第465話 第三章「停止反対」前編
二月十六日 午後一時
王をやめるのは、一日でできる。
王だった時に集まった視線が、自分から離れるまでには、もっとかかる。
獅堂凱は、中央能力維持局前の広場で、そのことを知った。
四百八十七人。
火群七瀬が、撮影機を腰高の固定台へ載せながら数えた人数だ。
うち、設備利用者として首から青い札を下げている者が百三十二人。
家族札が八十六人。
回収炉勤務者と関連職が百九十四人。
札を持たない者が七十五人。
広場中央には、白い布ではなく、灰色の横断幕が張られていた。
《止める前に、私たちを見ろ》
凱は、その文句を正しいと思った。
正しい言葉は、正しい人間の専用品ではない。
だから厄介で、だから役に立つ。
「元王だ」
誰かが言った。
声はすぐ増えた。
「凱!」
「こっちへ来い!」
「能力を失った側だろ!」
「俺たちの話を聞け!」
凱は階段の下で止まった。
左膝の装具が、厚いズボンの内側で硬く当たる。
寒さより、人の視線のほうが古傷へ早く届く。
隣の七瀬が、撮影開始時刻を告げた。
「十三時零二分。広場全景は公開可。個人の顔は、札ごとの選択に従う」
「俺は」
「公開」
「聞いてない」
「昨日、署名した」
「何枚目だ」
「三枚目」
「読んだ覚えがある」
「覚えがあるなら、次は読んで」
「厳しいな」
「元王へ優しい記録は、だいたい後で誰かを殴る」
凱は階段を上った。
横断幕の前に、小さな演台がある。
その横で、右手に薄い手袋をした縫製工が待っていた。
イオの相談者。
名前は公開しない。
設備の安定処置によって、右手の震えを抑え、縫製の仕事を続けている。
「話していい範囲」
凱が訊いた。
「仕事。治療。止められた時に起きること。名前と住所はだめ」
「了解した」
「元王って、そういうの訊くんだ」
「今は、訊かないと何も始められない」
「王の時は」
「始めてから訊いた」
「便利だった?」
「俺には」
「じゃあ、やめてよかったね」
「俺には、な」
縫製工は手袋を外した。
右手の指先が、細かく震えている。
震えは恥ではない。
しかし、針を持つ仕事では、賃金を奪う。
「処置の日は、三時間止まる。翌日は一時間。三日目から二時間ずつ仕事ができる。設備を切られたら、二週間以内に元へ戻る可能性が高いって言われた」
「説明したのは」
「維持局の人。名前は知らない」
「反証が他の人へ送られている可能性は」
「昨日、初めて聞いた」
「聞いて、どう思った」
「止めてほしくない」
広場の一部がざわめいた。
凱は口を挟まない。
「ひどいと思う。四十八人に送ってるなら、止めるべきだとも思う。でも、私の手も私のものだ。誰かを傷つけてまで動かしたくない。だからって、明日から動かなくていいとは言えない」
「何を求める」
「設備を止めるなら、代わりの治療。仕事の配置。賃金。止める日を先に言うこと。勝手に英雄みたいな顔で電源を抜かないこと」
「最後は俺たちか」
「顔が英雄っぽいから」
「悪口だな」
「褒めたら聞かないでしょ」
「聞く」
「王様って、みんなそう言う」
「もう王じゃない」
「顔は辞めてない」
広場に、小さな笑いが走った。
凱は笑わなかった。
笑えば、相手の不安を会話の巧さで軽くできる。
軽くした不安は、後で本人だけが持つ。
「俺は設備停止の賛成者だ」
凱は言った。
笑いが消える。
「だが、俺が能力を失って生きていることを、全員が能力を失っても大丈夫だという証拠にはしない。俺には住む場所がある。食事を出す者がいる。膝を診る場所がある。仕事を失っても、俺の名前へ人が集まる。条件が違う」
「じゃあ味方して」
「君の要求を記録する。代替なしの停止には署名しない。だが、設備の反証転嫁を続けることにも署名しない」
「どっち」
「二つを同じ署名へ入れない」
「それじゃ決まらない」
「決めるために人を一つへ縮めるのは、王だった時にやった」
「反省で街は温まらない」
「その通りだ」
凱は演台から降りた。
正しい返事をしたとは思わない。
少なくとも、相手の不安を自分の成長談へ使わなかった。
午後一時二十七分。
広場の北端で、小さな実演台が組まれていた。
能力安定処置を受ける前と後を見せるための台だ。
中央局が作ったものではない。
利用者自身が、停止反対の理由を説明するために用意した。
台の上には、二つの箱。
一つは空。
一つには、石が二十個。
四十代の男性が立つ。
かつて、持った荷物の重さを周囲へ分ける誓痕を持っていた。
能力減衰後、腰と膝が普通の荷重に耐えられず、運搬仕事を失った。
「処置前」
男性は空箱を持ち上げる。
腕が震える。
「処置後」
係が、石の箱を渡す。
男性は持ち上げた。
完全ではない。
膝を曲げる。
背中を丸める。
それでも、十秒保つ。
広場から拍手が起きた。
男性は箱を下ろす。
「拍手しないで」
言った。
拍手が止まる。
「持てたのは本当です。嬉しい。でも、昔の力じゃない。昔の仕事へ戻れる保証もない。これを見て、設備を残せって言いたい。でも、俺が持てた分を誰かが受けたなら、その人にも聞いてほしい」
「じゃあ止めろってことか!」
後方から声が飛ぶ。
「違う!」
男性が怒鳴る。
「違うから困ってる!」
凱は、その声へ向かった。
群衆の間を通る。
以前なら、人が自然に道を開けた。
今も開く。
王ではないからではなく、顔を知っているから。
影響力は、辞表では消えない。
「何を求める」
凱が台の下から訊く。
「処置を続けたい」
「条件」
「反証の受取人へ説明する。金を払う。嫌なら別の方法」
「別の方法がない時」
「待つ」
「仕事は」
「待たない」
「誰が払う」
「中央」
「中央が拒んだら」
「設備を使った会社」
「会社が」
「その次を訊くな。俺には分からない」
「分からないを、条件へ書く?」
「書いて何になる」
「分からないまま、あなた一人の覚悟にされない」
「元王は、紙が好きになったな」
「紙で人を縛った後だからな」
男性は台から降りた。
空箱と石の箱を、同じ場所へ戻す。
「能力を失った人間が、能力なしで生きられる街を作れって、みんな言う」
「俺も言った」
「その街ができるまで、何を食う」
「今の仕事」
「ない」
「作る」
「いつ」
「分からない」
「正直だな」
「褒めるな」
「褒めてない」
男性は笑わなかった。
「俺は再起動したい。危険でも。イオが拒んだからって、俺まで拒めとは言うな」
「言わない」
「迅は」
「本人に訊け」
「凱は」
「俺は、能力を失った自分を基準にしない」
「それ、さっき言ってた」
「何度でも言う。人は、聞いた一回で安心しない」
「王の演説みたい」
「悪い癖だ」
男性は、自分の条件票へ書いた。
《再起動を希望する。受取人の同意が取れない処置は使わない。仕事復帰の保証がない場合も、希望を撤回しない》
最後の一文を書く時、手が止まった。
「撤回しない、は強すぎる?」
「撤回できると書け」
「希望を撤回できる?」
「できる。撤回しないと今思ってることも書ける」
「面倒だな」
「正しい」
「みんな感染してる」
その直後、停止賛成側の若者が台へ上がった。
腕に、古い誓痕の火傷。
「俺は、処置で楽になったことがない。反証だけ受けてる」
石の箱を蹴ろうとする。
凱が止めない。
箱の持ち主が自分で前へ出た。
「蹴るな」
「お前のために、俺が痛い」
「そうかもしれない」
「じゃあ、持つな!」
「俺の手だ!」
「俺の体だ!」
二人が向き合う。
周囲が一歩引く。
凱は間へ入らない。
代わりに、箱と二人の間へ線を引いた。
「この箱は誰の」
「俺の」
再起動希望者。
「この痛みは誰の」
「俺の」
反証を受けた若者。
「どちらも、相手へ渡せない」
「だから止めろ!」
「だから俺の手を切るな!」
「二人の答えは違う」
凱が言う。
「分かってる!」
二人が同時に怒鳴った。
周囲から、また笑いが起きかける。
七瀬が撮影機の赤灯を消した。
笑いは止まった。
人の対立は、軽妙な場面として撮られると、後で片方の言葉だけが面白く残る。
「何を撮らなかった」
凱が訊く。
「二人の顔。箱。怒鳴った直後」
「代替」
「条件票と、双方が公開を選んだ発言だけ」
「理由」
「勝ち負けの画にしない」
反証を受けた若者が、七瀬を見る。
「俺の顔は出していい」
「何のため」
「痛いって分からせる」
「今の怒った顔で?」
「それが本当だ」
「明日も公開していい?」
「明日、訊いて」
「受領」
再起動希望者も言った。
「俺は、顔を出さない」
「受領」
二人は和解しない。
石の箱も、空箱も、台に残った。
設備を止めるかどうかを、一つの感動的な証言で決めることはできなかった。
広場の紙は増えた。
答えは減らなかった。
広場の反対側では、能力再起動を望む者たちが名簿を作っていた。
中央へ提出する名簿ではない。
希望する処置。
許容できる危険。
支払える費用。
支払えない費用。
仕事が戻る保証の有無。
水科イオが、用紙を一行ずつ増やしている。
「再起動希望、三十一人」
蔵前価が数えた。
腰へ硬い装具。
椅子へ深く座り、立たない。
右目を少し細め、左手でそろばんを弾く。
「処置継続希望は八十七。停止希望は六十九。保留が百四。重複あり」
「重複」
凱が訊く。
「再起動したいけど反証転嫁は止めたい。処置は続けたいけど今の運営者は嫌。停止したいけど、今月分の賃金は必要。人間は一つの欄に入らないから、集計が高くなる」
「正確だな」
「正確じゃない。来てない人を数えてない」
価は一枚の試算表を見せた。
《完全停止一日目》
代替治療。
休業補償。
再訓練。
地域手動運用の人件費。
暖房燃料。
上水ポンプの保守。
病院補助の追加要員。
総額の欄は空白。
「値段を付けないのか」
「付けられない」
「珍しいな」
「部品代は付く。人件費も。問題は、誰が何日できないか。まだ本人が決めてない」
「覚悟に値段を付けるのが好きだっただろ」
「好きじゃない。値段しか通じなかった」
「今は」
「値段を付ける欄と、付けない欄を並べる練習中」
「腰は」
「話題を変えたら診察料」
「払う」
「十七分以上立つな。今日は座ってるから無料」
「自分に値段を付けるのは」
「治療費を計上する練習中」
価は試算表の端へ、自分の椅子と装具の運搬費を書き足した。
凱は、その数字を見た。
金額は小さい。
本人が自分を勘定へ入れたことのほうが大きい。
「この費用を誰が払う」
「中央」
「冬城が払うと思うか」
「冬城個人に払わせたら、個人の失脚で終わる。設備利益を受けた局、発注した地区、安い処置を選んだ医療機関、払えない利用者を支えなかった街。分ける」
「払う者が増えると、誰も払わなくなる」
「だから割合を決める」
「決める人間は」
「今から来る」
価は広場の南入口を見た。
黒い傘が、一つ近づいていた。
冬城征士郎は、雨が降っていない日に傘を差していた。
黒。
細い銀の縁。
両手には銀具。
手袋ではない。
手首から指の付け根までを覆う、薄い機械仕掛け。
歩くたび、右の銀具だけが僅かに鳴る。
冬城の左右には、局員が四人。
その後ろに、中央の若い実務者。
腕章を戻している。
勤務識別番号だけが見える。
冬城は演台へ上がらなかった。
広場と同じ高さに立つ。
「設備利用者、関連職、家族、調査者。役割ごとの代表を出してください」
名を呼ばない。
役割を呼ぶ。
凱は、その話し方を知っていた。
王だった頃の自分に似ている。
個人の名を覚えず、役目を正確に覚える。
正確だから、公平に見える。
役目を外れた人間が見えない。
「俺は代表ではない」
凱が言う。
「元王は、現在も高い社会的影響力を持ちます」
「影響力は役職ではない」
「責任はあります」
「ある。だから、俺を代表へ数えるな」
「代表を拒む責任も記録します」
「そうしろ」
冬城の口元が僅かに動いた。
笑ったのではない。
計算が一つ終わった顔だった。
「設備は、過去一年で能力減衰に伴う重篤症状を三十八パーセント減らしました。就労継続率を二十一パーセント上げ、暴発事故を四十六件防いでいます」
七瀬が固定台の横から訊く。
「出典」
「中央能力維持局、医療連携部、抑制管理部の共同集計」
「対象人数」
「公開集計では一万二千七百四十一」
「反証受領者四十八人は母数へ含まれますか」
「個別登録の有無は、保護対象情報です」
「含むか、含まないか」
「保護対象情報です」
「答えなかった時刻、十三時四十一分」
冬城は七瀬を見ない。
「設備は社会安定に必要です」
「必要なら、人へ説明しなくていい?」
縫製工が言った。
「説明手続きはありました」
「私は、反証を誰かへ送る説明を受けてない」
「あなたは受益者です」
「人です」
冬城の視線が初めて縫製工へ向いた。
「受益者であり、人です。制度上の役割と人格は両立します」
「両立してるなら、名前で呼んで」
「公開を拒否されています」
「呼ばないでって意味じゃない」
「私は名前を知りません」
その返事は、嘘ではなかった。
冬城は、本当に知らない。
凱は一歩前へ出た。
「反証移送は、本人の承認を得たのか」
「施設代表者、保護責任者、医療責任者、教育担当者の署名があります」
「本人は」
「未成年者を含みます」
「今は成人した者もいる」
「登録時の有効な承認が継続しています」
「撤回窓口は」
「安全上、個別停止はできません」
「では、承認ではない」
「安全設備への参加です」
「参加は、降りられる」
「飛行中の機体から降りる自由はありません」
「街は機体じゃない」
「落ちれば同じです」
冬城は、黒い傘を閉じた。
雲一つない空の下で。
「あなたは、王位を終了させた。能力保有と統治資格を分けた。その判断は合理的でした。しかし、統治そのものを不要にはできなかった」
「していない」
「複数の判断を残せば、最後には一つを選ぶ者が必要です」
「一つにしなくていいものもある」
「電力は、同時に流れるか、流れないかです」
「今、その線を五本に分けている」
「制度は機械より遅い」
「だから先に人を切ったのか」
「社会全体の被害を減らすためです」
「四十八人を、社会の外へ置いて」
「社会の中へ登録した」
「番号で」
「保護のために」
「名を呼ばないのは、守る時と、数える時と、捨てる時に似ている」
冬城の右手の銀具が、微かに鳴った。
高い金属音。
凱の左膝が、昔の痛みを思い出す。
能力の気配ではない。
それでも、人の決断が一つへ細くなる時の空気を、身体は覚えていた。
「成人誓痕〈オーバー・ヴァウ〉」
七瀬が低く言った。
冬城は否定しない。
「二十歳以後に定着する誓痕は、契約と役割へ強く結びつく例がある」
「あなたの能力は」
七瀬が訊く。
「本日の議題ではありません」
「銀具は」
「医療補助具です」
「装着理由」
「個人医療情報です」
「それは守る」
七瀬は言った。
「能力条件と設備運用に関係する範囲だけ訊いてる」
「関係しません」
「根拠」
「私の決裁です」
広場が静かになった。
冬城は、言い過ぎた顔をしない。
言うべきことを言ったと判断しただけだ。
午後三時十二分。
中央局は、設備運用の承認書を公開した。
全二百四十七枚。
広場へ仮設された長机に並べられる。
公開台の端で、一人の女が、自分の署名を探していた。
年齢は四十代後半。
右手に、能力安定処置の青い受診札。
左手に、十九年前の施設職員証。
「どの施設」
凱が訊いた。
「北十九保護寮。昔、夜勤をしてた」
「署名した側?」
「たぶん」
「たぶん?」
「施設代表代理。夜中に責任者が倒れて、私が印を押した」
真琴が該当束を探す。
二百四十七枚のうち、一枚。
北十九保護寮。
対象十三人。
代表代理の署名。
女は紙を見た。
「これ、私の字」
「説明を受けた内容は」
「能力発作を中央でならす。急死を減らす。費用は国持ち」
「反証転嫁」
「聞いてない」
「十三人へ説明した?」
「子どもだった。親も来ない子が多かった。私が代わりに守るって」
「今、撤回する?」
女はすぐ答えなかった。
受診札へ親指を当てる。
「私も今、処置を受けてる」
「だから撤回できない?」
「止まったら、右手が戻るかもしれない。仕事、縫い物。いや、今は帳簿だけど」
「撤回しなくてもいい」
「それを言われると腹が立つ」
「何で」
「あなたは能力がなくても立ってるから」
凱の左膝が装具の中で軋んだ。
「立ってる時間は短い」
「そういうことじゃない」
「分かってる」
「分かってない顔」
「それ、流行ってる」
女は笑わなかった。
「私は、処置を続けたい。でも、十三人の名前で押した印は返したい」
「二つに分ける」
真琴が新しい紙を出した。
《本人の現在の治療継続希望》
《過去に代理した十三人分の承認撤回》
「同時に書けます」
「矛盾しない?」
「人間の中で両立するなら、用紙の都合で矛盾にしません」
女は、最初の紙へ左手で印を押した。
右手が安定しているのに、左を使った。
「右は?」
「今、設備のおかげで動く。だから、設備の文書へ使いたくない」
次の紙へ、昔の署名と同じ字で、自分の名を書いた。
「十三人の今の所在は」
七瀬が訊く。
「三人は連絡がある。二人は亡くなった。残りは知らない」
「探す範囲を決める?」
「勝手に公表しない。昔の寮名だけで探す。本人が関係を否定したら、それ以上追わない」
「撮影範囲」
「私の手と用紙。顔はなし。声は、今の希望だけ。子どもたちの話は文字」
「受領」
七瀬は固定台を下げた。
冬城が近づく。
「代理承認は、登録時点で有効でした」
女は冬城を見た。
「有効だったなら、私が返す相手もいるはず」
「制度上、個別撤回は」
「今、私へ説明して。止めるとどうなる。続けると誰が払う。十三人の分はどこへ行った」
「公開の場で個別情報は」
「公開しなくていい。私へ返して」
「確認します」
「いつ」
「後日」
「日付」
冬城は一秒、黙った。
「二月二十日、午後五時までに、本人確認可能な範囲を回答します」
「答えられない人は」
「未確認と記載します」
「消さないで」
「記載します」
女は二枚の紙を持って、公開台の脇へ座った。
処置継続希望者の列にも、停止賛成者の列にも入らない。
自分が押した印を返し、自分の今の治療を選び直す場所に座った。
凱は、その場所へ新しい札を立てなかった。
名前を付ければ、また一列にされる気がしたからだ。
七瀬は撮影しない。
まず、公開範囲と個人情報の伏せ方を確認する。
真琴が、書類の文言を読む。
能力は使わない。
一行ずつ。
「施設代表者」
「医療責任者」
「教育責任者」
「保護責任者」
「地方運用責任者」
「本人」
凱が言う。
「ない」
「本人代理」
「ある」
「代理の終了条件」
真琴の指が止まる。
「ない」
「撤回」
「安全上の理由により、設備全体の停止時のみ」
「個別に降りられない」
「そう読める」
「違う読み方は」
「ない」
真琴は眼鏡を外し、布で拭いた。
強い近視のため、紙はただの白い面になる。
「私が昔、関連者の範囲を広げた覚書と同じ構造です」
「どう同じだ」
「入口は広い。出口は一つしかない」
冬城は少し離れた場所で、別の代表者と話している。
凱は承認書を一枚持ち上げた。
施設名。
代表者署名。
人数。
十四人。
本人名はない。
「この十四人の今の年齢は」
「記載なし」
「施設を出たか」
「記載なし」
「生きているか」
「記載なし」
「承認は」
「継続」
価が横から覗く。
「古い署名ほど、維持費が安い」
「何」
「本人へ説明し直す費用が要らない。住所を探す費用。通訳。医療。撤回後の代替。全部、未計上」
「安いから続いた」
「安いんじゃない。誰かへ払わせてる」
「四十八人へ」
「それだけじゃない。探さない人。説明しない職員。止めた後の仕事を用意しない街。未払いが積もって、中央の設備が安く見える」
凱は二百四十七枚を見渡した。
紙は多い。
署名も多い。
人数も足せる。
それでも、本人の言葉は一つもない。
「これを承認と呼ぶのか」
凱が冬城へ訊いた。
冬城は歩いてきた。
「有効な手続きです」
「有効と正しいは違う」
「正しさを個人ごとに変えれば、設備は運用できません」
「だから個人を消した」
「まとめた」
「同じだ」
「違います。消せばゼロです。まとめれば一になります」
「一にした時、余った分はどこへ行く」
「社会が引き受けます」
「四十八人は社会か」
「登録された構成員です」
「なら、名を出さずに本人へ返せ。撤回窓口を作れ」
「個別撤回は、設備全体を不安定にします」
「設備が人を一つへ縛ってる」
「街は、無関係な個人の集まりではありません」
「そうだ。関係があるから、切る前に訊く」
「訊いている間に死ぬ者が出る」
「訊かずに死なせた者が、もういる」
冬城の銀具が、また鳴った。
今度は左。
凱は見た。
冬城の指が一瞬だけ震えた。
すぐ止まる。
「停止案と継続案を、正式な書式で提出してください」
冬城が言った。
「必要な署名が揃えば、私が決裁します」
「二案だけか」
「相互排他的な案でなければ、決裁できません」
「病院は続け、炉は止める」
「技術上の実現性を証明してください」
「今してる」
「期限は」
「患者と現場が決める」
「期限のない案は案ではありません」
「期限を一人で決めるのが、決裁か」
「最後には、誰かが決めます」
「俺は、その最後をやめた」
「王位をやめただけです」
冬城は二枚の白紙を机へ置いた。
《停止案》
《継続案》
どちらにも、署名欄が並んでいる。
施設代表。
医療代表。
地域代表。
技術代表。
当事者代表。
最後に、中央決裁。
「本人欄がない」
縫製工が言った。
「当事者代表があります」