第363話 第十二章「見ない権利」前編

記憶庫の棚は、埋まっている方が安心する。

 空いている棚には、返せなかった物が見える。

 石英綺理は、空いた棚を布で隠さなかった。

 八月十八日、午後六時二十分。

 旧北墓地地下の市民記憶庫には、十二の区画が新しく作られていた。

 返却棚、五。

 共同保管棚、三。

 限定閲覧棚、二。

 破棄確認棚、一。

 偽物保全棚、一。

 同じ色にはしない。

 返却だから白、破棄だから黒、といった意味も付けない。

 棚板は、持ち主が選んだ色へ交換できる。色を選ばない人には、木のまま。

 棚を作ったのは、保管者だけではない。

 轟は左肩を頭より上へ上げず、右手と腰で棚板を支えた。迅はねじを締める役を引き受けたが、三本目でねじ山を潰した。

「強すぎます」

 綺理が言う。

「緩いと落ちる」

「締め過ぎても落ちます」

「ねじが弱い」

「道具へ責任を移さないで」

 轟が潰れたねじを抜く。

「右手、まだ痺れるか」

「今は少し」

「少しを数字に」

「三」

「何点」

「十」

「休め」

「三で?」

「ねじを一つ壊した」

「ねじと神経を一緒にするな」

「同じ手で扱った」

 迅は工具を置いた。

 誰かに言われて休むのは、まだ負けた気がする。

 自分で休む方が、もっと難しい。

 轟は次のねじをタマキへ渡した。

「締める」

「何点」

「ねじに点はない」

「迅にはあった」

「迅の手にだ」

「ねじ差別」

「差別じゃない」

 タマキは小さな手回し具で、止まるところまで締めた。最後の四分の一回転は轟へ任せる。

「一人でできる」

「できる」と轟。「でも、棚は一人用じゃない」

 共同保管棚の下段は、車椅子でも手が届く高さにした。

 上段を使わないため、同じ床面積に置ける容器は減る。

「将来、足りなくなる」

 係員が言う。

「足りなくなった時、増やすか、返すか、保管を断るかを決める」

 綺理。

「今から上へ積めば」

「今いる人が取れない」

「脚立を置く」

「脚立を使えない人は」

「職員が取る」

「職員がいない夜は」

「夜は閉庫」

「急いで見たい時は」

「急いで見たいことが、開庫理由になる?」

 係員は黙った。

 綺理は棚を低くした。

 保管量を増やすため、人を小さくしない。

 偽物保全棚には、鍵を二重に付けなかった。

「危険では」

 真琴が聞く。

「中身を本物として使う危険と、証拠を消される危険があります」

「なら二重」

「鍵を増やすと、価値がある物に見える」

「見た目で決めるのですか」

「見た目も、使われ方です」

 十二番は、灰色の無地箱へ入れた。

 外側には、事件番号だけ。

 岳の名も、《最後の命令》という題も書かない。

 迅が確認した。

「題を消すのか」

「箱の外からは」

「中の記録は」

「偽物認定と一緒に残す」

「岳の声が入ってる」

「だから保全する」

「誰かが、また本物だと言ったら」

「照合記録を出す」

「俺が死んだら」

「あなたの同意が必要な閲覧は止まる」

「俺が今、全部見せていいと言ったら」

「本当に?」

「言ってない」

「では記録しません」

「誘導しないな」

「保管者なので」

「関係あるか」

「あります」

 迅は灰色箱の角を指で叩いた。

「岳は、そんな長い命令をしない」

「どんな人でした」

「命令する前に、自分でやる」

「良い人?」

「迷惑な人」

「兄に似ていますね」

「俺は弟だ」

「そういう意味ではありません」

 綺理は箱を棚へ入れた。

 迅は、もう叩かなかった。

 破棄確認棚は、空に近かった。

 証明書一枚。

 破棄機の工程番号。

 所有者が返却を求めた空容器の出庫票。

「空の棚へ、これだけ?」

 タマキ。

「これだけ」

「記憶、ないのに場所を取る」

「ないことを、別の記憶で埋めないため」

「もったいない」

「はい」

「もったいないまま?」

「もったいないまま」

 タマキは棚の奥へ小さな紙を貼った。

《空いています。入れない》

 綺理は剥がさなかった。

 命令ではなく、今の状態を説明していたからだ。

 折部翼が五つの返却箱を運び出した。

 一番は、老女の家へ。

 二番は、秋庭リクへ。

 三番は、療養所の本人へ。

 四番は、炉工の家へ。

 五番は、現在名を箱へ書かない取材対象へ。

「到着したら、善?」

 タマキが聞く。

「到着」

 折部。

「受け取ったら」

「受領」

「開けたら」

「閲覧」

「喜んだら」

「知らない」

「悲しんだら」

「知らない」

「良くなったら」

「後で聞く」

「合格」

「まだ試験か」

「ずっと」

「嫌な弟子だ」

「弟子じゃない」

 折部は義足の留め具を締め、五つの箱を別々の台車へ載せた。

 六番は《預かり物》の膜に包まれたまま、限定閲覧棚へ置かれる。

 読めない。

 藍が返却を求めれば、綺理一人では開けない。共同監査者二人の確認、医療窓口の本人照合、藍の当日同意が要る。

 七番は別の棚。

 姉妹関係を鍵にしない。

 八、九、十は共同保管。

 それぞれ鍵の組み合わせが違う。

 十一の棚には、破棄証明だけ。

 十二には《偽物》と大きく書かない。外から見れば、それ自体が岳の名を売る札になる。

 棚番号と、照合用の灰色糸だけ。

「薄墨が持ち出した写しは」

 巴が聞いた。

「記録しました」

 綺理。

「回収権限は」

「誰にも単独で渡しません」

「あなたが判断する?」

「今は、持ち出し記録の保管だけ」

「では、写しが使われた時」

「使われた事実を確認する」

「後手です」

「先に全端末を止める権限はない」

「必要かもしれない」

「必要だから、持つ?」

 巴は答えなかった。

 二人は石英机の前に座っている。

 綺理は吸入器を右の小瓶棚へ置いた。ガラス粉への反応は落ち着いたが、喉に乾いた痛みが残る。右目の弱視は、昨日と同じ。能力の反証でも、粉のせいでもない。

 巴の右人差し指は副木の中。

「共同管理案を読みます」

 巴が左手で紙をめくる。

「保管者、通訳者、技術監査者、所有者側監査者、無作為選出の生活者。最低五系統」

「無作為は、事情を知らない人が入る」

「事情を知る人だけだと、事情を守るため隠す」

「生活者は、秘密を守る訓練がない」

「訓練を作る」

「訓練者が権威になる」

「あなたの認証も、既に権威です」

 綺理は机を見る。

「私は瓶を開けない」

「開けないことを決められる」

「所有者が拒否したら」

「その拒否が本人のものか、あなたが認証する」

「誰かが必要」

「一人である必要はない」

「五人が同じ間違いをしたら」

「五人の名前が残る」

「名前が残ると、正しくなる?」

「責任から逃げにくくなる」

「逃げる人は逃げる」

「追える」

「追う人が権威になる」

「終わりませんね」

「はい」

 巴は少し笑った。

「制度は、終わらないから制度です」

「名言みたいに言わないで」

「少し思いました」

「減点です」

「何点満点」

「決めていません」

「値を付けない?」

「価の病気がうつった」

 綺理は共同管理案の最下段へ書いた。

《石英綺理は参加する。ただし空白の旗へ加入しない。保管庫は空白の旗の所有物ではない》

 巴が読む。

「強調しますか」

「太字」

「手書きに太字はありません」

「二度書く」

「それは重複です」

「大きく」

「最初からそう言って」

 綺理は一回り大きな字で書き直した。

 午後七時。

 価から帳簿の写しが届いた。

 《値を付けない》欄がある。

 最初の記入は、十一番の破棄部分。

 理由:《所有者の拒否。価格比較を行わない》

 費用負担:《競売所、採取業者、保管基金》

 再確認日:《なし。破棄完了》

 二つ目は、九番の未再生断片。

 理由:《共同保管中。閲覧条件未成立》

 費用負担:《共同管理準備金》

 再確認日:《所有者側から申請があった時》

 金額はない。

 費用はある。

 市場を否定せず、値段を付けない場所を帳簿へ作った。

 綺理は、その矛盾が嫌いではなかった。

 帳簿の写しには、価自身の欄もあった。

《蔵前価・第一腰椎安定型圧迫骨折》

《硬性装具十週間》

《手術なし》

《歩行訓練は医療者立会い》

《値札の対人使用を業務から禁止》

 その下に、価の追記。

《禁止理由:倫理ではなく、本人同意のない能力使用と身体損傷。倫理だけなら、破る人がいる》

 イオの追記。

《倫理も理由》

 価の再追記。

《異議》

 さらにイオ。

《異議を保存。禁止は継続》

 綺理は、二人の筆圧が違うのを見た。

「仲が悪いんですか」

 巴。

「悪い方が記録は増える」

「良いことみたいに言わないで」

 午後七時十五分、共同管理準備会が始まった。

 正式な組織ではない。

 今日、棚へ何を置き、誰が夜間の鍵を持ち、誰が持たないかを決めるだけの会だった。

 参加者は七人。

 綺理。

 巴。

 地域図書室の老司書。

 水門地区の配給係。

 匿名所有者側の代理ではない連絡員。

 映像機械技師。

 無作為で選ばれた共同食堂の洗い場担当。

「なぜ私が」

 洗い場担当の女性が聞く。

「昨日、抽選札を引いたからです」

「皿を洗っていただけです」

「生活者枠です」

「生活者なら誰でも?」

「誰でもではありません。断れました」

「断ると、次の人?」

「はい」

「それ、結局誰かがやる」

「誰も受けなければ、生活者枠なしと記録します」

「枠が空く」

「空けます」

 女性は椅子へ座った。

「一回だけ」

「今日は」

「次は決めない」

「分かりました」

 最初の議題は、夜間鍵だった。

 綺理は保管庫から徒歩十二分の部屋で寝る。

 近いから持つ、という案が出た。

 綺理は反対した。

「近い人へ集めると、いつも同じ人が起こされます」

「緊急なら」

 技師。

「何が緊急ですか」

「火災」

「記憶を出す前に、人を出す」

「浸水」

「止水扉を閉じる。容器は防水」

「盗難」

「一人で開けない」

「医療記録が必要」

「限定閲覧窓口を通す。夜間鍵で全部を開けない」

 緊急という一語が、六つへ分かれた。

 最終的に、夜間鍵は誰も持たない。

 火災・浸水対応の設備鍵だけを、墓地管理所と消防班へ分ける。記憶閲覧鍵は翌朝まで開かない。

「人が死ぬかもしれない時は」

 配給係が聞く。

「医療記録なら、病院側の限定写しを使う」

 綺理。

「ここにしかない情報だったら」

「その状態を作らない」

「もう作られていたら」

「今夜は開けない。明日、医療記録の複製先を作る」

「今夜、人が死んだら」

 綺理は黙った。

 制度は、未来の正しさで今夜を救えない。

 巴が言う。

「今夜に限り、藍本人が指定した医療者一名と、綺理、第三監査者の三者で六・七番だけを開ける緊急手順を置きます。本人の当日意思を確認できない場合は、既に限定された薬歴部分だけ」

「それは誰が決める」

 洗い場の女性。

「ここにいる七人」

「本人はいない」

「本人が昨日、緊急時の範囲を指定しています」

「それより広げない?」

「広げません」

「明日、この手順を捨てる?」

「見直します」

「捨てるかどうか、明日決める?」

「はい」

 女性は頷いた。

「洗い場も同じ。今日の油を、明日の水で落とせると思うと残る」

 老司書が笑った。

「名言ですね」

「皿の話です」

「その方が信用できます」

 準備会は、一時間で終わらなかった。

 誰も、終わらせるために同意しなかった。

 八時前、決まったのは三つだけ。

 今夜の設備鍵。

 六・七番の限定緊急手順。

 明朝、全手順を再確認する時刻。

 決まらなかったことは、十九。

 綺理は十九の方を大きな紙へ書いた。

 管理の初日に、決定事項より未決定事項が多い。

 それを失敗と呼ばないところから、共同保管は始まった。

 準備会の最後に、老司書が名称を提案した。

《七瀬・石英共同記憶庫》はどうです」

 七瀬はまだ来ていない。

 綺理は即座に首を振った。

「人名を付けない」

「では《十二の記憶庫》

「十二は今回の数です」

《蔵座事件保管庫》

「事件が所有するように見える」

《市民共同――》

「共同を望まない所有者がいる」

 洗い場の女性が言う。

「名前なしでいいんじゃない」

「案内板が要ります」

 老司書。

《記憶庫》

「他にも記憶庫はある」

「場所を書く。《旧北墓地地下・記憶保管窓口》

「長い」

「道は分かる」

 巴が字幕へ出した。

《旧北墓地地下・記憶保管窓口》

 誰の思想も、勝利も、名前へ入らない。

 後で役割が変われば、書き換えられる。

「愛称は」

 技師が聞く。

「利用者が勝手に呼ぶ」

 綺理。

「統一しない?」

「統一が必要になった時に、使う人へ聞く」

「案内放送で読むと、息が続きませんね」

 巴が言う。

「短くしますか」

「いいえ。途中で一度、息を継ぎます」

「それなら分かります」

 入口の古い看板から、《市民》の二字が一度消された。

 所有者を公開したくない人も、市民登録を持たない人も使えるためだ。

 残ったのは、《旧北墓地地下 記憶保管窓口》

 誰の物語か分からない名前になった。

 だから、ここへ来る人が自分の物語を施設名へ合わせなくて済んだ。

 午後七時二十七分。

 七瀬が保管庫へ来た。

 カメラは持っている。

 腰の固定台に載せ、左肩は帯で固定。医療者の指示どおり、三十分ごとの休止記録を見せた。

「見せなくていい」

 綺理。

「見せたいです。体調不良を機材故障と言う癖があるので」

「誰に」

「自分に」

 綺理は九番の棚から、小さな容器を一つ取り出した。

 共同鍵が揃った範囲だけ切り出された断片。

 灯里が一人で編集卓を片づけている映像。

 他の取材対象は映らない。

 薄墨の手も映らない。

 拒否された声もない。

 再生時間、二分十六秒。

「見られます」

 七瀬は容器を受け取らない。

「誰が許可した」

「あなた。薄墨。匿名監査者。保管監査者」

「薄墨の許可は、逃げる前?」

「編集卓鍵の範囲について、事前に残していた」

「後から撤回したら」

「再生前なら止める」

「今、連絡は」

「つかない」

「なら見ない」

「許可はあります」

「撤回できる窓口が今ない」

「期限は設定されていません」

「だから怖い」

 綺理は容器を机へ置いた。

「いつ見る」

「分かりません」

「見ない?」

「今は」

「破棄する?」

「しない」

「保管する?」

「お願いします」

「私一人では」

「共同管理へ」

「あなたも管理者」

「はい」

「見たい人が、見せない側へ入る?」

「それが嫌ですか」

「危険です」

「だから入ります」

 七瀬はカメラを伏せた。

 撮影終了ではない。

 今、撮らない。

「母が映っているのに」

 綺理が言う。

「映っているからです」

「見ない権利は、映っている人のためだけ?」

「見る人にもあります」

「見たら傷つくから?」

「違う」

 七瀬は黒い容器を見た。

「見たい自分に、今すぐ従わないため」

「それは、成長?」

「そう書かないでください」

「書きません」

「見たくなったら、明日見るかもしれない」

「明日でもいい」

「一時間後かも」

「一時間後でも」

「一生見ないかも」

「それでも」

「母のことを、どう思えばいいか決まらない」

「決めなくていい」

「あなたは簡単に言う」

「簡単ではないから、短く言う」

 七瀬は少し笑った。

「迅みたいです」

「減点ですか」

「かなり」

 見ないと決めた後に、やることは残っていた。

 容器を棚へ戻す前に、七瀬は外側の記録を読む。

《再生時間 二分十六秒》

《撮影者 火群灯里》

《編集卓 旧式手動二連》

《映像内人物 灯里一名》

《音声内人物 照合不能の呼吸音一名分》

「一名分?」

 七瀬が止まる。

「灯里さんの呼吸と、別の呼吸が重なっています」

 綺理。

「映っていない人?」

「可能性があります」

「許可は」

「匿名監査者が、呼吸音の一致判定を拒否しています。誰かを確定しない条件で保管」

「それなら、灯里一人の映像とは言えない」

「映像内は一人。音声内は未確定」

「題を変える」

「何に」

《編集卓十五分・未再生断片》

「内容を見ずに?」

「外側で分かる範囲だけ」

「母の一人映像という説明は」

「消す」

「あなたが、見たい理由を一つ減らす」

「増えました」

「呼吸音が?」

「誰かがいたかもしれないから」

 七瀬は札を持ったまま、机へ額をつけた。

 左肩を庇い、右腕だけで身体を支える。

「見ないって、こんなに手が掛かるんですね」

「見るのも掛かります」

「再生ボタンを押すだけです」

「見た後を含めれば」

「私は、母のことを知りたい」

「はい」

「知らないまま管理者になるのは、卑怯ですか」

「内容を知る管理者も、内容に引っ張られます」

「知らない方が公平?」

「公平という人はいません」

「また短く言う」

「長く言うと、誤魔化せるので」

 七瀬は顔を上げた。

「私は、母を好きだった」

「過去形?」

「今もです。たぶん」

「たぶんを消す?」

「消しません」

「では記録しますか」

「しないで」

「拒否を確認」

「それも記録しないで」

「拒否を記録しない拒否?」

「面倒ですね」

「あなたが始めた」

 七瀬は笑った。

 肩が動かないよう、息だけで。

 容器を棚へ入れる前に、撮影休止の時刻が来た。

 七瀬は機材を止める。

「今、撮っていません」

「誰へ」

「母へ」

「聞こえません」

「だから言えます」

 二人は三十分、棚の前から離れた。

 共同食堂の小麦が、保管庫へ夕食を運んでいた。

 豆と細切り根菜の冷たい煮物。

 焼いた薄パン。

 塩を別袋。

「冷たい」

 迅が言う。

「保管庫で湯気を出さない」

 小麦。

「温かい物を外で食う」

「今、棚から離れたくない人がいる」

「誰」

 小麦は七瀬を見ない。

「聞かない」

「じゃあ、温かいの」

「厨房へ来たら」

「保管庫を空ける?」

「交代すれば」

 綺理が言う。

「今夜の閲覧鍵は誰も持たないので、空けても開きません」

「なら行ける」

 迅。

 七瀬は首を振った。

「私はここで食べます」

「冷たいぞ」

「知っています」

「冷たい物が好き?」

「今、移動したくない」

「理由は」

「容器を見張るためではない」

「じゃあ何」

「今は言わない」

 迅は薄パンを一枚取った。

「俺もここ」

「同情ですか」

「外まで歩くのが面倒」

「嘘が雑」

「右肋が痛い」

「診察を」

「した」

「領収書は」

「七瀬が持ってる」

「今回は進歩」

「俺の金だ」

「記録は私です」

 小麦が塩袋を二つ置く。

「一つを二人で使って」

「なぜ」

「塩が多いと喉が渇く。保管庫で飲み物をこぼす」

「生活が細かい」

「生きるので」

 全員が別々の理由で、同じ冷たい食事を食べた。

 七瀬は未再生容器を見ながら、再生しなかった。

 見ない権利は、目を閉じることではない。

 見られる場所で、手を伸ばさない時間を作ることだった。

 その時間には、食事も、肩の休止も、他人の雑な嘘も必要だった。

 午後八時。

 折部が戻った。

 五つの返却箱のうち、四つは受領。

 受領した四つも、同じ終わり方ではなかった。

 一番の老女は、理髪店で箱を膝へ置き、開けなかった。

《椅子はもうない。置く場所を決めてから》

 受領札には、耳の形ではなく、本人が指定した昔の予約番号が書かれている。理髪店主は中身を見ず、箱の湿りと封だけを確認した。

 二番のリクは、公営浴場の休憩室で箱を受け取った。

 番台が用意した台車を断り、左腕で持つ。

《右腕の記憶だから、右で持たない》

 折部は理由を記録しなかった。

「なぜ」

 タマキ。

「本人の言葉が、格好いいから」

「格好いいのは記録しない?」

「格好いい部分だけ抜くと、別の荷物になる」

「じゃあ、受取時に左手使用」

「それでいい」

 三番は療養所へ到着したが、本人は封筒を受け取らなかった。

 白戸が運んだ外箱だけを療養所職員が受領し、中の媒体は共同保管へ戻すよう指定した。

「本人が返却を望んだのに」

 綺理。

「返却先を自分の手元だとは言っていません」

 白戸。

「元の所有を競売所から外す。保管は他所へ。それが本人の回答です」

「返却なのか、共同保管なのか」

「分類を変える?」

 巴が聞く。

「ロットの処分は返却。返却後の本人判断で共同保管へ再委託」

 真琴。

「二つの時刻を分けます」

 返却完了、午後六時四十二分。

 再委託受領、午後六時四十六分。

 四分の間、媒体の所有者は本人だった。

 四番の炉工は、小麦の豆粥を食べた後、箱を受け取った。

 干し肉は半分残した。

《噛んでいる間に、開けたくなくなった》

「厨房の成果」

 小麦が言う。

「本人の判断です」

 巴。

「食事が影響した」

「影響と、決定は別」

「分かってる。成果って言いたかった」

「記録しますか」

「しない。明日の献立にする」

 受領されなかった一つは、五番だった。

 配達者は指定点へ十九分で到着した。

 本人が指定した待機時間は二十分。

 誰も来なかった。

 十九分五十秒、折部は帰路へ向く。

 背後で足音がした。

 振り返れば、受取人の顔を見る可能性がある。

 折部は振り返らない。

 呼び止める声もない。

 二十分。

 箱は保管庫へ戻った。

「あと十秒待てた」

 タマキが言う。

「本人が二十分と決めた」

「足音、本人だったかも」

「違うかも」

「受け取りたかったかも」

「受け取りたくなかったかも」

「分からない」

「不達」

「失敗?」

「結果」

 五番は、翌日以降の再連絡をしない条件だった。

 保管庫へ戻し、連絡窓口だけを残す。本人が望めば、別の日時と場所を指定できる。望まなければ、箱は動かない。

 到着率は、四割でも八割でもなかった。

 五つのうち、四つ受領、一つ不達。

 その一つを、小数へしなかった。

 一つは、受取人が箱だけを受け取り、中身の媒体を共同保管へ戻した。

 そして十一番の所有者から、別の依頼。

 破棄後の空容器を返してほしい。

「何のため」

 タマキが聞く。

「本人は言わない」

 折部。

「目的を聞かないの」

「言いたくない、と答えた」

「宛先」

「本人」

「送り主」

「保管庫」

「中身」

「空箱」

「受け取る?」

「本人が」

「じゃあ運ぶ」

 空容器は、破棄した記憶の代わりではない。

 慰霊品でもない。

 何に使うか、保管者は知らない。

 知らないまま返す。

 折部は箱の外へ、所有者名を書かなかった。

 受領方法だけ、黄色い結び目で示す。

 夜八時二十二分。

 折部は空箱を持って保管庫を出た。

 空箱の受取場所は、旧西階段から三つ離れた共同洗濯場だった。

 折部は一人で行く。

 タマキは同行を申し出たが、受取条件に《配達者一名》とある。

「遠くから見る」

「一名に見える距離は、本人が決めてない」

「危ない」

「だから、到着しない結果もある」

「義足、暗い道」

「灯りを持つ」

「顔が見える」

「足元へ向ける」

「転んだら」

「箱を先に置く」

「人が先」

「空箱だ」

「空でも、受取人の物」

「俺の身体も、俺の物」

「じゃあ身体先」

「そうする」

 タマキは不満そうに、折部の義足の留め具を確認した。

「師匠みたい」

「今、言った?」

「みたい」

「今日は半分が多いな」

 折部は保管庫を出た。

 洗濯場まで二十二分。

 雨は降っていない。

 それでも石段は湿り、義足の踵が二度滑る。彼は急がない。指定時刻は八時五十分から九時十分。早く着いても、受け取る人を待たせないことにはならない。

 八時四十七分。

 洗濯場の外へ到着。

 中には入らない。

 窓へ黄色い結び目が一つ。

 折部は箱を水場の縁へ置いた。

 外箱に名はない。

 中身欄、《なし》

 返却理由、《所有者希望》

 使用目的、《非公開》

 八時五十二分。

 洗濯場の奥で、水を絞る音がした。

 人影は見えない。

「蔵座保管庫から、空容器を返します」

 折部は言う。

「中身はありません。破棄証明は保管庫にあります。受け取りを拒否しても、破棄は取り消されません。受け取らなくても、理由は要りません」

 返事はない。

 八時五十五分。

 布の擦れる音。

 折部は箱へ背を向けた。

 受取人の顔を見ないため。

 背後で、箱の底が石から離れる。

「確認を」

 声はしない。

 代わりに、黄色い結び目が窓から外れ、折部の右側へ落ちた。

 受領の合図。

 折部は拾わない。

 結び目は、返却されるために置かれたのではない。

「受領、八時五十六分」

 自分の紙へ書く。