第563話 第四章「七瀬の母」前編

六月二十日 午前十時十三分

 死者の映像は、反論しない。

 だから、生者は死者を証人にしたがる。

 火群七瀬は、母の記録媒体へ触る前に、指を三度拭いた。

 一度目は油を落とすため。

 二度目は汗を落とすため。

 三度目は、自分が触ったという事実を忘れないため。

 透明な容器の中に、濃褐色の磁気帯が巻かれている。

 公開証拠第四十七号。

 取得時刻順を守った結果、灯里の映像は三日目の午前になった。

 待った三日間で、冬城側は中央設備の救命実績を七件示した。

 地域側は反証受領者の症状を十一件示した。

 どちらも事実だった。

 どちらかを先に見た人間は、後の事実を言い訳として受け取りやすい。

 順番は中立ではない。

 ただ、順番を変えた人間の名が残っていれば、あとから疑える。

「肩の状態」

 法廷医療担当が尋ねた。

「安静時四。クランク二分で六。固定台なら五」

「局所注射を使えば」

「使わない」

「理由」

「痛みが消えると、止める時刻を逃す」

「注射を使わないことが、誠実さの証明ではありません」

「分かってる」

「我慢を映像へ入れないでください」

「それも分かってる」

「分かっている人は、三度聞かれる前に固定台へ渡します」

 七瀬は口元を水平にした。

「二分ごとに交代する」

「誰と」

 薄墨が、壁際で紙板を上げた。

《私ではない》

「頼んでない」

《先に拒否しておく》

「あなたの人生、だいたいそれだね」

《編集者は、不要な場面を先に切る》

「今日は切らない」

 七瀬は母の媒体を上映機へ装着した。

 撮影機は腰高の固定台。

 クランク担当は、零番街の記録係二人が交代する。二人とも、七瀬の指示で回すのではない。開始・停止条件を事前に署名し、独自に確認する。

 公開範囲は、九分三十六秒。

 限定閲覧が二箇所、合計二分十一秒。

 その間、公開画面は黒くする。ただし時刻、媒体回転音、上映機の停止なしを残す。

 七瀬は証人席へ座らなかった。

 撮影台の横に立つ。

「公開証拠第四十七号。火群灯里撮影。媒体封印番号AK―四一。取得時刻、保管鎖、複製時刻は提出済み」

 冬城側補佐官が尋ねる。

「あなたは、撮影者の娘ですね」

「はい」

「記録への感情的利害がありますね」

「あります」

「冬城評議官へ敵意がありますね」

「あります」

「薄墨影治へも」

「あります」

 薄墨が紙板を上げる。

《光栄》

 七瀬は見ない。

「したがって、再生と同時に誓痕を用います」

 撮影機の歯車へ、薄い光が走った。

 無編集〈ワン・テイク〉

 七瀬が回し始めた記録は、途中を切らず、時間の欠落を隠せない。

 真実を自動的に判定する力ではない。

 画角の外は映らない。

 撮る前の出来事も、撮影者の意図も、映像だけでは分からない。

「能力が、母の映像の真正性を保証するのですか」

「いいえ。いまから行う再生が切られていないことだけです」

「元の媒体が編集済みなら」

「編集済みのものを、編集済みのまま切らずに記録します」

「不完全ですね」

「完全なカメラは、人間より怖い」

 上映が始まった。

 画面は、中央技術局の小会議室。

 二年前、三月十七日。

 壁時計は午後七時五十八分。

 机上に銀板。

 若い技術者が七人。

 奥に冬城。

 灯里の声が、画面外から入る。

『記録開始。入室者八。説明資料三部。銀具試作二号』

 冬城は今より顔色がよい。

 右手の銀具に亀裂はない。

 技術者が説明する。

『成人決裁者の急性反証を、登録若年群へ分散します。個別値は二・五%以下。統計的には回復可能域です』

『回復可能とは』

 灯里が聞く。

『三日以内の解熱。意識消失は十五分以内。短期記憶欠落は二十四時間以内』

『誰の二十四時間?』

『登録番号ごとに監視します』

『名前は』

『匿名化されています』

 冬城が口を開く。

『名前が必要なのは治療担当です。決裁担当は、負荷上限と回復率を管理する』

『名前を知らなければ、止めやすい?』

 灯里の質問。

 冬城は、カメラへ目を向けない。

『知らなくても止められる設計にする』

『止める人は』

『私です』

 そこで、映像は限定区間へ入った。

 公開画面が黒くなる。

《限定閲覧 一分二十四秒》

《所有者の公開拒否》

《上映機停止なし》

 黒い画面の下で、時刻だけが進む。

 八時十二分十一秒。

 八時十二分十二秒。

 灯里の撮影機が回る音。

 誰かの呼吸。

 椅子を引く音。

 傍聴席がざわめく。

「黒い部分に、冬城の自白があるのでは」

 誰かが言った。

 七瀬は上映を止めない。

 真琴が、その発言を記録係へ伝える。

《傍聴者による内容推測。証拠評価へ不採用》

 黒は秘密の色ではない。

 見てよい人が限られている時間の色だ。

 公開映像へ戻る。

 冬城が銀板へ署名する場面。

 時刻、午後八時四十分。

 公開証拠第十八号の承認時刻と一致する。

 冬城は画面内で言う。

『個別の不利益は、統計的許容として監督記録へ残す。ただし、集計値が上限を超えた場合、私の決裁を停止する』

 灯里が聞く。

『個別の子が、上限ですって言ったら?』

『個別停止窓口を設ける』

『本人が窓口を知らなければ』

『説明責任は実施局にある』

『中央は?』

『監督する』

 灯里の声が、少し近くなる。

『監督記録は、誰が見られる?』

 技術者が資料をめくる。

『中央決裁室、技術局長、治療統括。月次集計は監査室』

『本人は』

『個別窓口から請求できます』

『請求書は、どこにある?』

『登録時に配布します』

 灯里のカメラが、説明資料の端へ寄る。

 紙束の一番下に、《個別停止申請》と書かれた薄い用紙がある。

 上には、治療協力同意書。

 その上に、訓練日程。

 さらに上に、配給加算案内。

 停止申請は、四枚の下だ。

『これを、本人が読む?』

『説明員が読み上げます』

『どの順番で』

『標準手順どおり』

『配給加算の前? 後?』

 技術者の指が止まる。

『標準手順を確認します』

 灯里は、そこで資料の位置を変えた。

『もう一回、最初からめくって』

『必要ですか』

『撮れてない』

『いま撮っていました』

『手が隠れた。申請書がどこにあるか分からない』

 技術者は、紙束を戻す。

 同じ動作を、もう一度する。

 七瀬の右手が、照合票の上で止まる。

 内容を確かめるための再現。

 撮影を成立させるためのやり直し。

 どちらとも言える。

 映像内の冬城が言う。

『灯里。説明者の動作を撮ることと、説明順を変えさせることは違う』

『変えてない。同じ順番でやり直してもらった』

『一度目の戸惑いは、二度目には消える』

『戸惑いも残ってる』

『二度目を見た人間は、一度目を偶然と判断するかもしれない』

『じゃあ、二回とも出す』

『出す範囲を、あなたが決める』

『決めた人の名前を出す』

『名前を出せば、中立になるわけではない』

『中立なんて言ってない』

 過去の二人は、いまの法廷を知らない。

 それでも、同じ問いを先に口へしている。

 灯里は技術者へ戻る。

『停止申請を出した人は、何人?』

『試験前なので、まだ』

『出したら、配給加算は』

『治療協力の実績に応じます』

『停止した期間は、実績に入らない?』

『制度上は』

 冬城が言う。

『そこは修正する。停止申請を不利益へ接続しない』

『いつまでに』

『試験開始前』

『誰が確認』

『私が』

 灯里のカメラが、冬城の右手へ寄る。

 銀具。

 指。

 資料端の空白。

『口頭じゃなく、ここへ書いて』

 冬城は、説明資料の余白へ書く。

《停止申請による配給・住居・治療上の不利益を禁ずる》

 署名。

 時刻。

 午後八時二十七分。

 七瀬は、映像を止めないまま、真琴へ確認票を送る。

 この追記が、実際の登録書へ反映されたか。

 真琴は、既提出の書式写しをめくる。

 初期登録書には、追記文がある。

 第二期の簡略書式では、配給に関する語が消えている。

 誰が消したかは、まだ分からない。

 灯里は、修正を引き出した。

 同時に、相手へ書かせる場面を作った。

 冬城に不利な記録だからといって、灯里のやり方が正しくなるわけではない。

 灯里のやり方が危ういからといって、追記された時刻が消えるわけでもない。

 画面の冬城は、余白へ書き終えると、カメラへ初めて目を向けた。

『あなたは、私が書いたことより、書かせた自分を撮っている』

『両方』

『同じ画面へ入らない』

『だから、次に私も映る』

 映像が揺れる。

 灯里が撮影機を技術者へ渡し、自分で冬城の隣へ立つ。

『いま書かせたのは私。これを使うか決めるのも私。異議があるなら、私の顔も撮って』

 技術者は戸惑いながら、灯里と冬城を同じ画角へ入れる。

 灯里は笑わない。

 冬城も笑わない。

 七瀬は、その画面を母の潔さとは呼ばない。

 自分を映せば、撮られたくない人を撮った責任が消えるわけではない。

 ただ、母が画角の外へ逃げなかった一度として、時刻を確認する。

 午後八時二十八分十六秒。

 映像の冬城と、法廷の冬城が、同じ画面に入る。

 七瀬は法廷の冬城へ寄らない。

 過去の冬城だけを、記録の大きさで映す。

 会議映像が終わる。

 次の場面は、同じ日の午後十時二十三分。

 中央技術局の裏口。

 雨。

 担架。

 登録若年者の一人が、反証試験後に運び出される。

 顔は映っていない。

 本人が拒否したため、灯里は下半身と担架の車輪だけを撮っている。

 少年らしい声がする。

『撮らないで』

 灯里の手が一度止まる。

『顔は撮らない』

『そうじゃない』

『何が』

『ここにいたって、残さないで』

 映像は、三秒止まる。

 それから、また動く。

 灯里は撮影を続けた。

 七瀬の右手が、固定台の縁を握る。

 薄墨は壁際で、目を閉じない。

 少年は担架で運ばれる。

 救護員が雨除けを落とす。

 灯里が言う。

『もう一度、入口から。今のままだと車輪が看板に隠れる』

 救護員が戸惑う。

『患者です』

『二十秒。さっきの位置から』

『本人が嫌だと』

『顔は出さない。施設から出された事実が必要』

 担架は、入口へ二メートル戻される。

 少年の声が、もう一度する。

『やめて』

 灯里は、撮った。

 映像の中で、雨が同じ場所へ二度落ちる。

 傍聴席から、息を呑む音がした。

 七瀬は、クランクを止めない。

 画面が二度目の限定区間へ入る。

《限定閲覧 四十七秒》

《本人の公開拒否》

《上映機停止なし》

 黒。

 時刻だけ。

 七瀬の左肩が震え始める。

 固定台なので持ち上げてはいない。それでも、長時間同じ姿勢で立ち、クランクの微振動を受ければ痛む。

 交代係が、事前条件どおりクランクへ手を伸ばす。

 七瀬は一瞬、離さない。

 交代係は引っ張らず、時刻札を示した。

《二分経過》

 七瀬は手を離す。

 撮影は続く。

 七瀬が回していなくても、七瀬の能力は途切れない。開始と終了の条件を守る他者が回せば、記録は一続きだ。

 母の不利な映像を、自分の手で最後まで回す必要はない。

 必要だと思うこと自体が、演出になる。

 公開映像へ戻る。

 灯里が、撮影機の前で誰かと口論している。

 相手は薄墨だった。

 若い。

 両耳が聞こえていた頃の薄墨。

『今の撮り直し、使う?』

『使う』

『拒否が入ってる』

『声は落とす』

『落としたら、拒否されたことも消える』

『施設から運び出された画が要る』

『要る画と、あったことは違う』

『編集で分ける』

『分けたら、見る側は分からない』

『あなたが字幕を入れて』

 薄墨は画面の中で、しばらく黙る。

『分かった』

 上映が終わった。

 時刻、午前十時二十八分四十六秒。

 七瀬は終了を宣言する。

「公開証拠第四十七号、再生終了。未編集記録終了。限定二箇所、時刻保持。映像内の取材拒否、撮り直し指示、音声削除相談を含む」

 肩の痛みは七。

 顔には出さない。

 出さないことが、強さの証拠になるのが嫌だった。

 医療担当へ、右手で札を出す。

《休止要請 十二分》

 審理官が休止を認めた。

 冬城側補佐官が立つ。

「上映内容への反対尋問は、休止後に」

「今、質問して」

 七瀬が言った。

 医療担当が首を横へ振る。

「休止申請を出したのはあなたです」

「質問一つ」

「申請を取り消す理由は」

「逃げたと思われる」

「誰に」

「傍聴者」

「傍聴者の誤解を防ぐために身体条件を変更しないでください」

 七瀬は黙った。

 薄墨が紙板を上げる。

《逃げても時刻は残る》

「あなたに言われると腹が立つ」

《正しい時ほど》

 七瀬は固定台から離れた。

 十二分後。

 証人席へ座る。

 冬城側補佐官の反対尋問が始まった。

「火群灯里は、被取材者の拒否を無視しましたね」

「はい」

「救助場面を撮り直しましたね」

「はい」

「音声削除を相談しましたね」

「はい」

「薄墨影治も同意した」

「はい」

「そのような記録者の映像を、信用できるのですか」

「全部は信用しません」

 傍聴席が揺れる。

「では、冬城評議官の会議映像も信用できない」

「人格では判定しません」

「この映像だけでは、冬城が後の反証転嫁拡大を予見したとは証明できません」

 申立側の席が静まった。

 七瀬は、自分たちに有利な映像の限界を先に記録へ入れた。

「撮影者が不正を行った」

「その不正も、同じ媒体に残っていました」

「残したから誠実だと?」

「違います」

 七瀬は、机上へ四枚の比較表を出した。

 比較表の真正性を確認するため、上映機の整備担当が呼ばれた。

 小柄な女だった。

 左袖に油染み。証人席へ座る前に、机の水平を小さな気泡管で測る。

「机が右へ一・五ミリ低い」

「証言へ影響しますか」

 審理官が尋ねる。

「磁気帯の回転には。私の記憶には、たぶん」

「たぶん?」

「人間も傾いた机では、物を落とさない方へ注意を使います」

 机脚へ薄板が一枚入れられた。

 整備担当は、上映機の歯車比、磁気帯の継ぎ目、発電機周期音を説明した。

「第四十七号の媒体に、時刻を切り詰めた接合はありますか」

「ありません」

「明度補正は」

「複製時に一回。原媒体は未処理」

「音量平準化」

「複製へ二箇所。波形は原音と一緒に提出」

「あなたは火群灯里から報酬を受けたことがありますね」

 冬城側補佐官が問う。

「あります」

「何回」

「七回」

「薄墨影治からは」

「三回」

「火群七瀬からは」

「二回。機材修理」

「利害関係がある」

「あります」

「なら、鑑定の信用性は低い」

「利害がない整備担当を、どこから連れてきますか」

「中央設備局にも技師はいる」

「その人も中央から賃金を受ける」

「全員に利害があると?」

「機械へ触った人は、誰かから賃金を受けています」

 整備担当は気泡管を机へ戻した。

「無給なら中立という考え方は、整備不良を増やします」

 傍聴席で、低い笑いが起きた。

 女は笑わせたつもりがなく、少し困った顔をした。

「では、あなたの鑑定を、どう検証する」

「同じ手順を三人が別々に行う。使った工具、開始時刻、停止時刻、失敗した測定も残す。私を信用しなくていいようにします」

「失敗した測定?」

「最初、発電機周期を二百八回転と読みました」

 法廷が静まる。

「正しくは」

「二百六。私が帯の伸びを一・二%ではなく一・九%で補正したためです」

「あなたの表は間違っていた」

「第一稿は」

「訂正版を出したから、現在は正しいと言う?」

「現在の値も、別の人が再測定できます」

「最初の誤りを隠さなかったことを、誠実さへ使うのですか」

 整備担当は、七瀬を一度見た。

「使いません。誤りは誤りです。隠したら、さらに別の誤りになります」

 七瀬は口を挟まない。

 母の映像を支える技術者まで、正しい人間に仕立てれば、同じことを繰り返す。

 整備担当が提出したのは、三枚の測定表だった。

 第一稿――二百八。

 第二稿――補正条件の訂正。

 第三稿――別技師による二百六・一の再測定。

「誤差〇・一」

 補佐官が言う。

「会議時刻を変えますか」

「一秒未満」

「では問題ない」

「問題はありました」

「結論へ影響しない」

「測定手順へ影響しました」

 整備担当は三枚を重ねず、横へ並べた。

「結論に届かなかった間違いも、次に届くことがあります」

 七瀬が、思わず言った。

「名言?」

「整備記録です」

 迅が警備線の外で小さく笑い、頬の傷を引きつらせた。

 比較表には、新しい一行が加わった。

《上映機鑑定――初回補正誤りあり。訂正履歴・再測定一致。会議署名時刻への影響一秒未満》

 母の媒体の信用は、母の人格にも、娘の覚悟にも、整備担当の誠実さにも預けられなかった。

 誰でもやり直せる測定と、やり直した痕跡へ預けられた。

 七瀬は比較表へ戻った。

「会議室の壁時計。公開証拠第十八号の銀板刻印。搬送車の入退場記録。発電機の周期音。四つが、午後八時四十分の署名で一致しています」

「編集で合わせた可能性は」

「発電機の回転数は、当日の燃料混合比と一致。映像内の音を後付けした場合、磁気帯の層へ継ぎ目が出ます。ありません」

「薄墨影治が高度な編集を」

「薄墨」

 七瀬は、初めて彼の名を呼んだ。

 薄墨は限定証人席へ移り、紙板を置く。

「会議場面を編集した?」

 薄墨は書く。

《明度補正。音量平準化。時刻の切断なし》

「救助場面は」

《拒否音声を三秒削った公開版を作った。原版には残した》

「なぜ原版を消さなかった」

《消すと、灯里が怒るから》

「倫理で残したんじゃない」

《違う》

「母を守るため?」

《違う。後で別の編集に使えると思った》

 傍聴席から罵声が上がる。

 薄墨は聞こえない。

 しかし、口の形と床の振動で分かる。

 彼は紙へ書き足した。