第481話 第十一章「街が暗くなる」前編
二月二十四日 午前十時十二分
火群七瀬は、街が暗くなる時刻を一つにしなかった。
時刻は、九つあった。
十時十二分。
十時十九分。
十時二十七分。
十時四十一分。
午前十時四十一分。
暖房第二の中央同期灯が消える。
地域循環機は、予定より十九秒早く手動へ移った。
「早い」
中央書記が言う。
「末端温度が一度下がった」
暖房担当が答える。
「予定違反です」
「保育室の温度条件を優先」
「中央承認は」
「地域三者」
「正式な中央時刻は十時四十一分」
「現場は十時四十分四十一秒」
七瀬は二つの時刻を撮った。
中央時計。
地域時計。
一つへ直さない。
配管が鳴る。
細い金属音が、遠くへ走る。
轟が耳を当てる。
鉄志は右耳の補聴器を外し、床へ手を置く。
「南枝、遅い」
「何秒」
「音で秒は分からん」
「イオに怒られる」
「ここにいない」
「記録は見る」
南枝の地域係が手動輪を四分の一だけ開く。
開けすぎれば、北枝が冷える。
「南、末端十八・三」
「北、十九・七」
「保育室」
「二十・一」
「染色工房」
「十七・八。作業停止中」
工房責任者が、自分の温度計を持って立っている。
「今日の布は、もう駄目」
「補償記録」
轟。
「水が回ったから成功って撮る?」
責任者が七瀬へ訊く。
「布も撮る。公開は」
「商品名は出す。職人の顔は出さない。損失額は、まだ確定してない」
「受領」
七瀬は、循環機の緑灯と、染め上がらなかった灰色の布を同じ画角へ入れた。
「安全のために止めた仕事」
工房責任者が言う。
「安全だから、損じゃないって言う人がいる」
「言われた?」
「まだ。でも、言う顔を知ってる」
「顔は撮らない」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
「分かってない顔」
「流行ってる」
暖房第二の切替から七分後、共同浴場の湯温が一・六度下がった。
番台が浴場を閉じなかった。
入口へ札を出す。
《本日、湯温低下。入浴料二割減。長湯禁止。暖房切替のため。返金窓口あり》
「閉めた方が安全じゃない?」
中央書記が訊く。
「高齢者の洗身と、暖を取る場所でもある」
「温度が低い」
「低いと表示する。入らない選択。毛布だけ受け取る選択」
「事故が起きれば」
「今日の番台、私。設備担当、別。医療連絡、別」
「全部分ける」
「一人で湯も人も責任取れない」
浴場へ入らず、毛布だけ受け取る老人が一人。
入浴料を払って、五分で出る人。
返金を求める人。
いつもどおり入ろうとして、番台に止められ怒る人。
地域手動への移行は、緑灯一つでは終わらない。
七瀬は、湯気のない入口札を撮った。
浴場内部は撮らない。
「暖房第二、地域手動継続。末端温度差あり。染色工程停止。浴場湯温一・六度低下。利用条件変更」
成功、とは言わない。
停止しなかった生活が、以前と同じに続くわけでもなかった。
十一時三分。
十一時二十二分。
十一時五十八分。
十二時十六分。
十二時四十四分。
同じ街の中で、灯りが消える順番。
回収炉の抽出灯。
中央抑制網の監視灯。
上水第三の中央同期灯。
暖房第二の中央同期灯。
病院東補助一号の中央灯。
同二号。
地域給水第四。
暖房第四。
回収炉本体の稼働表示。
消える灯りと、消さない灯りを、七瀬は同じ一覧へ書いた。
病院東補助三号。
消さない。
代替刺激器の試験が終わっていない患者一人のため、限定電力を残す。
上水第一。
消さない。
地域手動への切替が、凍結した弁のため六時間遅れている。
暖房第五。
消さない。
保育室と透析宿舎の燃料補給が未到着。
止めない理由は、停止失敗ではない。
止めた側の正義から見れば、遅れに見える。
そこで生きる者から見れば、条件だった。
「撮影開始、十時十一分四十秒」
七瀬は固定台を腰の高さに合わせた。
左肩は上げない。
大型機は轟の作業員が運んだ。
七瀬は画角を決める。
機械室の人の顔は映さない。
手元と灯り。
時刻板。
責任者札。
「全景は」
中央の若い実務者が訊く。
「映さない」
「なぜ」
「四十八本の管と、医療番号が入る」
「証拠になります」
「公開範囲を超える」
「後で隠せば」
「撮った時点で持つ」
「では、反証転嫁の全体構造を示せません」
「図面、時刻、担当証言。必要なら、限定閲覧で一度だけ撮る。今は撮らない」
「撮影しない保護を」
「能力は使わない」
「なぜ」
「止めれば済む」
七瀬は撮影機の赤灯を消した。
使わない能力と、使わない機械は違う。
能力なら、撮影へ参加した者の記憶や記録条件を巻き込む。
機械の停止なら、七瀬自身の判断として残る。
「撮影停止、十時十二分零三秒。理由、四十八人の医療番号が画角へ入る。代替、設備図、針の集計、限定証言」
声だけを録る。
顔を映さない。
最初の灯りが消えた。
回収炉の抽出灯。
十時十二分十七秒。
予定より十七秒遅い。
七瀬は遅れを訂正しない。
「抽出停止、十時十二分十七秒。予定との差、十七秒」
分配輪の銀粉が、止まった。
完全には沈まない。
液体の中で、細かな粒が余熱のように漂う。
「四十八人」
七瀬が通信へ言う。
真琴の声。
『全員へ確認中。即時変化、三十一の脈拍一一六から一一一。七は痛み不変。十九、吐き気増加。意識消失なし』
「治った人」
『いない』
「記録」
『回復とは書かない』
「受領」
第二の灯り。
中央抑制網。
十時十九分四秒。
予定より四秒。
拘置所、病院、公共施設へつながっていた抑制信号が消える。
能力者の誓痕が一斉に戻るわけではない。
抑制具を外された者もいない。
ただ、中央が遠隔で出力を下げる線が切れた。
「抑制網停止」
七瀬が読む。
その瞬間、機械塔の廊下で、一人の若い作業員が膝を付いた。
誓痕が戻ったのではない。
長時間の緊張が切れた。
手が震える。
「撮る?」
本人が七瀬へ訊いた。
「何を」
「倒れたところ」
「必要?」
「後で、能力が暴れたって言われるかも」
「能力反応は」
「ない」
「なら、倒れた時刻と医療確認だけ。顔は」
「出さない」
「受領」
七瀬は足元だけを三秒撮った。
膝。
作業靴。
床の時刻表示。
作業員は自分で立たない。
隣の者へ肩を借りた。
「能力が戻ってないのに、弱いな」
本人が言う。
「能力が戻らないことと、立てないことは別」
七瀬は答えた。
「慰め?」
「分類」
「冷たい」
「今、温度は二十度」
「それは本当に冷たい」
作業員が少し笑った。
午前十時二十七分。
上水第三の中央同期灯が消える。
地域ポンプは消えない。
遠くで、手動輪の拍子が続く。
中央表示板は、一度《異常》と赤く出した。
元監視員が、その表示へ紙を貼る。
《地域手動運転中。中央同期なしは異常ではない》
「表示を書き換えない?」
七瀬が訊く。
「中央制御が止まっていて、書換え権限も止まってます」
「紙」
「剥がせます」
「剥がした人」
「記録」
「雨」
「ここは室内」
「蒸気」
「防水札」
「火」
「陶板を後で作る」
「今は紙」
「はい」
以前、住民の顔を見続けた者が、今は「異常」という表示へ異議を貼っている。
職能は消えていない。
何を見るかが変わった。
十一時三分。
病院東補助一号。
中央灯が消える。
地域灯が点く。
切替の間、二秒。
暗闇。
七瀬の左肩が、十一月の病院を思い出す。
撮影機を持ち上げようとする。
上げない。
腰高固定台のまま。
暗闇では映らない。
代わりに音を録る。
非常紐。
設備係の復唱。
病棟の靴音。
「一号、受領」
「病棟、受領」
「患者、呼吸あり」
「薬剤冷蔵、温度維持」
二秒後、灯りが戻る。
患者の顔は撮らない。
計器だけ。
十一時二十二分。
二号。
暗闇、三秒。
戻る。
三号は消さない。
中央の表示板へ、黄色く残る。
「未停止」
中央の書記が言う。
「限定継続」
七瀬が訂正する。
「同じです」
「違う。未停止は作業が終わってない。限定継続は、本人条件で残した」
「中央一覧は二値です」
「紙を貼る」
「また」
「感染」
七瀬は黄色い札を貼った。
《病院東補助三号。患者一人の代替刺激器試験完了まで、電力のみ限定継続。反証転嫁・能力抽出なし。次回確認、二月二十五日九時》
患者の名はない。
理由はある。
名前を隠すことと、判断理由を隠すことを分ける。
正午。
街の中心部は、昼なのに暗かった。
回収炉の白い排気が細くなる。
完全には止まらない。
惰性熱を逃がすため、排気弁は開いている。
その蒸気を見て、広場の一部が叫んだ。
「止まってない!」
「また隠してる!」
「全部切れ!」
停止反対の側からも声が出る。
「戻せ!」
「治療を奪うな!」
「能力を失わせるな!」
二つの群衆が、同じ排気塔を見ている。
片方は、まだ動く証拠と思う。
片方は、もう止められた証拠と思う。
七瀬は、群衆全景を撮らない。
顔の公開選択が揃わない。
代わりに、排気量を撮る。
弁の角度。
温度。
作業員の説明。
凱が広場へ出る。
王衣装はない。
役職札もない。
「回収炉は抽出停止。惰性熱を逃がしている。抑制網は停止。病院、上水、暖房は地域ごとに切替中。全部は止めていない」
「失敗か!」
誰かが叫ぶ。
「違う。止めないと決めた区画がある」
「誰が決めた!」
「患者、地域担当、医療担当、設備担当。範囲ごとに違う」
「責任者はお前だろ!」
「違う」
「逃げるな!」
「俺が決めた範囲は、中央二案が成立していないと確認したこと。各区画を止めたのは、そこへ名を書いた者だ」
「王じゃないから責任を逃げるのか!」
凱の左膝が、少し沈む。
立ち続けた炎症。
声は変えない。
「王だった時、全部を俺の責任にした。そのせいで、他の署名が消えた。今は消さない」
「じゃあ、失敗したら誰を責めればいい!」
「何が失敗したかで違う」
群衆がざわめく。
分かりにくい答え。
七瀬は、その場面を撮った。
凱の顔。
群衆の顔は入れない。
声は、本人が公開を選んだものだけ。
元王が格好よく決断する画ではない。
責任者の名が一人ではないことを、説明し続ける画。
拍手は起きなかった。
野次も止まらなかった。
それでいい。
午後零時十六分。
地域給水第四が切り替わる。
その直後、三十秒だけ水圧が下がった。
高所住宅の蛇口から、水が止まる。
住民の一人が、中央へ戻せと要求する。
地域担当は戻さない。
予備水槽の弁を開く。
水が戻るまで一分十二秒。
その一分十二秒を、成功記録から消さない。
「断水一分十二秒」
七瀬が読む。
「予定外」
元監視員が言う。
「被害」
「高所住宅三十七戸。医療用途なし。飲料水を容器へ保管していたのは二十九戸。八戸へ配達中」
「原因」
「地域弁の開度不足」
「判断者」
「機械担当。本人が記録」
「処分」
「今は修正。後で審査」
「成功?」
「切替は成功。断水は失敗」
「両方」
「両方」
七瀬は、乾いた蛇口と、戻った水を同じ長さで撮った。
水が出た瞬間だけを勝利映像にしない。
午後零時五十分。
七瀬は、四十八人の集計が来る前に、連絡所へ行った。
全員を見るためではない。
全員を見る権限もない。
本人が記録を選んだ三人だけ。
一人目。
胸部症状が増えた十九番。
本人は顔も声も公開しない。
左手と、自分で書いた紙だけ。
《反証が止まれば、すぐ楽になると思っていた。吐き気が増えた。止めたことへ反対とは言わない。楽になったとも言わない》
「撮る範囲」
七瀬が訊く。
本人は紙の下へ指で線を引く。
手首まで。
腕の誓痕痕は入れない。
「時刻」
本人が、自分の時計を見せる。
中央より二分遅い。
「合わせる?」
七瀬。
首を振る。
「その時計の時刻で記録?」
頷く。
七瀬は二つを書く。
《本人時計、十二時五十二分》
《連絡所時計、十二時五十四分》
どちらかを訂正しない。
二人目。
症状低下へ入った七番。
十六歳。
公開は声だけ。
「頭痛が減った」
「回復と書く?」
「書かない」
「理由」
「前も、一時間だけ減って戻った」
「設備停止の効果だと思う?」
「思いたい」
「記録する?」
「思いたい、まで」
「再起動を望む?」
「今は、戻さないで」
「今は」
「明日変えるかもしれない」
「次に訊く日」
「二十六日。朝じゃなく、午後」
「理由」
「朝は頭が痛い」
「受領」
三人目。
変化不明へ入る三十八番。
測定を拒否した人だった。
「不明じゃない」
本人は言う。
「何」
「測ってない」
「だから集計上は変化不明」
「測定なし、って書いて」
「変化がないとは」
「言ってない」
「症状」
「話さない」
「公開」
「測定を拒否した。それだけ」
「医療者へは」
「自分で伝えた」
「七瀬へは」
「伝えない」
「受領」
七瀬は、《変化不明》の横へ、《本人が測定・症状公開を拒否。医療確認は本人の選んだ範囲で実施》と書いた。
「長い」
「短くする?」
「しない」
三十八番は、七瀬の固定台を見た。
「左肩」
「何」
「痛い?」
「慢性」
「撮るのやめる?」
「今は腰高で撮る」
「やめたい?」
七瀬は答えを急がない。
「時々」
「やめたら、記録がなくなる?」
「私が撮らない記録はなくなる。別の人が別の方法で残せる」
「じゃあ、何で来た」
「あなたが、私へ見せると選んだから」
「それだけ?」
「それだけが大きい」
三十八番は少し笑った。
「記録しないで」
「受領」
七瀬は撮影を止めた。
能力ではない。
機械の停止時刻。
理由。
再開条件。
《三十八番の面会終了。本人が以後の撮影を拒否。集計値だけ使用可》
連絡所の隣室では、医療者が四十八人分の連絡順を組み直していた。
症状の重さだけではない。
本人が次の連絡時刻を指定した人。
睡眠を優先した人。
家族への連絡を拒否した人。
仕事へ戻ろうとして止められた人。
設備停止に怒っている人。
設備停止を祝ってほしい人。
どちらの映像にも使われたくない人。
中央広報が用意した見出しは、二つだった。
《反証転嫁停止により若者四十八人を救済》
《設備停止による健康影響を確認》
真琴が両方へ赤い線を引いた。
「救済は未判定。健康影響は、停止前からの症状と停止後の変化を分ける」
「見出しが長くなります」
「見出しで決めない」
広報担当は紙を裏返した。
「では、何を発表する」
「確認できた事実」
「死亡ゼロは」