第202話 第三章「轟の禁止事項」後編
轟は重さを受けたまま、完全な文で言い直す。
「北足場N三とN四の間にある、銀色の仮設連結ボルトを一本外せ。排水管へ荷重を伝えないためだ。外した者は名を言え」
「水務技師、榎並!」
「やれ、榎並!」
榎並がレンチを掛ける。
回らない。
迅が戻ろうとする。
塔の窓から、子どもの声が落ちた。
「来るな!」
昨日、物干し竿で爪を外した子だった。
九階の外周から、身を乗り出している。
「そこ、下に管ある! 来るな!」
迅の足が止まる。
最短なら、塔壁へ寄り、足場の内側からボルトを蹴る。
子どもが言う管の位置を踏む。
迅は一歩、外へ回った。
「遠い!」
榎並。
「分かってる!」
迅は雪へ落ちた工具箱を蹴る。
箱が滑り、榎並の足元へ来る。
中の短い延長管。
「それ、柄に入れろ!」
榎並がレンチへ延長管を差す。
回す。
ボルトが鳴る。
轟の右肩が沈む。
左肩を使えば、もう一秒持つ。
使わない。
「轟!」
凱が背後へ入る。
「どこを持つ」
「俺を持つな。横材の右、下から!」
凱は左膝を深く曲げられない。
右脚を前へ置き、前腕を横材へ当てる。
由良の赤索が、上段の梯子へ掛かる。
「引く方向!」
「塔から外へ七度!」
「角度!」
「十一度!」
「細かい!」
「建物は細かい!」
由良が走る。
足場上部が外へ開く。
七瀬は撮影機を回しながら、もう一方の手で周囲へ叫ぶ。
「南へ三歩! 画角ではなく、落下範囲です!」
タマキが白布を地面へ引く。
旗にはしない。
落下範囲の境界として敷く。
「布より外! 白より外!」
住民ではなく、外側の兵が白布へ従う。
榎並のボルトが抜けた。
「外した! 榎並章吾!」
N三とN四が分かれる。
轟は右肩を抜く。
「離すぞ!」
「待て」
凱。
「三、二、一」
「俺が言う!」
「なら言え!」
「三! 二! 一! 離せ!」
足場が雪へ落ちた。
轟と凱が反対へ倒れる。
金属板が二度跳ねる。
排水管の手前、四十センチで止まった。
塔壁は壊れない。
窓が何枚も開いた。
住民の顔。
久我の警備班。
昨日の子ども。
誰も拍手しない。
轟は雪へ仰向けになり、右肩を押さえた。
「左?」
七瀬が駆け寄る。
「使ってない」
「右は」
「痛い」
「診療」
「先、管」
「轟」
「管、漏れてないか」
タマキが排水管へ耳を当てる。
「水、流れてる」
「音」
「さっきと同じ」
「右へ擦る?」
「分かんない」
「正直」
「褒めるなら料金」
轟は起き上がろうとする。
迅が胸を押す。
「寝てろ」
「管」
「俺が見る」
「おまえ、見ると入る」
「入らない」
「黒板」
「覚えてる」
「信用ない」
「信用あるから、寝ろ」
七瀬が言った。
轟は、文句を建物へ置き換えようとした。
「床、冷たい」
「毛布」
「俺の話」
「珍しい」
救護員が右肩を診る。
打撲。
鎖骨骨折なし。
肩関節の脱臼なし。
左肩の再損傷なし。
救護員は轟の上着の右袖へ、赤い紙帯を巻いた。
《右肩・荷重禁止》
「禁止事項が増えた」
タマキ。
「俺の黒板じゃない」
「でも禁止」
「誰が決めた」
「診療者」
轟は紙帯を外そうとした。
迅が手首を押さえる。
「外すな」
「作業の邪魔」
「だから付けた」
水務隊長が落ちた足場を指した。
「これで北側からの接近路は失われた。今夜までに仮設を組む」
「組まない」
轟。
「住民の避難路でもある」
「今の足場を見て、同じ場所へ急いで組むな」
「では何日待つ」
「調べる」
「また分からないか」
「今、分かった顔で組めば、次は人ごと落ちる」
轟は起き上がらず、雪の上から指示した。
「榎並。N一からN三、触らず写真。ボルトの向きと錆色。七瀬、外した一本は袋。由良、風向き。凱、落下範囲へ人を入れるな。迅、管を見るだけ。壁へ登るな」
「最後、俺だけ細かい」
「実績」
迅は排水管の手前へしゃがんだ。
手袋を外さず、雪へ掌を当てる。
水漏れなら、雪の温度と色が変わる。
「濡れてない」
「管の下」
「触る?」
「見るだけ」
「見えない」
「鏡」
タマキが荷箱から薄い角鏡を出す。
「配達用」
「何で持ってる」
「曲がり角の宛先確認」
迅が鏡を管の下へ滑らせる。
裏側に細い擦り傷。
亀裂なし。
「無事」
「《現時点で目視亀裂なし》」
七瀬が訂正する。
「長い」
「無事と書くと、明日割れた時に今日の点検が嘘になります」
轟は雪の上で頷いた。
「それ」
「何ですか」
「黒板へ足す」
タマキが持っていた小板へ書く。
《無事と言わない。見た範囲を書く。》
「名言?」
「事故報告」
落下した部材を、すぐには動かさなかった。
止まった場所も、壊れ方の一部だからだ。
七瀬は全景を三方向から固定撮影する。
由良は風向紙を雪へ刺す。
真琴は、作業開始前の所有者確認を書き始めた。
「所有者?」
水務隊長。
「落ちた部材を市が撤去すれば、市の物として処分されます。住民が増設した洗濯台と補助棚が混じっている」
「危険物だ」
「危険だから所有権が消えるわけではありません」
「一つずつ確認するのか」
「戻したい物と、捨てたい物を聞く」
塔の窓へ、品目表を大きく書いて見せる。
《鉄梯子》
《床板》
《洗濯線》
《青い滑車》
《木棚》
《排水受け》
窓から、布が動いた。
七階。
青布、左寄せ、洗濯ばさみ一つ。
「青い滑車、内へ戻せ」
由良が読む。
十階。
白布の下へ、黒い鍋敷き。
「木棚?」
タマキ。
「昨日、家畜の飼料を乾かす棚だと言ってた」
真琴が書く。
《木棚、用途確認後に返却。》
九階の子どもの窓では、赤い布が揺れたままだ。
訪問拒否。
しかし、その下から黄色い靴の先が一度だけ見えた。
子どもは、外の片付けを見ている。
「滑車、今返す?」
榎並。
「危険範囲へ入るな」
轟。
「でも住民が」
「返すと決めた。今返すとは言ってない」
「期限は」
「落下部材を固定してから」
「何時」
「測って決める」
「急いでほしいかもしれない」
「だから札を出す」
真琴が新しい板を置く。
《返却予定時刻は未定。危険固定後に再通知。急ぐ理由がある場合は、品目と期限を知らせてください。》
すぐに七階から、青布が二度上下した。
「急がない?」
タマキ。
「確認だけかもしれない」
由良。
「勝手に安心するな」
轟は右肩を冷やしながら、落下部材の図を描いた。
どこから先に動かすか。
動かした時、何が新たに落ちるか。
誰の物を、誰へ返すか。
崩落の後始末は、瓦礫を消す作業ではない。
壊れた順番と、そこにあった生活を、見えなくしない作業だった。
轟は診断を聞き終える前に、足場の破断面を見た。
N四のボルトには、工具痕がある。
自然に外れたのではない。
内側から、半分まで緩めてあった。
「久我が落とした?」
水務隊長。
「誰か」
轟。
「同じだ」
「違う」
塔の九階から、子どもが叫ぶ。
「来るなって言っただろ!」
迅は見上げた。
「聞いた」
「遅い!」
「止まった」
「最初から来るな!」
「それは無理」
「何で!」
「今、そっちの足場が落ちた」
「家は落ちてない!」
「だから、まだ来ない」
子どもは言葉を探す。
久我の警備員が背後へ来る。
連れ戻される前に、子どもは窓枠へ赤い布を結んだ。
右寄せ。
洗濯ばさみ三つ。
外へ。
今すぐ。
訪問拒否。
迅は、その意味をようやく読めた。
助けを拒んでいるのではない。
いま、この入口から来るな。
轟は雪の上から黒板の方向を指した。
「禁止、増やす」
「何」
タマキ。
「子どもに、二度言わせない」
「それ、構造?」
「作戦」
落ちた足場の向こうで、塔は立っていた。
壊れなかったことは、勝利ではない。
壊さずに済んだ場所が一つ増えただけだった。