第519話 第六章「朝の加担」前編
罪を小さく説明する技術は、行政文書の中にたくさんある。
一部。
不十分。
想定外。
運用上。
遺憾。
御厨朝は、それらを使える。
使えるからこそ、使わないと決める必要があった。
四月二十三日、午前七時三十五分。
紙文書庫の地下三階には、窓がない。
湿度計が二つ。
温度計が三つ。
時計が四つ。
時計はすべて同じ時刻を示している。
朝は、まずそこを疑った。
「同期しています」
文書庫員が言う。
「何へ」
「中央標準時」
「機械時計?」
「端末時刻です」
「原本の受領時刻は」
「端末で記録」
「紙が届いた実時刻は」
「同じです」
「必ず?」
「規則上」
朝は、黒い杖を床へ置いた。
地下の石床は冷たい。
右足の感覚が鈍くなる。
長く立てない。
折畳椅子へ座る。
「規則上同じことと、実際に同じことを分けてください」
文書庫員は、嫌そうな顔をしない。
困った顔をする。
「実時刻は、搬入鐘で」
「鐘の記録」
「屋上機械時計と連動する紙帯です」
「ここには」
「複写だけ」
「原本は」
「屋上」
朝は覚えておく。
今は、原案ログを探す。
文書庫員が、薄い箱を出す。
《緊急命令更新規則 初期草案》
箱の角に、朝の署名。
二年前。
彼女の脚が壊れる前。
過半数の歩幅を、正しい方向へそろえられると信じていた頃。
蓋を開ける。
最初の紙。
《発令者不在時の安全弁》
筆跡は、朝のものだった。
読みやすい。
余白が一定。
訂正が少ない。
当時の自分は、自分の判断を疑う時間まで整えていた。
「撮影します」
七瀬が言う。
腰高の固定台。
左肩を上げない。
「公開範囲」
朝。
「文書全文。個人住所、家族情報なし。署名は職務署名として公開」
「私の顔は」
「今は撮りません」
「理由」
「紙が先です」
「受領」
朝は、自分の文を読む。
《重大な人命危険が切迫し、発令者または代行者の確認が期限内に得られない場合、異なる二部署が具体的理由、影響範囲、判断者氏名を記して更新を認定できる》
《更新は一回、最長二十四時間に限る》
《二回目以後は、外部審理担当一名、現場受領者一名、拒否窓口担当一名の確認を要する》
《更新により生じた損害は、更新を認定した各判断者が別々に説明する》
朝は最後まで読んだ。
「条件があった」
石上忠が言う。
「今より厳しい」
「だから、後から削った人が悪い?」
朝は、すぐ答えない。
「それだけではありません」
「あなたは条件を入れた」
「自動更新という方法を提案したのは私です」
「一回だけ」
「一回あれば、二回目を作れる」
「でも、二回目の条件も」
「条件が守られることを、文書だけで保証できると思っていた」
「守らなかった奴が」
「守らせる仕組みが弱かった」
「全部、自分のせいにするのも逃げだろ」
石上の声が強くなる。
「他の奴の名前が薄くなる」
「はい」
朝は頷く。
「私だけの責任ではありません」
「なら」
「私の責任がない、という意味でもありません」
石上は黙った。
七瀬の撮影機が、紙を一枚ずつ記録する。
草案の次に、会議記録。
当時の議事。
《発令者が倒れた場合、命令の空白が生じる》
《空白は現場を混乱させる》
《二部署認定を安全弁とする》
朝の発言。
《多数の判断を経れば、個人の恣意を抑制できる》
彼女は、その一文で止まった。
多数。
自分の両脚を壊した言葉ではない。
先に、自分が使った言葉だった。
「読みますか」
七瀬。
「はい」
「声の記録も」
「はい」
朝は、自分の発言を読む。
「多数の判断を経れば、個人の恣意を抑制できる」
声は揺れない。
揺れない声が、正しいとは限らない。
「私は、多数へ分けることで、責任も分散する危険を十分に考えませんでした」
石上が言う。
「十分に、って言った」
朝は彼を見る。
「今のは小さくしました」
「どこ」
「考えなかった、ではなく、十分に考えなかった、と」
「少しは考えた?」
「会議記録には、一行だけ懸念を書いています」
「じゃあ本当だ」
「本当でも、今使うと、自分を小さく見せます」
朝は言い直す。
「私は、責任が分散して持ち主が消える危険を、制度設計へ入れませんでした」
七瀬が時刻を記録する。
午前七時五十八分。
訂正前の言葉も消さない。
朝は、箱の底からもう一枚を見つけた。
自動更新端末の要求仕様。
発注者欄。
《御厨朝》
承認欄。
六名。
実装後の試験項目。
《発令者不在時、二部署認定で自動印刷されること》
合格印。
朝の印だった。
「ここまで、あなた?」
石上。
「はい」
「今の端末を作った」
「原型を発注し、試験を承認しました」
「条件が削られる前?」
「前です」
「なら、今の悪用は」
「後からです」
「じゃあ」
「でも、名前のない職名印刷を認めたのは、最初からです」
要求仕様の七項。
《緊急時の出力速度を優先し、判断者氏名は別ログとする》
別ログ。
誰も見ない場所。
後から失われても、紙の表面には残らない。
「なぜ別に」
七瀬。
「印刷が遅くなると考えた」
「何秒」
「当時の端末で、最大九秒」
「九秒のために、名前を裏へ」
「はい」
朝は、九秒を言い訳にしない。
九秒が命を分ける場面もある。
だからこそ、九秒を短縮するために何を失ったかを説明する。
「この文書を、今日の放送で読みます」
石上が顔を上げる。
「今?」
「放送形式が整い次第」
「命令を止める前に、自分の審理を始めるのか」
「私の責任を後へ送ると、他の人へ名乗れと言えません」
「協力を外されたら」
「その判断にも従います」
「従って逃げる?」
「作業を続けたいと異議を出します」
「面倒だな」
「人間は」
「その台詞、もう禁止」
石上は紙箱を閉じなかった。
朝の署名が見える向きへ、蓋を壁へ立てた。
午前十時十二分。
放送所の赤灯が点いた。
客席はない。
演台もない。
低い机。
機材箱。
正式文。
平文。
退出記録。
朝は、黒い杖を机の横へ置いた。
座って話す。
立たないことを、弱さの演出にもしない。
立てるふりもしない。
カナタが開始時刻を読む。
「四月二十三日、午前十時十二分。暫定命令の自動更新規則について、原案作成者が自分の関与を説明します」
彼の声は、舞台より低い。
響かせない。
語尾を上げない。
沈黙を埋めない。
「この放送を見続けることは、説明者への支持、命令への賛成、今後の審理への意見を意味しません。途中で退出できます。理由は求めません。録画は自動再生されません」
五秒の無音。
カナタは朝へ向く。
「御厨朝さん。まず、氏名と現在の立場を」
「御厨朝。調停官。現在、同調命令および暫定命令更新規則に関する審理対象者です。今回の七十二命令の調査へ、期限付きで協力しています」
「あなたは、七十二本を出しましたか」
「いいえ」
「自動更新を作りましたか」
朝は、一拍置いた。
「原型を提案し、端末の要求仕様を承認しました」
画面の外で、塩見が接続数を記録している。
カナタからは見えない。
「なぜ」
「発令者が倒れた、連絡不能になった、責任者が決まらないといった場合に、人命に必要な命令が期限切れになることを防ぐためです」
「今の使われ方も、想定していましたか」
「いいえ」
「想定外?」
朝の口が、その便利な言葉を知っている。
「想定しなかった責任があります」
「条件は付けた?」
「付けました」
「後から削られた?」
「削られました」
「なら、削った人が悪い?」
「削った人には、それぞれの責任があります。私には、自動更新を安全弁として制度へ入れ、判断者氏名を紙面から別ログへ移した責任があります」
カナタは、次の質問へすぐ行かない。
四秒。
朝は、カメラを見ない。
レンズの少し横。
「九秒を短縮するため、名前を別ログにした、と資料にあります」
「はい」
「九秒は、人命に関わる?」
「関わる場合があります」
「では、正しかった?」
「人命に関わる九秒があることと、名前を消してよいことは同じではありません」
「今なら、どうする」
「命令本文と同じ紙面に判断者氏名を出します。緊急時は仮名札でもよいが、本人確認期限を付ける。別ログへ分けるなら、紙の表面に別ログの保管者と照会窓口を出す」
「今の答えで、過去の責任は減る?」
「減りません」
朝は原案を開く。
「私は、当時こう述べました。『多数の判断を経れば、個人の恣意を抑制できる』」
読む。
声を変えない。
「私は、多数へ分けることで、責任の持ち主が消える危険を制度設計へ入れませんでした」
カナタの足首が痛む。
座ったまま、右足を少し前へ出す。
視聴者からは見えない位置。
「あなたは、三月の同調命令で、多数の歩幅をそろえた」
「はい」
「今回も、多数を信じた結果?」
「同じではありません」
「違うと説明すると、軽くならない?」
「似ている部分と違う部分を分けます」
「どうぞ」
「似ている部分は、多数へ責任を分ければ個人の恣意が弱まると信じたこと。違う部分は、暫定命令では複数部署の確認を安全弁として設計し、同調命令では多数の選択を身体へ同期させたことです。前者は文書手続き、後者は誓痕と設備を伴いました」
「違いを言うのは、逃げ?」
「違いを消して一つの罪にすることも、別の責任を見えなくする逃げです」
カナタは頷く。
「それは、役者にもある。全部『舞台のため』にすると、照明を落とした人と、退出扉を閉めた人と、台詞を続けた人の責任が混ざる」
「あなたの説明ですか」
「今は、質問役」
「質問役も説明します」
「役所は役割を細かくするね」
「役者も」
「こちらは配役」
「同じです」
「人気商売に失礼」
画面へ文字質問が入る。
《御厨朝を調査から外せ》
送信者は、氏名公開。
石上忠。
カナタは、朝を見る。
「回答しますか」
「はい」
「あなたを外すべきだ、と」
「妥当な要求です」
「外れる?」
「調査側が決めることです。私は、外された場合も資料提供と自分の審理へ応じます。残る場合は、権限を増やさず、現在の限定協力を続けます」
「自分では決めない?」
「自分で残ると決めれば、問題を起こした制度の当事者が調査席を占有します。自分で辞めれば、作業と説明から逃げられます」
「便利な出口がない」
「出口は、他者の判断と自分の異議を両方残すことです」
「長い」
「平文を」
巴が左手で札を差し出す。
カナタが読む。
「朝さんが残るかは、朝さん一人で決めない。外されても説明は続ける。残るなら権限は増やさない」
朝が正式文と平文を見比べる。
「後半に、異議申立てが落ちています」
巴が左手で書く。
《足す》
新しい平文。
「外される判断に反対なら、その理由も自分の名で出す」
「受領」
接続数は減っている。
カナタには見えない。
でも、塩見の鉛筆が動く音が少なくなった。
聞こえる。
「次の質問です」
《被害を受けた人へ謝るか》
朝は、少し息を吸った。
「謝罪します。ただし、誰の被害を何によって生じさせたかを確認せず、まとめて謝罪することはしません」
《謝らないってこと?》
「いいえ」
朝は机の上の原案へ右手を置いた。
「自動更新を提案し、氏名を別ログへ移した判断について、私は謝罪します。七十二命令それぞれの損害については、私の文がどこまで原因となったかを調べ、私の責任を説明します。他者の判断まで自分の謝罪へ回収しません」
画面の一つが切れた。
退出。
理由は表示されない。
カナタは追わない。
「今、誰かが退出しました」
塩見が音声を切ったまま、紙へ書いて見せる。
カナタは、その紙を画面へ出さない。
退出は、見せ物ではない。
「説明を続けます」
朝が言う。
「誰も見ていなくても?」
カナタ。
「記録が残ります」
「記録も見られなければ」
「それでも、私が言った事実は残る」
「同じ答えを、さっき私が言った」
「借りました」
「料金」
「請求してください」
「高いよ」
「責任の持ち主が分かる請求書なら払います」
カナタは、笑わなかった。
笑わせる台詞だった。
今日は、笑いを取ったことを成功にしない。
朝は、九秒のために名前を裏へ送った文書を、最後まで読んだ。
放送終了時刻。
午前十一時三十八分。
拍手はなかった。
画面の向こうで何人が残ったかも、朝には伝えなかった。
ただ、退出の記録と、未回答の質問と、朝の言い直しが同じ箱へ入った。
正午二十分。
放送所の外には、十二人が待っていた。
集会制限へ触れないよう、十一人は廊下。
一人は階段の踊り場。
「数え方が、もう嫌味ですね」
カナタ。
「命令どおりです」
警備員。
「死者は数える?」
「その質問は、回答待ちです」
「役所は、冗談を本気で返す」
「冗談ですか」
「半分」
「残りは」
「葬式の話」
警備員は黙った。
廊下の十一人は、調査協力者と影響当事者だった。
迅。
凱。
真琴。
イオ。
タマキ。
石上。
芒野。
佐橋。
古橋。
牧田。
相良ミイ。
踊り場に、オト。
集会へ参加するとは答えず、鞄の保留期限を延ばしに来た。
「朝を外す」
石上が最初に言った。
「理由」
真琴。
「自動更新を作った本人だから」
「本人だから、知っていることもある」
「だから中へ置くと、調査を自分に都合よくする」
朝は答えようとした。
真琴が右手を上げる。
「今は、あなたへの意見です。先に聞いてください」
朝は口を閉じる。
椅子へ座ったまま。
黒い杖を足元へ置く。
「私は外してほしい」
ミイ。
「確認命令を作った人に、私の薬のことを知られたくない」
「限定記録でも?」
七瀬。
「限定を作った側でしょう」
「はい」
朝が答えた。
真琴は止めない。
質問への回答だからだ。
「私は、朝さんを外す。ただし、制度文の照会には書面で答えてもらう」
ミイは条件を出した。
「受領」
朝。
「私は残ってほしい」
古橋巡。
「理由」
「給水命令を止めた後、別の部署が更新しようとした。どの書式を止めればいいか、朝さんが知っていた」
「信用していますか」
真琴。
「してない」
「それでも?」
「水を運ぶのに、信用だけで配管はつながらない」
牧田蓮が鼻を鳴らす。
「俺は、名前だけ使う。朝さんの権限はいらない」
「どういう意味です」
「どの紙を誰が書いたか説明して、署名する。決める席には置かない」
「助言者?」
「もっと責任が重い言葉ない?」
「当事者説明人」
真琴。
「長い」
「短くすると条件が」
「もう聞いた」
タマキは、朝を見る。
「送り主が、荷物を壊した人だったら」
「私へ訊いていますか」
「みんなへ」
タマキの質問は、時々、宛先が広い。
「配達する?」
「内容による」
イオ。
「送り先が受け取ると言うなら」
「壊した責任は」
「別」
「配達を断ったら」
「壊した人が責任から逃げることもある」
「じゃあ、朝さんを運ぶ?」
迅が言う。
「朝は荷物じゃない」
「分かってる」
「質問が変だ」
「迅へ訊いてない」
「聞こえた」
タマキは朝へ戻す。
「あなたは、どこへ行きたい」
「調査作業を続け、その後、自分の審理へ」
「受取人は」
「調査側と審理側」
「受け取るって言った?」
「調査側は未決定。審理側は出頭を求めています」
「じゃあ、片方だけ決まってる」
「はい」
「自分で封を切れる?」
「調査協力は辞められます」
「辞める?」
「今は辞めません」
「受領」
タマキは賛成とも反対とも言わない。
条件を確認しただけだった。
凱が、壁へ背を預ける。
左膝を深く曲げない。
「俺が王だった時、命令を出した」
誰も、知らない話ではない。
「真琴が文へした。現場が受けた。後から、俺は『あの意味ではなかった』と言えた」
真琴が眼鏡を直す。
「言いましたね」
「言った」
「腹が立ちました」
「知っている」
「今も」
「知っている」
凱は朝へ向く。
「命令を書いた者を調査から外すだけでは、命令の持ち主を戻したことにならない」
「残す?」
石上。
「権限を持たせず、説明を続けさせる」
「朝が嘘をついたら」
「記録と照合する」
「記録も朝が作った」
「他の署名、実装、受領と照合する」
「全部仲間だったら」
「そこまで疑うなら、俺たちも同じだ」
「元王と元官僚が庇い合う」
石上の言葉は鋭い。
凱は避けない。
「そう見える。だから、俺の意見を決定にはしない」
「何で決める」
真琴が答える。
「投票にはしません」
朝が顔を上げる。
多数を使わない。
「この調査班は、正式な一組織ではありません。各自が、自分の担当で朝さんを受け入れるか決めます」
「ばらばら?」
石上。
「はい」
「効率悪い」
「責任者を一人にすると、今回と同じです」
真琴は紙を四枚出した。
《文案履歴照会》
《端末仕様説明》
《現場影響判断》
《最終分類決定》
「朝さんを、最初の二つへ入れます。三つ目は現場当事者と実務者。四つ目は各命令の発令・更新・受領・拒否担当者が決める」
「朝さんは分類を決めない?」
「資料は出す。決定票は持たない」
朝は紙を見る。
「異議があります」
石上が笑った。
「まだ増やす?」
「端末仕様と文案履歴だけでは、私が現場へ与えた影響を説明できません。現場影響判断へ、証言者として参加させてください」
「決定は」
「しません」
「資料を選ぶ権限」
「持ちません」
「質問へ答える」
「はい」
「拒否できる?」
「個人情報と医療情報は、本人の公開範囲に従います。自分の責任に関する質問は、審理上の権利を明示したうえで答えます。答えない場合は、答えなかったと記録する」
真琴は追記する。
「受領」
石上が納得した顔はしない。
「俺は、朝を自分の現場へ入れない」
「どの現場」
「明日班の個人記録」
「受領」
イオ。
「制度文の照会だけ送る」
「受領」
ミイ。
「私の部屋番号も見せない」
「受領」
古橋。
「給水の更新経路は見てほしい」
「受領」
牧田。
「貨物門は、文書だけ」
「受領」
オトは踊り場から言った。
「私は、何も見せない」
朝は、そちらへ身体を向けない。
急な振り向きで杖を倒さないためでもある。
拒否した人を見つめないためでもある。
「受領」
全員の判断は一致しなかった。
だから、ひとつの賛否へまとめなかった。
午後一時五十六分。
新しい分担が、最初の一枚で試された。
医療群八番。
《反証症状の再発が疑われる者について、必要がある場合、指定医療機関への移動を優先する》
自動更新端末は、《必要がある場合》を、医療維持局の病床逼迫入力だけで満たしていた。
朝は文面を見て、すぐに言った。
「この更新は停止すべきです」
真琴が顔を上げる。
「御厨さんに、最終分類の決定票はありません」
「分かっています」
「今、決めました」
「意見です」
「言い方が決定でした」
朝は、言い直す前に黙った。
石上が腕を組む。
「一時間前に役割を分けて、もう越える」
「はい」
「早いな」
「得意なので」
「そこ、冗談?」
「事実です」
朝は自分の意見を、決定欄から証言欄へ移す。
《御厨朝の意見――病床逼迫だけを本人移動の必要性へ転用する現運用は、原案条件と一致しない》
その下へ、原案を添える。
《必要がある場合》
「この語は、私が書きました」
イオ。
「曖昧ですね」
「はい」
「後から勝手に広げられた?」
朝は、便利な答えへ行かない。
「広げられました。ただし、広げられる語を残しました」
「具体的にするなら」
「本人の急性症状、受入先の確認、本人または医療上の代行者の選択、移動しない場合の代替治療。その四つ」
「今は、病床数だけ」
「はい」
佐橋由梨が通信で参加する。
《病床数は、受入れ余力の情報です。本人の移動必要性ではありません》
「その報告を、更新へ使うことを拒否しますか」
真琴。
《拒否します。ただし、病床数の報告自体は続けます》
「現在の命令を停止する判断は」
《私にはありません》
「医療上の受領者」
《栗原医師》
栗原の回答が届く。
《急性症状者の個別移動は通常診療で継続可能。医療群八番の一括更新は不要と判断》
「端末操作者」
榎本ソウが手を挙げる。
「私です」
「更新旗を外す判断」
「佐橋さんの用途拒否と栗原医師の受入判断を確認したので、医療群八番の自動更新条件から病床数入力を外します。榎本ソウ」
「停止を決めるのは」
「現在の発令担当へ返す。私は条件入力を外すだけ」
朝は、自分の意見欄へ追記する。
《決定者ではない》
石上が覗く。
「そこまで書く?」
「次の私が、忘れます」
「次の私」
「十分後の私です」
「信用ないな」
「あります。だから記録します」
榎本が端末へ署名する。
病床数の線が、更新条件から外れる。
命令そのものは、まだ有効。
ただし、次の自動更新には使われない。