第315話 第十二章「帰還者名簿」前編

六月十五日 午前七時十七分

 雨は、止む時に音を立てなかった。

 火群七瀬は、静かになったことで気づいた。

 屋根を叩く音がない。

 排水管の唸りが弱い。

 遠くの声が、雨の壁を越えずに届く。

「止んだ?」

 タマキが空を見る。

「いまは」

 七瀬。

「止んだって書かないの」

「七時十七分、降雨確認なし」

「面倒」

「雨に再開の相談をしてないから」

「再開されたら?」

「七時十七分の記録は嘘にならない」

 中央指揮所の壁に、最終集計板がある。

《登録 一一八四》

《移動 一一三六》

《説明後、高所施設へ残留 四二》

《死亡 六》

《新規入院 一三》

《所在不明 〇》

 合計は合う。

 一一三六と四二と六。

 一一八四。

 数字が合うことは、人が戻ったことと同じではない。

 移動した者には、帰る家がない者がいる。

 残った者には、動けないのではなく残ると決めた者がいる。

 死亡した者には、返っていない所持品がある。

 所在不明がゼロでも、仕事はゼロにならない。

「『全員確認』って見出し、消す?」

 野々村葉が訊いた。

「消す」

 七瀬。

「間違いじゃない」

「何を確認したか書く」

「長くなる」

「長くして」

 板の見出しを変える。

《登録者一一八四人の所在区分を確認》

 安心するには長い。

 正確だった。

 名簿の表題にも、異議が出た。

《帰還者名簿》

「帰ってない」

 最初に言ったのは、東門の臨時宿舎へ移った男だった。

「登録地点からは出た」

 記録係。

「家は水の下だ」

「では避難完了者」

「何が完了した」

「移動が」

「移動しただけだ」

 記録係の筆が止まる。

 題名は、欄より強い。

 中に正確な数字を書いても、表題が結末を決める。

「消す」

 七瀬。

「何にする」

 真琴が候補を書く。

《六月長雨登録者所在台帳》

「固い」

 野々村。

「柔らかいと帰ったことになります」

「災害名、まだ決めてない」

「長雨でいい」

「黒雨じゃないの」

 別の住民。

「採取試料に、黒雨由来と断定できる成分は出ていません」

 七瀬。

「鉄の匂いはした」

「した。だから時刻と地点ごとに残す」

「名前を付けないと忘れる」

「早く名前を付けると、違う原因まで同じ箱へ入る」

「また分けるのか」

「分けたまま忘れない方法を作る」

 表題は、《六月十二日以降登録者・六月十五日時点所在台帳》になった。

 長い。

 男は読む。

「帰還って字が消えた」

「帰った時に、本人が書けます」

「家が戻らなかったら」

「戻らないと書ける」

「縁起が悪いな」

「縁起で家は乾きません」

 タマキ。

 男は彼女を見て、口の端を上げた。

「おまえ、葬式でも数字を言いそうだ」

「言わない方がいい数字もあります」

「分かるのか」

「聞きます」

 名簿には、新しい欄が増えた。

《現在地》

《次に行きたい場所》

《未定》

《戻らない》

《公開しない》

 同じ人が、複数へ印を付けてもよい。

 東門の男は、《現在地・東門》《次に行きたい場所・旧住戸》《戻れるか未定》へ印を付けた。

「三つも書いたら、集計できないだろ」

「集計のために一つへ減らさない」

「役所が泣くな」

「泣いて書きます」

 真琴が言った。

「あなた、冗談言うんだ」

「事実です」

 真琴は本当に、三つの欄を別々に集計し始めた。

 帰るという言葉は、出口を通ることではない。

 帰る場所があることでもない。

 誰かが「ここへ戻った」と書ける時まで、他人が完了印を押さないことだった。

 四十二人の残留欄は、施設ごとに分けた。

 外環共同病院上層、十四。

 環水三号塔上層、十四。

 東側学校屋上、七。

 旧工場管制楼、五。

 共同浴場ボイラー屋上、一。

 中央指揮所上層、一。

 四十二人は、取り残された人ではない。

 説明を受け、残ることを選んだ。

 だが、全員が同じ意味で選んだわけでもない。

 病院の十四人は、移動危険と治療継続を比較した。

 給水塔の十四人は、設備維持と生活動線を理由にした。

 学校屋上の七人は、浸水した住戸へすぐ戻れないため待った。

 工場の五人は、停止できない冷却設備を監視した。

 浴場の一人は、避難を拒否したのではない。

 ボイラーを止めた後の蒸気抜きを自分で確認すると選んだ。

 中央の一人は、全市命令へ署名しなかった職員だった。

 通信記録を最後まで保全すると残った。

「残留って、危ない言葉ですね」

 野々村。

「なぜ」

 七瀬。

「動かなかった人に見える」

「実際、動いてない」

「でも、仕事はした」

「欄を増やす?」

「増やすと統計が」

「統計のために人を減らさない」

 真琴が新しい列を引く。

《残留理由》

《次の再確認時刻》

《移動へ変更した場合の経路》

「四十二人全員に必要?」

「必要です」

「理由を公開したくない人は」

「非公開と書く」

「それ、理由になる?」

「公開しないことを選んだ理由です」

 再確認は、施設ごとに時刻を変えた。

 病院は二時間ごと。

 給水塔は四時間。

 学校は正午。

 工場は設備停止後。

 浴場は蒸気圧ゼロ確認時。

 中央は記録複製完了時。

 四十二人を、一つの残留集団にしない。

 数字は同じ欄へ入っても、次の行動は別だった。

 新規入院十三人の欄にも、退院予定は書かなかった。

 下肢挟圧。

 低体温。

 前腕裂創。

 誤嚥性肺炎疑い。

 足関節骨折。

 溺水後呼吸障害。

 右膝靱帯損傷。

 喘息増悪。

 肋骨骨折。

 創部感染疑い。

 脱水。

 頭部打撲。

 同じ「入院」でも、治療場所と期間は違う。

「由良は入院扱いなんですね」

 七瀬。

「一晩の経過観察と固定指導」

 ミソラ。

「本人は嫌がる」

「嫌がった」

「退院したがった?」

「帰りたがった」

「違いは」

「病院から出たいんじゃなく、剛嶺へ行きたい」

「止めた?」

「六週間の装具と滑空着地禁止を説明した。帰る方法を変えるなら退院できる」

「許可した?」

「許可ではない。医療上の条件を出した」

「言い方、大事?」

「大事。医者が許可したから帰ることにすると、帰った責任まで医療へ来る」

「由良は自分で持ちたがる」

「持ちすぎる」

「ミソラも」

 ミソラは答えない。

 右脇腹へ手を当てる。

 慢性痛が戻っている。

「休む?」

「十一分」

「半端」

「前に澪と決めた」

「勝った方?」

「折れた方」

「どっち」

「両方」

 ミソラは十一分、椅子へ座った。

 その間、サナが入院欄を確認する。

 交代は、記録にも残る。

 誰かが休んだ空白を、無かったことにしない。

 六人の欄は、別の机に置かれた。

 宮浦節子、六十九歳。

 第一避難口の逆流。

 所持品、錫の指貫。

 家族連絡、完了。

 受取人、姪。

 越智誠、四十二歳。

 第一避難口、排水確認中。

 所持品、真鍮の点検鍵。

 家族連絡、完了。

 点検鍵は所属作業班へ返却後、遺族へ写しを渡す。

 橋爪莉央、二十四歳。

 環水三号塔南道路崩落。

 所持品、折り畳んだ路線時刻表。

 姉へ返却。

 東雲美佐、五十六歳。

 外環共同病院地下洗濯室。

 所持品、患者衣類番号札。

 番号札は病院へ返却。本人の名札と作業手袋を家族へ。

 門脇俊介、六十一歳。

 旧貨物昇降機。

 所持品、青い油性鉛筆。

 保守記録とともに同僚へ確認後、息子へ返却。

 末永芙美、七十四歳。

 第八排水口。

 所持品、住戸鍵二本。

 一方を同居人へ。一方は空室確認後に管理人へ。

 七瀬は、六人の死亡時刻と確認時刻を分けた。

 誰が最初に見たか。

 誰が身体を確認したか。

 誰が家族へ話したか。

 誰が所持品を返すか。

 死者は、死亡欄へ一度書けば終わる荷物ではない。

「映像、まとめる?」

 野々村。

「六人で一つにしない」

「災害記録としては」

「原因も場所も違う」

「でも同じ雨」

「雨だけにすると、人の判断が消える」

「判断だけにすると、雨が消える」

「だから別々に残して、同じ時刻表で照合する」

「面倒」

「記録は、面倒を消すと人が消える」

 野々村が一枚ずつ封筒を分けた。

 六つの封筒。

 同じ色にしない。

 六月十六日 午後二時九分

 五百六十メートルの経路は、逆順に解体された。

 給水塔外周歩廊、七十八メートル。

 避難用の案内布を外す。

 住民の洗濯籠を元へ戻す。

 久我が希望区画ごとの警備札を返す。

 病院屋上斜路、九十二メートル。

 床板十二枚を洗う。

 支柱四本を元の穴へ戻す。

 滑車二つを、カナメの娘が自分で確認する。

「動きが重い」

 娘。

 榎並章吾が滑車を回す。

「軸、泥」

「直る?」

「洗う。油、替える」

「いつ」

「今日、十六時」

「遅れたら」

「俺の名」

「それで動く?」

「動かない。俺が来る」

「じゃあ書いて」

 章吾が返却札へ書く。

《軸洗浄・給油 六月十六日十六時 榎並章吾》

 娘は別の札を持っている。

《母カナメ死亡に関する異議・未解決》

 設備が返っても、異議は消えない。

 赤錆大工場クレーン連絡床、八十六メートル。

 索を外す。

 借りたボルトを数える。

 赤いボルト一本が足りない。

「落とした」

 章吾。

「どこ」

 轟。

「水槽車の下」

「取る」

「危ない」

「借り物だ」

「代替」

「同じ物はない」

「じゃあ俺が潜る」

「右踵」

「忘れてた」

「身体は忘れてない」

 深水が机から言った。

 右肩を固定したまま、回収索の角度を指示する。

「地上から磁石。二本。右へ振らない」

「潜らないのか」

 轟。

「潜れると潜るは違う」

「皆が言うな」

 磁石で赤いボルトを回収する。

 章吾が布で拭く。

「返す」

 旧貨物昇降機、四十一メートル。

 仮保持索を外す前に、制動機を二人で確認する。

 門脇俊介が青い鉛筆で残した番号を、後任が読み上げる。

「三、五、二」

「受けた」

「もう一度」

「三、五、二」

「受けた」

 旧食堂搬入口、六十三メートル。

 避難札を外す。

 鍋の搬入時間を戻す。

 鉄道保守トンネル、百二十六メートル。

 水位札に使った切符を一枚ずつ回収する。

 濡れた境目は、乾いても残っている。

 住宅棟裏階段、七十四メートル。

 窓前の布を外す。

 自転車を戻す。

 壊れた椅子を戻す。

 亡き妻の植木鉢を、床傷の丸へ置く。

「一センチ右」

 持ち主の男が言う。

 タマキが動かす。

「もう少し」

「どちら」

「右」

「あなたから見て」

「鉢から見て右」

「鉢は見ません」

「若いのに固いな」

「土です」

 鉢が元へ戻る。

 五百六十メートルは、避難口でなくなった。

 生活へ戻った。

 解体は、元に戻すことと同じではなかった。

 病院屋上斜路の手すりは、避難のために十二センチ高くしてある。

「戻さないで」

 杖を使う患者が言った。

「貸与条件は原状返却です」

 章吾。

「前の高さだと怖い」

「所有者は洗濯班」

「洗濯する人にも高い方が楽かも」

 カナメの娘が手すりへ腕を置く。

「私は高い方がいい」

「全員へ聞く」

 洗濯班は六人。

 四人は高いまま。

 一人は、シーツを掛けにくいから元へ戻す。

 一人は、どちらでもよい。

「多数決?」

 患者。

「用途が二つある」

 轟が手すりを見る。

「内側に低い横棒を足す。外側は高いまま。シーツは低い棒、歩行は高い棒」

「材料は」

「避難用の仮支柱二本を転用できる」

「返却物じゃない?」

「赤錆工場の物。用途変更の許可が要る」

 工場へ訊く。

 返事は、条件付きだった。

《二本を病院へ売却。代金は新材ではなく、三か月以内に同規格二本を返す。設置責任は轟・章吾。洗濯班と患者側の再確認は一か月後》

「残せる」

 患者が言う。

「避難路としてじゃない」

 真琴。

「手すりとして」

「名前、十三番目手すりにする?」

 タマキ。

「しない」

 六人が同時に答えた。

 災害で役に立った物を残す時、物語まで固定する必要はない。

 人は手すりにつかまる。

 伝説につかまると、次に外せなくなる。

 旧食堂搬入口では、別の意見が出た。

「案内線だけ残して」

 厨房の女が、床の白線を指す。

「鍋と人がぶつからなくなった」

「避難用の線です」

 タマキ。

「今は、配膳と搬入を分ける線」

「意味が変わるなら、書き直す」

 白線を一度消す。

 同じ位置へ、厨房の人が新しく引く。

《熱い物》

《人》

 文字を読めない者のため、鍋の絵と足跡も描く。

 見た目は、避難時とほとんど同じだった。

 それでも、一度消して引き直す。

 誰が、何のために決めた線かを変えるためだ。

「無駄じゃない?」

 迅。

「同じ場所だぞ」

「昨日の許可を、今日の生活へ流用しない」

 真琴。

「線にも許可がいるのか」

「人が従う線には」

「面倒だな」

「あなたが殴る前に七歩数えるのと同じです」

「違う」

「どこが」

「線は殴らない」

「従わせることはあります」

 迅は白線を見る。

「じゃあ似てる」

「認めるのが早い」

「雨が止んだから」

「関係あります?」

「ない」

 住宅棟裏階段では、避難中に追加した滑り止めを残すかが争われた。

 住民十二人。

 残す九。

 外す二。

 無回答一。

 外したい二人は、滑り止めの金属音で眠れないと言った。

 多数で残すと、二人の寝室だけが犠牲になる。

 滑り止めを階段中央だけ残し、壁側二十センチを外す。

 夜間は布カバー。

 一週間試す。

「また確認?」

 住民。

「六月二十三日」

「忘れたら」

「私が来る」

 タマキ。

「配達?」

「質問を」

 暫定は、短いから弱いのではない。

 終わる日を持っているから、強制を弱くできる。

 五百六十メートルは消えた。

 だが、そこで見つかった手すり、白線、滑り止めの改善は、別々の許可で生活へ残った。

 道を残さず、学んだことだけを残す。

 それは、全部を保存するより手間がかかった。