第560話 第二章「証拠の順番」後編

 帳面には、反証分散器の部品代ではなく、鍋の底板、配管パッキン、夜食の豆、臨時雇いの賃金が書かれている。

「原本を審理終了まで留置します」

 証拠係が言うと、厨房の会計担当が首を横へ振った。

「今夜の賃金を締められない」

「複製を使ってください」

「複製に、今日の仕入れは書けない」

「別帳を」

「帳面を増やすと、どっちが本当かで揉める」

 綺理が尋ねた。

「提出したい範囲は」

「三月九日から十一日の三頁。ほかは、店の値段と働いた人の名前」

「原本を毎日返し、翌朝また受領する方法は」

 証拠係が反対した。

「保管鎖が切れます」

「切れたことを記録します」

「改ざんの危険が」

「法廷が生活帳を奪う危険もあります」

 最終的に、三頁だけを透明板で挟み、縁へ連続印を押した。

 閉廷後、原本は厨房へ戻す。

 翌朝、同じ印、頁の傷、墨の滲みを二人で照合する。

 夜間に新しい記入が増えても、証拠部分の後へ書く。

 増えた行を疑わしいと扱わない。

「毎日運ぶの?」

 若い書記が言う。

「豆の値段が、審理より待ってくれないので」

 会計担当は帳面を抱えた。

「逆だよ。審理が、豆の値段を待ちな」

 原本は証拠になっても、法廷の所有物にはならなかった。

 午後二時四十三分。

 公開証拠第十八号が運ばれた。

 銀色の薄板を、二枚の透明板で挟んだものだった。

 亀裂の入った冬城の銀具と同系列の初期試作記録。

 文面は短い。

《反証負荷分散試験 第二期》

《成人決裁者の急性反証を、登録若年者群へ統計分散》

《個別上限――原負荷の二・五%》

《群全体上限――百二十%》

《個別の発熱、意識消失、短期記憶欠落は統計的許容範囲》

 最後に、承認時刻。

《午後八時四十分》

 署名。

《冬城征士郎》

 傍聴席から、低い声がいくつも上がった。

「本人の署名ですか」

 審理官が尋ねる。

 綺理は答えなかった。

「真正性の担当へ」

 時刻鑑定担当が立ち、インク、筆圧、銀板の刻印、保管鎖を説明した。

 署名は冬城のものと高い確度で一致。

 ただし、署名時の説明範囲は別証拠が必要。

 承認が何を意味したかは、反対尋問と会議記録で判断。

 冬城は表情を変えない。

「この《統計的許容》は、あなたが書いた文ですか」

 真琴が尋ねた。

「文案は技術局です」

「承認したのは」

「私です」

「個別被害を知っていましたか」

「試験値として知っていました」

「人の身体としては」

「登録者は匿名化されていました」

「匿名なら、人ではない?」

「その問いは感情的です」

「では、言い直します。登録番号へ対応する個人が存在すると知っていましたか」

「知っていました」

「発熱、意識消失、短期記憶欠落が発生し得ると」

「知っていました」

「承認した」

「都市維持に必要な成人決裁を停止させないためです」

「何人を救いましたか」

「制度全体では、推定一万一千から一万四千」

「何人へ転嫁しましたか」

「登録は四十八。各回の受領者数は異なります」

「知らない?」

「集計表を提出しています」

「名前を」

「承認時点では、知りませんでした」

 真琴は、それ以上を続けなかった。

 数字は答えになり得る。

 数字だけを答えにした瞬間、質問した側も数字の共犯になる。

 綺理は、第十八号の横へ小さな札を置いた。

《承認事実――暫定確認》

《説明範囲・責任範囲――未認定》

 七瀬が、札の文字を撮る。

 冬城の顔へ寄らない。

 怒る傍聴者へも寄らない。

 午後三時十一分。

 不提出十七点の一覧が読み上げられた。

 番号。

 取得日。

 所有確認日。

 提出拒否日。

 公開範囲。

 内容欄はない。

「空欄ではありません」

 綺理は言った。

《内容非提出》という記録です」

「その中に、転嫁がなかったことを示す記憶があれば?」

 冬城側補佐官が問う。

「使えません」

「あなた方に不利でも?」

「使えません」

「都市史が変わる記憶でも?」

「使えません」

「人命が救われても?」

 綺理は、そこで初めて少し間を置いた。

「救われる人の名前と、奪われる人の名前を出してください」

「一般論です」

「一般論で他人の記憶を開けません」

 審理官は、不提出一覧を証拠目録へ載せると決めた。

 内容を推測しない。

 有利にも不利にも評価しない。

 拒否時刻は、変更された場合のみ更新する。

 十七枚の穴あき札が、透明な板へ固定された。

 穴の向こうに、冬城が見える。

 角度を変えると、七瀬が見える。

 さらに動けば、誰も見えない。

 穴は、覗くために開いているのではない。

 そこに中身を置かなかったことを、触って確かめるために開いていた。