第227話 第四章「追走車」前編

三月二十一日 午後一時二十六分

 走っている車の屋根では、前へ進むだけで後ろへ下がる。

 竜胆迅は、第一号車の空荷台から第六号車を見た。

 距離、百四十メートル。

 速度、四十七。

 右側の並走路を、塩轍の二台が上がってくる。

 路面は同じ高さではない。

 援助車列の本線が、古い塩堤の上。

 並走路は、その外側を削って作った低い作業道。

 高低差一・八メートル。

 幅、車一台半。

 追走車の屋根には、荷締め帯が四本張られている。

 人が掴むための帯ではない。

 掴めるように張った帯だった。

「来る」

 迅が言った。

 第一号車の運転手、峰岸環奈が鏡を見る。

「どこへ」

「六号車」

「食料?」

「違う」

 第六号車の荷台前方。

 蓑原梢が、金属箱を床へボルト留めしている。

 積荷目録。

 車両別の申告量。

 寄贈団体の証明書。

 通行許可の写し。

 移動保管書の原本。

 食べられない。

 燃やしても暖かくない。

 迅は朝、それを「紙」と呼んだ。

 塩戸景は、食料へ一度も手を伸ばしていない。

「一号車、六号車へ寄せて」

「右? 左?」

「左。敵と逆」

「六号車の逃げ道を塞ぐ」

「敵は右から来る」

「水穴が左前」

「何メートル」

「二百」

「百二十まで寄せる」

 峰岸は返事をしなかった。

 ハンドルを二度だけ切る。

 第一号車が、車列の外へ出る。

 空荷の車体は軽い。

 荷を積んだ車より、風に押される。

 迅は荷台の手摺へ赤い結び目を巻いた。

 七つ。

 右の掌には、三週間前の裂傷が薄い線で残っている。

 皮膚は閉じた。

 強く握ると、線の端がまだ突っ張る。

「迅」

 七瀬の声が無線から来た。

『何を見てる』

「箱」

『人は』

「三人」

 蓑原。

 荷役の男。

 運転席の柿沼リサ。

『敵車は二台。屋根上四人』

「見えてる」

『撮る。顔より手、袋より固定具を優先する』

「何で俺に言う」

『あなたが、撮られたくない人の顔を前へ向けるから』

「しない」

『塔でも言った』

「今回はしない」

『記録した』

 回線の向こうで小麦が言う。

『空の棚も撮って』

『今、棚はない』

『ないものを撮る練習』

『哲学に見えるから嫌』

『じゃあ、値札』

『それは撮る』

 迅は無線を切った。

 会話は、落ちない場所でするものだと思う。

 けれど、七瀬は落ちそうな時ほど、どう撮るかを決める。

 塩轍の先頭車が、並走路の盛り上がりへ乗った。

 車体が跳ねる。

 屋根上の一人が、帯を使って身体を振った。

 鳥飼至。

 油染みのついた作業着。

 右手に、先端を丸めた荷鉤。

 青い旗を盗った少年だ。

「紙箱、六号。前から二本目!」

 鳥飼が叫ぶ。

「聞こえてる」

 迅。

「そっちに言ってない!」

「聞こえた」

「返事するな!」

「なら小さく言え」

「走ってるんだよ!」

「知ってる」

 鳥飼が荷鉤を振る。

 先端の輪が、第六号車の側面帯へ掛かった。

 追走車と六号車の間に、黒い帯が一本張る。

 速度差、六キロ。

 距離、三・二メートル。

 鳥飼は帯の張力を待つ。

 追走車が前へ出た瞬間、足を蹴った。

 低い屋根から、高い荷台へ。

 身体が塩風の中へ浮く。

 迅は第一号車の手摺を越えた。

 こちらと六号車の距離、二・七メートル。

 空荷の一号車が少し速い。

 踏み切る。

 風が、右肩を後ろへ持っていく。

 六号車の荷台端へ左足。

 着地と同時に、鳥飼の荷鉤が来る。

 顔ではない。

 腰の赤い結び目。

 迅は上体を落とした。

 鉤が背中を抜ける。

 鳥飼の手首を左手で掴む。

 右は使わない。

 掴んだまま、自分から後ろへ一歩。

 一。

 車体が段差を踏む。

 足元が、半歩横へ流れる。

 鳥飼の膝が迅の腹へ入る。

 息が抜けた。

 迅は手首を離さない。

 二歩目を取る。

 車は前へ進む。

 敵の身体は横へ流れる。

 何から退いたかが変わる。

 七退一還の数は、ただ後ろへ歩けば貯まるものではない。

 同じ脅威を見て、同じ源から退く。

 道路上なら、相手の踏み込みが源になる。

 走る車では、源も地面も毎秒ずれる。

 二歩目は、数えられなかった。

 数え直す時間はない。

 鳥飼の左足が、袋の縫い目へ掛かる。

 踏めば、麦粉四十キロが床へ流れる。

 迅は手首を引かず、押した。

 鳥飼の体重を、袋から車体中央へ戻す。

 押された鳥飼は、逆に肘を畳む。

 荷鉤の柄が、迅の右掌へ擦れた。

 治りかけの四センチが、熱を持つ。

 血はまだ出ない。

 右手を閉じれば、古い痺れが小指から肘へ上がる。

「手、悪い?」

 鳥飼が目だけで見る。

「頭より」

「自分の?」

「おまえの」

 鳥飼は笑い、床の横木を蹴った。

 迅の膝裏へ靴底。

 車が同時に左へ振れる。

 攻撃が二つ重なる。

 鳥飼の蹴り。

 運転手の回避操舵。

 どちらを源にするか決められない。

 迅は七歩を捨て、膝を落とした。

 左手で床帯を掴む。

 身体が横へ流れる。

 その流れへ、鳥飼の足を乗せる。

 蹴りを止めず、方向だけ変える。

 鳥飼の踵が、荷台外側の空気を切った。

「落とす気?」

「落ちない方へ変えた」

「同じことだろ!」

「落ちてから言え」

『六号、前方十四メートルに埋没標柱』

 轟の声。

『右へ四十。荷台上、姿勢を低くしろ』

 六号車の運転手が右へ切る。

 標柱は、塩の皮膜から黒い先端だけを出している。

 車体左側が持ち上がった。

 袋が一斉に右へ寄る。

 迅は鳥飼の胸を押して、床へ伏せさせる。

 自分は袋の列へ肩を入れる。

 荷崩れ防止帯が鳴る。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 切れない。

 だが、最上段の麦袋が十センチ滑った。

 落ちれば鳥飼の頭を潰す位置。

「右!」

 迅が叫ぶ。

 鳥飼は反射で手を出す。

 二人の掌が同じ袋を押し戻した。

 重さ四十キロ。

 車体の傾き。

 風圧。

 敵味方の区別より先に、袋は落ちる。

 袋が戻る。

 鳥飼は迅の腕を払った。

「助けたつもり?」

「袋を」

「俺も下にいた」

「知ってる」

「礼は言わない」

「聞いてない」

 鳥飼は距離を取る。

 取ったのは一歩。

 その一歩で、荷鉤の間合いが戻る。

 迅は、右掌を開いたまま構えた。

 握らなければ拳にはならない。

 拳にならなくても、押す、受ける、逸らすことはできる。

 車上の戦いでは、相手を倒す力より、倒れた先を選ぶ力の方が重い。

 鳥飼が荷鉤を低く構える。

 今度は人ではなく、床帯を狙っていた。

 食料を落とせば、車列が止まる。

 人を殴るより、仕事を殴った方が速いと知っている構えだった。

「今、光った?」

 鳥飼。

「光ってない」

「失敗?」

「喋ってる場合か」

「そっちが返事した!」

 鳥飼が荷鉤を捨て、迅の胸へ頭から入る。

 迅は半身になる。

 通せば、鳥飼は荷台の反対側から落ちる。

 右腕を回し、背中を受ける。

 裂傷跡が突っ張った。

 身体ごと床へ転がす。

 袋へ当てない。

 箱へも当てない。

 荷台中央の、空いた五十センチへ落とす。

 鳥飼の肩が床板を叩いた。

「狭い!」

「荷物がある」

「知ってる!」

 右側から、もう一人が上がる。

 女。

 平たい運転帽。

 短い黒髪の毛先が、塩で白い。

 塩戸景は、跳ばなかった。

 追走車の屋根へ二本の帯を掛け、一方を六号車の手摺へ固定する。

 帯の上を、足裏で渡る。

 三メートルの隙間を、細い橋へ変えた。

「道を作るのが好き?」

 迅が訊く。

「道代を払う相手が好きだ」

「払わないと」

「道がなくなる」

「今のは脅し」

「料金表だ」

 塩戸は荷台へ上がると、腰の荷締め器を外した。

 金属の握り。

 歯車。

 短い帯。

 武器用ではない。

 武器にした痕が多い。

 右側面は磨耗し、左の歯が一枚欠けている。

 迅は、塩戸ではなく鳥飼を見る。

 鳥飼が起き上がる。

「二人で来る?」

「荷役は人数でやる」

 塩戸。

「格闘も?」

「重い物を一人で持つ奴は、長く働けない」

「同意」

 轟の声が、後方から無線へ割り込む。

『戦ってる最中に俺を見るな』

「見てない」

『今、右へ顔を向けた』

「声がした」

『無線だ』

 塩戸の荷締め器が横から来た。

 迅は左前腕で受ける。

 金属の角が骨へ当たる。

 痺れ。

 鳥飼は低く入る。

 上と下。

 迅は袋へ背をつけない。

 後ろへ一歩。

 塩戸の打撃から退く。

 一。

 鳥飼の足払い。

 同じ源ではない。

 数が切れる。

 迅は跳ばず、右足を荷締め帯の輪へ差した。

 足払いを帯で受ける。

 鳥飼の脛が止まる。

 塩戸の二打目。

 頭を下げる。

 金具が後ろの袋を掠めた。

 布が裂ける。

 粉が一筋、風へ出る。

「食べ物を守る人?」

 迅。

「市場を守る」

「袋を切った」

「おまえが避けた」

「殴ったのはそっち」

「避けた責任はない?」

「ある」

 迅は、裂け目へ右掌を当てた。

 粉が傷跡へ入り、白くなる。

 袋を床へ押しつける。

「だから止める」

 塩戸が踏み込んだ。

 迅は、袋を押さえたまま左へ回る。

 打撃を肩で流す。

 鳥飼の足首を踵で止める。

 倒さない。

 倒れれば、誰かが袋へ落ちる。

 四人分の身体が、荷台中央の狭い空白で回る。

 運転席の柿沼が叫んだ。

「前方、分岐! 十二秒!」

 蓑原は金属箱の前へ座り込んでいる。

 両手で固定具を押さえる。

「箱の鍵は私が持っています!」

「鍵はいらない」

 塩戸。

「箱ごと持つ」

 迅は箱を見る。

 床へ四本のボルト。

 外すには工具が要る。

 塩戸は工具を持っていない。

 鳥飼が笑った。

「紙だけだから、軽いよ」

 荷台の下で、音がした。

 金属を叩く、短い四音。

 迅は足元を見る。

 遅かった。

 追走車の第三人が、六号車の床下へ潜っている。

 並走しながら、車体下の整備足場へ移った。

 ボルトへ切断鋏を掛けている。

 箱を狙う二人は、囮だった。

「下!」

 迅が叫ぶ。

 柿沼がハンドルを切る。

「切れない! 右は追走車、左は旧標柱!」

 分岐まで、八秒。

 六。

 迅は塩戸の胸を押した。

 殴らない。

 後ろへ押し返し、自分は荷台端へ走る。

 床下へ降りるには、側面梯子まで三歩。

 一歩。

 二歩。

 塩戸の帯が、迅の左足首へ巻いた。

「人を守るんじゃなかった?」

 塩戸が言う。

「下の人間を落とす気か」

 迅の足が止まる。

 床下の男は、道路まで六十センチ。

 車輪まで一・二メートル。

 六号車が左へ切れば、旧標柱へ当たる。

 右へ切れば、追走車との隙間が閉じる。

 迅が降りれば、男を引き上げられる。

 箱は持っていかれる。

 分岐まで、三秒。

「柿沼、直進!」

 迅は足首の帯を掴み、逆に引いた。

 塩戸が前へ崩れる。

 その肩を踏み台にせず、手摺へ身体を投げる。

 側面梯子。

 右手で掴む。

 傷跡が裂けるように痛んだ。

 左足を下へ伸ばす。

 床下の男の外套へ掛ける。

 引き上げるのではない。

 車体へ押しつける。

 旧標柱が左を通る。

 鉄の端が、迅の背から十センチを抜けた。

 風圧。

 男の帽子が飛ぶ。

「手、離すな」

「そっちが離せ!」

「落ちる」

「箱が!」

「紙だろ」

「だから取る!」

 四本目のボルトが切れた。

 床の上で、金属箱が浮く。

 蓑原が両腕で抱えた。

 塩戸と鳥飼が左右から手を掛ける。

 三人。

 一つの箱。

 迅は床下の男を押さえている。

 選べる距離にいない。

「蓑原、離せ!」

「原本です!」

「指が挟まる!」

「離せません!」

 塩戸が蓑原の手首を見た。

 金属箱の取っ手と床板の間。

 車体が揺れれば、指が潰れる。

 塩戸は、箱を引く力を一瞬抜いた。

「手を上へ」

 蓑原へ言う。

「盗む人に指示されません」

「指は団体の備品か」

 蓑原が息を詰める。

 塩戸は箱ではなく、蓑原の肘を押した。

 指が取っ手の上へ出る。

 次の揺れ。

 鳥飼が箱を持ち上げた。

「取った!」

「叫ぶな。重さが変わる」

 塩戸。

「紙なのに重い!」

「紙の重さを知らない奴が、目録を盗るな」

「今、初めて知った!」

 追走車が近づく。

 二本の帯が張る。

 塩戸は鳥飼へ先に渡らせた。

 箱を胸へ抱え、一歩ずつ帯の上を進む。

 迅は床下の男の襟を掴んだ。

 右掌へ熱いものが滲む。

 皮膚が少し開いた。

「上がれ」

「箱を追え!」

「おまえを上げる」

「敵だぞ!」

「見れば分かる」

「なら落とせ!」

「落ちたい?」

「嫌だ!」

「上がれ」

 男は、迅の腕を掴んだ。

 自分でも車体へ足を掛ける。

 迅だけの力ではない。

 二人が荷台へ戻った時、塩戸は最後の帯を渡り終えていた。

 追走車との距離が開く。

 鳥飼が金属箱を屋根へ固定する。

 塩戸は六号車を見た。

「迅」

「何」

「今、何を守った」

「人」

「紙は?」

「取られた」

「紙がないと、誰が食料を受け取る」

「決め直す」

「その間に、誰が配る」

「決めさせない」

「速さで?」

 迅は答えなかった。

 塩戸が笑う。

 楽しそうではない。

 値段を聞いて、予想より高かった時の顔だった。

「同じだ」

 追走車が、並走路へ下がる。

 六号車の荷台には、四つの切れたボルトが残った。

 蓑原は、箱のあった四角い汚れを見ている。

「原本が」

「写しは」

 迅。

「各寄贈団体と調整所。車両別の最新変更は箱だけです」

「鍋帳」

 小麦が別車から言った。

『全部じゃないけど、積み替えと温度はある』

「荷札」

 タマキ。

『各袋にある。二重のやつも』

「映像」

 七瀬。

『出発時と移動中。箱の中身そのものは撮っていない』

「なら、決め直せる」

 蓑原は迅を見た。

「紙を軽視したから奪われたんです」

「そう」

「認めるだけですか」

「次は守る」

「原本は一つしかない」

「一つにしたのが間違い」

「今言うんですか」

「今、分かった」

 蓑原の目が細くなる。

 怒鳴らなかった。

 代わりに、切れたボルトを一つ拾った。

「あなたが救った男は」

 床下にいた組合員が、荷台の隅へ座っている。

 左肘を擦りむき、呼吸が荒い。

「道へ返す」

「治療してから」

 迅。

「私が言いました」

「聞いた」

 男が笑った。

「書類屋に治療されるの、変だな」

「指を潰しかけた人に言われたくありません」

「箱を離さなかっただろ」

「あなたが下から切ったからです」

「仕事」

「なら、名前を」

「塩轍、遠野岳」

「年齢」

「二十四」

「負傷、左肘擦過。原因、走行中の車体下作業。治療後、本人希望で返還」

「返還って荷物みたいだ」

「では、帰路選択」

「そっちの方が怖い」

 蓑原は包帯を巻いた。

 手つきは固い。

 指は震えていない。

 迅は右掌を開いた。

 古い傷の端から、赤い点が二つ出ている。

 小麦が無線で言った。

『迅、右手』

「見えてないだろ」

『七瀬が見てる』

『私は撮ってる』

「同じじゃない」

『傷が開いたら、粉を洗う。水をけちるな』

「小さい」

『傷の大きさと、感染の大きさは別』

「あとで」

『今』

「車が」

『蓑原さん、迅の手』

「聞こえています」

 蓑原が、遠野の包帯を結び終えた。

「座って」

「箱」

「あなたが紙を軽視した結果は、治療後も残っています」

「きつい」

「消毒はもっときついです」

 迅は座った。

 走る車の荷台で、右掌を洗われる。

 水は透明なまま流れず、粉と血で薄い桃色になった。

 遠野が隣で言う。

「敵同士で同じ包帯だな」

「柄が違う」

 迅の包帯には、小さな赤い匙。

 遠野の包帯には、青い車輪。

 寄贈団体の印だった。

「旗は寝かせても、包帯にいる」

 遠野。

「傷より小さい」

 迅。

「それならいいか」

「本人が選べば」

「包帯の柄を?」

「俺は選んでない」

「じゃあ剥がす?」

 迅は見た。

 赤い匙は、掌の端に一つだけ。

「今はいい」

「その程度の思想で走ってるのか」

「思想は、包帯より剥がれにくい」

「名言っぽい」

「嫌なら忘れろ」

 遠野は忘れない顔をした。

 遠野は包帯を見ながら、声を落とした。

「俺を落とせば、箱へ届いた」

「届かない」

「帯を渡る前の景を止められた」

「おまえは落ちた」

「敵一人と紙一箱。どっちが重い」

「秤が違う」

「逃げた?」

「何から」

「選ぶことから」

 迅は右掌を閉じかけ、痛みで開いた。

「人を落として紙を取ったら、その紙に誰を守るって書く」

「俺は、おまえを殴りに来た」

「知ってる」

「次も来る」

「その時、また決める」

「毎回?」

「必要なだけ」

 遠野が鼻で笑った。

「元王様の言い方が移ってる」

「嫌だ」

「向こうも言う」

 蓑原が、迅の包帯を結び直す。

「人を救えば、記録を失ってよいわけではありません」

「分かってる」

「分かっていませんでした」

「今は少し」

「少しで追うんですか」

「追う。次は、誰かを落とさない方法で」

「そんな方法がなければ」

 迅は、塩戸車の位置を見た。

 七台。

 帯。

 風。

 箱。

 負傷者。

 自分の右手。

「取り返さない」

 蓑原の指が止まる。

「原本を諦める?」

「人を落とすしかないなら」

「それで、所有記録が改ざんされたら」

「写しから作り直す」

「時間がかかる」

「責任を取る」

「どうやって」

「遅れた時間を出す。守れなかった名前も」

「殴れば早いのに」

 遠野。

「おまえが言うな」

「だから言える」

 遠野は、自分の左肘を曲げた。

 痛みで顔が歪む。

「景は、紙が人を潰すって思ってる。おまえは、人を守れば紙を作り直せるって思ってる。どっちも、自分が得意な方を軽く見てる」

 迅は返事をしなかった。

 敵の言葉だからではない。

 当たっていた。

 拳を使う者は、紙を後で直せると思う。

 紙を守る者は、身体を後で治せると思う。

 後で、という時間を持たない人から先に消える。

 蓑原が、消毒布を一枚、遠野へ渡した。

「今の発言、記録します」

「敵の助言を?」

「敵だから消す理由がありません」

「報酬は」

「治療済み」

「高いな」

「紙の重さを知ったのでしょう」

 遠野は笑った。

 迅は、箱を追う経路を見直した。

 最短ではなく、誰かが落ちた時に止まれる側を探した。

 午後一時三十六分。

 塩轍の七台は、箱を取るとすぐには逃げなかった。

 二台が前へ出る。

 三台が後ろへ残る。

 箱を積んだ車は、路面の低い中央へ入った。

 どこから追っても、別の車が間へ入れる配置だった。

「一号車で回る」

 迅は言った。

 蓑原が包帯の端を切る。

「追うんですか」

「取り返す」

「食料車列を置いて?」

「第一号車は空」

「工具と担架があります」

「峰岸が決める」

 迅は無線を開いた。

「峰岸。箱を追う。第一号車を使える?」

『理由』

「最新の所有記録がある」

『人命より上?』

「下」

『食料より上?』

「今は分からない」

『分からない人を乗せて追うの、嫌だな』

「分かったら言う」

『箱を取るために、車列との距離はどこまで開ける』

 迅は答えようとして、止まった。

 敵まで、五百四十メートル。

 車列先頭と最後尾、一・三キロ。

 第一号車が追走へ入れば、空いた先頭の役割を誰かが負う。

 落ちる穴を見る。

 故障車を拾う。

 担架を最初に届ける。

「八百」

『根拠』

「戻れる距離」

『この路面で停止と反転を入れたら二分半。その間、先頭は誰』