第364話 第十二章「見ない権利」後編

「箱の用途は確認しない。受取人の姿を確認しない。返却先を帰路記録へ残さない」

 背後から、初めて声がした。

「空だと、軽いですか」

 性別も年齢も分からない声。

 折部は振り返らない。

「箱は軽い」

「記憶は」

「俺には分からない」

「壊したら、軽くなると思った」

「なりましたか」

「それを聞かないで」

「分かりました」

「分かったって言わないで」

「聞きません」

「……それなら」

 水を流す音がした。

 折部は歩き出す。

 帰路を記録しないので、来た道と同じ道を選ばない。自分の記憶だけで、北の物干し索を目印に戻る。

 義足の踵が、一度だけ石へ鳴った。

 その音を、受取人が聞いたかは確認しない。

 九時二十一分。

 折部から保管庫へ、短い通信が届いた。

《空容器、受領。受取人確認なし。受領合図確認。追跡なし》

 綺理はその四行を、破棄確認棚へ置かなかった。

 返却記録の棚へ置く。

 破棄と返却を、一つの完了へまとめないためだった。

 綺理は棚へ戻る。

 九番の未再生容器は、机の上。

 七瀬のカメラは伏せられている。

 綺理は、未再生容器と返却済み空箱の記録番号を、連番にしなかった。

 一方は、まだ見ないと選ばれている。

 もう一方は、見られる中身そのものがない。

 どちらも《未完了》ではない。

 見ないことと、なくしたことを、同じ空白へ入れないためだった。

 七瀬はその分類を撮らなかった。

「後で忘れませんか」

 綺理が聞く。

「忘れたら、もう一度ここで聞きます」

「私がいなければ」

「紙を読む。それでも分からなければ、分からないままにします」

「成長ですね」

「そう書かないでください」

「書きません」

 綺理は少しだけ笑った。

 二つとも、何も映さない。

 一つは、まだ再生されない記憶を抱えていた。

 もう一つは、持ち主へ返される空っぽを抱えていた。

 保管庫には、どちらも同じ重さで残った。

 午後十時四分。

 七瀬は保管庫を出る前に、撮影機へ黄色い覆いを掛けた。

「帰り道は撮りません」

 迅が入口の石段で待っていた。

「能力?」

「布です」

「理由」

「帰るから」

「帰るの、記録じゃない?」

「今日は私の方に残します」

 市場の夜店は半分が片づけを始めていた。湯売りの老婆だけが、銅の小鍋を火から下ろしていない。

《香草湯 一杯二百四十環》

 七瀬が値札を見る。

「高い」

「記憶より安い」

「比較する物が悪い」

「買う?」

「一杯だけ」

 迅が硬貨を出す。七瀬も同時に出した。二人の指が銅皿の上でぶつかる。

「私が払います」

「俺が待った」

「待機料を飲み物へ転嫁しないで」

「南環市場みたいになってきた」

「その台詞、列車でも使いましたね」

「記録してた?」

「していません。覚えていました」

 老婆は二人の硬貨を一枚ずつ取り、湯を一杯だけ注いだ。

「半分ずつ払ったんだから、半分ずつ飲みな」

「容器は一つです」

「口は二つある」

 七瀬が先に飲み、迅へ渡した。香草が強すぎて、二人とも同じ顔をした。

「まずい」

「記録しないでください」

「撮ってない」

 黄色い覆いの下で、レンズは夜店を見なかった。

 二人は値段の高い湯を、値段の話をしながら飲み切った。