第201話 第三章「轟の禁止事項」前編

二月二十日 午前五時五十八分

 伏見轟は、作戦会議の最初に「やること」を書かなかった。

 黒板の中央へ、太い白線を一本引く。

 その下へ書いた。

《禁止》

 水務隊の技師が露骨に顔をしかめた。

「まだ始まってもいない」

「始める前に止める」

「何を」

「壊す順番」

 轟はチョークを右手で持っていた。

 本来は左利きだ。

 左肩の腱板と関節唇を手術してから半年。日常作業は戻った。胸の高さまでなら工具も使える。頭上保持と、急な引き込みが駄目だった。

 右手で書く字は、左より角ばる。

 本人は気にしない。

 真琴が気にした。

《禁止》だけでは、禁止主体と対象が不明です」

「俺」

「誰へ」

「全員」

「権限は」

「ない」

「では、提案と書いてください」

 轟は《禁止》の左へ、小さく《提案》と足した。

 字の大きさが違う。

「小さい」

「読める」

「但し書きの暴力を、私に見せつけていますか」

「紙の話、後」

「黒板です」

「もっと後」

 仮設会議室は、三号塔から百二十メートル離れた資材倉庫だった。

 壁は薄い鋼板。

 床は古いコンクリート。

 天井の梁へ雪解け水が一滴ずつ落ち、バケツが十七秒ごとに鳴る。

 轟は入った時、壁を二回叩いた。

 返った音を聞き、北西角の柱へ赤い布を巻いた。

「そこ、寄るな。根元、腐ってる」

 会議へ来た人間は、自然と別の柱へ集まった。

 安全な場所へ人が集まりすぎると、そこが危険になる。

 轟は椅子を二つずつ離した。

「会議する前に、倉庫直せ」

 迅が言う。

「直すと、会議終わる」

「いいだろ」

「作戦が先」

「珍しい」

「倉庫は今日持つ。塔は分からん」

「分からない物を、分かった顔で壊さない専門家」

 タマキ。

「昨日の」

「覚えた」

「料金」

「言葉に?」

「轟さんの」

「なら無料」

「安い」

 轟は黒板へ一つ目を書く。

《爆薬を使わない。》

 二つ目。

《車両で扉・壁を引かない。》

 三つ目。

《外周補強帯を切らない。》

 四つ目。

《北側足場へ三人以上乗らない。》

 五つ目。

《貯水槽を一度に排水しない。》

 六つ目。

《地下ポンプを十八分以上止めない。》

 七つ目。

《十階以上を同じ階段で一括退去させない。》

 八つ目。

《能力の衝撃を建物へ逃がさない。》

 九つ目。

《住民を荷重として数えない。》

 水務技師が腕を組む。

「最後は構造と関係ない」

「ある」

「人間の平均重量を見積もらなければ、退去計画は立たない」

「重さは数える。人をおもり扱いしない」

「言葉の問題だ」

「言葉で、動かす順番が変わる」

 真琴が小さく頷く。

「不本意ですが、賛成です」

「何が不本意」

「あなたが法務的に正しいこと」

「法務じゃない」

「だから不本意です」

 十個目。

《出たい人と残りたい人を、同じ列へ入れない。》

 水務隊長が椅子を鳴らした。

「何ならできる」

 轟は振り返る。

「まだ禁止、終わってない」

「十個もあれば十分だ」

「十分かどうか、建物が決める」

「建物は喋らない」

「喋る」

「比喩か」

「音」

 轟は耳当てを外し、倉庫の壁へ右耳を付けた。

 遠くで三号塔のポンプが回っている。

 低い連続音。

 その上に、三秒ごとの短い振動。

「塔の東ポンプ、軸ずれてる」

「百二十メートル離れて分かるのか」

「地面、つながってる」

「雪もある」

「雪、音消す。地面は消さない」

 七瀬が撮影機を机へ置いた。

「構造診断の記録を取ります。言語化してください」

「音」

「それでは再現できません」

「低い。三秒。右へ擦る」

「周波数は」

「知らん」

「数値化を」

「耳、貸す?」

「交換できません」

「じゃあ、後で測る」

 七瀬は記録紙へ書く。

《右へ擦る、という本人の感覚表現。計測未了。》

「その書き方、俺が適当に言ったみたい」

「適当でない根拠を測ります」

「信用ない」

「信用があるから、根拠を他人へ渡します」

 轟は欠けた前歯へ舌を当てた。

 今度は笑った。

「面倒」

「由良の語彙が移りましたね」

 倉庫の入口で、由良が言う。

「私のせいにするな」

「著作権」

 タマキ。

「面倒に?」

「よく使うから」

「いらない」

 凱は黒板の禁止項目を最初から読んだ。

「十八分の根拠」

「予備圧力槽の容量。今の消費なら、ポンプ停止から十六分で上階圧が落ちる。再起動に二分」

「十九分なら」

「十階から湯が出ない」

「二十分」

「九階の診療室で洗浄水が切れる」

「二十五分」

「基礎の受け方が変わる」

「崩れるか」

「すぐじゃない」

「では、どの程度」

「分からん」

 水務隊長が机を叩いた。

「またそれか」

 轟の視線が、隊長の拳ではなく机の脚へ落ちる。

「そこ、叩くな」

「なぜ」

「右脚、割れてる」

「こんな会議で、塔を奪還できると思うか」

「奪還?」

「市の施設を、占拠者から取り戻す」

「誰へ返す」

「市だ」

「住民じゃない?」

「市が住民へ供用する」

「順番、増えた」

「所有権の話だ」

「家の鍵、誰が持つ」

「今は久我だ」

「終わったら」

「管理者へ」

「住民じゃない?」

 隊長は答えを探す。

 真琴が書類をめくる。

「現行規則では、住戸鍵は居住者。共用入口は市管理者。水庫、ポンプ、診療、食料、避難階段は用途別に異なります」

「つまり全部、久我が持つのは違法だ」

「そうです。ただし、全部を市へ戻すのも正しくありません」

「違法状態を解消する」

「どの合法状態へ戻すかを、先に決める必要があります」

 轟は十一個目を書いた。

《勝った側が鍵束をまとめて持たない。》

「それは作戦後の話だ」

 水務隊長。

「作戦前に決める」

「なぜ」

「持つつもりの人間は、扉の壊し方が変わる」

 迅が黒板を見た。

「十二」

「何」

「俺を一人で入れない」

「自分で書け」

「字、右手だと汚い」

「左で書け」

「おまえが右で書けるんだから」

「関係ない」

「関係ある。怪我の使い方」

 轟はチョークを迅へ投げた。

 迅は左手で取る。

《竜胆迅を単独侵入させない。》

 真琴がすぐに付け足す。

《本人の無断行動を含む。》

「小さい」

 迅。

「読めます」

「但し書きの暴力」

「学習しましたね」

 十三個目は、七瀬が書いた。

《窓札を賛否へ変換しない。》

 十四個目はタマキ。

《中身と宛先を聞かずに物を投げない。》

 十五個目は由良。

《救出先を外が決めない。》

 凱はしばらく黒板を見た。

 チョークを取る。

《指揮者を一人に固定しない。》

 水務隊長が鼻で笑う。

「作戦は誰が指揮する」

「場面ごとに分ける」

「混乱する」

「役割、期限、引継ぎを先に出す」

「責任が散る」

「責任を消さず、仕事を分ける」

「理想論だ」

「俺は一人で全部持って失敗した」

 凱の声が低くなる。

「理想ではない。事故報告だ」

 倉庫のバケツが鳴った。

 十七秒。

 誰もすぐには話さない。

 轟は黒板の上部へ、新しい見出しを書く。

《できること》

 水務隊長が身を乗り出す。

 一つ目。

《住民と話す。》

「それだけか」

「最初」

 二つ目。

《建物を測る。》

 三つ目。

《水を止めずに流れを変える。》

 四つ目。

《扉を壊さず外す。》

 五つ目。

《出る順番を住民と決める。》

 六つ目。

《外した物を戻す。》

「攻城ではない」

 隊長が言った。

「攻城」

 轟。

「城を攻めていない」

「城にしたの、外も同じ」

「占拠者が武装している」

「なら、人と戦う。家と戦わない」

 迅が黒板の最後へ、小さく書いた。

《帰る場所を残す。》

「それ、できることか」

 由良。

「できなかったら、負け」

「珍しく分かりやすい」

「名言?」

 タマキ。

「黒板の話」

 会議が終わると、轟は全員を倉庫の外へ出した。

「今から、壊す音を覚える」

 水務隊長が眉をひそめる。

「壊すなと言ったばかりだ」

「壊していい物を使う」

 轟は廃材を三本、雪の上へ並べた。

 一本目は乾いた木材。

 二本目は内部が腐った木材。

 三本目は、見た目だけ新しい継ぎ足し材。

「迅。踏め」

「どれ」

「全部。軽く」

「軽くが分からない」

「体重の一割」

「数字なら分かる」

 迅が一本目へ足を置く。

 コ、と乾いた音。

 二本目。

 音は小さい。

 しかし、足裏がわずかに沈む。

 三本目。

 表面は硬い。

 中央ではなく、継ぎ目が遅れて鳴る。

「違い」

 轟が聞く。

「二本目、柔らかい。三本目、二回鳴った」

「七瀬」

「録音では、二本目の音量が最小。三本目は主音から〇・二秒後に副音」

「タマキ」

「二本目、荷物を置きたくない。三本目、送り先が二つある音」

「由良」

「二本目、走れば抜ける。三本目、曲がる時に割れる」

「凱」

「二本目は弱い。三本目は弱さを隠している」

「真琴」

「二本目は危険が明白。三本目は表示義務違反の可能性」

 轟は欠けた前歯へ舌を当てた。

「全員、別の話をした」

「正解は」

 タマキ。

「現場なら全部」

「ずるい」

「建物は一つの理由で壊れない」

 轟は腐った木材を、両端から二人に持たせた。

「次。持てると思う人」

 水務隊員が手を上げる。

「何キロ」

「見た目で三十」

「中が腐ってる。軽い」

「なら持てる」

「軽いから安全とは限らない」

 轟は中央へ、砂袋を一つ載せた。

 材は音もなく折れた。

 隊員が驚いて手を離す。

「今のは禁止」

「何が」

「驚いて手を離した」

「折れたんだぞ」

「だから離したくなる。離す前に、下に足がないか見る」

「そんな余裕が」

「ない時のために、先に決める」

 轟は砂袋を拾った。

 十三歳の時、違法増築の階段が崩れた。

 入口で梁を支えた自分だけが残り、階段の向こうにいた友人へ届かなかった。

 あの時も、大きな音は最後だった。

 最初は、釘一本が抜ける小さな音。

 聞いた。

 何の音か分からなかった。

 分からないまま、「まだ持つ」と思った。

 轟はその記憶を説明しなかった。

 代わりに、折れた木材の断面を全員へ見せる。

「黒い所、見えるか」

「腐食」

「外から見えない」

「だから全部、開けて調べる?」

 七瀬。

「やらない。開けたら壊す」

「見えない危険を残す?」

「残す。代わりに、どこが見えてないか書く」

 真琴がメモする。

《未確認箇所を、安全確認済みへ含めない。》

「法みたい」

 タマキ。

「構造」

「同じ?」

「法は知らん」

「法も、見えてない所を《問題なし》にしがちです」

 真琴が言った。

「仲間」

「不本意です」

 轟は三本目の継ぎ足し材を持ち上げた。

「これ、見た目は新しい。昨日直した人は、良かれと思って外側だけ替えた。内側の古い材へ負担が集中する」

「直したのに悪くなる?」

「直し方で」

「善意の補修」

 凱が言う。

「久我の話へ戻すな」

 轟。

「戻っているのはおまえだ」

「建物の話」

「守るため、一か所を強くして、別の場所へ重さを送る。似ている」

 轟は継ぎ目を見た。

「似てても、同じにするな」

「なぜ」

「人は、自分で動く」

「建物も地震では動く」

「自分で、とは違う」

「なら、住民へ聞く必要がある」

「最初からそう言ってる」

「禁止事項の十三番目まで、住民が出なかった」

 轟は黒板を振り返った。

 確かに、自分が書いた最初の十項目は壁、梁、水、扉、足場だった。

 守る対象を、また背後へ置いている。

「増やす」

 轟は黒板へ戻り、十六個目を書いた。

《住民へ、壊されたくない物を先に聞く。》

「命?」

 水務隊長。

「命以外も」

「家具まで聞くのか」

「家具を理由に残る人がいる」

「命を軽く見ている」

「命だけを運んで、戻る場所を捨てるな」

「全部は守れない」

「守れない物を、先に言う」

 轟はチョークを置いた。

 禁止事項は、可能性を減らす。

 減らした後に残る道だけが、建物と人の両方へ説明できる道だった。

 午後二時十一分

 轟は塔を一周し、禁止項目を二十三へ増やした。

 外周足場の下へ入らない。

 北西角へ資材を積まない。

 排水溝を土嚢で塞がない。

 窓枠へ引掛け爪を使わない。

 塔基部の半径十八メートル以内へ大型車を入れない。

 貯水槽の水位を外から推定して作戦広報へ使わない。

「最後、構造?」

 タマキ。

「水位が低いって言えば、突入急ぐ」

「高いって言えば」

「待つ。どっちも、中の人より先に決める」

「数字、悪い?」

「数字、重い。持つ人が要る」

 轟は北側足場の柱番号を読み上げた。

 N一。

 N二。

 N三。

 N四だけ、根元の錆が新しい。

「新しい錆って何」

 タマキ。

「昨日、傷ついた」

「古い錆は」

「茶色。新しいの、橙」

「轟さんの色」

「俺のせいじゃない」

「分かってる」

「言い方」

「色の話」

 轟は柱へ触れない。

 外から見ただけで、N四の裏側に切断痕がある。

 昨日、救出索が洗濯線を引いた時、足場へ余計な横荷重が掛かった。

「今日、風強くなる」

 由良が空を見る。

「夕方、北西から秒速十二。剛嶺の測風紙」

「塔の足場、持つ?」

 七瀬。

「N四を支えれば」

「誰が」

「内から補強」

「久我へ伝える」

 凱が拡声器を取る。

 久我は返答しない。

 塔内の放送が切られている。

「窓札」

 タマキ。

「青、右、三つ」

「設備不具合。外へ。今すぐ」

 七瀬。

「出すのは誰」

 由良。

「外から出したら、住民の合図にならない」

「情報を伝える札にする。送り主を別に」

 真琴は白い板へ書いた。

《外側構造診断。北足場N四、夕方の強風で落下危険。内側確認を求める。送り主・伏見轟。観測時刻・十四時十八分。》

 青い布を右へ付ける。

 洗濯ばさみ三つ。

 板は地面へ置いた。

 塔から読める角度へ立てる。

「窓じゃない」

 タマキ。

「だから、窓札を偽装しません」

 真琴。

「見える?」

「望遠鏡なら」

「中にある?」

「久我は持っている」

「住民は」

「分からない」

「また」

「分からない物を、あることにしないでください」

 十五時。

 反応なし。

 十六時。

 北西風が強くなる。

 N四の柱が、微かに鳴った。

 轟は音を聞いた。

「下がれ」

「まだ」

 水務隊員が足場の下で測定器を置いている。

「全員、北足場から二十メートル下がれ。測定器は捨てろ」

 危険指示では、轟は助詞を省かない。

 隊員が機械を抱える。

「高価だ」

「命より?」

「持てる」

「床が先に泣く!」

 金属音が走った。

 N四の根元が外れる。

 足場は一枚で落ちなかった。

 円筒壁へ沿って、上から順に折れた。

 十階の床板が傾く。

 九階の手すりが引かれる。

 八階の洗濯線が切れる。

 鉄の梯子と板と配管支持具が、連なったまま外へ倒れてくる。

 測定員が凍る。

 迅が走った。

 轟は、迅より先に叫ぶ。

「人だけ取れ!」

 迅の左腕が測定員の胸へ入る。

 足を払うのではなく、腰を回し、雪の安全側へ投げる。

 落下する足場が二人の上へ来る。

 轟は前へ出た。

 左腕を上げない。

 右肩を最下段の横材へ入れる。

 腰を落とす。

 足を、塔の柱間隔と同じ一・八メートルへ開く。

 衝撃。

 視界が白く弾けた。

 右肩から腰へ、鉄の重さが落ちる。

 膝が雪へ沈む。

 足場全体を支えたわけではない。

 支えられるはずがない。

 最下段の横材を一秒止め、上の板が排水管へ食い込む角度だけを変える。

「N三、切れ!」

 水務技師が工具を探す。

「切断は禁止だろ!」

「N三の連結ボルトだけ! 柱は切るな!」

 説明の不足が、人を止める。