第157話 第五章「東門の封鎖」前編

十二月二十八日 午前八時五十二分

 安全な箱は、誰にも持てなかった。

 東環門点検所の雪上に、轟が作った鉄箱は沈んでいた。

 縦六十センチ。横四十センチ。厚さ三ミリの鋼板。四隅を山形鋼で補強し、蓋には二重の蝶番と、封印札が切れれば開いたことが一目で分かる透明窓。底には水抜き穴。横転しても票が濡れない内箱つき。

 轟は右手の拳で側面を二度叩いた。

 ごん、ごん、と低い音が返る。

「持つ」

 東門の住民が、誰も答えなかった。

 轟はもう一度言った。

「持つ。二人で」

「誰と誰」

 緑のニット帽が、箱の向こうから訊いた。

 環玉樹は、胸より大きな配達箱を背負っている。その鉄箱ですら、今日だけは小さく見えた。

「大人二人」

「大人って何キロ」

「人を重さで呼ぶな」

「箱を重さで作ったのは轟さん」

 タマキは雪へしゃがみ、鋼箱の底へ指を掛けた。

「空で三十一キロ。票と内箱で三十三。持ち手が高い。僕は肘が上がる。東門のおばあさんは片手が曲がらない。中学生二人なら運べるけど、階段で箱が先に落ちる」

「落ちない」

「人が落ちる」

 轟は欠けた前歯へ舌を当てた。

 笑う前の癖だったが、笑わなかった。

 彼の背後には、東環門がある。

 黒雨以前、青灯〈ブルー・ランタン〉団が貨物検問に使っていた二枚扉だ。高さ九メートル。鋲を打った青灰色の鋼板。扉の上を、旧貨物線の高架が横切る。左の門柱へ点検所、右へ荷役倉庫。門の内側には、今回の地区判断会場となる木造詰所がある。

 扉は閉じていた。

《冬期安全点検中 通行禁止》

 赤い札が、中央の閂へ三枚掛けられている。

 門の外には票を中央へ運ぶ経路がある。

 門の内には、票を書く住民がいる。

 安全点検の名目で扉が閉じれば、原票は出ない。複写だけを放送すれば、規則上は参考記録にしかならない。

 壊せば早い。

 轟なら、右側の蝶番へ楔を入れ、荷役倉庫の巻上機で扉を引けば開けられる。

 開けた時点で、点検中の会場から原票を運び出したことになる。会場そのものの安全認証も失う。

 扉は、力の問題ではなかった。

 力を使った記録が、扉より重い。

「これなら奪われん」

 轟は鉄箱を示した。

「運べもしない」

 タマキが答える。

「車輪を付ける」

「雪」

「そり」

「段差」

「持ち上げる」

「誰が」

「俺が」

 タマキは即座に首を横へ振った。

「それ、轟さんしか運べない箱」

「守れる」

「轟さんがいない区間は?」

「ついて行く」

「東門を誰が守る」

 轟は黙った。

 背後の門へ耳を当てる。

 冷えた鋼の奥で、風が細い隙間を抜けている。門扉そのものに崩落の音はない。上部梁も、昨日の打音では持っている。

 ただ、中央閂の根元だけが、凍った木のような高い音を返した。

「安全なの」

 タマキが訊く。

「門はな」

「箱は」

「安全だ」

「人は」

 轟は、鉄箱の左右へ溶接した持ち手を見る。

 自分の掌に合わせた太さ。

 厚い手袋でも握れる高さ。

 左肩を長く上げられない自分が、腰へ荷重を逃がせる位置。

 安全を考えた。

 考えた人間の身体だけを基準にした。

「駄目だ」

 轟は言った。

「箱が?」

「俺が」

「箱も」

「二つ言うな」

「一つずつなら聞く?」

「聞く」

「箱、駄目」

「次」

「轟さんも、今は駄目」

 欠けた前歯の隙間から、短い息が鳴った。

「厳しいな」

「配達料を払う人には丁寧に言う」

「払った」

「材料費だけ」

「作業費、後で払う」

「じゃあ後で丁寧にする」

 点検所の詰所には、東門の住民が二十七人いた。

 会議をする人数としては少ない。

 門を点検する人数としては、多すぎる。

 かつて貨物番号を書いていた老人。高架下で自転車修理をする姉弟。右手を布で吊った洗濯屋。夜勤明けの荷役員。子どもを背へ負った菓子売り。旧青灯団の腕章を裏返して巻く男。

 点検所の班長は、全員を外へ出そうとしていた。

「安全確認が終わるまで、門柱から二十メートル退避してください」

 成人治安隊の灰外套ではない。

 東門設備課の紺色作業服。班長は五十代の女で、保護眼鏡の縁へ霜が付いている。名札には《沼田》とだけあった。

「誰が安全確認をする」

 轟が訊く。

「設備課です」

「何人」

「六名」

「門の内側は」

「封鎖します」

「内側の縦梁、三年前に住民が補修した」

「無許可改造です」

「だから図面にない」

「図面にない箇所は、安全と認められません」

「見ればいい」

「規定上、封鎖区域へ住民は入れません」

「住民が直した場所を、住民抜きで見るのか」

「規定です」

「規定、何キロ持つ」

 沼田は保護眼鏡を外した。

「何ですか」

「扉、片側二・八トン。風圧込み三・四。規定が受けるなら、俺は退く」

「比喩で安全は測れません」

「比喩じゃない」

 轟は右門柱を指した。

「上から四本目の横梁。無許可の補強板が二枚。片方だけ新しい。旧図面で計算すれば足りない。住民が入れた板を除外して危険判定するなら、板を外してから扉を支えろ」

 沼田が門を見上げる。

「あなたが取り付けた?」

「違う」

「では、なぜ知っている」

「昨日、叩いた」

「叩いて分かるものですか」

「そっちは眼鏡で見るだろ」

「私は眼鏡を掛けても図面を見ます」

「俺は耳が悪いから、近くで聞く」

 沼田は少しだけ口元を緩めた。

 笑いではない。相手を馬鹿ではないと認めた顔だ。

「住民を入れる許可は出せません」

「俺にも?」

「あなたも住民側の協力者です」

「設備資格はある」

「提示してください」

 轟は工具帯から、折れ曲がった資格札を四枚出した。

 沼田は一枚ずつ読む。

「溶接。足場。倒壊危険判定。避難設備」

「足りる」

「点検責任者の資格がない」

「足りない」

「認めるのが早いですね」

「足りない板を足りると言うと、人が死ぬ」

 詰所の住民がざわめいた。

 旧青灯の男が、裏返した腕章を戻しかける。

「じゃあ、俺たちは黙って出ろってのか」

 沼田が答える前に、轟が手を上げた。

 左ではない。右手。

「黙るな。だが、門を開けろとも言うな」

「どっちの味方だよ」

「門」

「人じゃねえのか」

「人が通るから門だ」

 轟は床へしゃがみ、詰所の板を二度叩いた。

 乾いた音。

「ここで、点検手順を見せろ。住民が知ってる補修箇所を、設備課へ渡す。設備課は見る。門を開ける判断は、検査を終えた者がする」

「時間がありません」

 沼田が言う。

「十二月三十一日の判断時刻まで、三日です。今日中に予備確認を終えなければ、この会場は別施設へ移す必要があります」

「別施設は」

「東環中央会館」

 住民の一人が鼻で笑った。

「あそこ、階段だけで三階だ。車椅子は荷物用の昇降機」

「暖房費も取られる」

「旧青灯の名簿がないと入れねえ」

 沼田は言い返さない。

 代替会場が、全員にとって代替ではないことを知っていた。

「今日、終わらせる」

 轟が言う。

「どうやって」

「小さくする」

 タマキが鉄箱を指差した。

「まず、あれを」

「言うな」

「小さくする」

 赤錆大工場から運ばれてきた廃材は、昼前に東門へ着いた。

 薄い透明樹脂管が十二本。

 本来は流量計の保護筒だった。熱で変形した四本を除き、八本が使える。長さ七十センチ。内径六センチ。両端へねじ蓋を付け、蓋の外側に封印糸を通す穴を開ける。

 轟は作業台を低くした。

 自分の腰に合わせず、タマキが立ったまま届く高さ。

「票、丸めるの?」

 詰所の菓子売りが訊いた。

「折るより痕が少ない」

 轟は答えた。

「理由用紙は」

「別管」

「名前札は」

「外」

「外だと見える」

「見えるため」

 タマキが口を挟む。

「中身を隠すと、運ぶ人だけ疑われる。今回は、誰から誰へ、何のため、何時に受けたか、外に付ける」

「投票の中身まで?」

「中身は見せない。票が入ってることと、開いてないことを見せる」

「分かりにくい」

「だから作る前に聞く」

 タマキは一枚の紙へ、管の絵を描いた。

 送り主。

 受取人。

 目的。

 受渡時刻。

 封印番号。

 中身を見ていない確認。

「字が書けない人は」

「色札と指印」

「指がない人は」

「名前を言って、二人が聞く」

「声が出ない人は」

「巴さんの板を借りる」

「全部、先にあるんだな」

「ないものは今訊く」

 住民たちは、透明管を一本ずつ持った。

 軽い。

 軽すぎて、最初は不安そうだった。

 安全な物は重くあるべきだと、人は思いやすい。

 扉も、金庫も、責任者の声も。

 だが軽い物は、持つ人を増やせる。

 轟はねじ蓋へ、小さな封印穴を溶接した。

 左手で部材を押さえようとして、肩の奥が引き攣る。

 すぐに手を離す。

「痛い?」

 タマキ。

「鳴った」

「肩は床じゃない」

「同じだ」

「床は喋らない」

「肩も喋らん」

「顔が喋る」

 轟は右腰の工具帯から固定具を出した。部材を台へ挟む。自分の腕で押さえず、道具へ任せる。

 旧青灯の男が、反対側の締め具を回した。

「俺が押さえる」

「腕、どれくらい上がる」

「お前よりは」

「聞いたことに答えろ」

「肩より上」

「十分。五分で交代」

「子ども扱いかよ」

「部材扱いだ」

「もっと悪い」

「部材は壊れたら交換する」

「じゃあ俺は?」

 轟は溶接面を下ろした。

「壊れる前に休ませる」

 青い火花が、雪の暗さへ散った。

 午後一時二十二分。

 タマキは、使い終えた切符を床へ並べた。

 前月の列車で使われた短距離券。保守員用の灰色券。駅員が穴を二つ開けた仮通行券。どれも端に、路線ではなく設備区間を示す切り欠きがある。

 東環門の図面には、門を通らず外へ出る道がない。

 切符にはあった。

「ここ」

 タマキが、灰色券の角を東門の平面図へ合わせる。

「貨物高架の下。排水溝の横」

 轟は壁の図面を見る。

「保守猫道」

「猫しか通れない?」

「人が通れるから猫道って呼ぶ」

「変」

「建築の名前は、だいたい誰かに失礼だ」

 保守猫道は、門の左柱の内部から始まる。

 幅五十五センチ。高さ七十。点検員が腹這いで入る空間だ。柱の外壁を抜け、高架下の排水路へ出る。

「票管なら通る」

 タマキが言う。

「人は」

「僕なら」

「駄目だ」

「何が」

「最初から、お前しか通れん路を作るな」

 タマキは黙った。

 朝、彼が轟へ言った言葉だった。

「じゃあ、誰が通れる」

 轟は住民を見回した。

 小柄な菓子売り。細身の自転車修理の姉。右手を吊った洗濯屋は無理だ。荷役員は肩幅で詰まる。老人は膝を曲げられない。

「三人」

「僕を入れて?」

「入れない」

「どうして」

「未成年だからじゃない」

「じゃあ」

「最初に空で通す」

「それ、僕」

「証明だけ」

「票は」

「選んだ人が持つ」

 タマキは納得しない顔をした。

「僕は配達員」

「だから、全部運ぶな」

「配達員が運ばないで何する」

「道を渡す」

 轟は、切符の並びへ太い指を置いた。

「お前が通ったら、この道はお前の道になる。三人が通れば、東門の道になる」

「三人だけ」

「最初はな」

「料金は」

「三人から取れ」

「轟さんからも」

「材料費と相殺」

「作業費、まだ」

「覚えてる」

 タマキは鉄箱の留め具を、かちりと鳴らした。

 怖い時の音だった。

「空で行く」

「戻れと言ったら」

「誰が言う」

「俺」

「何の権限で」

 轟は少し考えた。

「構造判断」

「道が危ない時だけ?」

「そうだ」

「僕が怖い時は、僕が戻る」

「そうしろ」

「約束」

「記録しろ」

 タマキは受渡札の裏へ書いた。

《空管試験。送り主・環玉樹。受取人・外側点検員。目的・道の寸法確認。危険時の帰還判断は、構造は伏見轟、本人の恐怖は環玉樹。》

 最後の一文が長くなった。

「平文じゃない」

「意味は分かる」

「なら、いい」

 猫道の入口は、門柱の点検板の奥にあった。

 蓋を外すと、冷たい油と錆の匂いが出る。

 タマキは鉄の配達箱を下ろした。

 緑の帽子だけを残し、上着の膨らみを紐で締める。左右で色の違う靴紐を二重に結んだ。

「帽子、引っかかるぞ」

 轟。

「取らない」

「理由」

「僕が決める」

「分かった」

 轟は入口の上へ手を置いた。

 タマキが透明管を胸の前へ抱え、腹這いになる。

「誰から」

 自分で訊く。

「環玉樹から」

「誰へ」

 門の外の沼田が、無線越しに答えた。

「東門設備課、沼田千歳へ」

 初めて、名札以外の名を知った。

「何のため」

「猫道の寸法と安全を、双方で確認するため」

「受けます」

 タマキは中へ入った。

 五十センチ。

 一メートル。

 靴底が、薄い鋼板を擦る。

 轟は壁へ右耳を当てた。

 軽度の難聴があっても、骨を伝う音は分かる。

 擦過音。

 呼吸。

 透明管が一度、金具へ当たる。

「右、二センチ上」

 轟が言う。

「見えない」

 壁の中から声。

「肘を下げろ」

「下げたら帽子が」

「帽子じゃなく頭を守れ」

「同じ場所」

「違う」

「僕のは同じ」

 声が遠くなる。

 途中で、音が止まった。

 轟の左肩が勝手に上がりかけた。

 点検板へ腕を突っ込んでも、届く距離ではない。

「タマキ」

「呼吸中」

「喋れ」

「呼吸と喋るの、同時は難しい」

「返事は一語」

「狭い」

「戻るか」

「進む」

「理由」

「先、明るい」

 また音が動く。

 三十秒後、門の外で沼田の声がした。

「見えました」

 住民が息を吐く。

 轟は吐かなかった。

「受取人、名前」

 タマキの声。

「沼田千歳」

「目的」

「猫道の確認」

「受領して」

 金属へ印を打つ音。

 透明管は空だった。

 それでも受渡札へ、受領時刻が書かれた。

 空だから記録しないのではない。

 空で通った最初の一回が、後の荷物の重さを決める。