第480話 第十章「冬城の最終決裁」後編
「今、身体へ戻ったから言うな」
「私は、以前から」
「四十八人へ送ってた」
「単独の致死反証を避けた」
「説明せずに」
「生存率を上げた」
「傷つけた」
「救った」
「両方」
凱は言った。
「両方残す」
冬城の膝が折れた。
倒れる前に、黒い傘が床へ落ちる。
凱は身体を受け止めない。
肩を抱けば、銀具へ触れる。
床へ頭を打たないよう、傘を枕に滑らせる。
「医療!」
ミソラは決裁室の外で待っていた。
入る。
敵味方なしは使わない。
「意識」
「ある」
冬城が答える。
「胸痛」
「六」
「息」
「苦しい」
「銀具、外す?」
「外さない」
「拒否?」
「外せば、蓄積反証が」
「知ってる。外さない。左腕、借りる」
「決裁を」
「今は脈」
「継続案を」
「話さない」
「意識は」
「ある。でも、医療中」
「私には」
「止める権利がある」
ミソラは、冬城の公的発言を医療判断で止めた。
口を塞がない。
記録へ、《胸痛と不整脈のため、本人の同意を得て決裁発言を中断》と書く。
冬城は拒まなかった。
拒めなかったのではない。
脈が乱れていることを、自分で認めた。
それは改心ではない。
身体が負けたから思想が負けたのでもない。
決裁の前提になった署名が、本人の条件と違った。
能力は、その違いを消し切れなかった。
「腎機能」
ミソラが訊く。
「既往あり」
「程度」
「非公開」
「治療に要る」
冬城は数字を言った。
ミソラの顔が変わる。
「悪化してる。搬送する」
「中央医務室」
「本人の希望?」
「はい」
「治療と証言と移送を分ける。今は治療」
「同じ病院へは」
「外環共同病院を拒否?」
「中央を選ぶ」
「受領」
シキと同じ三本の線。
治療。
証言。
移送。
冬城にも使う。
加害者だから、選択を奪わない。
選択があるから、責任が消えるわけでもない。
午前十時五分。
冬城は中央医務室へ運ばれた。
拘束されない。
搬送台の左右には、警備員ではなく医療者が一人ずつ付いた。
冬城の右手は、銀具ごと透明な支持枠へ固定されている。
外さない。
覆わない。
亀裂の位置。
出血。
脈拍。
本人の拒否。
すべて別の札。
中央の若い実務者が、搬送台の横へ立った。
「決裁者の身柄を、誰が管理しますか」
ミソラが答える。
「身柄は管理しない。治療を受ける患者」
「証拠物の銀具を装着しています」
「装着したまま治療。証拠保全担当を呼ぶ」
「逃走の可能性」
冬城が目を開いた。
「私は逃走しません」
「本人の申告だけでは」
「逃走を止める命令は、誰が出した」
凱が訊く。
「まだありません」
「なら拘束しない」
「後で責任を問われます」
「誰に」
「中央です」
「中央の二案は、今止まった」
「中央そのものは残っています」
「だから、あなたの勤務番号で判断して」
実務者は腕章を見る。
「私は、証拠保全のため銀具への接触制限を要請します。身体拘束は要請しません。逃走が確認された場合、別途判断」
「受領」
ミソラが記録する。
冬城は、実務者を見た。
「あなたは、役割を超えました」
「要約を作った範囲の後始末です」
「後始末は、処分を軽くしません」
「知っています」
「名を出せば、もっと明確になる」
「今日は出しません」
「責任を避ける」
「避けています。全部は負えないから、勤務番号で負う範囲だけ残します」
冬城は一度、目を閉じた。
「不完全です」
「はい」
「不完全な者が決裁へ触れた」
「完全な人がいなかったので」
搬送台が動く。
決裁室の出口で、黒い傘が床へ残っていた。
「傘」
書記が拾おうとする。
「触らない」
七瀬。
「証拠?」
「枕に使った。血液付着。医療記録と設備記録の両方」
「廃棄しますか」
「本人へ選択を返す。先に保全」
透明袋へ入れる。
傘は政治的象徴として展示されない。
勝者の戦利品にもならない。
冬城の頭を床から守った道具であり、血の付いた私物であり、決裁室にいた事実を示す物だった。
搬送台が扉を越える前、冬城が凱を見た。
「あなたは、決めなかった」
「決めた人を消さなかった」
「同じ結果が出なければ、街は割れます」
「割れてることを隠して、一枚に塗るよりましだ」
「その割れ目で、誰かが死ぬ」
「あなたの一枚でも死んだ」
「だから、一枚をなくす?」
「一枚が必要な時は、誰の紙か名を書く」
「私は名を書いた」
「四十八人の名は消した」
冬城は返さない。
脈がまた乱れる。
ミソラが会話を止めた。
「続きは治療後。本人が話すと選んだ範囲」
決着の言葉は、医療者によって中断された。
凱は追わない。
相手が言い切れなかったことを、勝利へ数えなかった。
銀具は医療監視下で残る。
決裁室には、二枚の文書が残った。
《設備全面継続案》
《設備一斉停止案》
どちらにも、赤い真正性異議。
床には、三束の原票。
人ごとに違う条件。
同じ署名は一つもない。
中央の若い実務者が、決裁台の電源を切ろうとする。
「待て」
凱が言う。
「なぜ」
「記録」
七瀬が固定台を動かす。
「決裁停止時刻、十時五分二十二秒」
「決裁は完了していません」
「だから、未完了を記録」
「機械室は」
通信からイオ。
『決裁側の追加負荷、低下。転嫁線、まだ接続。次の手順へ』
「進める」
凱が答える。
『誰の判断』
「機械側はイオ。患者側はミソラ。地域は各担当。俺は決裁文書が成立していないと確認した」
『受領』
「凱」
七瀬が呼ぶ。
「何」
「今、決めなかった?」
「何を」
「全体を進めるって」
「言ってない。各担当が進めると確認した」
「同じに聞こえた」
「俺も」
「言い直す?」
凱は考えた。
「俺は、中央の二案が成立していないことを確認した。各担当の判断を止める中央決裁は、今はない」
「今は」
「冬城の治療と、文書審査が終わるまで」
「期限」
「本日十八時に再確認」
「記録」
七瀬が言う。
凱は王ではない。
最後の言葉を持たない。
決裁室で行ったのは、最後を奪うことではなかった。
最後だと書かれた二枚の紙が、誰の言葉でもないと確認しただけだ。
床に散った原票は、どれも同じ方向を向いていなかった。
窓から入る風もない部屋で、紙の端だけが、機械塔の振動に合わせて別々に震えていた。