第599話 第十章「七歩退いて」前編
七月六日 午後十時四十三分
中央塔の正面扉は、開いていた。
だから迅は、罠だと思った。
閉じた扉には、壊すか、鍵を探すか、諦めるかの三択しかない。
開いた扉には、入るという四つ目の選択が生まれる。
人間は選択肢が増えると自由になった気がする。実際には、罠の種類が増えただけということもある。
「開けて待ってるのは、礼儀正しいな」
迅は言った。
「礼儀が正しい罠は、たいてい後で請求書を出す」
真琴が答えた。
彼女は厚いレンズの眼鏡を押し上げた。右手には中央塔の限定入場証。左手には、各地域の原文を綴じた灰色の箱。箱には鍵が二つあり、片方を七瀬が、もう片方を真琴が持っている。
「迅。入場証を見せて」
「顔じゃ駄目?」
「あなたの顔は本人確認に向いてない」
「どういう意味だよ」
「殴られるたびに形が変わる」
七瀬が、腰高の固定台へ小型撮影機を載せながら言った。
左肩の慢性炎症のため、長時間の手持ちはできない。固定台の三脚は一本だけ短く、中央塔の磨かれた床で水平を取るには、足元へ薄い木片を噛ませる必要があった。
七瀬は画面を見た。
「頬の傷、まだ赤いね」
「三針って、三日で消えないのか」
「糸は外れた。傷は残る」
「面倒だな」
「記録も同じ」
七瀬はそれ以上説明しなかった。
凱は扉の前で左膝の装具を締め直した。
「四人で入る」
正面扉の向こうに立つ中央塔職員へ言った。
「代表者は?」
職員は尋ねた。
灰色の作業服。胸元に《中央保守・第二区》の布札。年齢は五十前後。右手の親指が油で黒い。武器は持っていない。
「いない」
凱が答えた。
「では、誰が最終決定を」
「しない」
「中へ入れば、決裁環は役割を要求します」
「役割を要求する設備は、設備の側を直す」
職員は凱の顔を見た。
かつての王へ向ける敬礼をしなかった。
代わりに、自分の布札を指で叩いた。
「私は開閉責任者です。この扉を閉めれば、塔内の温度と圧力は保てます。開けたままにすれば、外へ逃げられます。どちらを望みます」
「あなたは、どちらを安全だと思う」
「今は開けたままです」
「理由は」
「内部の自動避難指示が信用できない」
「なら開けたままにしてくれ」
「命令ですか」
「判断を聞いて、同意した」
職員は一度だけ頷いた。
扉脇の機械へ、《開放継続・現場判断》と入力する。
塔の中へ入った瞬間、風の向きが変わった。
外の湿った夏風ではない。
地下の冷却層から押し上げられた、乾いた冷気だった。
迅の右手、小指と薬指の付け根が痺れた。
古い骨折の跡は、冬だけでなく、急に冷やされた時にも機嫌を悪くする。
「手」
凱が言った。
「まだ付いてる」
「それは見れば分かる」
「今日はみんな厳しいな」
「最終日だから優しくなる、という決まりはない」
「最終じゃない」
七瀬が訂正した。
「今日が最後だって字幕は、乱馬が全部消した」
「じゃあ、何日だ」
「七月六日」
「普通だ」
「普通の日は、勝手に最後にならないから便利だよ」
正面回廊の先で、警報灯が黄色く点滅した。
赤ではない。
侵入者警報ではなく、役割未登録。
四人が一歩進むたび、床の細い銀線が足元から伸びた。凱の前には《統括候補》。真琴には《法務》。七瀬には《記録》。迅には、三秒遅れて《執行》と表示された。
「気に入らない」
迅が言った。
「どれが」
「俺だけ字面が強そうだ」
「喜ぶところ?」
「仕事内容が雑すぎる」
迅は靴底で銀線を踏んだ。
線は消えなかった。
床下の発光板で、物理的な線ではない。
真琴がしゃがみ込み、表示の横に限定入場証を重ねた。
「入場証には、役割受諾なしとある」
「設備側では、空欄を最寄りの旧役割へ補完しています」
開閉責任者が後ろから言った。
彼は扉に残るつもりだったが、四人が進むと、作業用端末を抱えて追ってきた。
「止められる?」
真琴が聞く。
「表示だけなら。経路判断は別系統です」
「誰が作った」
「一人ではありません」
「便利な答えだね」
「不便だから、今ここにいます」
職員は床板の点検蓋を外した。
中には、細い光管が四本。
「旧王路、旧法務、旧記録、旧執行。中央塔は人が来る前に仕事を決める。仕事が決まれば、通してよい扉も決まる」
「人が先だろ」
迅が言った。
「建物は、人より早く決めたがります」
職員は四本の光管を一本ずつ抜いた。
床の役割表示が消える。
同時に、回廊の奥で防火扉が三枚下り始めた。
「ほら」
職員は言った。
「役割を消すと、誰も通してよいと判断できない」
「嫌な建物だな」
「二十年働いて、私もそう思います」
最初の扉が床へ着くまで、七秒。
迅は走った。
凱も続こうとしたが、二歩目で左膝がわずかに遅れた。
「先に行け」
「王命?」
「膝命だ」
「弱そう」
「逆らうと腫れる」
迅は扉の下へ滑り込んだ。
厚さ十二センチの防火板が、背中すれすれを落ちる。
向こう側へ抜けた瞬間、左手で床を押し、身体を反転させた。扉の側面には手動停止輪。だが封印蓋が掛かっている。
迅は蓋を殴らなかった。
壁の配管から固定ピンを抜き、蓋の蝶番へ差し込む。回転を止め、右手で輪を掴む。痺れた二本の指へ力が乗らない。
左手を重ねた。
一回転。
二回転。
扉が床から二十センチ上がる。
七瀬が固定台を横倒しにして先へ滑らせた。自分は右肩から潜る。真琴は灰色の箱を胸に抱え、眼鏡を片手で押さえたまま抜ける。凱は最後だった。
膝を深く曲げられない。
迅が床へ腹這いになり、左腕を伸ばす。
「装具を外せ」
「ここで?」
「引っ掛かる」
「外した後、立てない」
「なら装具だけ先に寄越せ」
「膝も付いてくる」
「面倒だな、おまえ」
「二十一年目で気づいたか」
凱は身体を横にした。
装具の外側を床へ滑らせる。背中が扉の下を抜ける瞬間、金属端が擦れた。
迅が左腕で凱の上着を掴み、引いた。
防火扉が落ちた。
鈍い音。
凱の靴底が、ぎりぎりで向こうへ抜けた。
迅は息を吐いた。
「王様って、もう少し軽いと思ってた」
「去年、冠を返した分は軽い」
「誤差だ」
凱は壁へ背を預け、膝を伸ばした。
額に汗が浮いている。
「腫れた?」
「まだ」
「痛い?」
「質問を一つにしろ」
「痛い?」
「痛い」
「じゃあ三分休め」
「二分」
「誕生日は終わったぞ」
「値切るのは年齢と関係ない」
真琴が懐中時計を開いた。
「二分三十秒。双方が不満なら公平に近い」
「公平って、だいたい中途半端の別名だよな」
「中途半端で生き残れるなら、悪い名前ではない」
七瀬は撮影機を起こした。
画面には、閉じた防火扉と、床へ座った凱と、輪を回した迅の赤い右手が映っている。
「この扉、後で誰が開ける?」
七瀬が職員へ聞いた。
「反対側に、夜勤が三人います」
「連絡は」
「壁を叩きます」
職員は工具の柄で、扉を三回、二回、三回叩いた。
少し間を置き、向こうから二回、三回、二回が返る。
「何て?」
迅が聞く。
「こちらは三人。負傷なし。手動復旧へ移る」
「便利だな」
「古い設備は、通信が切れても働きます」
「新しい設備より賢い」
「新しい設備は、通信が切れることを失敗だと思う。古い設備は、切れる前提で作る」
凱は立ち上がった。
二分二十六秒だった。
真琴は何も言わず時計を閉じる。
四人は中央塔の内環へ進んだ。
そこから先は、扉ではなく人が塞いでいた。
白い防具を着た十二人。
旧中央警備隊の装備だが、胸札は一人ずつ違う。
病院接続。
給水接続。
記憶保全。
決裁設備。
同じ隊ではない。
先頭の女性が、短い棒を水平に構えた。
「限定入場は、外環までです」
「招集状には決裁環までとある」
真琴が答える。
「招集状の発効条件が、地域代表の出席です。あなた方は代表権を否定した」
「だから入れない?」
「だから、招集状だけでは入れない」
「あなたの判断は」
凱が聞いた。
女性は棒を下げなかった。
「決裁環を止めれば、私の担当する病院接続が不安定になる」
「止めるとは言ってない」
「冬城決裁官は、あなた方が停止を求めていると説明しました」
「全面停止は求めていない」
「証明は」
真琴が灰色の箱へ手を置いた。
「地域原文がある」
「中央で有効な文書ではない」
「中央で有効にするため、同じ文へ直す気はない」
「なら、ここでは無効です」
会話が一周した。
迅は女性の足を見た。
右足が半歩前。
棒は水平。
左肩の防具だけ擦れている。
戦い慣れているのではない。
扉を押さえ続けてきた人の身体だった。
「病院接続が不安定になると、何人困る?」
迅が聞く。
「現在、直接接続は十六人」
「十六人のうち、中央継続を望んでるのは?」
「私は患者情報を閲覧できません」
「じゃあ、何を守ってる」
「設備です」
「設備が守る人を知らずに?」
「知らないから、平等に守れる」
「知らないまま切ることもできる」
女性の棒が、ほんの少し下がった。
だが退かなかった。
「あなたは、何人を守る」
「分からない」
「なら通せない」
「分からないって言える奴を通さないと、分かったふりする奴しか残らないぞ」
「名言のつもり?」
「違う。困ってる」
女性は棒を握り直した。
「困っている者に設備を任せるほど、私は優しくない」
「優しさで通せとは言ってない」
迅は一歩近づいた。
棒の先が胸へ向く。
「通さないなら、避ける」
「暴力で?」
「できれば会話で」
「会話は終わった」
「じゃあ、できなかった方だ」
女性の棒が突き出された。
迅は半歩だけ退いた。
七歩ではない。
棒の先端が上着を掠める。
右手で掴めば、痺れた二指が遅れる。迅は左前腕で棒を外へ流し、女性の手首ではなく肘の内側へ肩を当てた。
押さない。
彼女が自分で踏み込んだ力を、隣の空間へ通す。
女性の身体が一歩横へずれた。
通路が空く。
迅は通らなかった。
後ろの十一人が、一斉に棒を構えたからだ。
「十二対四か」
七瀬が言った。
「撮る人を戦力に入れないで」
「俺も法務」
真琴が言う。
「凱は膝」
「俺だけかよ」
「あなたは執行って表示された」
「消しただろ」
「建物は覚えてる」
十二本の棒が動いた。
迅は三歩下がった。
右。
左。
右。
歩数を数えないようにした。
数えれば、身体が七へ向かう。
七へ向かえば、殴るべき源を探し始める。
ここにいる十二人は、同じ源ではない。
病院を守る者。
給水を守る者。
記憶を守る者。
給料を守る者。
自分の判断を守る者。
冬城の命令を守る者。
一つにまとめて殴れば、冬城と同じになる。
迅は棒の間を抜けた。
一本目を左手で押し下げる。
二本目を肩で受け、身体を回す。
三本目は凱が横から掴んだ。
「膝命は?」
「上半身には効かない」
凱は棒を奪わず、持ち主ごと壁へ向けた。自分の左脚を軸にしない。右足を前へ置き、壁と肩の間へ棒を挟む。
女性が凱の脇腹へ肘を入れる。
凱は息を吐いた。
反撃しない。
「元王が、ずいぶん地味だな」
「現役の膝が地味を要求してる」
真琴は戦いの外側で、灰色の箱を床へ置いた。
「病院接続。あなたの名前は」
棒を構えた男が答えない。
「氏名を聞いています」
「今?」
「今です。誰が誰を止めたか、残す」
「戦ってる最中だぞ」
「戦う前に聞けば答えた?」
男は黙った。
七瀬が撮影機を固定台ごと倒した。
床へ低くなる。
棒が三脚の上を通過した。
「映像、止める?」
真琴が聞く。
「本人が止めてって言うまでは、公開範囲を切る」
「撮影は続ける?」
「設備と時刻だけ」
七瀬は画角を下げた。
顔が入らない。
靴。
棒。
床の銀線。
誰かが踏んで割った警告札。
記録から人を消すのではなく、人の顔を使わず行為を残す。
迅は六本目の棒を避けた。
背中が内環扉へ触れる。
扉には四つの認証穴。
旧王。
法務。
記録。
執行。
「結局、四人分じゃないか」
迅が言う。
「役割を入れれば開く」
警備の女性が答えた。
「入れないって言っただろ」
「中央の役割を受けるなら別です」
「入るために、なれって?」
「安全は、責任の形がある方へ扉を開く」
「形って、箱かよ」
迅は認証穴を見た。
凱が王穴へ手を入れれば、たぶん開く。
真琴が法務を受ければ、開く。
七瀬が記録を受ければ、開く。
自分が執行を受ければ、開く。
四人が拒んできたものを、通行料として払えばいい。
「迅」
凱が呼んだ。
「分かってる」
迅は内環扉の縁へ右手を置いた。
冷たい。
痺れが増す。
「壊すな」
開閉責任者が言った。
「中の圧力が落ちる」
「壊さない」
「どうする」
「開ける」
「役割なしでは開かない」
「扉は、役割より古い」
迅は床へしゃがんだ。
扉の下端。
銀の認証板のさらに下に、黒い手動点検口がある。新しい設備が上から被さり、半分隠していた。
轟なら一目で見つけただろう。
迅は一目では見つけられなかった。
だから、警備の棒を避けながら、七回見た。
七歩ではない。
七回の見落としだった。
「真琴。箱の鍵」
「何に使う」
「太さが合う」
「証拠箱の鍵を工具にする気?」
「折らない」
「折ったら」
「謝る」
「弁償も」
「値段次第」
「先に言った方が負けだから、全額」
真琴は自分の鍵を投げた。
迅は左手で受けた。
点検口の小さな溝へ差し込む。鍵は本来の鍵ではない。だが溝の幅が同じだった。
九十度。
内部の古い留め金が外れる。
扉の下から、手動解放棒が三センチ出た。
迅はそれを引く。
動かない。
警備の棒が背中へ落ちた。
凱が自分の前腕を差し入れる。
鈍い音。
「王様」
警備の女性が言った。
「違う」
「では、なぜ彼を守る」
「友人だから」
「それは役割ではない」
「だから、中央塔には読めない」
凱は棒を押し返さず、迅の背中から外した。
迅は解放棒を両手で握る。
右の二指が滑る。
真琴が横へ来た。
左手を重ねる。
「法務は力仕事じゃないだろ」
「法務が力仕事でない国は、紙が軽いんだよ」
七瀬も撮影機を床へ固定し、右手を重ねた。
「記録は?」
「今、固定してる」
凱が最後に加わった。
左膝を曲げず、右足で踏ん張る。
四人で引いた。
解放棒が十センチ動く。
内環扉の中央に、細い隙間が開いた。
警備の女性が叫ぶ。
「圧力差!」
開閉責任者が床端末を叩いた。
「差圧〇・二。開放可能範囲です!」
扉がゆっくり横へ滑った。
四人は役割を入れなかった。
警備隊も、全員が追っては来なかった。
病院接続の女性だけが棒を下ろし、開閉責任者へ聞く。
「本当に〇・二?」
「記録を見ろ」
端末を渡され、女性は数値を確認した。
自分の判断で、通路の端へ退いた。
「私は賛成していない」
凱へ言う。
「賛成は求めていない」
「病院が止まったら、あなたを責任欄へ書く」
「俺だけにするな」
「逃げるのか」
「違う。あなたの判断も、開閉責任者の判断も、各地域の判断も書け。俺一人にしたら、また王になる」
女性は少し考えた。
「面倒な責任表になる」
「簡単な責任表で、人が死んできた」
「名言?」
「膝が痛い」
「それは関係ない」
「俺にはある」
内環の向こうは、円形の吹き抜けだった。
中央塔の心臓。
十二階分の空洞を、銀の輪が七重に囲んでいる。輪の間を、細い橋が放射状に伸びる。橋の下には、黒い冷却槽。上には、反証を逃がすための白い管が無数に垂れていた。
管の先は銀具へ集まっている。
銀具は、人の腕の形をしていた。
右手首から肘までを覆う、七枚の薄板。
その腕を着けた男が、最奥の決裁環に立っていた。
冬城征士郎。
病院の灰色の衣服の上に、中央決裁官の黒い外套を羽織っている。外套は肩からずれ、右側だけが重い。頬は削げ、唇の色が悪い。鼻の下には酸素管。左腕には点滴。点滴袋を持つ医療者が二人、環の外へ控えていた。
健康な王には見えなかった。
健康でないから、王でないわけでもない。
冬城は四人を見た。
「遅かった」
声は細い。
それでも吹き抜けの壁が拾い、十二階へ同じ音で返した。
「待ってたのか」
迅が聞く。
「街を待たせている」
「それ、だいたい待たせてる側が言う」
「君たちが地域の回答を揃えないからだ」
「揃ってないのが回答なんだよ」
「回答は、実行できなければ意見にすぎない」
冬城は凱へ視線を移した。
「獅堂凱。環へ」
「限定入場だ」
「ここまで来た者に、限定はない」
「ある。人が決めた」
「人は危機の前で、決めた範囲を越えて働く」
「だから範囲を越えた記録が要る」
「記録している間に、水は止まる」
「記録しないで動けば、誰が止めたか分からなくなる」
「分からなくても、水が出れば人は生きる」
「出なかった時、誰もいなくなる」
二人の間に、銀の輪があった。
冬城は右腕を上げた。
銀具の七枚が、乾いた音で開く。
「君なら調整できる」
凱へ言う。
「王位は空いている。旧王路の証者登録は残っている。君が中央継続席へ入れば、九地点の回答を一時保留し、病院、給水、境界、配給を三日間維持できる」
「その後は」
「三日のうちに新しい委任を取る」
「取れなければ」
「延長する」
「誰が」
「君が」
「それを王と呼ぶ」
「呼称は問題ではない」
「呼称を問題ではないと言う人間は、たいてい呼ばれる側じゃない」
冬城の目が細くなった。
「二十一歳になったそうだな」
「年齢は公開している」
「成人の責任を引き受ける時だ」
「王になるのは成人式じゃない」
「一人が決める方が速い」
「知ってる」
凱は答えた。
即座だった。
迅が横を見る。
凱の顔に冗談はなかった。
「知っている。俺が決めれば速い。今ここで座れば、北部の配給も、病院接続も、水門も、少なくとも今夜は動く。俺が誰かの異議を後に回せば、間に合う人間がいる」
冬城は微かに頷いた。
「なら」
「欲しいとも思ってる」
真琴が顔を上げた。
七瀬の撮影機が、小さな駆動音を立てた。
凱は続ける。
「命令すれば、迷わなくて済む。俺を憎む相手が一人に決まる。失敗した時、責任者の欄へ俺の名前だけを書けばいい。正直、楽だ」
「責任を引き受けることを、楽と言うのか」
「責任を独占することは、他人の責任を奪うことでもある」
「美しい言葉で、遅さを飾るな」
「飾ってない。俺は遅さが怖い」
凱の左手が、膝の装具へ触れた。
「遅れたせいで死ぬ人間もいる。決めないことで傷つく人間もいる。だから、王に戻りたくなる」
「戻れ」
「嫌だ」
「理由は」
「戻りたいからだ」
冬城が初めて黙った。
凱は一歩、決裁環へ近づいた。
左膝が遅れる。
それでも進む。
「欲しくない権力を断るのは、難しくない。欲しい権力を、他人が渡していないから取らない。それが俺の拒否だ」
銀の輪の外側で、警報が鳴った。
九地点の回答受領率。
北部路、七一%。
厨房網、六六%。
平文室、八二%。
放送所、公開中。
病院、四九%。
記憶庫、限定。
剛嶺、五八%。
水上、五三%。
中継室、部分遮断。
揃っていない。
冬城は表示を見た。
「これが君たちの国か」
「国じゃない」
真琴が答える。
「名前もない。地域本文も別。期限も違う」
「なら、瓦解だ」