十二」
カナタの喉が、わずかに開いた。
八千。
舞台なら満席を二回。
「放送所封鎖時、二千六」
四分の一。
「廊下回線へ移行後、八百十一」
十分の一。
「現在、二百七十一」
数字は、顔を持たない。
二百七十一人が、何をしながら聞いているか分からない。
煮物を焦がしているかもしれない。
薬を飲んでいるかもしれない。
怒っているかもしれない。
音を切ったまま画面だけ見ているかもしれない。
「回線、切られる?」
「三百未満で、中央予備回線の優先順位が下がります」
「規則」
「はい」
「誰が作った」
「放送運用委員会」
「名前」
「七人」
「今は、その話を増やさない」
「接続を戻せれば」
「戻す?」
「あなたなら」
塩見は、そこで言葉を止めた。
人気役者なら。
面をつければ。
声を張れば。
予告を置けば。
客は戻る。
カナタ自身も、そう思った。
面の箱は、放送所の中に残している。
封印された機材と一緒。
だが、面がなくても役者は役者だ。
声の最初を半拍落とす。
聞き手が次を待つ場所で、息を吸う。
難しい命令名を、恐怖ではなく謎へ変える。
彼は、そういうことができる。
「次、何番」
巴が左手で板を示す。
《給水群七番》
正式文。
《指定給水拠点における能力反証症状者への時間帯別優先使用措置》
平文。
《決まった時間だけ、反証症状のある人を先にする》
カナタは、原稿を受け取る。
声を作りかける。
「水は――」
最初の一音に、舞台の響きが入った。
塩見が顔を上げる。
廊下の職員も。
聞く姿勢が変わる。
カナタは、続けなかった。
朝が、黒い杖をついて廊下の端から来る。
「今、演じました」
「一音だけ」
「十分です」
「何が」
「水を、人が見たくなる物語へ変えた」
「見てもらわないと、回線が切れる」
「回線を守ることと、支持を集めることを分けてください」
「分けたら、回線がなくなる」
「誰も見ていなくても、記録は残ります」
「誰も見なければ、持ち主は名乗らない」
「一人が見る可能性はある」
「二百七十一人」
「数字を見た?」
「判断に必要だった」
「今、その数字へ話そうとした」
「悪い?」
「一人へ話す、と言いました」
「一人を二百七十一集めた」
「それは、多数です」
「あなたに言われたくない」
廊下の空気が止まる。
朝は、怒らない。
「はい」
「否定しない?」
「私は、多数を安全弁に使いました。だから、今のあなたへ同じ危険を指摘できます」
「経験者だから?」
「加担者だから」
カナタは冷却布を巻き直す。
足首の熱が、手へ移る。
「回線が切れたら」
「紙帯を残す」
「紙帯を誰も読まなければ」
「保管者の名前を残す」
「保管者も読まなければ」
「それでも、あなたが演じて支持を集めなかった事実は残る」
「地味な慰め」
「地味な仕事です」
「役者へ頼んでおいて」
「役者だから頼みました」
「何を」
「見られなくても、言葉を終わらせる技術」
カナタは、朝を見る。
官僚の顔。
杖。
左右で違う歩幅。
客席を知らない人間の言葉ではない。
朝は三月、千二百四人の歩幅の中にいた。
「一人へ向ける」
「はい」
「誰」
「給水群七番を更新した人」
「名前が分からない」
「だから、空席です」
カナタは、見えない椅子を一脚だけ置く。
八千ではない。
二百七十一でもない。
一脚。
「もう一度」
開始し直す。
声を響かせない。
「給水群七番。決まった時間だけ、反証症状のある人を先にする命令です」
五秒。
「この命令で、水を先に受け取った人へ返金や謝罪を求めているのではありません」
五秒。
「更新に使われた報告は、南二号給水所の待機人数と、中央診療所の反証症状記録です。報告者は、更新への使用に同意したか確認中です」
五秒。
「この命令を更新した方へ。あなたの職名ではなく、名前と、続ける理由、止めた時に困る人、拒否窓口を知らせてください。今すぐ決められなければ、決められないと答えてください」
五秒。
「見ていなければ、この言葉は記録へ残します」
終える。
塩見が接続数を見ている。
カナタは訊かない。
紙帯が、静かに伸びる。
午後二時四十八分。
給水群は十二枚目まで終わった。
接続数を、カナタは訊かなかった。
塩見も言わない。
それでも、予備回線の音が軽くなる。
多くの端末がつながっている時、回線には低い唸りがある。
今は、紙の擦れる音の方が大きい。
移動群一番。
《指定区域外への移動に際し、能力履歴者は移動先確認を受ける》
カナタが平文を読む。
「以前、または現在、能力を持つ人が区域を出る時、行き先を確認する命令です」
質問。
《家族に居場所を知られたくない》
「行先の公開範囲は、命令本文に書かれていません」
《じゃあ誰が見る》
「移動統制局、出発地窓口、到着地窓口。ほかの部署へ転送されている例もあります」
《名前》
「閲覧した人の氏名は、一部の端末で残っていません。調査中です」
《役に立たない》
「はい」
カナタは、役に立つふりをしない。
《何で役者が答えてる》
「役所の人だけが話すと、職名で終わるから」
《役者なら名前?》
「私は、紅葉カナタです」
《知ってる》
「知っている人の名前も、言い直します」
《人気取り》
「今日は、人気を取りません」
《取れなくなった?》
カナタの喉に、古い傷が触れる。
歌唱も予告演技も休止した。
拍手のない舞台を選び、失敗もした。
質問は、正しいところを刺す。
「取れない日もあります。取れる日も、取らない仕事があります」
質問者は退出した。
理由は出ない。
カナタは、次の札へ進む。
移動群二番。
三番。
四番。
四番は、病院から共同宿舎へ戻る人の経路指定。
止めれば、本人が自由に帰れる。
同時に、段差の少ない経路と受入れ担当が消える。
平文を読む巴の左手が遅くなる。
右人差し指は使っていない。
それでも、長時間の左手筆記で手首が疲れる。
カナタが交代する。
「休憩」
巴は首を横へ振る。
《次の一枚まで》
「今」
《命令?》
「出演条件」
《契約にない》
「追加料金」
巴が、ようやく笑う。
筆談板へ書く。
《十五分。平文担当をカナタへ委任。誤訳時は私が訂正する》
「受領」
巴は右手を膝へ置き、左手首を温める。
カナタが平文を読む。
短くする。
短くしすぎない。
「移動群五番。能力履歴のある人が、泊まる場所を変える前に知らせる命令です」
正式文の条件。
対象区域。
期限。
例外。
一つずつ。
塩見が紙を差し出す。
接続数。
カナタは首を振る。
「回線判断」
紙へ書いてある。
《現在63》
二百七十一から、六十三。
中央予備回線の基準、三百未満。
放送運用委員会から、終了勧告。
《接続数が少ないため、紙記録へ移行し回線を解放せよ》
カナタは、紙を朝へ渡す。
「誰の勧告」
朝。
「運用委員会」
「氏名」
「七名。署名あり」
「期限」
「十五分」
「拒否窓口」
「同委員会事務局」
「放送を続ける理由」
塩見が答える。
「命令保有者へ名乗る機会を提供するため」
「六十三人の中にいる保証は」
「ない」
「録画自動再生もない」
「ない」
「紙記録だけでも、後から読める」
「はい」
朝は、カナタを見る。
「決めますか」
「私一人?」
「説明進行者としての判断。回線技師の判断は塩見さん。文書担当は巴さん。記録担当は七瀬さん。全員が同じである必要はありません」
塩見は言う。
「私は、予備回線をあと一時間維持できる。別の緊急通信が入れば、即時切替」
巴。
《私は平文を続ける。紙記録だけでもよい》
七瀬。
「映像なし。音声と紙帯を別保管。回線の有無に関わらず記録継続」
カナタは、六十三という数字を頭から追い出す。
「一時間、続ける」
「理由」
「まだ一人も、自分が更新者だと放送へ名乗っていないから」
「一人名乗ったら終わる?」
「終わらない。七十二本ある」
「では、理由にならない」
朝は厳しい。
カナタは言い直す。
「十五分では、移動群五番の正式文と平文、質問、無回答の時間を終えられない。現在説明中の一件を完了し、その後は技師の回線判断へ従う」
「受領」
塩見が一時間維持の判断を、三十分へ縮める。
「一件が長引いた場合」
「三十分で切る」
「受領」
カナタは移動群五番へ戻る。
見えない椅子、一脚。
「この命令を更新した方へ。あなたが、宿泊先変更の届出を安全に必要だと判断したなら、名前と理由を――」
音声管が鳴った。
塩見が受ける。
「外線、医療維持局」
カナタは話を止める。
「放送へ接続しますか」
相手の答えを待つ。
塩見。
「本人は、音声公開に同意。氏名公開。所属公開。家族情報非公開」
「つないで」
声が入る。
震えている。
《医療維持局、病床調整係、佐橋由梨です》
カナタは、見えない椅子を佐橋へ向ける。
「佐橋さん。何を伝えますか」
《医療群六番の更新に、私の病床数報告が使われています》
「更新した?」
《していないと思っていました》
「今は」
《私の報告が、安全認定の条件になった。用途拒否欄がありました。昨日、拒否票を入れました。でも、拒否前の更新が一回残っている》
「何を選びますか」
《医療群六番について、私の報告を根拠にした更新認定を撤回します》
「命令全体を止める?」
《私には決められません。私が入れた病床数を、更新理由に使うことだけを撤回します》
「患者の診療は」
《通常診療と、本人が選んだ検査は続けます》
「撤回によって困る人は」
《能力反証の急性症状がある人の優先枠が、一つ減る可能性があります。代わりに、診療所内の医師が個別に緊急順位を判断します》
「その担当者」
《栗原医師。本人確認済み。栗原先生の署名は別紙です》
「拒否窓口」
《医療維持局一階、病床調整窓口。私、佐橋由梨》
「期限」
《撤回は今から。通常診療への移行確認は本日午後六時まで》
「なぜ放送へ」
佐橋は、息を吸った。
《私は、数字を入れただけだと答えました》
「はい」
《数字を入れたことと、命令を更新したことは同じではない。でも、数字が使われたと知ってからも、自分は更新者ではないと言い続けるのは違うと思った》
「誰かに言われた?」
《放送を見ました》
「何人目として?」
《知りません》
「支持しますか」
《何を?》
「この放送を」
《支持のために見ていません》
カナタは、そこで初めて少し笑った。
「正しい答え」
《答えを決めないでください》
「失礼」
《撤回書を送ります》
「送付方法」
《紙と端末。端末時刻は午後三時二分》
「紙の時刻」
《署名時刻は午後三時一分四十秒》
「受領者」
《中央危機調整局、芒野澄子さん》
「芒野さんは受領する?」
《確認済み》
「受領」
回線が切れる。
塩見の前の端末へ、撤回通知が届く。
医療群六番。
更新根拠、二部署から一部署へ。
自動更新条件を満たさない。
次の期限で失効予定。
誰も拍手しない。
カナタも、勝利の声を上げない。
塩見の端末へ、放送運用委員会から新しい表示案が届いた。
《進捗 一/七十二》
《最初の撤回成立》
《責任者の名乗りが始まりました》
「出しますか」
塩見。
カナタは表示案を読む。
「佐橋さんの撤回で、医療群六番は終わった?」
朝。
「終わっていません。次の期限までは有効です。通常診療への移行確認も残っています」
「じゃあ、一/七十二じゃない」
「一人が、自分の報告を更新根拠へ使うことを撤回した」
「長い」
「短くすると、命令全体を止めたように見えます」
カナタは外線をもう一度つなぐ前に、佐橋へ確認を送った。
《先ほどの音声を再放送し、進捗表示へ使用してよいか》
返答。
《音声再放送は拒否。氏名、所属、撤回範囲、時刻は表示可。成功例、勇気ある第一号、連鎖の始まり等の表現は拒否》
「役所より注文が多い」
カナタ。
「本人の条件です」
真琴の庁内線。
「守ります」
表示を作り直す。
《医療群六番》
《佐橋由梨は、病床数報告を自動更新の根拠へ使用することを撤回》
《命令全体の停止ではない》
《通常診療への移行確認 午後六時まで》
《音声再放送なし》
画面の半分を使う。
「長い」
塩見。
「長いまま出して」
「接続端末によっては、三画面に分かれます」
「一画面目だけ見て出た人は」
「《撤回》だけ見る」
「順番を変える」
一画面目。
《命令全体の停止ではない》
二画面目。
《佐橋由梨が、自分の病床数報告の使用を撤回》
三画面目。
《移行確認と期限》
「否定から始める?」
塩見。
「勝ったと思わせる方が、客は残る」
「今日は、客を残さない仕事」
表示が出る。
接続数が、五十八から四十九へ減った。
塩見は紙へ書く。
カナタには見せない。
質問が一つ来る。
《何で喜ばない》
カナタは答える。
「撤回した人が一人名乗りました。これによって、命令の一つの更新根拠が外れます。同時に、急性症状のある人を通常診療へ戻す仕事が残っています。喜ばないよう命令されているのではありません。私は、今、喜ぶ台詞を選びません」
《嬉しくない?》
「嬉しい部分はあります」
《言えば》
「私の嬉しさを、佐橋さんの撤回の意味にしません」
《面倒》
「はい」
質問者は退出した。
カナタは追わない。
塩見が、進捗表示案の《一/七十二》へ取消線を引く。
「委員会へ、理由を返します」
「誰の名で」
「塩見檀。表示担当として」
「私も」
カナタは隣へ署名する。
「紅葉カナタ。説明進行者。数え方を拒否」
「拒否して、何を出す」
「佐橋さんが選んだ範囲」
多数へ見せる数字ではなく、一人が戻した境界を出す。
放送は、初勝利の物語を作らなかった。
「一人、名乗りました」
朝。
「六十三人の一人?」
「分かりません」
「数字の成果にしない」
「はい」
塩見が接続数を見る。
「五十八」
名乗った後、さらに減った。
カナタは、移動群五番の説明へ戻る。
放送が成功したようには、聞こえない声で。
午後三時十二分。
佐橋の撤回書が、紙送り口から出た。
芒野澄子の受領印。
午後三時二分二十秒。
端末画面にも同じ時刻。
ところが、医療群六番の直前更新紙には、午後三時一分五十八秒とある。
佐橋が撤回書へ署名する前に、次の更新が成立していた。
「早い」
カナタ。
「何が」
塩見。
「命令が、人より」
「自動更新です」
「そういう意味じゃない」
朝が紙を並べる。
佐橋署名。
芒野受領。
自動更新。
「更新認定は、午後二時五十九分に二部署そろった可能性があります」
「紙が出たのは三時一分」
「印刷待ち」
「撤回は三時一分四十秒」
「認定後」
「なら、合ってる?」
真琴が庁内線で答える。
「端末ログでは、医療維持局の認定入力が午後三時二分四秒です」
カナタは、紙を見る。
更新紙、三時一分五十八秒。
認定入力、三時二分四秒。
原因が、結果より六秒後にある。
「未来から命令?」
「端末時刻の同期差です」
朝。
「六秒」
「部署ごとに時計がずれています」
「同じ中央標準時じゃないの」
「同期処理の時刻が違う」
「命令の前後、決められない?」
「端末表示だけでは」
塩見が、放送所の機械記録針を指す。
「ここには紙帯があります」
「放送の時刻だけ」
「庁舎全体の搬入鐘は、屋上の機械時計から来る」
朝が顔を上げる。
「文書庫員も言っていました」
「屋上?」
カナタ。
「中央機械時計室。端末へ合わせていない、ぜんまいと重錘の時計です」
「なぜ合わせない」
「停電時の基準。端末が止まっても、紙帯へ刻む」
「原本の前後が分かる?」
「搬入鐘、印刷機作動、更新端末受領の電気接点が、機械時計の紙帯へ別々の穴を開けます」
「その紙帯は」
「屋上」
塩見が言う。
「ただし、毎日午後四時に中央標準時へ同期補正します」
「今、三時十二分」
カナタ。
「あと四十八分」
「補正したら」
「現在時刻は合います。過去の紙帯は残ります」
「本当に?」
「通常は」
朝が、その言葉へ反応する。
「通常でない可能性」
「時刻差が大きい場合、紙帯へ補正線を入れます。古い穴は消えません」
「紙帯を交換したら」
「交換者の署名が必要」
「職名?」
「機械時計守」
「名前」
塩見は知らない。
真琴の庁内線。
「監査補助に入っている真壁梓さんが、時計室の構造を知っています」
「呼べる?」
「連絡中」