第423話 第六章「本番の事故」前編
十一月三十日 午前十時三十分
映像は、似ているだけで人を連れていく。
灰色の紙片。
低い空。
水に濡れた模型街区。
銀色の避難灯。
黒い雨合羽。
火群七瀬は、母の映像を知っている。
母が撮った黒雨当日の断片にも、同じ角度の屋根があった。
同じ形の斜路。
同じように、画面の左から右へ逃げる人。
似ている。
だから七瀬は、撮影開始の最初に現在時刻を言った。
「十一月三十日、午前十時三十分零四秒。青灯再演劇場、公開認証演習。これは黒雨当日の映像ではない」
クランクを回す。
「午前十時三十分十一秒。観覧席四百八十六人。参加登録六十四人。運営・設備・医療・記録担当、別名簿。現在、実事故報告なし」
最後の一文を、七瀬は入れた。
実事故報告なし。
安全だとは言わない。
確認できたのは、報告がないことだけ。
カナタの全演目中止後、運営は催しの名称を変えた。
《黒雨救助記録・公開認証演習》
演目ではない。
劇ではない。
公演ではない。
しかし観客席があり、開幕時刻があり、配役があり、照明がある。
名前を変えた物が、別物になるとは限らない。
カナタは演出家席へ座っていなかった。
安全監視卓の横。
右足首へ厚い固定帯。
首から《演出停止申立人》と書いた札を下げている。
「札が悪役みたい」
七瀬が言った。
「役ではありません。現在の技能と立場です」
「技能?」
「異議を長く述べる」
「確かに」
「短くもできます」
「何文字」
「中止せよ」
「四文字」
「優秀でしょう」
「設備を止められる?」
「言葉では」
「役に立たない」
「今日の火群さん、鋭い」
「今日も」
カナタは笑う。
笑った直後、右足を少し浮かせる。
痛む。
「参加者は、なぜ残った」
七瀬。
「それぞれ」
「あなたは」
「帰れば、私の台本を私のいない場所で使われます」
「止められない?」
「法的には争えます。今日の水より遅い」
「水?」
「放水演出。正午開始」
「比喩でなく?」
「今日は私も具体的です」
七瀬は撮る。
六十四人の胸には、二枚の札がある。
表に役名。
裏に技能。
運営は認証上、役名の表示を求めた。
参加者は、自分で裏返せるよう紐へ回転金具を付けた。
凱の表は《中央英雄》。
裏は《声/担架一回/左膝・反復階段不可/地図は他者へ》。
迅の表は《逃げ遅れ少年》。
裏は《歩行・狭所/組技/右手寒冷症状/深水注意/七歩を期待しない》。
イオの表は《能力を失った負傷者》。
裏は《時間管理/器具修理/右腕強化なし/膝硬直/不整脈》。
タマキの表は《家族を探す子ども》。
裏は《住所記憶/結索/伝令/左耳圧外傷・方向確認》。
役が見える。
身体も見える。
二つが同時にあることを、運営は嫌った。
「映像上、情報が多すぎます」
八城レムは言った。
白と黒の試験服。
八本の髪留め。
境界外の判定席。
「見学者は、どちらを見ればよいか迷います」
「人」
七瀬。
「教育上の焦点です」
「人を見れば」
「人は六十四人います」
「だから、六十四人見る」
「不可能です」
「一人へまとめるより、正直」
「映像は選択です」
「知ってる」
七瀬は撮影機をカナタへ預けた。
左肩が熱い。
朝から固定台を押し、もう限界が近い。
「持てますか」
「演出家へ撮影機を?」
「固定台を二メートル。肩が休むまで」
「撮影は」
「止めない。あなたがクランク。画角は私」
「責任は」
「撮影操作、あなた。画角と公開判断、私。今言った」
「受領」
カナタが右手でクランクを回す。
「速度」
「毎秒十六齣。速い」
「役者時代は、もっと速く回しました」
「映像が速い」
「私が美しく見える」
「今、あなた映ってない」
「観客の心に」
「余計に遅い」
七瀬は腰高の固定台へ身体を預けた。
肩を下げる。
息を吐く。
午前十時四十五分。
認証演習が始まった。
観覧席へは、黒雨当日の時系列が掲示される。
《第一景 誤誘導》
《第二景 倒壊》
《第三景 救助者の到着》
《第四景 放水路突破》
《第五景 英雄の帰還》
最後まで題がある。
人が生きて帰る前に、結末が決まっている。
第一景。
灰色の紙片が降る。
避難者役が北へ流れる。
英雄役が南を指す。
今度は復唱担当もいる。
文字板もある。
百舌の手話もある。
予定どおり進む。
第二景。
倒壊模型が落ちる。
前回の不具合箇所は交換された。
轟が音を聞き、予定落下だと頷く。
滑車班が出る。
英雄一人で持ち上げず、技能札に従う。
観覧席の一部がざわめく。
脚本と違う。
だが、救助人形は出る。
レムの判定灯が黄色になる。
《再現精度低下》
カナタが小さく舌打ちする。
「音、記録」
七瀬。
「舌打ちも?」
「現在の判断」
「美しくない」
「必要」
「受領」
第三景。
英雄役の到着。
凱は高台へ上がらない。
平地から声を出す。
「現在の避難路は南。聞こえない者へ復唱。走れる者が先ではない。前の歩幅へ合わせる」
公認台詞と違う。
《我に続け》
その一文を言わない。
判定灯が赤になる。
《型不成立》
レムが通話を入れる。
「獅堂凱。台詞を修正してください」
「修正済みだ」
「公認台詞へ」
「現在の人員へ合わせた」
「認証は史実動作です」
「史実の原記録に、この台詞はない」
「統合版にあります」
「統合した者が、今ここで担架を持つか」
「議論は終了後に」
「移動を優先する」
凱は通話を切る。
観客席で、誰かが拍手しかける。
隣の人が手を止める。
ここは、観客が拍手をやめて退出した祝祭劇場ではない。
拍手で決めない。
第四景。
正午十一分。
放水路突破。
予定では、西の貯水槽から毎分二百リットルの着色水を流す。
深さ、最大十二センチ。
水圧、歩行訓練用。
三分後に自動停止。
七瀬は現在時刻を入れる。
「正午十一分零九秒。放水演出開始予定。流入前、水深零」
警告灯。
青。
設備音。
低いポンプ音が、地下から上がる。
轟が顔を上げた。
「回転、高い」
「予定値です」
設備担当が通話で答える。
「何回転」
「制御卓表示、一分あたり千二百」
「音、千五百以上」
「表示は正常」
「止めろ」
「開始直後です」
「止めて測れ」
「認証工程が――」
水が来た。
予定の細い流れではない。
放水路の格子から、白い塊が噴き上がった。
最初の一撃で、演出用の木箱が三つ浮く。
足首まで、一秒。
脛まで、三秒。
七瀬の撮影機が振動する。
「正午十一分十七秒。流入量、予定超過。実事故の可能性。これは黒雨当日の映像ではない。現在の事故です」
「停止信号!」
カナタが叫ぶ。
赤い非常旗が上がる。
しかし、舞台時計は進み続ける。
自動停止まで、二分四十秒。
放水路の奥で、金属板が外れた。
流れが東へ曲がる。
脚本上の避難路へ直撃する。
「南へ行くな!」
轟。
公認脚本では南。
現実の水も南へ行く。
避難者役が止まる。
役札を見る。
英雄を見る。
水を見る。
一秒の迷い。
迅が一人の肩を押す。
倒さない。
身体を横へ向ける。
「西の階段!」
「史実経路は南です!」
進行係が放送する。
「現在、南は水!」
七瀬が返す。
「訓練を継続してください。追加障害として――」
「正午十一分二十九秒。予定水深十二センチを超過。現在、中央で二十一センチ。追加障害ではない。現在の事故」
七瀬は時刻を繰り返す。
母の映像に似ている。
流される木箱。
倒れる人。
水面へ映る避難灯。
画面右から左へ走る救助者。
似ている。
だからこそ、今の名を言う。
「竜胆迅、現在西階段へ誘導。獅堂凱、南路の閉鎖を復唱。伏見轟、放水格子へ移動。これは岳の記録ではない」
クランクを回すカナタの呼吸が荒い。
「火群さん」
「何」
「右から、水」
固定台の脚へ流れが当たる。
七瀬は左肩で押さえそうになり、止める。
「肩、使わない」
自分へ言う。
「私が支える」
カナタが右足を踏ん張る。
固定帯の内側で、古傷が熱を持つ。
「足」
「新規断裂なし予定です」
「予定で身体決めない」
「ごもっとも」
二人で台を高所へ動かす。
水は二十八センチ。
転んだ訓練生の膝が、木箱へ挟まった。
英雄役が駆け寄る。
台本では抱き上げる。
「持ち上げない!」
イオの声。
「箱を回す。三人。本人、足の感覚」
「ある!」
「痛み」
「七!」
「自分で抜ける?」
「無理!」
「箱を三十度。凱、押すな。引く。轟は来ない、格子へ行かせろ」
イオは元能力者役の札を裏返す。
《時間管理/器具修理》
右腕強化はない。
普通の腕も、濡れれば滑る。
「一、二、回す」
箱が回る。
膝が抜ける。
本人が自分で足を抱え、担架へ乗る。
救助場面が、英雄の画にならない。
七瀬は撮る。
顔へ寄らない。
手。
箱。
足。
誰が命令したか。
誰が拒否したか。
水深、三十五センチ。
自動停止時刻を過ぎた。
ポンプは止まらない。
「正午十三分五十秒。予定停止時刻を通過。放水継続」
観覧席の前に透明障壁がある。
見学者は、水を演出だと思っている。
歓声が上がった。
劇場側の音響が、緊迫音を重ねる。
「音を止めて!」
カナタ。
「自動進行です!」
「放送卓!」
「制御室が応答しません!」
レムが判定席で立つ。
「観客映像を切ります」
「事故を伝える」
七瀬。
「混乱します」
「今、事故を演出だと思ってる」
「避難指示を準備します」
「現在時刻と事故を先に」
「確認が不十分です」
「水が脚本より深い」
「設備異常は確認しています。しかし、観覧席へ無検証情報を――」
「何を待つ」
「原因」
「事故の原因が分からなくても、水は本物」
「教育資産として記録を保全しながら――」
「資産?」
七瀬の声から、敬語が増える。
「八城試験官。現在、参加者の膝まで水があります。あなたが守ろうとしている記録は、誰の身体で作られていますか」
「記録がなければ、次の事故で同じ失敗をします」
「撮る。公開範囲は後で決める。事故の告知を止める理由にはならない」
「観客が一斉に退出すれば、北通路が塞がります」
「退出させろとは言ってない」
「では」
「見学者へ現在を知らせる。そこから、座る、手伝う、退出を選ぶ」
「選択肢を増やせば統率を失います」
「役だけにすれば、人を失う」
レムは操作卓へ手を置いた。
観客席への映像が暗くなる。
七瀬の現在映像が切れた。
代わりに、事前編集された黒雨当日の再現映像が流れる。
画面の中では、英雄が一人で梁を持ち上げている。
観客は静まる。
事故現場の音が、映像の音楽に消される。
「正午十四分三十三秒」
七瀬は、自分の撮影機だけへ言う。
「観客向け現在映像、八城レムの操作で停止。事前編集映像へ切替。場内放送は演習継続を示している。現在の水深、中央四十一センチ」
カナタがクランクを回し続ける。
「私の演目は中止した」
「はい」
「でも映像は、私の構図」
「はい」
「殺陣も」
「はい」
「中止しても、残った」
「はい」
「責任は」
「今、撮る」
「後で?」
「後で言葉へする。今は現在」
舞台奥で、大きな破裂音。
可動街区の住宅模型が動き始めた。
予定では第五景の最後。
いまは早い。
水が巻上機の信号箱へ入ったのか。
制御の原因は分からない。
住宅模型が、南から北へ回転する。
西階段の出口へ壁が迫る。
「全員、止まれ!」
凱の声。
能力の圧はない。
水と音楽と歓声に埋もれる。
百舌が手話を上げる。
文字板が濡れる。
墨が流れる。
タマキが赤い札を高く掲げる。
《西階段 閉じる》
《東市場 二列》
《南 水》
《北 模型移動》
能力はない。
札は濡れる。
文字は残る。
「移動完了まで四十秒!」
設備担当が叫ぶ。
「止められないの?」
イオ。
「制御室から!」
「手動」
「西巻上塔!」
轟が、第一日から訊いていた場所。
遠い。
水の向こう。
可動模型の反対側。
「俺が行く」
迅。
「深い」
タマキ。
「まだ腰下」
「増える」
「だから今」
「僕も」
「お前は伝令」
「住所、知ってる」
「西巻上塔?」
「移動予定図。保守梯子。三つ」
「耳」
「足で確かめる」
迅は一瞬だけ、タマキを見る。
子ども扱いをする言葉を飲む。
「前、俺。札、お前。三十歩で止まる」
「前と同じ」
「今日は水がある」
「料金、二倍」
「生きてから」
「受領」
二人が水へ入る。
迅の呼吸が、一度止まる。
七瀬は見た。
撮る。
「正午十五分零一秒。迅、深水反応あり。自力で呼吸再開。タマキ、右側から声かけ」
「迅」
タマキが言う。
「水、膝。顔じゃない」
「分かってる」
「声、遅い」
「歩け」
「三十歩」
足を進める。
迅は、七歩を数えない。
一。
二。
三十。
止まる。
壁。
札。
呼吸。
住宅模型が回る。
西階段の出口が、半分になる。
先頭の避難者役が、通り抜けようとする。
凱が止める。
「一人ずつ。肩を横へ。荷物を先に」
「脚本では、英雄が最後に――」
「脚本を裏返せ」
凱は自分の札を裏返した。
技能面。
「声。担架一回。地図は他者へ。俺の指示は、現在の経路だけだ。拒否は言え」
一人が言う。
「怖い」
「受領。何が必要だ」
「前の人と手をつなぎたい」
「前の人、受けるか」
「受けます」
「つなげ」
二人が通る。
別の一人。
「膝が」
「階段を避ける」
「別路は?」
「確認中」
「待つ」
「受領」
英雄の帰還場面は、始まらない。
第五景の音楽だけが流れ始める。
記録映像の中で、一人の英雄が冠を掲げる。
現場では、六十四人が濡れた技能札を裏返している。
七瀬は現在時刻を言う。
「正午十六分四十七秒。公認演目、第五景の音響開始。現場は第四景の事故対応中。演目は進んでいない」
レムの声が、内部通話へ入る。
「記録上の進行を止めないでください。現在の事故を追加障害として統合します」
「統合するな」
七瀬。
「記録へ残すためです」
「違う時間を一つへするな」
「教育上、事故対応を含めれば演習は完遂できます」
「完遂してない」
「最終避難と英雄帰還を実施すれば」
「誰を帰還させる」
「英雄役です」
「今、水の中にいる人の名は」
「名簿にあります」
「なら役で呼ぶな」
通信が切れる。
八城が切ったのか。
水で落ちたのか。
七瀬には分からない。
分からないと記録する。
「正午十七分十二秒。八城との通話切断。原因未確認」
舞台時計は止まらない。
黒雨当日の時刻を再現する針。
現在の事故と関係なく、予定された結末へ向かう。
七瀬は母の映像と同じ角度へ立っている。
水。
倒壊。
逃げる人。
助ける人。
母なら、どこへ寄ったか。
英雄の顔か。
泣く子か。
倒れる瞬間か。
七瀬はレンズを少し下げた。
濡れた役札。
裏に手書きされた技能。
札を自分で回す指。
「これは、黒雨当日の映像ではない」
もう一度言う。
「これは、十一月三十日、正午十七分四十秒の事故です」
可動街区の壁が、西階段へ接触した。
鉄が潰れる音。
出口が閉じた。
閉塞が起きるまでの二分間に、事故は一つではなくなっていた。
南放水路。
北住宅模型。
西階段。
地下通路。
観覧席。
同じ警報が鳴っても、必要な動きは違う。
南では、水が足首から膝へ上がる。
北では、模型の回転が止まらず、壁と壁の間隔が狭くなる。
地下では、非常灯が点滅し、明るい時だけ進む者と、暗い時だけ動ける者がぶつかる。
観覧席では、事前映像の音楽が大きすぎて、現場の警報が演出に聞こえる。
「四つ同時」
七瀬が言う。
「五つです」
観覧席の警備員。
「観客席は事故区域ではありません」
「事故だと分からないことが事故」
七瀬は撮影機を一度、固定台へ預けた。
左肩が熱い。
クランクを回す腕と、画角を選ぶ目を同じ身体へ置き続ければ、先に身体が止まる。
「カナタ。回して」
「毎秒十六齣」
「現在時刻を三十秒ごと」
「台詞は短く」
「それは私が決める」
「受領」
七瀬は記録板へ五本の線を引く。
《南 水位》
《北 街区位置》
《西 通行幅》
《地下 照明》
《観覧席 事故認知》
一本の英雄動線へ、五つを重ねない。
南から声。
「歩行役一名、靴が脱げた!」
「名前」
「役名は《父を探す少女》」
「本人の名」
返答が遅れる。
「名簿確認中!」
「現在位置と身体」
「水深三十四。右靴なし。足底に切創なし。歩ける」
「本人へ、裸足で進むか、靴を待つか」
「演習では進行です」
「本人へ」
数秒。
「待つ。足を洗いたい」
「受領。南、待機一。役名は記録から外す」
北。
「模型間隔、あと一・五メートル!」
「中の人数」
「英雄役二、避難者役六」
「実数」
「八!」
「技能」
「未確認!」
「役で数えるな。出られる幅を先に」
地下。
「暗転周期、七秒!」
「停止できる?」
「制御なし!」
「歩く人を明暗で分ける。見える時に動く人、暗い方が眩しくない人。触覚索を一本」
「脚本では停電後、英雄の灯が」
「能力停止区画に灯はない」
観覧席。
「事前映像を止める権限がありません」
警備員。
「現在事故の字幕を重ねて」
「映像管理者が不在」
「不在の名」
「部署です」
「人」
「確認中」
確認中。
事故の中で最も速く増える言葉だった。
七瀬は、確認中を消さない。
《映像管理者、所在確認中》
《停止権限者、未特定》
《観客へ実事故未告知》
カナタがクランクを回しながら言う。
「私が放送します」
「権限」
「演出停止申立人」
「非常放送へ届く?」
「鍵がない」
「できること」
「観覧席の前へ行って叫ぶ」
「足」
「走れない」
「他の声」
凱を見る。
凱は北の担架を支えている。
今、声だけを借りれば、身体の仕事が抜ける。
「声担当を探す」
カナタは技能札をめくる。
《声が届く》と書いた参加者は三人。
一人は地下。
一人は過呼吸を起こしやすい。
一人は観覧席側の読み上げ担当。
「一人で全部へ言わせない」
七瀬。
「私は何を」
「文章を作る。短く」
「難題」
「現在時刻。実事故。事前映像ではない。座席待機か退出かは通路確認後」
「英雄はいない?」
「今は要らない」
カナタは三行へする。
《現在、実事故》
《映像は事前記録》
《移動指示は現在放送だけ》
読み上げ担当へ渡す。
しかし、非常回線はまだ開かない。
観客席には届かない。
七瀬は記録する。
「正午十六分十二秒。実事故告知文作成。放送不能。原因、権限鍵と回線固定。代替、警備員による列単位の口頭伝達を提案」
「提案を受けます」
先ほどの警備員が言う。
「全部の列へは十五分」
「最初にどこ」
「出口へ近い列。動き出す可能性が高い」
「受領」
警備員が走る。
七瀬は撮らない。
彼の顔を英雄へしない。
撮るのは、観覧席の列番号へ貼られる三行の紙。
一列目。
二列目。
三列目。
事故を知る順番が、座席で違う。
後ろの列では、まだ音楽へ拍手する人がいる。
前の列では、薬を持って立つ人がいる。
同じ観客ではない。
同じ時刻にも、別の現在があった。
閉じた出口の手前で、列が止まった。
最後尾は、まだ南放水路に近い。
先頭は、壁。
間に二十七人。
前へ行けない。
後ろへ戻れば、水が深い。
英雄物語なら、壁を破る場面だ。
迅は壁を見た。
拳を見た。
七歩を取れる幅はない。
「殴る?」
タマキが訊いた。
「向こうに人」
「七人くらい」
「くらいで殴らない」
「確認する」
タマキは壁へ耳をつけない。
左耳は方向を誤る。
鉄箱の底を壁へ当て、反対側へ拳で三回叩く。
金属が響く。
返事。
一回。
間。
二回。
「人数じゃない」
「何」
「合図知らない」
百舌が来る。
鈴柄で一定の三打。
返事を待つ。
相手も三打。
同じ間隔。
次に一打ずつ、区切る。
一。
一。
一。
一。
一。
一。
一。
「七」
七瀬が記録する。
「正午十七分五十八秒。西階段閉塞壁の反対側、人員反応七。実名未確認。壁破壊は保留」
進行係が放送する。
「英雄役は倒壊壁除去へ移行!」
凱が振り返る。
「放送を止めろ」
「標準手順です!」
「壁向こう七人」
「訓練上は救助対象です」
「実際の人だ」
「だから救助を」
「英雄役が壁を壊す手順か」
「はい」
「向こうの安全を確認したか」
「訓練配置上、退避帯です」
「人がいる」
「退避帯の人員も訓練対象へ――」
「今、対象にしたのは誰だ」
進行係の声が止まる。
壁向こうの七人は、演目へ入っていない。
待機する技術補助。
役札もない。
事故が起きた途端、救助対象へ変えられる。
本人に聞かず。
「七人へ、破壊してよいか訊ける?」
七瀬。
「音だけです」
百舌が手話を考える。
壁を叩く合図は、複雑な質問へ向かない。
タマキが赤札へ大きく書く。
《壁を壊す》
《危険》
《離れられる?》
排煙窓の細い隙間へ札を入れる。
向こうから、札が戻る。
《離れられない》
《脚、挟まれ一》
《壁、押さえてる二》
壁を壊せない。
「英雄役、待機」
凱。
「待機では認証が」
「現在の技能へ変える」
七瀬は、観覧席の事前映像と現在映像を同時に撮る。
事前映像では、英雄が壁へ拳を打つ。
一撃。
壁が割れる。
向こうの避難者が歓声を上げる。
現在では、迅の拳は下がったまま。
壁の下で、人の指が見える。
壁を支えている。
「正午十八分十一秒。公認映像は壁破壊。現在は壁向こう七人、うち一人の脚が挟まれ、二人が壁を支えているため破壊不可」
七瀬は、同じ画面へ重ねない。
二本の記録として残す。
母の映像なら、一人の英雄へ寄ったかもしれない。
七瀬のレンズは、壁下の指へ寄る。
顔は見えない。
名前もまだない。
「撮っていい?」
隙間へ声を送る。
返事の札。
《手だけ》
《顔なし》
「受領」
手だけを撮る。
後方で水が増す。